兄の婚約者が「貴方はわたくしの事を愛しているのでしょう?」と言ってきたのですが、俺が愛しているのは俺の婚約者だけです。

霜月零

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兄の婚約者が「貴方はわたくしの事を愛しているのでしょう?」と言ってきたのですが、俺が愛しているのは俺の婚約者だけです。

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「アルネリア・コーベルネルト公爵令嬢。君との婚約は白紙に戻させてもらいたいんだ」

 沈痛な面持ちでそう告げるのは、俺の兄であり、王太子であるヴェルフォルン・ドレジアだ。
 書面で済ませることもできたのに、「最後は、自分の口で告げたいんだ」と悲しく告げる兄が心配で、こうして俺はついてきてしまったわけだけれど。

「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか。なぜ、卒業パーティーで宣言してくださらないのですか?」

 コーベルネルト公爵令嬢は、少しも驚かずに、そんなことを言う。
 まぁ?
 婚約破棄されるとは大分前から思い込んでいたみたいだから、既定路線というか、驚きは少ないのかもしれない。
 
 けれど、卒業パーティーで婚約白紙を宣言?
 正気なのか。

 思わず兄を見ると、兄も一瞬虚を突かれたように蒼い目を見開いた。
 いつでも穏やかで、感情を抑えることのできる兄であっても、コーベルネルト公爵令嬢の言葉には驚きを隠せなかったようだ。

「むしろなぜ、そのような事を思うんだい? 卒業パーティーは、この王立学園を卒業する生徒たちの大切な思い出となる場だよ。そしてこれから社交界へと羽ばたいてゆく門出となる場でもある。そのような場所で、一個人の婚約を話題にして、場を乱すなどもってのことだとは思わないのかい?」
「そ、それは、そうかもしれませんが……これは一個人の問題などではありませんわ。貴方はいまはまだ王太子で、わたくしはその婚約者です。王命で決められた婚約なのですから、婚約破棄は大々的に、大勢の場でされるべきではないのですか」

 ちらり、と彼女が俺を見る。
 なんだろうね。
 同意されたいんだろうか。
 ありえないけれどね。

「婚約破棄ではなく、白紙だよ。先ほども伝えたけれど、白紙は婚約を取りやめるだけであって、破棄のようにどちらかの非を責めるようなものではないし、君の瑕疵にもなりえないものだ」

 少し疲れたように、兄がもう一度説明する。
(白紙なら、もう一度婚約することだってできるもんな……)

 兄がコーネルベルト公爵令嬢をずっと想っていることを知っている。
 五歳の時に婚約し、十八歳になる今日まで、一度たりともその想いをたがえたことはない。
 だから、今回の白紙だって、ぎりぎりのぎりぎりまで引き延ばしていた。

 けれど卒業まであとひと月。
 このままでは彼女が何かとんでもない――王太子である兄でさえ庇いきれないようなことをやらかすのではないかという懸念が消えず、今回の解消に至ったわけだ。

 まぁ、彼女のこの言動を見るに、兄の判断は間違っていなかったと言えるよね。
 白紙であっても、卒業パーティーで大々的に宣言などされたら、何もなくともコーネルベルト公爵令嬢に問題があるとみられるし、二度と兄との縁は結べなくなってしまう。

 俺だったら、自分以外をちらちらチラ見するような婚約者はごめんだけれど。
 一年ぐらい前から、コーネルベルト公爵令嬢が俺を気にしだした。

 何故か、俺がそのうち王太子になると思い込んでいる節がある。
 ありえないけれどね。

 兄とは腹違いの兄弟で、数カ月しか違わない。
 正妃の息子が俺で、側妃様の息子が兄。
 だからだろうね。
 昔から、俺こそが王太子になると思い込んでいるやからが一定数。
 
 このドレジア王国では、長子が王太子になるのが代々のしきたりだ。
 それは、正妃でも側妃でも変わらない。
 最初の子が王太子。
 男性でも女性でもいい。性別は問われない。
 たまたま兄は男だったけれどね。
 諸外国ではまだまだ男性が王位を継ぐ国が多いから、それもあるのだろうと思う。
 
 せめて俺が妹だったら、まだよかったのだろうけれど、運悪く弟。
 しかも兄とはたったの数か月の違い。
 まぁ、一部の貴族というか、母上の親族が「正妃様の息子であらせられるレクイエス殿下を王太子に!」と騒ぐことになるのも無理はないんだけど。
 俺、全くその気ないからね。

