結婚して3年経っても子供ができないという理由で離縁されたエマは、前世の記憶を思い出して幸せになる。周りが勝手に復讐してくれました。

山田 バルス

文字の大きさ
1 / 15

第1話 エマ、旅立ちの始まり

しおりを挟む
 エマ、旅立ちの始まり



 結婚三年目の春だった。

 午後の光が、モナコラ伯爵邸の居間にやわらかく差し込んでいる。
 大きな窓から入る陽射しは、まだ冷えの残る空気を淡く温め、磨き上げられた床にレースのカーテンの影を細やかに揺らしていた。

 桃色の髪に紫水晶のような瞳を持つエマ=モナコラは、いつものように紅茶を用意していた。
 香り高い茶葉を選び、湯の温度にも気を配る。
 こうした小さな気遣いこそが、伯爵家の奥方としての務めだと、彼女は信じて疑わなかった。

 二十五歳。
 モナコラ伯爵家の正妻として迎えられてから、三年。

 向かいに座るのは、夫であるアンドレオ=モナコラ。
 茶髪に蒼い瞳を持つ二十七歳のモナコラ伯爵だ。
 その横顔は整っているが、今日に限ってはどこか硬く、視線もエマを避けるように窓の外へと流れていた。

 ――何かある。

 そう気づいたのは、妻として過ごした三年の積み重ねゆえだった。

 カップが置かれる音が、妙に大きく響いた。

「……話がある」

 短い一言。
 それだけで、胸の奥がひやりと冷えた。

 エマは背筋を伸ばし、静かにうなずいた。

「両親から言われたんだ」

 アンドレオは一度、言葉を切った。
 まるで、続きを口にするための勇気を探すかのように。

「――側室を迎えろ、と」

 あまりにも淡々とした声だった。
 天候の話でも、領地の収支でも語るような調子で。

 エマはすぐに意味を理解できなかった。
 側室。
 それは、この国において「家を存続させるための女」だ。

 喉の奥が、きゅっと締め付けられる。

「……私では、足りないと?」

 声が震えないように、精一杯気をつけた。
 だが、自分でもわかるほど、その声は弱々しかった。

「いや、そういう問題じゃない」

 即座に返ってきた言葉は、あまりにも冷静で、だからこそ残酷だった。

「伯爵家には跡継ぎが必要だ。三年経っても子ができない以上……」

 その先は、言葉にされなくても理解できた。
 責められているのは、事実そのものではない。
 ――存在そのものだ。

 エマは、ゆっくりと紅茶のカップを置いた。
 白磁の縁に触れた指先が、かすかに震えている。

「私は……奥方として、失格なのですね」

 問いというより、確認だった。

 アンドレオは答えなかった。
 視線を落とし、沈黙を選んだ。

 それが、答えだった。

 ◇

 数日後、エマに突きつけられたのは離縁状だった。

 理由は簡潔で、冷たかった。
 ――「世継ぎをなせなかったため」。

 そこには、ここまで彼女が尽くした領地経営としての手腕。
 赤字だった財政を黒字にした三年の年月は、まったく評価されなかったのだ。
 ただ、三年間で子を為せなかったというだけの理由で……彼女の活躍は、ないものにされた。

 屋敷を去る前日、エマは最後にアンドレオと向かい合った。

「……当座の資金を、少しで構いません。旅の路銀として」

 頭を下げたエマに対し、アンドレオは帳簿を閉じ、疲れたように息を吐いた。

「財政は、まだまだ厳しい」

 それだけ告げて、差し出されたのは小さな革袋だった。

「十ゴルドだ。……それ以上は出せない」

 かつて伯爵家の無駄を削ぎ落とし、立て直した張本人に向けられる金額としては、あまりにも少ない。
 だが、エマは何も言わず、静かに受け取った。

「……ありがとうございます」

 そして、少しだけ言葉を選び、続けた。

「ひとつ、お願いがございます。この領地にいた思い出として……鉱石を、少し持っていってもよろしいでしょうか」

 モナコラ領は鉱山を抱えている。
 領の財政を支えてきた、貴重な資源だ。

 アンドレオは一瞬、意外そうに目を瞬かせたが、すぐに興味を失ったように肩をすくめた。

「好きにするといい。あなたが自分で運べる量なら、自由に持っていくがいい」

 その言葉に、エマは深く一礼した。

 翌朝。
 荷物は最低限にまとめられていた。
 衣装箱と、わずかな私物だけ。

 エマは屋敷の奥、鉱石が保管されている倉庫へと向かった。
 薄暗い倉庫の中には、採掘されたばかりの原石が木箱に収められて並んでいる。

 彼女はその中から、ひとつの鉱石を手に取った。
 拳より一回り大きく、ずしりと重い。
 光を受けると、内部に淡い緑色の輝きを宿していた。

「……これノンオイルね、これがいいわ」

 それは、かつて領の特産品として装飾品を考案したとき、何度も手に取った種類の鉱石だった。

 エマはそれを、静かに荷物入れへとしまった。

 使用人たちは、訴えるように引き留めようとしてくれた。
「奥様がいなくなったら伯爵家は大変なことに」
「奥様が来られる前に戻ってしまったら……」

 彼らにとって、エマの働きは英雄のように映っていたのだろう。

 屋敷の門を出るとき、エマは一度だけ振り返った。

 三年間、妻として生きた場所。
 領地経営に無知なアンドレオを助けるために結ばれた結婚だったが、やりすぎてしまったのかもしれない。
 伯爵家の贅沢を抑え、領民と向き合い、鉱石を活かした装飾品を生み出した日々。

