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第二章 長い長い初夜
27 これが世にいう
しおりを挟むリカルドが閉じた扉をヴァレンティノがもう一度開け、聞き耳を立てようとしていた残兵にコーヒーを言いつけている。
そんなやり取りの手前で、つけたばかりの煙草をくわえ、何かに耐えるように渋い顔で目を閉じている男がいる。
それを、フェリータは不思議なものを見るように、遠目に観察していた。
――別に、フェリータはうなだれた煙草男や、隣で言葉を選びあぐねている王太子を追い詰めるつもりで言ったわけではない。
ただ、突きつけられた現実に、まだ理解が追いついていないだけだ。
(ロレンツィオ・カヴァリエリが、わたくしを好き?)
五年も前――フェリータが頻繁に王宮に出るようになった頃から?
敵対的だったのは、リカルドとの仲に嫉妬していたから?
だからこの男にとって、自分との結婚は『フェリータがリカルドをまだ好きだから辛い』ものであり――。
「……殿下に聞くな」
――同時に、『まんざらでもない』?
「さっきの話聞いてたんなら、ヴィットリオ殿下だってついさっき知ったんだってことはわかるだろう。困らせるんじゃない」
ロレンツィオの押し殺したような声に、フェリータは我に返った。
さっきまで廃人寸前だったのに、煙草をくわえ、前髪を一回手櫛で乱した男は、二度目の火薬を耐えられるぐらいには吹っ切れた様子だった。
ふぅ、と煙が吐き出され、空気に溶けていく。
「そうだよ好きだったんだよ。これで満足か」
ロレンツィオが睨み、フェリータの赤い目が見開かれ、固まる。
夫が妻に好きだと言っただけとは思えない緊張感で応接室が満たされる。
「ロレンツィオ、さっき言ったことを忘れてなかろうな? 優しく、だぞ」言いながら、ヴィットリオは涼しい顔でフェリータの肩から自分の手を退かし、さりげなく一歩離れた。
――これからはなるべくフェリータに優しくしてやれ。
ロレンツィオの、幸福な結婚に免じて。
「……つまり、この結婚で本当に苦しんでいたのはわたくしだけって、こと?」
口紅のはげた小さな口が漏らした言葉に、一同の中に困惑が広がった、次の瞬間。
突然、部屋の中央のテーブルがフワッと宙に浮き、ぐるんと上下逆さまになった。
「!!」
落ちてきた人形の頭を、青ざめたロレンツィオがすんでのところで受け止め、舞い落ちる紙束をヴァレンティノが焦ってかき集めようとする。
「っぶな、おい何してんだバカ女!」
「降ろせっ、ゆっくり降ろすんだフェリータ!」
「ロレンツィオそれ火気をつけろよ!?」
ロレンツィオに怒られ、王太子になだめられ、ロレンツィオがヴァレンティノに怒られていても、テーブルは浮き上がったまま降りてこようとはしない。
フェリータも焦り、心を落ち着かせようとした。
だが遅れて襲来した混乱が、高波のように心の内をひっくり返して何もかもめちゃくちゃにしている。
ロレンツィオが自分を好きだった。
じゃあ『巻き込んでしまった』なんて罪悪感、爪の先ほども感じる必要なんてなかったのだ。諸悪の根源と痛みわけだなんて思ったのは自分だけだった。
それについて、一体どう言い表したらいいのかわからない感情が、フェリータの全身を支配していた。最初に感じたのは腹立たしくて悔しいような気持ちだ。でもどこか勝ち誇ったような、それでいて嫌でたまらないような、でも誰かに聞いてほしいような気持ちがどんどん湧き出してくる。
とにかく落ち着かない。落ち着けない。
白い手がとっさに何かを捜すように胸元をさまようが、レリカリオのないそこには着崩れかけたドレスの生地しかなかった。
赤くなったり青くなったり目を丸くしたりわなわなと震えたり。風に煽られた旗のように忙しないフェリータに、しびれを切らしたロレンツィオがしかめ面で一歩踏み出したとき。
「フェリータ」
パンッと手を打ち鳴らす音に、赤い目がハッと焦点を取り戻す。
舞い上がった埃のように宙を漂っていたテーブルも、ぴたりと止まった。
「ひっくり返して、そう、そして降ろす」
リカルドの淡々とした誘導に従って、上下逆さまになっていたテーブルは再びゆっくりと回転し、足を下にして絨毯の上へ静かに降りてきた。
「はい、落ち着いたねフェリータ」
「リカルド、ご、ごめんなさ、あなたのほうがよっぽど辛いときに、わたくしこんな……」
「大丈夫、疲れてるんだよ。そろそろ迎えも到着するはずだし、もう帰った方がいい」
幼馴染みの苦笑を目にした瞬間、心が凪いだ。
足は勝手に動いていた。
同時に、室内の空気が凍った。
フェリータが、止める間もないスピードでリカルドの胸へ飛び込んでいってしまったからだ。
立ち尽くしていた夫の横を素通りして。
「……そう、そうね、疲れたわ。わたくしたちはもうお暇させていただきましょう」
その言葉に、明らかに顔色を変えたのはヴィットリオだった。が、怒りもあらわな顔で「人の妻の身で何考えてる」と叱責するより、コンコン、とノックの音が響く方が早かった。
「畏れながら、フェリータお嬢様のお迎えに上がりました」
聞き慣れた声に、フェリータが「まぁ、グィード!」と声を上げて扉へと飛びつく。開けた先に立っていたのは、父がつけてくれた寡黙な護衛騎士だった。
見慣れた無表情に、安心感がどっと押し寄せる。