 これで兄が性格終ってるクズだったなら考えたけれど、眉目秀麗成績優秀、裏表のない穏やかで優しい性格とくる。
 謀には向かないけれど、その誠実な人柄は人を引き付ける強い魅力を持っている。
 俺も兄は尊敬しているし、だからこそ、ヴェルフォルン殿下とは呼ばずに常に「兄さん」「兄上」と呼んでいる。
 俺の方が下なのだと、周囲に知らしめるためにね。
 
 コーベルネルト公爵令嬢も、俺と兄が仲いいのは知っているはずなんだよ。
 兄と幼馴染なら、同い年の俺とだってそうなんだから。
 なのにどうして誠実な兄を蹴落として、俺が王太子になると思っているのかが俺には全く理解できない。
 あの事故までは、ずっと、普通だったのに。

「私は、大切な婚約者を皆の前で貶めるような、そんな人間だと思われているということかな……?」

 兄の声が震える。
 冷静さを保とうとしても保てない。
 
「い、いえ、違うのです。ですが、ヴェルフォルン殿下はチェルーシ様を寵愛なさっているのではないのですか。彼女は嫌がらせに耐え切れず、退学されたのでしょう? 殿下は、わたくしが彼女を虐げたから、婚約を破棄するのではないですか」
「違うね。君は、下位令嬢を虐げるような人ではないでしょう。例え、私が万が一君以外を望んだとしても、それを理由に他者を貶めるような真似はありえない」

 あー、やっぱりチェルーシ・ルニア男爵令嬢かぁ。
 誤解なんだけれどね。

 シェルーシ男爵令嬢は男爵家の庶子で、この春から王立ドレジア学園に編入してきて。
 まぁ、最近まで平民だったから、マナーがおぼつかなくてね。
 本人も精いっぱい努力はしていたけれど、生まれながらの生粋の貴族には到底及ばないわけで。
 俺の婚約者であるリゼが、何度も庇って側についていてあげたんだよね。

 それでもずっと一緒にいてあげられるわけじゃない。
 リゼは侯爵令嬢だし、クラスも違うからね。
 まぁ、ひとりになった時に嫌がらせを受けていたわけだ。

 そしてなぜか、そう、本当に不思議なんだけれど、その虐めの主導者がコーベルネルト公爵令嬢という噂が出ていたんだよね。
 兄のいう通り、ありえないんだけれど。

 コーベルネルト公爵令嬢は、基本的には他者を陥れるような性格をしていない。
 妬みや嫉妬は、上手く抑えることができる人だ。
 ここ一年は言動の乱れが見られていたけれど、それでも、嫌がらせは彼女ではないと俺も断言できる。
 けれど、コーベルネルト公爵令嬢はしきりに『強制力が発生している……』って怯えていたんだよね。
 
「チェルーシ・ルニア男爵令嬢とは、数回話したことがあるのは事実だけれど……その、私が彼女を寵愛しているというのは、何を見て、かな」

 兄は青ざめたまま、コーネルベルト公爵令嬢に問いかける。
 本当にね。

 兄はチェルーシ・ルニア男爵令嬢とは挨拶程度の間柄だった。
 同じ学園なのだから、挨拶されればされ返す。
 それは、彼女に対してだけではなく、すべての生徒に対してだ。
 なぜか、コーネルベルト公爵令嬢は、彼女に対する嫌がらせが発生したのも、兄が彼女を寵愛し、彼女も兄に思いを寄せていたと思っている。
 ないけれどね。

 そもそも、チェルーシ・ルニア男爵令嬢を初めて見た瞬間、コーネルベルト公爵令嬢は気を失ったんだよね。
 だから、兄は特に注意してチェルーシ・ルニア男爵令嬢とは極力関わらないようにしていたぐらい。
 コーネルベルト公爵令嬢を愛していた、いや、今も愛しているからね。
 婚約者を不安にさせるような行動を、兄が取るはずがないんだよ。

 とはいえ、チェルーシ・ルニア男爵令嬢にこれといった問題行動は全くなかった。
 それは、俺が調べていたから間違いない。
 兄の周囲を故意にうろつくような言動もなかった。

 ただ、庇護欲をそそる愛らしい見目のせいで、何人かの高位貴族の子息に言い寄られてたんだよね。
 そのせいで、それをよく思わないご令嬢がたに嫌がらせを受けたわけだ。
 本人は、精一杯学びたくてこの学園に通っていたのに、とんだ災難。
 そういうわけで、兄はチェルーシ・ルニア男爵令嬢とは一切関わりがない。

