婚約破棄されたトリノは、継母や姉たちや使用人からもいじめられているので、前世の記憶を思い出し、家から脱走して旅にでる!

山田 バルス

文字の大きさ
62 / 66

第54話 リノ、大ピンチ!

しおりを挟む
***

 リノは走っていた。

 冷たい石造りの廊下を、息も絶え絶えに、ただひたすら前へ、上へ――

 (どうして……どうしてこうなるの……!)

 振り返る暇はなかった。後ろからは怒号と足音。鉄の靴が床を打つ音が、無情に迫ってくる。

 「リノ!止まりなさいッ!」

 「包囲しろ!屋上へ続く階段を塞ぐな!」

 (やめて……誰か、誰か助けて――)

 叫びそうになる喉を噛みしめ、リノは階段を駆け上がる。もう何段登ったかも分からない。ただ一つ分かるのは、このまま捕まれば、もう元には戻れないということ。

 城の上層は貴族の居住区域で、夜には人の気配がほとんどなかった。助けを呼ぶ声も届かない。

 階段を曲がり、細い廊下を抜け、扉を押し開けると、冷たい夜風がリノを迎えた。

 ――屋上だ。

 そこは高く、風が強く吹きつける場所だった。遥か下には、城を取り巻く水堀が鈍い月光を受けて輝いている。

 「……っ」

 息が詰まる。視線を落とせば、目もくらむ高さ。落ちれば――即死だ。

 (でも……もう、行き場が……)

 と、扉の向こうから、重く、ゆっくりとした足音が響いた。

 ギィ……

 黒い影が、屋上の入り口から姿を現した。

 それは、アレクシス――いや、前世の名を持つ男、三嶋圭太。

 その額には血の滲んだ包帯がぐるぐると巻かれていた。右目だけがギラリと光っている。もはや威厳も王族の気品もなく、ただ一人の女を追い詰めた狂気がその姿を満たしていた。

 「リノ……いや、“さつき”……」

 低く、乾いた声が夜の空気に溶け込む。

 「よくも俺の頭を……割ってくれたな……」

 リノは身を強張らせ、じりじりと後退する。

 「来ないで……」

 アレクシスはにたりと笑う。

 「ふふふ……どうして逃げる? なぁ、お前が欲しかったんだろ? 愛が。永遠の絆が」

 「そんなもの、あなたに言われたくないッ!!」

 リノは叫んだ。風に声が掻き消されそうになる。それでも彼女の瞳には、確かに怒りと決意が宿っていた。

 「私が、あなたのものになる? 冗談じゃない。前世で奪われて、裏切られて、殺されて……! 今世でも、また同じように、私を支配しようとするの?」

 アレクシスは笑い続けた。冷酷な、薄ら寒い声で。

 「俺は後悔したんだよ……お前をあの時手放したことを。あの新人と結婚してから、全部が崩れていった。会社も金も名誉も、全部なくなった。最後に残っていたのが、お前の記憶だった」

 「だから……今度こそ逃がさない。ずっとそばに置く。檻に入れてでもな」

 「最低……!」

 リノの背に、石の欄干が触れた。

 ――もう、これ以上は後ろに行けない。

 アレクシスは歩を進める。まるで獲物に迫る猛獣のように、恐怖と執着に目を光らせて。

 「さあ……おいで。お前は俺のものだ。お前にしか分からないだろ、俺の気持ちが」

 「……っ!」

 リノは、後ろを振り返った。

 遠く下方、黒い水面が月を飲み込んで波打っている。生ぬるい風が髪をなびかせる。

 選択肢は――もう、なかった。

 アレクシスが手を伸ばしてくる。

 「さあ、さつき――」

 その瞬間。

 

 リノは、微笑んだ。

 

 「神様、今までありがとう」

 その呟きは、風に乗って消えた。

 「レオニス……私、本当は……」

 ひとしずく、涙が頬を伝う。

 「あなたに……会えてよかった」

 そして、

 

 「さようなら」

 

 叫ぶように、リノは欄干に足を掛け、夜空へと身を躍らせた。

 「リノッ!!」

 アレクシスの絶叫が響いたが、もう遅い。

 彼女の白いドレスは、月明かりを纏って一瞬輝き、すぐに重力に引かれて落ちていった。

 下には水堀。高さは優に五十メートルを超えている。

 風の音が耳を裂く。息ができない。景色が回る。死が、迫ってくる――

 

