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一章
挿話 幸せの足音2
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朝食を済ませた二人は、県内にある大型ショッピングモールに出かけることになった。
目的はダイニングテーブルの購入だ。
永瀬の家にはセンターテーブルしかなく、これから二人で過ごすことを考えたらもう少し広いテーブルがいいねという話から、それならキッチンカウンターからすぐ料理を出せる場所に置けるものがいいのでは、となったのだ。
そうと決まれば、まずはその準備を整えなければならないが、化粧道具も替えの服も持ってきていない。
同じ服を連日着ることに抵抗があると永瀬に伝えたところ、近くにドラッグストアと大手アパレルブランドのチェーン店があるので車を出してくれるという。
その言葉に甘えることにした香澄は、ドラッグストアで化粧品を購入し、次に向かったアパレルショップでワンピースにタイツ、それからルームウェアを購入しようとしたのだが――ルームウェアを手に取ったところで、永瀬から待ったがかかった。
曰く、自分の服を貸すからルームウェアを買う必要はない、というのが彼の意見らしい。
しかし彼の服は香澄にとっては大きすぎるし、ふとした瞬間に汚してしまいそうで怖い。
そのことを必死に訴えたのだが、彼は頑として頷いてくれなかった。
交渉の末、今夜も一緒にお風呂に入ることで――それも時間差ではなく同時がいいと彼は拘った――ようやく妥結したのだが、香澄が頷いた直後から永瀬は明らかに上機嫌だ。
結局彼のいいように丸め込まれた気がするのは気のせいだろうか…。
そんなこんなを経てようやく遠出する準備を整えた香澄は、彼の車でショッピングモールに向かった。
土曜日の昼間、しかも関東最大級の広さを誇るモールなだけあって、大勢の人で賑わう店内は真っ直ぐ歩くことも難しい。油断したらすぐ迷ってしまいそうだ。
それでも安心して歩いていられるのは、偏に彼が手を繋いでいてくれるから。
どんな人混みに揉まれようと、この手を離さなければきっと大丈夫――そんな絶対的な安心感を、彼の側では感じる。
時刻は12時過ぎ、まずは昼食をとろうとレストラン街へやって来たところで、香澄は思いがけない二人に遭遇した。
その人物とは…。
「…カスミン!?と永瀬!?」
背後から突然大きな声で名前を呼ばれた二人は、ほぼ同時に振り向いた。そしてその視線の先に捉えたのは。
「町谷先輩…?」
香澄の直属の上司にして永瀬の同期である彼女は、あんぐりと口を開けてこちらを見つめている。
そのすぐ隣には長身の男性が立っているが、察するに、町谷の夫だろう。
確かB社の本部長で自社の大口顧客のはずだが、町谷とは対照的に彼は永瀬たちを見ても驚くわけでもなく、平然としている。
「な…、ど!?ど、ふ…!?」
――なんで、どういうこと?どうして二人が?
驚愕のあまり、町谷はうまく言葉を紡げない。
だがそれは香澄も同じだ。
まさかこれほど広いショッピングモールの、こんな人混みの中で知り合いに会うとは思ってもみなかったのだ。
数メートルの距離で見つめ合うこと数秒、町谷は弾かれたように血相を抱えて香澄のところへ駆け寄ると、その手を取って香澄を問い詰めた。
「まさか…まさか、永瀬にセクハラされてるの!?」
「なんでそうなるんだよ」
うんざり気味に永瀬が言ったものの町谷は完全無視、というかもはや視界にすら入っていないようだ。
「それとも何か弱みを握られて逆らえないとか!?」
「せ、先輩落ち着いて…!違います、あの、実は…私、永瀬さんとお付き合いさせていただいていまして」
香澄は何とか伝えたが、その事実こそ彼女にとって想定外のものだったらしい。
「おおおお付き合いですって!?」
信じられないとばかりに顔を強張らせた町谷に、ゆっくりとこちらへ近づいてきた彼女の夫が後ろから声をかけた。
「――多佳子、レストランの予約に遅れる。先着順のステーキ、早くしないとなくなるよ」
夫の言葉に、彼女ははっと思考を取り戻したようだ。しかしその思考回路はうまく機能していないようで…。
「あっ、そ、そうね。実はこれから等級5の和牛ステーキを食べに行くの。先着10組限定なんだけど、臭みがなくて絶品らくて、しかもステーキソースと塩の食べ比べもできるんだって。昼から最高の贅沢よね、旦那が誘ってくれてこのために朝ごはんも控えめにして…」