「……夢で、見てしまいましたから……」

 きゅっと、口元を引きむすび、澄んだ翡翠色の瞳を辛そうに伏せる。
 兄が息をのんだ。

 あぁ、また、【夢】か。

 コーネルベルト公爵令嬢が奇妙な夢を見るようになってしまったのは、二年前の事故が原因だ。
 それは、本当に些細な事だった。

 兄は見せたいものがあって、先ぶれもなしにコーネルベルト公爵家へ行ってしまった。
 突然の訪問に焦ったコーネルベルト公爵令嬢は、出迎えに出た時に階段で足を滑らし――強く、頭を打って気を失った。
 とはいえ、怪我自体は大したことはなく、すぐに彼女も目を覚ましたのだけれど。

 それ以来、彼女は奇妙な夢を見るようになってしまった。
 最初は、不思議な夢だとは思いつつも、気に留めていなかったらしい。
 まぁ、当然だよね。
 いきなり兄から婚約破棄を突きつけられる夢を見ても、兄がコーネルベルト公爵令嬢を愛しているのは一目同然だったし。
 なので、最初は俺たちにも笑いながら話してくれていたのだ。

 けれど、段々と、彼女はその夢に怯えるようになっていってしまった。
 婚約破棄、婚約者からの冷遇、友人だったはずの者たちからの裏切り、そしてチェルーシ・ルニア男爵令嬢。
 断片的なそれは、主に学園で起こることらしく、あまりにも頻繁に見過ぎて、眠るのが怖いとまで口にするようになっていっていた。

 決定的だったのが、チェルーシ・ルニア男爵令嬢の編入だ。
 彼女を見て、コーネルベルト公爵令嬢はすべてあの夢は現実に起こることなのだと思い込んでしまった。
 いまも彼女はおそらくあまり眠れていない。
 化粧が濃いのは、顔色の悪さをごまかすためだろう。
 侍女達が丁寧な仕事をしているので、決して下品な派手さにはならず、彼女の美しさを引き立てているが。
 
「少し、俺からもいいかな」

 兄が黙り込んでしまったので、俺が口をはさむ。
 瞬間、ぱっとコーネルベルト公爵令嬢の顔が華やいだ。
 何を考えているのかわかるけれど、ありえないからね。

「チェルーシ・ルニア男爵令嬢だけれど、退学ではないから。隣国のザレット王立学園に編入し直しただけだからね」
「え……ザレット王国にですか?」
「そう。彼女は元々隣国の言葉も話せる子でね。男爵領はこちらの王都よりも隣国に近いし、里帰りもしやすいだろう? かの国は、我が国よりも優秀な平民への理解が高いからね。元は平民でも優秀な彼女なら隣国の方がその力を充分に発揮できる」

 優秀な人材こそ兄の治世の為にもこの国に残ってもらいたいところだけれどね。
 いまのこの環境は、チェルーシ・ルニア男爵令嬢にとって最悪過ぎるから仕方ない。
 あぁ、もちろん隣国にはちゃんと彼女の環境を整えてから向かってもらったよ?

 まず、彼女の幼馴染である商人の息子セシル。
 彼女の想い人でもあるんだけれど、セシルは隣国の伯爵の孫。
 セシルの父は平民だった女性との結婚を反対されて、隣国を出奔。
 この国で商売をはじめ、成功を収めている。

 男爵位を買える程度の稼ぎはもうあって、そろそろ隣国へも商売を広げようかというところ。
 現伯爵とも和解を果たし、セシルは伯爵家子息として隣国の学園に。
 伯爵家は彼の叔父が継ぐので、伯爵位は次げないけれど、子爵位はもらえることになっている。
 いまはチェルーシ・ルニア男爵令嬢とも良い関係を築いているようで、なにより。
 子爵位ならご令嬢達が色めき立つこともないし、男爵令嬢ごときがと妬まれて嫌がらせを受けることもない。
 こっちのように嫌がらせにあうなら、隣国に逃す意味がないからね。

「隣国へ……それは、ヴェルフォルン殿下がご手配をですか?」
「いいや。俺がすべて請け負ったよ。兄さんはチェルーシ・ルニア男爵令嬢には一切関わりがないからね」
 ほんの少しでもかかわると、コーネルベルト公爵令嬢にさらなる誤解を与えかねない。
 兄がチェルーシ・ルニア男爵令嬢の境遇を気にしなかったわけではないけれど、それ以上に、コーネルベルト公爵令嬢に負担をかけたくなかったんだよ。
 それなのに、夢で見たから寵愛しているとまだ思い込んでいるのは、本当にもうそれこそ【強制力】が働いてしまっているのか。

