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第二章 長い長い初夜
19 女中たちの信頼と懸念
しおりを挟むそれなのに、立ち上がったロレンツィオは遠慮ない足取りで、フェリータのいる寝台へ近づいてきた。
「知るか、あんたは自ら沼に突っ込んでいって身動き取れなくなってるだけだろ。俺なんて完全に巻き込まれた被害者だってのに」
目当ては寝台横のチェストに乗った灰皿だった。煙草を押しつけながら吐き捨てられた言葉に、フェリータも黙ってはいられなくなる。
「呆れた、自分の行いをもうお忘れに? 彼の心変わりにはあなたにも責任があるのに!」
「まだ寝ぼけてるのかよ、確かに俺は場所を用意したけどそれだけでそそのかしたわけじゃない。あいつの変心の理由だって知らない。残念なことに、おまえを捨ててオルテンシアに乗り換えたのは正真正銘あいつ自身の問題だろ」
最後の一言は確かにそうだが、それを言うのがこいつであっていいはずない。
フェリータがガウンの端をぐっと掴んで睨みつける。自分では知らずとも、赤い瞳を取り囲む白目も充血しているものだからはたから見ると大層な迫力が備わっていた。
しかしそれを、ロレンツィオは平然と、嫌そうに受け止めて畳みかけた。
「だいたい、なんで奴に直接理由を聞いてない? 水のない運河に飛び込むほど未練があるなら、最初に婚約解消を言われたときしがみついて殴ってでも問いただせばよかったし、それこそさっき中庭で聞けばよかったじゃないか。それもしないで、あんたは責める相手と見栄張る場所間違えてんだよ」
「っ、それは……」
抜け出したことまで知られていたのかと、ばつの悪さに拍車がかかる。
言葉に詰まって視線を外したフェリータに、しかしロレンツィオは容赦しない。
「なんだよ」
「……本人が話したがらないこと、あんまり問いただすのは失礼ですもの」
嘘だ。そんな理性的な理由で思いとどまったわけではない。
「失礼って単語の意味が世の中とぺルラ家では違うらしいな」
「なんですって!」
反射で顔を上げれば、思ったよりずっと険しい視線に顔面を射抜かれた。
静かな怒りを前にして言葉に詰まったフェリータに、ロレンツィオの言葉が牙をむく。
「婚約者同然だったんだろ? あいつと結婚するつもりで他の男になんか見向きもしなかった、顔を覚える気もなかった、婿候補を他にも選ぶなんて思いもしなかった。いつでもどこでもあいつと腕組んでベッタベタベッタベタ、もし俺とこうなってなかったら縁談は難航したかもな、後釜はぺルラからも周りからもリカルドと比べられる上、令嬢本人は傷物の可能性がゼロじゃないわけだから。……違う、話がそれた」
「許します、続けなさい」
「座れ、そして灰皿を置け。だから言いたいのは、この件に関してあんたは一番リカルドに対して遠慮する必要がないだろうってことだ。それを何をかわいこぶって黙り込んで。しかもそれで諦めるならともかく、お門違いのところに八つ当たりしやがって」
ずっしりとした灰皿を持つ手首ごと掴まれ、力づくでチェストの上に戻される。悔しさに任せてフェリータは声を荒げた。
「聞いたわ、ついさっき、聞こうとしたわわたくしだって! でも」
「でも?」
『急な報告になったことを根に持ってるんだ』
『僕とフェリータ、ちゃんとした婚約はしてなかったし』
思い起こされた、リカルドの不満そうな顔。苦しくなった自分。
「……彼が、不機嫌になったから」
「お前リカルド怒らすと死ぬ呪いでもかかってんのか」
皮肉気に笑われて、フェリータの頭の奥がカッと熱を帯びた。
そんなことをそんな風に言われて、今のフェリータがどれほど傷つくと思っているのか。確かに迷惑をかけているが、男が全く無関係であるはずもないのに。
何より、正論ぶった言葉の端々から、フェリータを傷つけたいという悪意が透けて見えているのが一等許しがたかった。
