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第53話 リノ、アレクシス殿下にしびれ薬を飲まされる
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***
蝋燭の火が静かに揺れていた。
夜の応接室には、上品な香茶の香りと、沈黙が満ちていた。
テーブルには金の縁取りがされたティーセット。深紅のバラが一輪だけ、さも自然に花瓶に挿されている。
リノは、息を殺すように、その席に座っていた。
向かいに座るのは、グランディア王国第二王子――アレクシス。
「来てくれて、嬉しいよ、リノ」
そう言った彼の笑みは優しげでいて、どこか歪んでいた。仮面のような笑顔。視線の奥に光る、獣のような執着。
リノは静かに微笑みを返し、差し出されたカップに手を伸ばした。
――この中に、薬が入っている。
ミレイユからそう聞かされていた。眠り薬か、あるいは痺れ薬か。いずれにせよ、抵抗力を奪うものであることは間違いない。
(解毒剤は服用済み。問題ない……問題ないわ)
リノは内心で自分に言い聞かせ、カップを唇に当てる。舌にわずかな苦みを感じたが、それは薬のせいか、緊張のせいか分からなかった。
ごくん――
一口だけ、確かに飲んだ。
カップを置くと、リノはわざと指先を震わせ、視線を彷徨わせた。
「……少し、体が……重い……かも」
「そうか、それは困ったな」
アレクシスが、楽しそうに微笑む。その声音に、明らかな期待が滲んでいた。
「薬がよく効く体質だったか。ま、悪くない」
リノは意識が遠のくふりをしながら、半ば椅子にもたれる。
その瞬間だった。
アレクシスが立ち上がり、テーブルを回り込みながら言った。
「……なあ、リノ」
「……?」
「お前……あの歌、覚えているか?」
ぞわり、と背中に冷たい何かが這い上がる。
「“あの歌”……?」
「そうだよ。高校の合唱コンクールで、お前がソロで歌ってた、あの曲……」
「……っ」
リノの目が見開かれる。
知っているはずがない。前世のことを――しかもそんな細部を――この世界の人間が知っているはずがない。
「お前……“真嶋さつき”だろ?」
心臓が止まりそうだった。
彼女の名。前世での自分の名前。
震える声で、リノは絞り出した。
「……あ……あなた……まさか……」
アレクシスはにやりと笑い、低く、そして懐かしささえ感じさせる声で言った。
「そうだよ。俺だよ。三嶋圭太だ」
時が止まった。
リノの脳裏に、記憶の奔流が溢れだす。前世――OLとして働いていたあの人生。四年も付き合い、信じていた恋人。だが三十歳の誕生日、彼は別れを切り出し、新人社員とでき婚を発表した。
それから、会社の部署を変えて頑張り、それが認められ昇進し、再び恋をして、幸せになろうとしていた。そんな時、リノ――さつき――のもとを訪れた圭太の……暴力により、あの夜、階段の踊り場で口論の末――
(私……あの時、突き落とされた……!)
頭をぶつけた鈍い痛み、冷たい床。最後に見たのは、背を向けて逃げていく圭太の姿。
「……なんで……どうして、あなたがここに……!」
リノの震える声に、アレクシスは笑う。
「お前が死んだとき、俺も――逃げようとして道路に飛び出したところを車に跳ねられてた。気づいたら、この世界にいた。最初は混乱したけど、ある時、歌姫の噂を聞いた」
「まさか、とは思ったがな……この声、目の動き、仕草……そして“あの歌”で、確信したよ」
「お前はさつきだ」
絶望と混乱の中で、リノはアレクシスの顔を見つめた。冷たい目。前世でも幾度も見た、あの、誰かを値踏みするような視線。
「……目……あの時も……」
「思い出したか?」
アレクシスがゆっくりと近づいてくる。
「いい女になったな。こっちでも、俺が全部与えてやるよ。愛も、地位も、体も……」
「やめて……来ないで……!」
だがアレクシスは止まらない。手を伸ばしながら、顔を歪めて笑った。
「ふふふ……お前が飲んだお茶には“痺れ薬”が入ってる。もう立てないだろ。前世みたいに、可愛がってやるよ、さつき――」
――その瞬間だった。
「ふざけるなあああああああああああああ!!!!」
リノの叫びとともに、手にしていた茶器がアレクシスのこめかみに直撃した。
ガシャンッ――!!
音を立てて、アレクシスが崩れる。床に転がる茶器の破片。まさか立ち上がれるとは思っていなかったらしく、男の目は驚きと怒りで見開かれていた。
「……演技よ。私があんな茶、まともに飲むと思った?」
リノは振り返りもせず、ドレスの裾を掴んで走り出した。
応接室の扉を勢いよく開け放ち、闇の廊下に飛び出す。ミレイユに教えられた通用口は、厨房の裏手――このまままっすぐ行けば……!
後ろから怒号が聞こえる。
「い、いてて、と、止めろ!!あいつを止めろッ!!」
(ダメ……ここで捕まったら……!)