「コーネルベルト公爵令嬢。はっきり告げよう。あなたが今まで見続けてしまっている悪夢は、ただの夢だ。予知夢なんかじゃない。たまたま、偶然同じような名前の男爵令嬢を見て、これからすべて起こる出来事なのだと思い込んでしまっただけなんだ。チェルーシ・ルニア男爵令嬢はもうこの学園にはいない。悪夢とはかけ離れた現状では?」

 俺の言葉に、コーネルベルト公爵令嬢は翡翠色の瞳を大きく見開いた。
 その瞳が、不安げに揺れる。

「で、でも! 貴方はわたくしの事を愛しているのでしょう?」

 不安げに、それでいて、すがるように俺を見上げてくる。
 ため息が出る。

「いいえ。俺が愛しているのは、俺の婚約者だけです。貴方のことは幼馴染だとは思っていますが、それだけです」

 どうしてそんな絶望に染まった顔をするのか。
 この人が愛しているのは間違いなく兄で、だというのに俺に愛されていると思っている。
 まぁ、それも悪夢の――ゲームのスチルかなにかの影響なんだろうけれど。

「貴方が、悪夢を見るようになったのは、すべて私の浅はかな行動が原因だ。本当に、すまない……」

 悲痛な面持ちの兄が、絞り出すように謝罪を告げる。
 あの事件があった日。
 兄が見せたかったのは、翡翠の指輪。

 翡翠は、透明度の高いものから不透明なものまで、そして色味も明るい黄緑色に近いものから深い緑のものと多彩な色を持っている。
 だから、兄は、コーネルベルト公爵令嬢の瞳の色と全く同じ色の翡翠を手に入れるのに苦労していた。

 あの日は、そんな兄がやっと彼女の瞳と全く同じ色味の石を手に入れて、兄が自らデザインした指輪に加工してもらったそれを彼女に届けにいったのだ。
 一瞬でも早く見せたくて、愛する彼女に喜ばれたくて。

 だというのに、運悪く、彼女は階段から足を踏み外してしまった。
 そして夢――彼女は理解していないけれど、前世の記憶を断片的に思い出すようになってしまったのだ。
 おそらく、彼女が思い出しているのは、乙女ゲームかweb小説。
 スチルや挿絵の印象的なシーンだけを部分的に思いだしてしまったのだろう。
 
 その証拠に、前世の話題を振ってみても「ねっと……? おとめげぇむ? 不思議な物語の話でしょうか」と首をかしげていたからね。

 彼女が思い出してしまったのは、主にこの学園で起こる乙女ゲームのような物語。
 しかもかなり断片的だ。
 パーティーで婚約破棄をされたり、第二王子に婚約を申し込まれたり。
 そういうことは、web小説のお約束的なものだったから、一つの物語ではなく、別の物語も混ざっているのかもしれない。

 前世の記憶を綺麗に取り戻しているなら、まだ心構えも違っていたのだろうけれど、部分的に、しかも何度も同じシーンを寝るたびに夢として思い出すのだから、怖さしかなかっただろう。
 夢の中で斬首されることもあったようだからね。
 この世界には運悪く、処刑が実際にある。
 それでも、下位令嬢を嫉妬で虐げたなどという理由で刑が執行されることはないのだけれど。

 ちなみに俺は、彼女の言動でここが何かの物語の世界だったんだなと自覚した程度。
 前世の記憶は物心ついたころから思い出していたんだけれどね。
 前世も男だった俺には乙女ゲームにはまったくの無関心で、たまにアニメがあるなーという感じだったから、彼女が夢にさいなまれるようになるまで無自覚。
 知った今も、残念ながら何の物語なのかゲームなのかさっぱり。
 
 ただ、彼女が語る夢の内容から、思い当たるトラブルはすべて先回りして消してはいった。
 その結果、彼女が恐れるような夢の内容は何一つ起こらなかったわけだ。

 もっとも、兄とチェルーシ・ルニア男爵令嬢の事だけは、俺が手を回す必要すらないほどに兄はコーネルベルト公爵令嬢のことしか愛していない。
 俺がしたのはチェルーシ・ルニア男爵令嬢を隣国に逃す事だけで、兄は一瞬たりともコーネルベルト公爵令嬢を裏切ることがなかった。

 けれどコーネルベルト公爵令嬢にとっては、毎晩のように見るゲームの内容がもう真実のように根付いていて、自分は兄に婚約破棄をされる、そして兄はチェルーシ・ルニア男爵令嬢と真実の愛を貫くために王位継承権を返上し、臣下に下ると思っている。
 