「ああ、会うのは昨日の朝以来なのに、なんだかとっても懐かしい気がしますわ! 昨夜出かけるときもお前を連れて行けばよかった、そうすればきっと人助けしたら痴女扱いで捕まるなんてばかげたことも起きなかったでしょうに!」
濃い茶髪の騎士は飛びついてきた『元主人』にも、異様な部屋の空気にも臆することなく「はいお嬢様。至らず申し訳ございません」とからくり人形のように都度都度短く返事した。
「まぁいいわ、それより早く帰って休みましょう、リカルドはきっと公爵夫人にも心配されているでしょうし。それではヴィットリオ様、これにて――」
「待て」
早口で退室の挨拶を済ませようとした女の声を遮る低い声。
カツンと、人形の頭がテーブルの天板に当たる小さな、硬質な音が響き。
ねじが止まったように動きを止めたフェリータの代わりに、「なに?」と返したのはリカルドだった。
じゅっ、と手袋越しの手に煙草が押しつけられ、焦げた匂いと火の消える音がする。
「この状況でペルラ家の騎士が迎えに来るっておかしいだろ」
「うちの騎士がフェリータ送る方が良かった?」
「ややこしさを悪化させんな」
不自然なくらい感情の見えない声とともに、ロレンツィオはリカルドたちに歩み寄ってきた。
静かな声、立ち居振る舞い、なのに醸し出される確かな圧を、リカルドは平然と受け止める。やがて目の前に来た碧眼が自分を見下ろしてきても、緑の目は寸分も揺るがない。
「疲れているんだから、気心知れた護衛騎士をそばに置く方がフェリータのためじゃない?」
「うちの敷地にペルラの騎士は入れさせないが?」
「そもそもグィード呼んだのは、今日は伯爵家に行かせるつもりだったからだよ。こんなことがあったんだからフェリータには慣れたところでゆっくり休む必要があるし、彼女の家族も心配しているに決まってる」
突然始まった舌戦に、ヴァレンティノが二人の間で視線を往復させる。戸口に一番近いところに立ちグィードの胸の前で俯くフェリータは、まんじりとも動かない。
「慣れてなくてもこれからは、うちの屋敷がそこの女の帰る場所で、ぺルラは他人の家だ。心配しているなら俺から舅に便りを出すし、帰省させる必要があると判断した時も同じだ。お前が出る幕じゃない。……人の妻を気遣う優しさで、死にかけた自分の婚約者を見舞ってきたらどうだ」
ロレンツィオの言葉は最後の最後にだけ、滲み出るような怒気が含まれていた。
しばし無言のまま、視線が交錯する。
見かねたように、ヴァレンティノが口を開いた。
「……ロレンツィオ、ここはフェリータ様本人に選ばせるべき」
「いや、カヴァリエリ夫人には自分の家にお帰りいただく」
それを阻み、きっぱりと言い切ったのは廊下から響いた別の声だった。
「パパ……」
憲兵の先導で現れたぺルラ伯爵の姿にフェリータが喘ぐような声を漏らす。
先導してきた憲兵を差し置き、グィードに入り口を譲らせてずかずか部屋に入ってきた小男に、リカルドはわずかに目を瞠った。
「伯爵、でも」
「リカルド、気遣いは結構。……フェリータ」
盟友の言葉を遮り、レアンドロは腫れぼったいまぶたの下の赤い目で、不安げな顔の娘を射抜いた。
「夫のいる身で、他の男と二人きりになるんじゃない。絶対にな」
フェリータは絶句した。
それはかつて、『カヴァリエリと』だった言いつけの決まり文句。
釘を刺したぺルラ伯爵はもう何食わぬ顔で、「殿下、緊急事態により陛下からご指示承りまして――」とヴィットリオに向かって話すばかりだった。フェリータには、見向きもしない。
そんな親子を前に、ヴィットリオはしばらく複雑そうな顔をしていたが。
「よし、ちょうどコーヒーが来たようだ。話を聞こう、レアンドロ殿。他の者は召集まで自宅にて待機せよ。ヴァレンティノ、今宵は大儀であった」
空気が動く。
王太子に向かって一礼したロレンツィオが、フェリータの肩に手を置いて、強い力で部屋の外へ促そうとした。
その矢先。
「……ときに、カヴァリエリ殿」
足を止めたロレンツィオが振り返る。「なんでしょう、伯爵」と、いつも通りの“対ぺルラ”のもったいぶった返しがされる。
「我がぺルラ家から送り出した花嫁の、嫁入り道具を一つ付け忘れておってな。そこな護衛騎士、あの騒々しい屋敷のどこかでも、置いておく場所はあろう?」
「……祖父の日記でも読み上げられてるのかと思いました。もう何十年も前の記録ですが、騎士を人と思わないのは貴家の伝統風習ですかな。――悪いが、騎士なら余ってる。新しい主人を探せ」
後半は黙って立ったままのグィードに向かって吐き捨てられた。
ロレンツィオ、と怒ったように声をかけたヴァレンティノを尻目に、男は青いガウンのかかった華奢な肩を抱き寄せ、部屋を後にした。
しようと、したのだが。
「こ、これが、世に言う『男の嫉妬』……!?」
沈黙を割き、まるで世界の真理を得たかのように零したフェリータに、男の足がぴしりと固まり。
「は? 何言うとるんだお前」
「パ、いえ伯爵、この男、実はねっ」
「帰るぞ!!!」
「パパ実はね!!」
怪訝そうに振り返った伯爵から娘を引き離し、蝶番を壊す勢いで扉を閉じると、男は苛立たしげな足取りで妻を朝日の上る運河の街に引っ張り出した。
***
「…………グィナはもう嫌グィナはもう嫌」
嵐の去った部屋で、ヴィットリオがそっと手を組み乙女のように願いをかける一方。
リカルドは、閉められた扉を瞬きもせずじっと見つめていた。
握りしめた拳を、人知れず震わせて。
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