婚約破棄されたトリノは、継母や姉たちや使用人からもいじめられているので、前世の記憶を思い出し、家から脱走して旅にでる!

山田 バルス

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前世8話 君のことが、好きになったみたいだ

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『あなたのそばにいたいと思った日』
企画部に異動して、あっという間に一年が過ぎようとしていた。

春の気配がようやく感じられる三月の終わり。外回りから戻ると、オフィスの窓から差し込む光が、やわらかくデスクを照らしていた。

「おかえり。寒くなかった?」

佐伯課長の声に、思わず心が緩む。

「はい。風が冷たかったですけど……。でも、桜が、咲き始めてました」

「そうか。じゃあ、来週あたり、満開かな」

「ええ。……お花見、行きたいですね」

ぽつりと漏らしたその言葉に、課長は少し目を細めた。

「じゃあ、企画部でやろうか。気分転換にもなるし」

「……はいっ、ぜひ」

仕事中なのに、顔が熱くなる。課長と話すだけで、心が弾む自分に気づいていた。

その日、仕事帰りのエレベーターで、ふたりきりになった。

「今週もお疲れさま。……ちょっと、時間ある?」

「えっ……はい、大丈夫です」

そのまま、会社の近くにある静かなカフェに入った。

コーヒーの香りに包まれながら、ふと、佐伯課長が真面目な顔をした。

「……実は、ちょっと前から、気になっていたことがあってね」

「え?」

「君のことだよ」

言葉が、落ちた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

「最初は、ただ頼りになる部下だなと思ってた。仕事も丁寧で、判断も的確で……でも、最近は、それだけじゃない」

目をそらせなかった。真っ直ぐな瞳が、自分の心の奥を見ているようで。

「どんなに忙しくても、誰かの話を聞いてあげる余裕がある。部下を思いやれる。……それって、実は簡単なことじゃない」

「……そんな……私なんて、まだまだで……」

「いや、君はすごいよ。正直……俺は、君にすごく助けられてる」

沈黙が、少しだけ続いた。

「……ありがとう、ございます」

「それともうひとつ」

「はい……?」

「俺、君のことが、好きになったみたいだ」

言葉の意味を、理解するのに数秒かかった。

(……好き? 佐伯課長が? わたしを?)

心臓がドクンと大きく跳ねた。

「急にこんなこと言って、ごめん。でも、ずっと伝えたかった。俺は……真嶋さんと、もっと一緒に過ごしたい。仕事だけじゃなくて、人生も、隣で見ていたいと思った」

言葉の一つひとつが、胸に染み渡った。

こんなに誠実に、正面から想いを伝えられたのは、いつ以来だろう。

「……私も、課長といる時間が、いつの間にか特別になっていました」

「……うん」

「最初は、ただ尊敬していただけでした。でも、話すうちに、笑顔を見るたびに……“この人のそばにいたい”って、思うようになってて……」

自分でも気づかないうちに、涙がひとすじ、頬を伝っていた。

「……怖かったんです。前みたいに、また傷ついたらって。でも、課長の言葉を聞いて、そんな自分から少しだけ、踏み出してみたくなりました」

「ありがとう。そんなふうに言ってくれて」

佐伯課長は、そっとナプキンを差し出してくれた。

「じゃあ、まずは“名前”で呼び合うのから、始めてみる?」

少し照れながらも、笑って言ったその言葉に、思わず吹き出してしまった。

「……はい。じゃあ、私も……“昇平さん”って呼んでも、いいですか?」

「もちろん」

小さな春の光が、ふたりの間にあたたかく差し込んでいた。

これからの日々が、どう転ぶかはわからない。

でも、今この瞬間、ふたりが同じ気持ちでいることだけは確かだった。

そして、それだけで十分だった。


春の夜風が、駅の構内にふわりと流れ込む。仕事帰り、少し遠回りして立ち寄った書店で文庫本を買い、改札を抜けたそのときだった。

「……真嶋」

声をかけられて振り向くと、そこには三嶋圭太が立っていた。スーツのネクタイは少し緩み、疲れた表情をしている。

「……こんばんは」

 思わず階段降り口の前で足を止める。

「ちょっとだけ、時間あるか?」

   首を左右に振る。嫌だ、話したくもない。

「じゃ、立ったままでいいや」

 圭太はすぐに話を切り出した。

「……営業部に戻ってきてくれ」

「……え?」

 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

「お前がいなくなってから、俺のチームはボロボロだ。売り上げは落ちる一方で、部下もまったく動かなくなった。……正直、このままだと俺は係長を降格させられる」

「それは……お気の毒ですね」

「だから、お前から“異動願”を出してくれ。そうすれば話は通る。お前が戻ってきたら、きっとまた立て直せる」

 どこまでも自分本位な言い分だった。

「すみません。それはできません」

 はっきりと断ると、圭太の表情が変わった。

「……は?」

「私は今の企画部が好きです。佐伯課長のもとで、やりがいのある仕事を任せてもらって、毎日が充実しています。だから、戻るつもりはありません」

「ふざけるなよ……」

 圭太の声が低くなった。

「……サツキのくせに、生意気なんだよ。誰のおかげで今まで仕事覚えたと思ってるんだ」

「……もう、そういう言い方をされても、何も響きません。私は今、佐伯課長とお付き合いしています。だから、あなたのもとに戻ることは絶対にありません」

 その瞬間、彼の顔がゆがんだ。次の言葉を選ぶ間もなく、圭太が突然、私の腕を掴んだ。

「ふざけるなっ……!」

「あ、あっぶない……!」

 強い力で引っ張られ、私は反射的に体勢を崩した。

 気づいたときには、頭から階段の下へと落ちていった。

(あ……)

 視界が一瞬、空を切り、耳の奥が高鳴る。周囲の音が遠ざかり、何か温かいものが頭を流れる感触。

 そこで、私の意識は途切れた。

――闇の中で、何も感じない静けさが広がっていった。
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