 だがリノは目を閉じ、静かに祈るように身を任せた。

 (お願い――どうか、このまま終わらせて)

 

 彼女の身体は、音もなく、夜の闇に吸い込まれていった。

 

 それは、死へのダイビングだった。

 だが、その運命が本当に“終わり”なのか、それとも“始まり”なのか――

 それを知る者は、まだいない。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

拝啓~私に婚約破棄を宣告した公爵様へ~

岡暁舟
恋愛
公爵様に宣言された婚約破棄……。あなたは正気ですか?そうですか。ならば、私も全力で行きましょう。全力で!!!

乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!

ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。 相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。 結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。 現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう… その時に前世の記憶を取り戻すのだった… 「悪役令嬢の兄の婚約者って…」 なんとも微妙なポジション。 しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。

やんちゃな公爵令嬢の駆け引き~不倫現場を目撃して~

岡暁舟
恋愛
 名門公爵家の出身トスカーナと婚約することになった令嬢のエリザベート・キンダリーは、ある日トスカーナの不倫現場を目撃してしまう。怒り狂ったキンダリーはトスカーナに復讐をする?

もう我慢したくないので自由に生きます~一夫多妻の救済策~

岡暁舟
恋愛
第一王子ヘンデルの妻の一人である、かつての侯爵令嬢マリアは、自分がもはや好かれていないことを悟った。 「これからは自由に生きます」 そう言い張るマリアに対して、ヘンデルは、 「勝手にしろ」 と突き放した。

全てを捨てて消え去ろうとしたのですが…なぜか殿下に執着されています

Karamimi
恋愛
侯爵令嬢のセーラは、1人崖から海を見つめていた。大好きだった父は、2ヶ月前に事故死。愛していた婚約者、ワイアームは、公爵令嬢のレイリスに夢中。 さらにレイリスに酷い事をしたという噂まで流されたセーラは、貴族世界で完全に孤立していた。独りぼっちになってしまった彼女は、絶望の中海を見つめる。 “私さえいなくなれば、皆幸せになれる” そう強く思ったセーラは、子供の頃から大好きだった歌を口ずさみながら、海に身を投げたのだった。 一方、婚約者でもあるワイアームもまた、一人孤独な戦いをしていた。それもこれも、愛するセーラを守るため。 そんなワイアームの気持ちなど全く知らないセーラは… 龍の血を受け継いだワイアームと、海神の娘の血を受け継いだセーラの恋の物語です。 ご都合主義全開、ファンタジー要素が強め?な作品です。 よろしくお願いいたします。 ※カクヨム、小説家になろうでも同時配信しています。

さようなら、私の愛したあなた。

希猫 ゆうみ
恋愛
オースルンド伯爵家の令嬢カタリーナは、幼馴染であるロヴネル伯爵家の令息ステファンを心から愛していた。いつか結婚するものと信じて生きてきた。 ところが、ステファンは爵位継承と同時にカールシュテイン侯爵家の令嬢ロヴィーサとの婚約を発表。 「君の恋心には気づいていた。だが、私は違うんだ。さようなら、カタリーナ」 ステファンとの未来を失い茫然自失のカタリーナに接近してきたのは、社交界で知り合ったドグラス。 ドグラスは王族に連なるノルディーン公爵の末子でありマルムフォーシュ伯爵でもある超上流貴族だったが、不埒な噂の絶えない人物だった。 「あなたと遊ぶほど落ちぶれてはいません」 凛とした態度を崩さないカタリーナに、ドグラスがある秘密を打ち明ける。 なんとドグラスは王家の密偵であり、偽装として遊び人のように振舞っているのだという。 「俺に協力してくれたら、ロヴィーサ嬢の真実を教えてあげよう」 こうして密偵助手となったカタリーナは、幾つかの真実に触れながら本当の愛に辿り着く。

【完結】番としか子供が産まれない世界で

さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。 何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。 そんなニーナが番に出会うまで 4話完結 出会えたところで話は終わってます。

多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】 23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも! そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。 お願いですから、私に構わないで下さい! ※ 他サイトでも投稿中

処理中です...