よっぽど混乱しているのだろう、香澄達には全く関係のないことまで口にしはじめた。
食道楽の彼女らしいとも言えるが、あまりに脈絡がなさすぎて香澄もどう反応していいやら困り果てている。
「って違う、今はそれどころじゃなくて!いやそれどころでもあるけど…あるんだけど!こっちはこっちで大問題というか!」
「時間。そろそろ行かないと」
可愛い後輩と極上ステーキとどちらを優先すべきか混迷を深めていた町谷だが、夫の催促を受けてようやく心が決まったらしい。
彼女は冷静を取り戻すように一つ大きな息を吐くと、香澄の手を握りなおして尋ねた。
「本当に、嫌なわけじゃないのね?永瀬のことが好きで、それは確かな気持ちなのよね?」
「う…は、はい…」
答えながら、香澄は羞恥に顔が真っ赤になった。
真昼間から人前でなんて恥ずかしい告白をさせられているのだろうか、自分は。
隣に永瀬がいることは当然だが、すぐそこには自社の顧客もいるというのに。
「そうだったの…そういうことなら…仕方ないか…。ええと、その、こ、今度よーく聞かせてもらうから覚悟しなさいよ永瀬!カスミンも、もし何か嫌なことされそうになったら私に連絡してね!?」
一体何を心配しているのか、彼女はそう念押しすると、ようやく香澄の手を離して夫の側へと戻っていった。
それを見送った時、ふと町谷の夫と目が合って、香澄は慌てて一礼した。
彼も微笑み、軽く会釈で応えてくれる。そして何か意味深な頷きを一瞬だけ永瀬に投げると、「それじゃ」と未だ不安顔の町谷を連れて去って行った。
「び、びっくりしたぁ…」
まるで嵐が過ぎ去ったかのような余韻の中で、香澄は呟いた。
驚いたというか、焦ったというか…とにかく、怒涛だった。
「嶋井さんに助けられたな」
いまだ心臓がドキドキしている香澄とは違って、隣の永瀬はさほど動揺していないようだ。
年の功なのか、経験値の違いなのか、そもそもそういう人だからなのか…。
「先輩、大丈夫かな…月曜日が怖い…」
さっきの様子からすると、次に会った時…すなわち月曜日は永瀬とのことを問い詰められるだろう。
反対されることはないと信じているが、納得してもらえるのかは微妙なところだ。
「大丈夫だろ。心配しなくても」
やけに暢気な言葉に香澄は呆れた。なぜそう断言できるのだろう。
「だってさっき先輩、覚悟しろって…」
「さすがの町谷でも、間1日挟めば落ち着くんじゃない?少なくとも香澄は大丈夫。俺は…まあ罵倒されるかもしれないけど、気にしないし。それにあいつにバレるのは想定内、むしろ都合がいい」
「え、どうして?」
「だって町谷は絶対守るから、香澄のことは」
「そうなの…?」
「そうだよ、間違いなく。結構前の話だけど、実は香澄を営業事務に異動させようって話がでたことがある。知ってた?」
「え!?初耳…」
聞き覚えのない話だったので、香澄は目を見開いて永瀬を見上げた。
「やっぱり聞いてなかったか。ま、町谷が頑として了承しなかったしな。総務部長に珍しく猛抗議したって。それくらい手放したくないってことでしょ、香澄のこと。後継者として期待されてる証」
更に永瀬の補足によると、香澄の名前が挙がった理由としては、営業事務の生産性向上や業務改善を狙う目的があったらしい。
日常的に業務課題を見つけては積極的に改善提案をする彼女なので、白羽の矢が立ったのだと。
だが総務の実業務を統括する町谷が断固拒否したため、結局その話は香澄本人に打診すらされないまま流れてしまったようだ。
代わりに近々、品質管理部から専任社員が配置される予定らしい。
もし香澄の異動が実現していたら今頃俺の部下になっていたはずだ、と永瀬は付け足した。
「うそ…町谷先輩…なんか嬉しい」
じわじわと香澄の中にこみ上げる喜び。
目標とする人に認められ、必要とされていると聞いて、気持ちが昂るのを止められない。基本的に自己肯定感が高いほうでもないので、評価されていると知れば、それだけで舞い上がってしまう。
「いや、でも香澄はもう俺のだからね?」
思いがけない事実に香澄が感激していると、永瀬が香澄の手を握って言った。
その言葉の意味を理解しかねて瞬く香澄を、彼はなぜか少し拗ねた顔で見やった。
「町谷がどれだけ香澄のこと大事に思ってても、俺には敵わないから」
「…それ、張り合うところ?」
くすりと笑った香澄だが、彼女を見つめる永瀬の瞳は真剣そのものだ。