 ありえないんだよねぇ、本当に。
 悪夢の寝不足も相まって、まともな判断ができなくなっているとしか思えない。

 俺もね?
 それは前世の記憶というやつで、この世界で起こる出来事ではないんだよと言ってはやりたかったんだけれど。
 残念ながらこの世界には前世という概念がない。
 そんな中で前世がどうのこうのと語れば、こちらが狂人扱いになる。

 ちらちらと常に俺を気にしていたのは、処刑を回避できるのが俺といるときの彼女だからだろう。
 色々な状況を見たようだし、やはり乙女ゲーム中心の夢なんだろうな。

 せめて彼女がもう少し、前世が日本人であり、いまは前世で流行った異世界転生をしているという事実を正しく理解できる程度に記憶を取り戻してくれていたなら、もう少しなんとかできたんだけれどね。

「すべて、ただの、夢だとおっしゃるのですか……っ」

 コーネルベルト公爵令嬢が、胸に手を当てて涙ぐむ。
 そして――気を失った。

「やはり、こうなってしまったね……」
 
 彼女を抱き止めた兄が、涙を堪えて呟く。
 婚約を白紙にする決定打はこれだ。
 
 コーネルベルト公爵令嬢は、夢と現実の区別がつかなくなり、限界を超えると気を失うようになってしまった。
 断片的な前世の記憶が、彼女を苛みすぎた。
 特に最近は、気を失うことが多く、これでは王太子妃として政務をこなすのは無理だろうと判断されたのだ。
 
「レクイエス。王位は」
「継がないよ?」

 兄の言葉に、俺は即座に否定する。
 俺は、俺の婚約者を愛しているからね。

 リゼ――リゼリアは、ジュネラ侯爵家の跡取り娘だ。
 ジュネラ侯爵家にはリゼリアしか子供はいない。
 俺はリゼの婿養子予定だ。

「だが……」

 この状況でも、兄はまだコーネルベルト公爵令嬢を諦めきれないのだろう。
 まぁ、わかる。
 普段はまともなんだよ、彼女。
 性格だって、前世の記憶がほんの一部の断片的なものだったせいか、以前と変わってない。
 公爵令嬢という地位に奢ることなく、兄と共に切磋琢磨してきたのだ。
 
 兄が、何度も後悔していることはよくわかっている。 
 彼女のために探し出した、彼女の瞳の色そっくりな翡翠。
 それを見せる為だけに、突然公爵家にいってしまったことを、ずっとずっと悔いている。

 けれどそれだって、コーネルベルト公爵令嬢が自分の瞳の色を気にしていたからだ。
 エメラルドほど鮮やかではなく、スピネルほど透明感もなく。
 柔らかな色合いの翡翠色の瞳を、あまり好いてはいなかった。

 兄はそんな彼女のすべてが好きだったから、同じ色の石を彼女に贈ろうとしたのだ。
 すべては、運が悪かったのだとしか言いようがない。
 ないんだけど……。
 あぁ、もう!

「あのさ。白紙にはなったけれど、まだあきらめる必要はないんじゃないかな」
「父が許すとは思えない」
「このままなら無理だろうけれど、学園を無事に卒業しさえすれば、コーネルベルト公爵令嬢も落ち着くはずだよ。そうすれば、改めて婚約を申し込めばいい」

 断片的な前世の記憶はほぼすべてこの学園内の事。
 つまり卒業してここを離れれば、夢と現実で混乱することは治まるはず。
 
 大々的な婚約破棄などしていないし、コーネルベルト公爵家と陛下の間ではもう婚約は解消されてしまっているが、まだ知らない者の方が多いはず。

「それは、だが、そんなことができるだろうか……」
「できるかどうかじゃない、やるんだ。陛下を認めさせるだけの功績を、作り上げよう。俺は協力を惜しまない」

 あんまりね、兄より目立つことはしたくなかったから、前世の記憶を活用していない。
 こっそり、商会たちあげて金を稼いでいる程度。
 だから、その知識を有効活用すれば、功績なんてすぐに作れるだろう。

 もともと非の打ちどころのない優秀な兄なのだから、多少気を失いやすい王太子妃であってもフォローできると周りに思わせるぐらい、出来るはず。
 俺だってリゼと引き離されたらと思うと発狂しそうだしね。

「そうか……まだ、希望は残っているんだな」

 兄のコーネルベルト公爵令嬢を抱きしめる腕に、力が籠る。
 これから忙しくなりそうだが、先ほどまでの絶望感は綺麗に払拭されている。
 きっと、二年もしないうちに、二人の幸せな結婚式を見られるだろう。
 俺は軽ーく伸びをして、その場を後にした。
 
  
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