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第五章 星の血統
59 闇みちる地下
しおりを挟むフェリータはフィリパに銃口で急かされて、庭の奥の、礼拝堂へと来ていた。
(だから、屋敷の中であの人を見つけられなかったのね……)
ここならそうそう人が寄り付かない。側面が塀に接し、その向こうが運河だから外にも音がほとんど漏れない。
「祭壇へ進んで」
銃口に押され、フェリータは大人しく従った。
「……この屋敷の使用人は、みんな人形?」
歩きながら問いかけると、フィリパは硬い声で「ご冗談を」と答えた。
「……前々から、今日は一時的に別宅や親戚のもとへいくようお兄様が手筈を。大事な仕事があるといえば、彼らは逆らいませんわ」
「予想してらしたの? こうなることを」
「お兄様の心中をはかることなど無意味です。歩いて」
知らされていないのか。
二人はそのまま祭壇の後ろに回った。フィリパは銃口をフェリータに押しつけたままだ。
「……ロレンツィオは?」
主祭壇の後ろに、縛られた男がいるわけではなかった。奥に据えられた立像の周囲にも隠れられる場所はない。フェリータは銃口に構わず背後を振り返った。
しかし、フィリパが思い詰めた顔で放ったのは、思いもかけない言葉だった。
「フェリータ様は、お兄様ではだめなのですか」
フェリータは呆けて『は?』と言いかけたが、すぐに、その質問の意図をくみ取ってにべもなくはねつけた。
「だめですわね、絶対に」
問いの裏にあるのは、『ロレンツィオを手放す気はないのか』だ。答えを受けて、フィリパの視線が下がった。長いまつげが影を作る。
「……そう」
静かな堂内で、運河の水音が耳についた。流れが速くなったような音だったが、窓辺によって確認することはできない。
フィリパが銃を右手で構えたまま、左手を祭壇の天板の裏に伸ばしたのだ。『カチッ』と何かがはまる音がかすかに響く。
すると、祭壇のすぐ後ろの床、一メートル四方ほどの跳ね上げ扉がゆっくりと持ち上がって、暗い地下室の存在をあらわにした。
フェリータは膝をついて眼下にある小部屋を覗き込み、そして叫んだ。
「ロレンツィオ!」
そこは水浸しだった。
浸水した地下牢の壁際に座り込み、地上を見上げてくる男の姿を見て、安堵が胸に広がるが。
「やめろ!」
男の鋭い制止と同時に下半身に重い衝撃を受け、フェリータは地下牢に真っ逆さまに落ちていった。
跳ね上げ扉は、すぐに閉じられた。
***
落下したフェリータは、両手の自由が利かないロレンツィオが固い床との間に滑り込んできたおかげで最悪の結果は免れた。
「無事か?」
「……お尻が痛いですわ」
「思いっきり蹴られてたからな」
「く、屈辱……」
悔しさに歯噛みしながら身を起こすと、手をついたところに予想外の弾力と「う」と苦しげな反応があった。フェリータはおっかなびっくり男の腹の上から退いた。
不自由な視界でも、フェリータのふくらはぎほどまで水が溜まっている空間だと言うことと、目の前で男が上体を起こす様子は把握できた。動きの様子とこすれる金属音から、手が戒められていることも。
そんな状態でためらいなく下敷きになってくれたことに小さく礼を述べたが、返ってきたのはひどく苦み走った問いかけだった。
「なんで来たんだ」
「なんでって、彼があなたに贈ったお酒に毒が入っていたから、……」
答えて、フェリータは聞かれたことの既視感に複雑な気持ちになった。ヴァレンティノの作り上げた“ロレンツィオ像”は、かなり本物に近かったのだと思い知ったからだ。
しかし物思いに耽っている場合ではなかった。か細い水の流れの音が、室内至るところから聞こえる。
「……水が、壁から滲み出してきている?」
「水責め用の牢なんだ。外からの操作で室内に運河からの水が入ってきて、虜囚は最終的におぼれ死ぬ」
その言葉にフェリータは顔色を変えた。
「な、なに落ち着き払っているの。……脱出の仕方を知っているの?」
「死体がむごいことになるとしか知らん」
フェリータは両手で顔を覆い、それから立ち上がって辺りを見渡したが。
「教会付きの敷地内の、さらに礼拝堂の地下なんて、魔術を使うには条件が悪すぎる。おまえ誰かにここへ来ることを伝えてきたか?」
「ママが知ってますわ。でも通報した憲兵を、ヴァレンティノが追い返すと言っていた」
「……つくづく、人徳は武器だな」
ロレンツィオの忌々しげな声が、狭い牢の中でかすかに反響した。
フェリータはそれでも、魔力で念じてみたが、唯一の脱出口である天井の跳ね上げ扉はびくともしない。壁から入り込んでくる水も止められない。
なんの解決策もないまま、頭の痛みと水かさだけが増していった。
「なんて陰湿なのかしら……。殺すなら、時間をかけない方法もあったでしょうに」
フェリータの力ない言葉に、ロレンツィオは息を吐き出した。
「毒か……。チェステは魔術薬の知識が豊富だったな」
ひとりごちた声は暗く重かった。そこに含まれるものに想像が及ばないほど、フェリータは鈍感ではない。