「そうね、そうおっしゃるのも無理はありませんわね、あなたにはわからないでしょうから! お金はあっても歴史と責任はない家に生まれ、将来を誓った恋人も婚約者もなく、見た目だけご婦人方にもてはやされてチャラッチャラチャラチャラ不真面目に遊んできたんでしょうあなたに、この人にだけは絶対に失望されたくないと思う気持ちなんて!!」
最後は悲鳴のように上擦り、掠れた。
肩で息をするフェリータに、しかし男は同じだけの激しさを向けようとはしなかった。
「リカルドにもわからなかったようだな」
***
部屋の中から、パンっと乾いた音がして、廊下で耳をそばだてていた使用人たちは顔を見合わせた。
この屋敷にはカヴァリエリ家に忠実な使用人しかいない。先代夫妻が別邸を購入してそこへ移り、年若い一人息子が主人となったあとも、忠誠心に陰りはない。
いつか素敵な花嫁を連れてくるのだろうとその日を一同心待ちにしていた。
その主人が、三日前突然婚約した。
今日式を挙げた。
そして数十分前、明らかに放心状態の花嫁を連れ込んで、部屋に鍵をかけてしまった。
「……大丈夫よ、あのご主人様だもの」
年配の女中の言葉に、他の女中たちも口々に同意する。
「そう、男前で頼りになってユーモアがあって、寛大な方」
「やんちゃなさってたのは十代の頃だし」
「その頃だって女性には手を上げたことなかったわ」
「あの頃は剣術一辺倒だったけれど、大旦那様に引きずられて初めて王宮に上がったあとからは人が変わったように魔術修練にも真面目に取り組まれるようになって、とうとう国王様のもとで働くようになって」
泉のように湧き出る主人自慢に誰もが頷いた。
「でも奥様って、ぺルラ家のお嬢様なんですよね?」
一人の若い女中が何気なく放った、その一言までは。
水を打ったように静まり返った廊下に、その女中の心配げな声だけが続く。
「あの厳格な大旦那様が当主だった頃“嫌味ったらしいピンク頭のクソジジイ”って吐き捨てて壁殴っては大奥様にこっぴどく叱られたり、代替わりした後のロレンツィオ様が“あの親にしてこの娘ありかよ呪われた血族じゃねぇか腐れ苺族”って怒鳴って窓叩いて勢いで割っちゃって大奥様にドッきつく叱られたりと、とにかくこの家のご当主方とは相性が悪いあのぺルラ家の、お嬢様なんですよね?」
記憶の中の、らしくないほど荒ぶる当主父子。それよりさらに荒れ狂う女主人。
そしてついさっきの、不機嫌な主人の声。花嫁のピンクの髪。鍵の閉まる硬質な音。
一転して黙り込んだ使用人たちの中、とうとう一番年かさの女中が意を決し、扉に拳の甲を向けた。
その瞬間、部屋の中から激しい靴音が近づいてきて扉の方が勝手に開いた。驚く使用人たちの目の前に、青いガウンを羽織った女がピンクの髪を振り乱して飛び出してくる。
唖然とする使用人たちに見向きもせず、女は廊下の先の階段を鹿のように駆け下りていった。
「あ、あれ奥様!?」
「っ、おまちくださ」
「ほっとけ!」
間髪入れず飛んできた怒声は主人のもの。その頬には、できたばかりの赤い腫れがじんわりと浮かび上がっている。
女中たちは遠ざかる足音の方向と苦々しい主人の顔を見比べた。
「……一人になりたいんだろ、ほっといてやれ」
追加された言葉に互いに目を見合わせ、それからこっそり部屋の中の様子――主に寝台周りに目を凝らす。
存外きれいであることに安堵すると、女中たちは打って変わってそそくさと解散した。
「ま、ご主人様だもの。私はなんの心配もしていなかったわ」
「当然よ、ご主人様だもの。懐かしいわ、魔術師じゃなくて騎士の末裔だと言っては大旦那様と大喧嘩して」
「ご主人様と若奥様の身長差を見た? あんなお人形みたいな花嫁さんに、無体なんて働けるわけがないのよ」
やれ自分こそ主人を信じていたとアピールし合う女中たちの中で、また若い女中だけ、誰にともなくつぶやいた。
「奥様、あのまま宴会場に戻って大丈夫なんでしょうか。ドレスちょっと胸元危なげだったけど」
「……」
沈黙し、そっと部屋を振り返った女中たちへ「持ち場に戻れ!」と自慢の主人の叱責が飛んだ。
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