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第五章 星の血統
57 “星の血統”という呪い 前
しおりを挟む変化はすぐに現れた。男を取り巻く空気が蜃気楼のように歪み、“ロレンツィオ・カヴァリエリ”の全身が、絵具を筆でかき混ぜるように変化していく。
「リカルドは騙せたから、自信あったんですが」
そう話す声も、一音一音ごとに変わっていく。
フェリータはそれを、不愉快極まりないもののように睨み据えた。
「知ってるつもりで、案外知らないものだこと。あの男が、この期に及んでわたくしに謝ったり、“忘れろ”なんて殊勝なこと言ったりするものですか」
あっと言う間だった。フェリータが言い終える頃には、歪んだ空気は霧散し、ここ数日で見慣れた赤茶の髪の貴公子の姿がその場に残された。
穏やかで、真面目で、品の良い好青年――の、ように見える男が。
「“この期に及んで”?」
怪訝そうな薄青の目が繰り返した言葉に、一転、フェリータはむすっとむくれて黙秘を決め込むも。
「……なんだ、そういうことですか。ほだされるの、案外早かったですね」
ふっと笑われ、筒抜けなのが悔しくて、「大きなお世話ですわ」と口角をますます下げた。
「結婚式からほんの何日でしたっけね。あいつの誘いに、嫌がるそぶりでもったいぶった女の中では最短記録かな」
揶揄する言葉に親しみはなく、あるのは心からの嘲りだった。
フェリータは自分の中に出来上がりかけていたヴァレンティノ・チェステの像が、すっかり作り変えられていくのを感じていた。
こちらが本性か。
「選ぶ言葉に気をつけなさって。たとえここがあなたの本拠でも、眼の前にいるのは宮廷付き魔術師」
虚空へと伸ばした白い手に、黒くしなる鞭が現れる。
それを一振り絨毯張りの床に打ち付ければ、人間をゆうに三人は飲み込みそうな幅の黒い穴が生じた。
「なり損ないのまがい物に、太刀打ちできる相手ではありませんことよ」
穴から這いずり出てきた黒と橙のまだら模様の大蛇に、フェリータは酷薄にも見える赤い目を向け鞭を振る。
ゆっくりと鎌首をもたげた大蛇は、長い舌をちらつかせた次の瞬間、床を舐めるように這ってヴァレンティノへと襲い掛かった。
ヴァレンティノは怪物から目を逸らさずに両手を合わせ、ぴんと伸びた指先に向かってふっと息を吐いた。
吐息がそのまま刃になったように、大蛇の頭が真ん中から避けて真っ二つになった。見えない刃はフェリータに至る直前、その体の前に掲げられた白い人差し指と中指がすいっと横に払われるのに合わせて逸れ、あらぬ方向の壁を裂いた。
「……まがい物?」
手を合わせたまま、心外そうに呟く男に、フェリータは「あらあら」とわざとらしくせせら笑った。
二つに裂けた大蛇は、断面が大小の気泡に覆われて、そこがみるみるうちにあらたな皮膚に変わっていった。
ほどなくして、床の上で、見た目がそっくりの二匹の大蛇が身をよじり始める。
「間違っていないのでなくて? チェステに魔術師はもういない。おそらくあなたで三代かそれ以上、爵位の剥奪を免れないまでに、星の血統としては落ちぶれてしまった」
言いながら、フェリータは注意深く相手の隙を窺った。
いつもは片手間で扱える規模の魔術に、ずいぶんと気力体力、魔力を消費していた。
やはり他の魔術師の領域である。しかも、魔術と相反する大聖堂の力が、家主であり教会の守護者として認められているチェステ家の人間を助けている。
頭痛の芽をやり過ごし、フェリータは床から伸びてきたいくつもの青白い手を鞭で薙ぎ払い、砂に変えた。
「だから、先祖の遺したレリカリオを失っても、新しいものをエルロマーニ家に頼めなかった。調べられれば、魔術師がいないことが知られてしまいますものね」
しなる鞭がみたび床を打つと、蛇はぐるりと標的の周りを囲んだ。
その体が黒い炎に変わると、逃げ場を絶たれたヴァレンティノの手に銃が現れた。炎に向かって引き金を引くと、穿たれた場所は瞬時に氷に覆われていった。ジュウっと呻く煙と同時に、白い真珠の粒と花びらがあたりに散って広がった。