だが沈黙は、フェリータにも苦い痛みを思い出させた。さきほどヴァレンティノから打ち込まれた杭は、胸の内側に刺さったままだ。
フェリータは耐えきれず、ロレンツィオの正面に座り直して静寂を破った。
「……ロレンツィオ、チェステ家にはレリカリオがありませんの。ヴァレンティノも含め、魔術師もいない。六十年前に見つかった排水路で見つかった犠牲者は、当時のチェステ家によるものでしたわ」
互いに目は闇に慣れていた。フェリータが見つめれば、相手もしっかりと見据えてくる。
言葉を続けることに、フェリータは石を吐くような苦しさを感じた。
「それでも、まだ考えるの? ペルラに生贄術が伝わっていると。……わたくしが、それを使っていると」
ヴァレンティノに耳打ちされたこと。
ロレンツィオに、祖父のことを言われた際には烈火の如く怒り狂った。それをいったん棚に上げても、そしてロレンツィオに対する感情が変わっても、蒸し返されたら絶対に許さないつもりでいた。
もし家来がその術に手を出したなら、主君もその責を負うべきとされるほどの、魔術師として重大な禁忌なのだ。
その疑惑が、自分に向けられていた。
根拠とともに、ヴァレンティノに先に伝えられていた。
「……わたくしの頭痛は、“術者自身の命”を代償とした生贄術の証だと、本気で考えてあの男に相談しましたの?」
「……ベルナード・ペルラは生贄術を研究してた」
ロレンツィオの声は落ち着いていた。
「目指していたのは他人のではなく、自分の血、体力、精神力を、足りない魔力に置き換えていく方法。以前オルテンシアが読んでいたチェステ所蔵の禁忌術大綱に、未完成の研究記録が載っていた」
「王女様が……?」
「あんたに長く魔術を向けられると、受ける感覚が途中で変わる。空気が粘度を増すような。相対的な感覚だから、物に向けたときや普段魔術に触れない人間のそばで使ったときにはそうと知られないだろう」
まっすぐこちらを見据えてくる眼差しには覚悟が窺えた。
このことをフェリータに隠そうとしていたなら、彼は今この瞬間よりも早く、フェリータを疑っていたということか。
いつから、と聞かなくても、向こうから答えが提示された。
「オルテンシアは魔術師が身近だ。呪詛を解かれたときに妙だと思ったらしい。俺は……最初の違和感は、一年前の、あの術比べの時に感じた」
「そんな前から……、ずっと黙っていたと!?」
「確証がなかった。思い違いかと思った。でも二回目の術比べで純正のレリカリオが壊れ、あんたは魔力からっきしの状態で呪詛を解いた。……たとえ、六十年前に生贄を殺したのがベルナードでなかったとしても、俺はグレゴリオとの仲違いの原因は生贄術に関することだと思ってるし、レアンドロ・ぺルラを見ている限り、ベルナードは孫のあんたにもその手法を伝えていたように思える。あのジジイはあんたがオルテンシアを救ったと聞いて驚愕し、怯えていた」
ロレンツィオの声には怒りも呆れも軽蔑も読み取れない。
フェリータは反論もせず、じっと座って水に沈みかけた両手を握りしめていた。
「ただどれだけ調べても、ここ数十年生贄術の犠牲者らしい人物は、六十年前の一件以来見つからない。だから今朝、王宮でレアンドロに問いただした。なぜそんなに、レリカリオのない状態のフェリータに口うるさく言うのかと。魔力が安定しないこと以外に、思うところがあるのかと。……言わないと、殿下に相談するしかないと言ったら、ようやく吐いた。――ベルナードの研究は、目指した地点に到達していたと。あのジジイが気が付いた時には、フェリータは亡きベルナードから教わって、魔力の次に自分の命を消費しながら魔術を使う方法を覚えていたと」
それきり、ロレンツィオは黙った。二人は闇の中で座り込み、向かい合って水の貯まる音を聞いていた。
――そんなわけがないと、一笑に付すことができなかった。生々しい心当たりがあった。
今もくすぶる頭痛。
幼いころから連れ添った症状だ。
『パパ、なんだか頭痛いの』
とことんまで魔術を練習したあと、フェリータは父にそう訴えることが度々あった。
父は最初『おー、かわいそうにかわいそうによしよしよーし』と言って高い薬を散々取り寄せていたのだが、ある頃からぱったりとそれが止んだ。
代わりにこう言うようになった。
『魔力を使い果たすな』
『命取りになる』
父は息をひそめるように、鬼気迫るような顔で、何度もフェリータにそう言い含めた。
それは、ロレンツィオと最初に術比べをしたときもだ。
フェリータが魔力を使い切った状態でオルテンシアを助けたと知ると、顔を真っ白にしていたという。
父はフェリータと共同で仕事に取り組んだか、自分がやった業務を引き継がせるように仕事を回していた。魔力が足りなくならないよう、細心の注意を払っていたのだ。
浸水は止まらない。
ちゃぷ、と水が鳴り、四肢に重くまとわりついていた。
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