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67 春衣の死
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もう一滴の水も喉を通ることはないだろうと、陸慶明はやせ細った春衣の脈を測る。特に持病もなく、健康的だった春衣は、息子の貴晶を産んだ後見る見るうちに病に伏していった。最初、虚弱であった貴晶は今ではふっくらとし始め、食も太くなってきた。そのことを話すと、やせこけた頬が緩み、春衣は目頭が下がった。
「そなたももう少し口に何か入れられたら良いのだが……」
「いえ。もう充分です」
「何か欲しいものはないか?」
何を与えてももう意味がないと知りつつも、慶明は春衣に尋ねる。
「何も……」
「そうか……」
「旦那様。お仕事にいかなくて良いのですか?」
春衣は慶明がここ数日、医局に向かわないことを心配する。
「そなたの看病を私以外にできるものか」
慶明は苦笑して答えると、春衣が不思議そうな目で慶明を見つめてきた。
「どうした?」
「いえ。旦那様、聞いてもいいですか?」
「ん? 何をだ」
「晶鈴様のことです」
「晶鈴?」
「ええ、晶鈴様をどう思ってらっしゃるのですか?」
「どう?とは?」
何を聞いてきているのか、さっぱり慶明にはわからなかった。
「まだ愛しておいでなのですか?」
「え?」
「星羅さまはどうです?」
春衣はあえぎあえぎ質問してくる。
「春衣。一体何を言っているのだ。晶鈴は確かに若いころ好いておったが、思い出にすぎぬ。星羅は、そう、いわば姪のようなものだ」
慶明の言葉を聞き、春衣はほぉーっと息を吐く。
「ずっとそんなことを考えておったのか」
「すみません」
「絹枝と一緒になって20年近くになる。お互いに恋をしたわけではないが、大事に思っている。もちろん春衣、そなたのこともきっかけはどうであれ、大事な妻だ。晶鈴は入る余地などないのだよ」
ずっと水分をとっていない春衣の目が涙で光るのが見えた。
「ずっとずっとお慕いしてました。でも旦那様のお心には晶鈴様しかいないのだと思って」
「春衣……」
「ほんとうはずっと我慢するつもりでしたが、星羅さまが晶鈴様にどんどん似てきて……」
「私を慕ってくれていたならもっと早く言ってくれたらよかったな。春衣。そなたのことは私も若いころから利発でかわいらしいと思っていたよ」
「もう、満足です。こんなに側にいてくれて……。卑屈にならずに素直でいればよかった……」
「もうよい」
春衣は今更ながら、使用人頭の時も、側室に入った時も大事にされていたことに改めて気づく。慶明は家のことで何かあれば、真っ先に春衣に相談していた。着るもの、食べるもの、住まい、調度品、使用人や庭に植える植物まで。
側室になってからは、寝台をもっと重厚で趣味の良いものに変え、絹枝が関心を示さない装飾品を一緒に選んだりした。
「名前通り、そなたは明るい色の着物が良く似合っていたな」
一瞬だけ春衣の頬が朱に染まった気がした。
「旦那様。貴晶を、お願いします」
「ああ、貴晶はきっと立派に、私の――春衣?」
最後の言葉まで聞かずに春衣はこと切れた。口元がわずかに笑んでいる。慶明はがっくりと頭を垂れる。晶鈴にこだわっていたのは、自分だけではなかったのだ。春衣にはそれが伝わっていたのだろう。言葉では思い出と言ったが、春衣の問いは的を射ていた。
細く骨っぽい春衣の手を握り慶明はつぶやく。
「春衣。すまなかった」
もっと早く彼女の気持ちに気づき、側室に迎えていれば、難産にも耐えられたかもしれない。または難産にならなかったかもしれない。
慶明は春衣が、妻の絹枝と、星羅の命を狙ったことは知らない。罪悪感と正義感の狭間で苦しみ、独りよがりな愛憎で心をむしばみ、健康を害していたことを知る由もなかった。幸か不幸かそのおかげで、彼が春衣に負の感情を抱くことはなかった。
「そなたももう少し口に何か入れられたら良いのだが……」
「いえ。もう充分です」
「何か欲しいものはないか?」
何を与えてももう意味がないと知りつつも、慶明は春衣に尋ねる。
「何も……」
「そうか……」
「旦那様。お仕事にいかなくて良いのですか?」
春衣は慶明がここ数日、医局に向かわないことを心配する。
「そなたの看病を私以外にできるものか」
慶明は苦笑して答えると、春衣が不思議そうな目で慶明を見つめてきた。
「どうした?」
「いえ。旦那様、聞いてもいいですか?」
「ん? 何をだ」
「晶鈴様のことです」
「晶鈴?」
「ええ、晶鈴様をどう思ってらっしゃるのですか?」
「どう?とは?」
何を聞いてきているのか、さっぱり慶明にはわからなかった。
「まだ愛しておいでなのですか?」
「え?」
「星羅さまはどうです?」
春衣はあえぎあえぎ質問してくる。
「春衣。一体何を言っているのだ。晶鈴は確かに若いころ好いておったが、思い出にすぎぬ。星羅は、そう、いわば姪のようなものだ」
慶明の言葉を聞き、春衣はほぉーっと息を吐く。
「ずっとそんなことを考えておったのか」
「すみません」
「絹枝と一緒になって20年近くになる。お互いに恋をしたわけではないが、大事に思っている。もちろん春衣、そなたのこともきっかけはどうであれ、大事な妻だ。晶鈴は入る余地などないのだよ」
ずっと水分をとっていない春衣の目が涙で光るのが見えた。
「ずっとずっとお慕いしてました。でも旦那様のお心には晶鈴様しかいないのだと思って」
「春衣……」
「ほんとうはずっと我慢するつもりでしたが、星羅さまが晶鈴様にどんどん似てきて……」
「私を慕ってくれていたならもっと早く言ってくれたらよかったな。春衣。そなたのことは私も若いころから利発でかわいらしいと思っていたよ」
「もう、満足です。こんなに側にいてくれて……。卑屈にならずに素直でいればよかった……」
「もうよい」
春衣は今更ながら、使用人頭の時も、側室に入った時も大事にされていたことに改めて気づく。慶明は家のことで何かあれば、真っ先に春衣に相談していた。着るもの、食べるもの、住まい、調度品、使用人や庭に植える植物まで。
側室になってからは、寝台をもっと重厚で趣味の良いものに変え、絹枝が関心を示さない装飾品を一緒に選んだりした。
「名前通り、そなたは明るい色の着物が良く似合っていたな」
一瞬だけ春衣の頬が朱に染まった気がした。
「旦那様。貴晶を、お願いします」
「ああ、貴晶はきっと立派に、私の――春衣?」
最後の言葉まで聞かずに春衣はこと切れた。口元がわずかに笑んでいる。慶明はがっくりと頭を垂れる。晶鈴にこだわっていたのは、自分だけではなかったのだ。春衣にはそれが伝わっていたのだろう。言葉では思い出と言ったが、春衣の問いは的を射ていた。
細く骨っぽい春衣の手を握り慶明はつぶやく。
「春衣。すまなかった」
もっと早く彼女の気持ちに気づき、側室に迎えていれば、難産にも耐えられたかもしれない。または難産にならなかったかもしれない。
慶明は春衣が、妻の絹枝と、星羅の命を狙ったことは知らない。罪悪感と正義感の狭間で苦しみ、独りよがりな愛憎で心をむしばみ、健康を害していたことを知る由もなかった。幸か不幸かそのおかげで、彼が春衣に負の感情を抱くことはなかった。
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