 それらすべての活躍は――「無価値だった」と、切り捨てられた。

 馬車が動き出す。
 揺れる車内には、彼女ひとり。

「……大丈夫よ」

 誰に聞かせるでもなく、エマは小さく呟いた。

 けれど、その言葉はあまりにも頼りなく、宙に溶けて消えた。

 胸の奥に残ったのは、怒りでも悲しみでもない。
 ただ、ぽっかりと空いた穴のような、名づけようのない空虚だけだった。

 それでも――生きていかなければならない。

 エマは、膝の上で拳をそっと握りしめた。
 この先に何が待っていようとも、自分の人生を、もう誰にも奪わせはしないと。

 春の光は、知らぬ顔で馬車の窓をすり抜けていた。

しおりを挟む
感想 28

あなたにおすすめの小説

いつまでも甘くないから

朝山みどり
恋愛
エリザベスは王宮で働く文官だ。ある日侯爵位を持つ上司から甥を紹介される。 結婚を前提として紹介であることは明白だった。 しかし、指輪を注文しようと街を歩いている時に友人と出会った。お茶を一緒に誘う友人、自慢しちゃえと思い了承したエリザベス。 この日から彼の様子が変わった。真相に気づいたエリザベスは穏やかに微笑んで二人を祝福する。 目を輝かせて喜んだ二人だったが、エリザベスの次の言葉を聞いた時・・・ 二人は正反対の反応をした。

完結 貴族生活を棄てたら王子が追って来てメンドクサイ。

音爽(ネソウ)
恋愛
王子の婚約者になってから様々な嫌がらせを受けるようになった侯爵令嬢。 王子は助けてくれないし、母親と妹まで嫉妬を向ける始末。 貴族社会が嫌になった彼女は家出を決行した。 だが、有能がゆえに王子妃に選ばれた彼女は追われることに……

いつまでも変わらない愛情を与えてもらえるのだと思っていた

奏千歌
恋愛
 [ディエム家の双子姉妹]  どうして、こんな事になってしまったのか。  妻から向けられる愛情を、どうして疎ましいと思ってしまっていたのか。

婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話

ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。 リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。 婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。 どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。 死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて…… ※正常な人があまりいない話です。

好きにしろ、とおっしゃられたので好きにしました。

豆狸
恋愛
「この恥晒しめ! 俺はお前との婚約を破棄する! 理由はわかるな?」 「第一王子殿下、私と殿下の婚約は破棄出来ませんわ」 「確かに俺達の婚約は政略的なものだ。しかし俺は国王になる男だ。ほかの男と睦み合っているような女を妃には出来ぬ! そちらの有責なのだから侯爵家にも責任を取ってもらうぞ!」

【完結】不倫をしていると勘違いして離婚を要求されたので従いました〜慰謝料をアテにして生活しようとしているようですが、慰謝料請求しますよ〜

よどら文鳥
恋愛
※当作品は全話執筆済み&予約投稿完了しています。  夫婦円満でもない生活が続いていた中、旦那のレントがいきなり離婚しろと告げてきた。  不倫行為が原因だと言ってくるが、私(シャーリー)には覚えもない。  どうやら騎士団長との会話で勘違いをしているようだ。  だが、不倫を理由に多額の金が目当てなようだし、私のことは全く愛してくれていないようなので、離婚はしてもいいと思っていた。  離婚だけして慰謝料はなしという方向に持って行こうかと思ったが、レントは金にうるさく慰謝料を請求しようとしてきている。  当然、慰謝料を払うつもりはない。  あまりにもうるさいので、むしろ、今までの暴言に関して慰謝料請求してしまいますよ?

王妃ですが都からの追放を言い渡されたので、田舎暮らしを楽しみます!

藤野ひま
ファンタジー
 わたくし王妃の身でありながら、夫から婚姻破棄と王都から出て行く事を言い渡されました。  初めての田舎暮らしは……楽しいのですが?!  夫や、かの女性は王城でお元気かしら?   わたくしは元気にしておりますので、ご心配御無用です!  〔『仮面の王と風吹く国の姫君』の続編となります。できるだけこちらだけでわかるようにしています。が、気になったら前作にも立ち寄っていただけると嬉しいです〕〔ただ、ネタバレ的要素がありますのでご了承ください〕

【完結】旦那様は、妻の私よりも平民の愛人を大事にしたいようです

よどら文鳥
恋愛
 貴族のことを全く理解していない旦那様は、愛人を紹介してきました。  どうやら愛人を第二夫人に招き入れたいそうです。  ですが、この国では一夫多妻制があるとはいえ、それは十分に養っていける環境下にある上、貴族同士でしか認められません。  旦那様は貴族とはいえ現状無職ですし、愛人は平民のようです。  現状を整理すると、旦那様と愛人は不倫行為をしているというわけです。  貴族の人間が不倫行為などすれば、この国での処罰は極刑の可能性もあります。  それすら理解せずに堂々と……。  仕方がありません。  旦那様の気持ちはすでに愛人の方に夢中ですし、その願い叶えられるように私も協力致しましょう。  ただし、平和的に叶えられるかは別です。  政略結婚なので、周りのことも考えると離婚は簡単にできません。ならばこれくらいの抵抗は……させていただきますよ?  ですが、周囲からの協力がありまして、離婚に持っていくこともできそうですね。  折角ですので離婚する前に、愛人と旦那様が私たちの作戦に追い詰められているところもじっくりとこの目で見ておこうかと思います。

処理中です...