必死に走る。靴が脱げそうになっても、構わずに。
今度こそ、逃げ切ってみせる。もう、あんな男には、二度と、支配させない。
涙で滲む視界の中、遠くに、光が見えた。
それは、自由への扉だった。
蝋燭の火が静かに揺れていた。
夜の応接室には、上品な香茶の香りと、沈黙が満ちていた。
テーブルには金の縁取りがされたティーセット。深紅のバラが一輪だけ、さも自然に花瓶に挿されている。
リノは、息を殺すように、その席に座っていた。
向かいに座るのは、グランディア王国第二王子――アレクシス。
「来てくれて、嬉しいよ、リノ」
そう言った彼の笑みは優しげでいて、どこか歪んでいた。仮面のような笑顔。視線の奥に光る、獣のような執着。
リノは静かに微笑みを返し、差し出されたカップに手を伸ばした。
――この中に、薬が入っている。
ミレイユからそう聞かされていた。眠り薬か、あるいは痺れ薬か。いずれにせよ、抵抗力を奪うものであることは間違いない。
(解毒剤は服用済み。問題ない……問題ないわ)
リノは内心で自分に言い聞かせ、カップを唇に当てる。舌にわずかな苦みを感じたが、それは薬のせいか、緊張のせいか分からなかった。
ごくん――
一口だけ、確かに飲んだ。
カップを置くと、リノはわざと指先を震わせ、視線を彷徨わせた。
「……少し、体が……重い……かも」
「そうか、それは困ったな」
アレクシスが、楽しそうに微笑む。その声音に、明らかな期待が滲んでいた。
「薬がよく効く体質だったか。ま、悪くない」
リノは意識が遠のくふりをしながら、半ば椅子にもたれる。
その瞬間だった。
アレクシスが立ち上がり、テーブルを回り込みながら言った。
「……なあ、リノ」
「……?」
「お前……あの歌、覚えているか?」
ぞわり、と背中に冷たい何かが這い上がる。
「“あの歌”……?」
「そうだよ。高校の合唱コンクールで、お前がソロで歌ってた、あの曲……」
「……っ」
リノの目が見開かれる。
知っているはずがない。前世のことを――しかもそんな細部を――この世界の人間が知っているはずがない。
「お前……“真嶋さつき”だろ?」
心臓が止まりそうだった。
彼女の名。前世での自分の名前。
震える声で、リノは絞り出した。
「……あ……あなた……まさか……」
アレクシスはにやりと笑い、低く、そして懐かしささえ感じさせる声で言った。
「そうだよ。俺だよ。三嶋圭太だ」
時が止まった。
リノの脳裏に、記憶の奔流が溢れだす。前世――OLとして働いていたあの人生。四年も付き合い、信じていた恋人。だが三十歳の誕生日、彼は別れを切り出し、新人社員とでき婚を発表した。
それから、会社の部署を変えて頑張り、それが認められ昇進し、再び恋をして、幸せになろうとしていた。そんな時、リノ――さつき――のもとを訪れた圭太の……暴力により、あの夜、階段の踊り場で口論の末――
(私……あの時、突き落とされた……!)
頭をぶつけた鈍い痛み、冷たい床。最後に見たのは、背を向けて逃げていく圭太の姿。
「……なんで……どうして、あなたがここに……!」
リノの震える声に、アレクシスは笑う。
「お前が死んだとき、俺も――逃げようとして道路に飛び出したところを車に跳ねられてた。気づいたら、この世界にいた。最初は混乱したけど、ある時、歌姫の噂を聞いた」
「まさか、とは思ったがな……この声、目の動き、仕草……そして“あの歌”で、確信したよ」
「お前はさつきだ」
絶望と混乱の中で、リノはアレクシスの顔を見つめた。冷たい目。前世でも幾度も見た、あの、誰かを値踏みするような視線。
「……目……あの時も……」
「思い出したか?」
アレクシスがゆっくりと近づいてくる。
「いい女になったな。こっちでも、俺が全部与えてやるよ。愛も、地位も、体も……」
「やめて……来ないで……!」
だがアレクシスは止まらない。手を伸ばしながら、顔を歪めて笑った。
「ふふふ……お前が飲んだお茶には“痺れ薬”が入ってる。もう立てないだろ。前世みたいに、可愛がってやるよ、さつき――」
――その瞬間だった。
「ふざけるなあああああああああああああ!!!!」
リノの叫びとともに、手にしていた茶器がアレクシスのこめかみに直撃した。
ガシャンッ――!!
音を立てて、アレクシスが崩れる。床に転がる茶器の破片。まさか立ち上がれるとは思っていなかったらしく、男の目は驚きと怒りで見開かれていた。
「……演技よ。私があんな茶、まともに飲むと思った?」
リノは振り返りもせず、ドレスの裾を掴んで走り出した。
応接室の扉を勢いよく開け放ち、闇の廊下に飛び出す。ミレイユに教えられた通用口は、厨房の裏手――このまままっすぐ行けば……!
後ろから怒号が聞こえる。
「い、いてて、と、止めろ!!あいつを止めろッ!!」
(ダメ……ここで捕まったら……!)
必死に走る。靴が脱げそうになっても、構わずに。
今度こそ、逃げ切ってみせる。もう、あんな男には、二度と、支配させない。
涙で滲む視界の中、遠くに、光が見えた。
それは、自由への扉だった。
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