「俺はずっと町谷が羨ましかった。香澄と笑って話して、何かあれば頼られて、守ることができて。平たく言えば、嫉妬してたんだと思う。そのどれもが、俺には許されないことばかりだったから」
呟くその表情はどこか切なくて、香澄は胸がぎゅっと締め付けられた。
永瀬が自分に想いを寄せてくれていることを微塵も知らなかったあの頃、彼を好きにならないようするために香澄はなるべく関わらないようにしていた。
顔を見ないように、声を聞かないように。
嫌われたくなかったから、近づかないようにしていたのだ。
だがそれが却って彼を悩ませていたと知ったのは昨夜のこと。香澄はその真実に胸が痛むと同時に、苦しいほどの愛おしさを感じていた。
――ありがとう。そんな風に想ってくれて。
ありがとう、諦めないでいてくれて。想いを伝えてくれて。おかげで今、こうして幸せでいられる。
「…でもキスしたりこうやって手を繋ぐのは、紘司だけ、だから」
絡めた指はそのままで、彼の肩口に頭を寄せる。そうして自分も同じ気持ちであることが伝わるようにと願った。
――過去は変えられなくても、未来は変えていける。
そう教えてくれたあなたに、今度は私が想いを伝えていくから。
どうか受け取って、ずっとずっと傍にいてほしい。
「…うん。だから今は俺でよかったって思ってる。それに町谷じゃ、香澄のエロい喘ぎ声もイク時の蕩けそうな顔も一生知れないもんな」
「ちょ、ちょっと!!」
せっかくいい雰囲気だったのに、全部台無しである。それもこんな大衆の中で、本当に意地が悪い。
もしかしたら、いま横を通り過ぎた人に聞こえてしまったかもしれないではないか。
ほんと信じらんない、と頬を膨らませると、冗談冗談、と永瀬は笑いながら香澄の肩を抱き寄せた。
目的はダイニングテーブルの購入だ。
永瀬の家にはセンターテーブルしかなく、これから二人で過ごすことを考えたらもう少し広いテーブルがいいねという話から、それならキッチンカウンターからすぐ料理を出せる場所に置けるものがいいのでは、となったのだ。
そうと決まれば、まずはその準備を整えなければならないが、化粧道具も替えの服も持ってきていない。
同じ服を連日着ることに抵抗があると永瀬に伝えたところ、近くにドラッグストアと大手アパレルブランドのチェーン店があるので車を出してくれるという。
その言葉に甘えることにした香澄は、ドラッグストアで化粧品を購入し、次に向かったアパレルショップでワンピースにタイツ、それからルームウェアを購入しようとしたのだが――ルームウェアを手に取ったところで、永瀬から待ったがかかった。
曰く、自分の服を貸すからルームウェアを買う必要はない、というのが彼の意見らしい。
しかし彼の服は香澄にとっては大きすぎるし、ふとした瞬間に汚してしまいそうで怖い。
そのことを必死に訴えたのだが、彼は頑として頷いてくれなかった。
交渉の末、今夜も一緒にお風呂に入ることで――それも時間差ではなく同時がいいと彼は拘った――ようやく妥結したのだが、香澄が頷いた直後から永瀬は明らかに上機嫌だ。
結局彼のいいように丸め込まれた気がするのは気のせいだろうか…。
そんなこんなを経てようやく遠出する準備を整えた香澄は、彼の車でショッピングモールに向かった。
土曜日の昼間、しかも関東最大級の広さを誇るモールなだけあって、大勢の人で賑わう店内は真っ直ぐ歩くことも難しい。油断したらすぐ迷ってしまいそうだ。
それでも安心して歩いていられるのは、偏に彼が手を繋いでいてくれるから。
どんな人混みに揉まれようと、この手を離さなければきっと大丈夫――そんな絶対的な安心感を、彼の側では感じる。
時刻は12時過ぎ、まずは昼食をとろうとレストラン街へやって来たところで、香澄は思いがけない二人に遭遇した。
その人物とは…。
「…カスミン!?と永瀬!?」
背後から突然大きな声で名前を呼ばれた二人は、ほぼ同時に振り向いた。そしてその視線の先に捉えたのは。
「町谷先輩…?」
香澄の直属の上司にして永瀬の同期である彼女は、あんぐりと口を開けてこちらを見つめている。
そのすぐ隣には長身の男性が立っているが、察するに、町谷の夫だろう。
確かB社の本部長で自社の大口顧客のはずだが、町谷とは対照的に彼は永瀬たちを見ても驚くわけでもなく、平然としている。
「な…、ど!?ど、ふ…!?」
――なんで、どういうこと?どうして二人が?
