初恋の呪縛

泉南佳那

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5・忘れられなくてもかまわない

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 その様子を見て、室長は苦笑した。

「ずいぶんビジネスライクだな」
「すみません。こういうの、慣れていなくて」

 彼は手を叩いて店の人を呼ぶと、お酒のおかわりを頼んだ。

「まあ、いいよ。君らしくて。なんにしても嬉しいな。さ、改めて乾杯しよう」

「はい」
 室長は表情を和らげ、いつもの様子に戻った。

「そんなに緊張するなって。こうして一緒に過ごす時間を持って、ゆっくり関係を深めていこう」
 すべてを包み込んでくれるような、温かい笑顔。
「はい。室長、ありが……」

 そう言いかけたわたしを彼は遮った。 

「ただし、ふたりのときは“室長”はなし。“千隼”と呼んでほしいな」

「そ、そうですね。会社じゃないんだし……」
 そうは言っても、なかなかすぐには切り替えられそうにないけれど。

「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」

 引き戸を開け、暖簾をくぐって表に出ると、外は思いのほか暗かった。

  表通りの喧騒とは違い、この通りに人影はなく、静寂に包まれている。

「朱利」
「はい」

 朱利と呼ばれて、落ち着かない気分になる。

 なんのためらいもなく、彼はわたしの名前を呼ぶ。

 わたしも呼べるだろうか。
 これから、こんなふうに室長のことを……

 彼は立ち止まり、わたしの肩に手をおいた。
 彼の瞳は、夜陰のなかでも誘いかけるように艶めいていた。

「朱利……僕が忘れさせてあげるから、都築のことは」

 その手がわたしの腰に回り、そのまま抱き寄せられた。

 トレンチコートに頬が触れ、その冷たさにぴくっとする。

「ち……千隼さん」
 思わず口にした彼の名。

 彼は腕の力を少し弱め、わたしの顔を覗き込むと口元をほころばせた。

「嬉しいな。そう呼んでくれて」

 そして、わたしの前髪を指先でそっと払うと、額に口づけた。
「ようやく願いが叶った。好きだよ……朱利」

 彼の指がわたしの顎を捉える。
 それから、唇がゆっくり近づいてくる。

 まるで選択の余地を残してくれているかのように、ゆっくりと。

 わたしは……目を閉じるほうを選んだ。

 彼の唇は少し遠慮がちに、わたしの唇に触れた。

 その感触に教えられた。
 本当に、この人と付き合うことになったんだと。

 でも、これが正解だと思う。
 わかってはいたのだ。

 都築を想うことは、海で落としてしまったピアスを探し出そうとするほど、無駄なことだと。

 でも、わたしひとりでは、どうしても掛け違えたボタンを外すことができなかった。

 だから、彼に、千隼さんに掛けなおしてもらうしかない。
 それがとても身勝手な考えだとわかってはいたけれど。

 それからわたしたちは日を置かずに、デートを3度重ねた。
 
 そして、その3度目の夜。

 わたしははじめて千隼さんの部屋で共に過ごした。

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