「――それどころか、凋落を隠すために禁忌の術にまで手を出したことも暴かれるかもしれない。唾棄すべき生贄術に」
薄青の、氷そのもののような目がフェリータに向く。
その奥で燃え上がった憎悪を、フェリータはわざとらしい嘲りで受け止めた。
――銃か。
(ちょうどいいわ)
「教会付きとなることは好都合でしたかしら? 宮廷から自然と距離を置ける上、もし十人委員会が魔力に疑念を持っても、王家と教会の関係が軽率な立ち入りを踏みとどまらせますからね」
銃を持つ男の腕が、フェリータの額の高さまで上がる直前、金属の塊は粘土のように変形し、猫のような獣となって持ち主の右腕にしがみついた。
変化術だ。
目をわずかに見開き、氷銃だったものを捨てようとしたヴァレンティノだったが、それより早く獣は胴体へと飛び移る。
即座に猫を床へとはたき落したヴァレンティノは、すぐに顔色を変えた。
「……ほら、これでお終い」
猫はその口にジレから引きずり出した金のロケットペンダントを咥えていた。猫は素早く男から離れ、フェリータの元へとそれを届ける。
猫が真珠粒を残して消えると、フェリータは右手の鞭を銃に変え、左手にペンダントをしっかり握った。
生贄の血が収められているだろう、彼の力の源を。
「この家のおぞましい偽りは、これと、あの部屋のレリカリオの成れの果てで想像がつきます。白骨は哀れな生贄なのでしょう。真相の究明は然るべき機関に、そして裁きは陛下におまかせします」
銃の狙いを定めたまま、フェリータは一歩一歩慎重に、動かなくなったヴァレンティノへと近づいた。
黒い炎はほとんど消えうせている。
「……でも先に、ロレンツィオの居場所をお言い。あなたの使い魔を見て、血相変えて飛んでいった愚か者。この手で頬を打ってやらねば気が済みませんわ」
男の左胸に銃口を当て、鋭い視線で睨み上げる。
本当は、吐きそうなほどの頭痛でいますぐこの屋敷から出ていきたかったが、初心を忘れはしなかった。
ヴァレンティノは、その銃口とフェリータの目を何度かその眼差しで往復したのち、いびつな微笑みを口の端に乗せた。
「女王さながらの佇まいには、ほれぼれするところもあったのに。卑しい男にずいぶん骨抜きにされたようで、正直、その安さには幻滅を禁じ得ない」
「おだまり」
減らず口と嘲笑に、銃口を口腔へ突っ込んでやろうと思ったが。
「なぜこんなことをしたのか、知りたくはありませんか」
その言葉に、上がりかけた右腕は動きを止めた。
「……話す気がありますの?」
勝負は決していた。このまま拘束し、王宮から応援がくるのを待てばいい。ここに来る前に母に報告を頼んだから、兵も魔術師も、もうそこまで来ているはず。
そうと理解していながら、フェリータは聞き返してしまった。彼のしたことには、わからないことが多すぎたからだ。
「ええ。むしろ思い知っていただきたい」
そしてヴァレンティノの、目の奥の憎悪が気になったからだ。
「この一連の事件の引き金を引いたのが、他ならぬ自分自身だったのだと」
フェリータは瞠目した。ばかな、と切って捨てたかった。
自分たちは同じ貴族であり、互いに存在を知っていながら、ほとんど接点がなかったのだから。
――でも彼は言っていた。コッペリウスはあなたに化けた、と。
お気をつけて、と。
「背景は、あなたの推測の通りです。チェステ家は魔力を失った。奇跡の一族だなんて言われていたのは遠い過去、すでに祖父の代から、生贄無しではそれらしく見せることもできなくなっていた」
淡々と語り始めた言葉を脳内で反芻し、フェリータはハッと目を見開いた。
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否定ではなく、興味がないという意思表示だった。
「さあ、私は知りません。いつ誰が祖父のための犠牲になったかなんて。……祖父も父も愚かな人だとは思います。殺してしまえばそれきりで、残る骸の処理にも困る。生贄は手元で長く飼ったほうが、よほど安全で合理的なのに」
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