驚愕のあまり、町谷はうまく言葉を紡げない。
だがそれは香澄も同じだ。
まさかこれほど広いショッピングモールの、こんな人混みの中で知り合いに会うとは思ってもみなかったのだ。
数メートルの距離で見つめ合うこと数秒、町谷は弾かれたように血相を抱えて香澄のところへ駆け寄ると、その手を取って香澄を問い詰めた。
「まさか…まさか、永瀬にセクハラされてるの!?」
「なんでそうなるんだよ」
うんざり気味に永瀬が言ったものの町谷は完全無視、というかもはや視界にすら入っていないようだ。
「それとも何か弱みを握られて逆らえないとか!?」
「せ、先輩落ち着いて…!違います、あの、実は…私、永瀬さんとお付き合いさせていただいていまして」
香澄は何とか伝えたが、その事実こそ彼女にとって想定外のものだったらしい。
「おおおお付き合いですって!?」
信じられないとばかりに顔を強張らせた町谷に、ゆっくりとこちらへ近づいてきた彼女の夫が後ろから声をかけた。
「――多佳子、レストランの予約に遅れる。先着順のステーキ、早くしないとなくなるよ」
夫の言葉に、彼女ははっと思考を取り戻したようだ。しかしその思考回路はうまく機能していないようで…。
「あっ、そ、そうね。実はこれから等級5の和牛ステーキを食べに行くの。先着10組限定なんだけど、臭みがなくて絶品らくて、しかもステーキソースと塩の食べ比べもできるんだって。昼から最高の贅沢よね、旦那が誘ってくれてこのために朝ごはんも控えめにして…」
よっぽど混乱しているのだろう、香澄達には全く関係のないことまで口にしはじめた。
食道楽の彼女らしいとも言えるが、あまりに脈絡がなさすぎて香澄もどう反応していいやら困り果てている。
「って違う、今はそれどころじゃなくて!いやそれどころでもあるけど…あるんだけど!こっちはこっちで大問題というか!」
「時間。そろそろ行かないと」
可愛い後輩と極上ステーキとどちらを優先すべきか混迷を深めていた町谷だが、夫の催促を受けてようやく心が決まったらしい。
彼女は冷静を取り戻すように一つ大きな息を吐くと、香澄の手を握りなおして尋ねた。
「本当に、嫌なわけじゃないのね?永瀬のことが好きで、それは確かな気持ちなのよね?」
「う…は、はい…」
答えながら、香澄は羞恥に顔が真っ赤になった。
真昼間から人前でなんて恥ずかしい告白をさせられているのだろうか、自分は。
隣に永瀬がいることは当然だが、すぐそこには自社の顧客もいるというのに。
「そうだったの…そういうことなら…仕方ないか…。ええと、その、こ、今度よーく聞かせてもらうから覚悟しなさいよ永瀬!カスミンも、もし何か嫌なことされそうになったら私に連絡してね!?」
一体何を心配しているのか、彼女はそう念押しすると、ようやく香澄の手を離して夫の側へと戻っていった。
それを見送った時、ふと町谷の夫と目が合って、香澄は慌てて一礼した。
彼も微笑み、軽く会釈で応えてくれる。そして何か意味深な頷きを一瞬だけ永瀬に投げると、「それじゃ」と未だ不安顔の町谷を連れて去って行った。
「び、びっくりしたぁ…」
まるで嵐が過ぎ去ったかのような余韻の中で、香澄は呟いた。
驚いたというか、焦ったというか…とにかく、怒涛だった。
「嶋井さんに助けられたな」
いまだ心臓がドキドキしている香澄とは違って、隣の永瀬はさほど動揺していないようだ。
年の功なのか、経験値の違いなのか、そもそもそういう人だからなのか…。
「先輩、大丈夫かな…月曜日が怖い…」
さっきの様子からすると、次に会った時…すなわち月曜日は永瀬とのことを問い詰められるだろう。
反対されることはないと信じているが、納得してもらえるのかは微妙なところだ。
「大丈夫だろ。心配しなくても」
やけに暢気な言葉に香澄は呆れた。なぜそう断言できるのだろう。
「だってさっき先輩、覚悟しろって…」
「さすがの町谷でも、間1日挟めば落ち着くんじゃない?少なくとも香澄は大丈夫。俺は…まあ罵倒されるかもしれないけど、気にしないし。それにあいつにバレるのは想定内、むしろ都合がいい」
「え、どうして?」
「だって町谷は絶対守るから、香澄のことは」
「そうなの…?」
「そうだよ、間違いなく。結構前の話だけど、実は香澄を営業事務に異動させようって話がでたことがある。知ってた?」
「え!?初耳…」
聞き覚えのない話だったので、香澄は目を見開いて永瀬を見上げた。
「やっぱり聞いてなかったか。ま、町谷が頑として了承しなかったしな。総務部長に珍しく猛抗議したって。それくらい手放したくないってことでしょ、香澄のこと。後継者として期待されてる証」
更に永瀬の補足によると、香澄の名前が挙がった理由としては、営業事務の生産性向上や業務改善を狙う目的があったらしい。
日常的に業務課題を見つけては積極的に改善提案をする彼女なので、白羽の矢が立ったのだと。
だが総務の実業務を統括する町谷が断固拒否したため、結局その話は香澄本人に打診すらされないまま流れてしまったようだ。
代わりに近々、品質管理部から専任社員が配置される予定らしい。
もし香澄の異動が実現していたら今頃俺の部下になっていたはずだ、と永瀬は付け足した。
「うそ…町谷先輩…なんか嬉しい」
じわじわと香澄の中にこみ上げる喜び。
目標とする人に認められ、必要とされていると聞いて、気持ちが昂るのを止められない。基本的に自己肯定感が高いほうでもないので、評価されていると知れば、それだけで舞い上がってしまう。
「いや、でも香澄はもう俺のだからね?」
思いがけない事実に香澄が感激していると、永瀬が香澄の手を握って言った。
その言葉の意味を理解しかねて瞬く香澄を、彼はなぜか少し拗ねた顔で見やった。
「町谷がどれだけ香澄のこと大事に思ってても、俺には敵わないから」
「…それ、張り合うところ?」
くすりと笑った香澄だが、彼女を見つめる永瀬の瞳は真剣そのものだ。
「俺はずっと町谷が羨ましかった。香澄と笑って話して、何かあれば頼られて、守ることができて。平たく言えば、嫉妬してたんだと思う。そのどれもが、俺には許されないことばかりだったから」
呟くその表情はどこか切なくて、香澄は胸がぎゅっと締め付けられた。
永瀬が自分に想いを寄せてくれていることを微塵も知らなかったあの頃、彼を好きにならないようするために香澄はなるべく関わらないようにしていた。
顔を見ないように、声を聞かないように。
嫌われたくなかったから、近づかないようにしていたのだ。
だがそれが却って彼を悩ませていたと知ったのは昨夜のこと。香澄はその真実に胸が痛むと同時に、苦しいほどの愛おしさを感じていた。
――ありがとう。そんな風に想ってくれて。
ありがとう、諦めないでいてくれて。想いを伝えてくれて。おかげで今、こうして幸せでいられる。
「…でもキスしたりこうやって手を繋ぐのは、紘司だけ、だから」
絡めた指はそのままで、彼の肩口に頭を寄せる。そうして自分も同じ気持ちであることが伝わるようにと願った。
――過去は変えられなくても、未来は変えていける。
そう教えてくれたあなたに、今度は私が想いを伝えていくから。
どうか受け取って、ずっとずっと傍にいてほしい。
「…うん。だから今は俺でよかったって思ってる。それに町谷じゃ、香澄のエロい喘ぎ声もイク時の蕩けそうな顔も一生知れないもんな」
「ちょ、ちょっと!!」
せっかくいい雰囲気だったのに、全部台無しである。それもこんな大衆の中で、本当に意地が悪い。
もしかしたら、いま横を通り過ぎた人に聞こえてしまったかもしれないではないか。
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