64 / 92
第五章 星の血統
64 失うもの
しおりを挟む
***
刃がぶつかり、剣身が擦れ、打ち払う音が続く。
ロレンツィオが上から一撃を打ち込めば、受け止めたヴァレンティノは自分に向く切っ先を横に逸らす。
狙いを逸らされたロレンツィオが、すぐに重心を取り戻してヴァレンティノの喉を狙って突き入れる。
それをまた剣で弾いて逸らすと、ヴァレンティノは大きく退いてロレンツィオから距離を取った。
「どうしたよ。その手で殺したかった割には、さっきから防戦一方じゃないか」
グラスから変えた剣を手に、ロレンツィオは意地悪く笑った。
ヴァレンティノはその挑発を冷ややかに受け止める。ただ、ロレンツィオが呼吸一つ乱していないのに対し、その肩はわずかに上下していた。
「接近戦は想定外だったか。魔術師はいつもそうだな」
言いながらロレンツィオが再び切りつける。ヴァレンティノの剣が受け止める。
「殺す殺すと息巻くくせに、その手で肉を断ち血を浴びることはまるで考えてない」
刃を挟んで睨み合う。鋭い眼差しのまま、ヴァレンティノが抑揚のない声で小さく答えた。
「……必要ないからな、魔術師には」
ヴァレンティノの目が己の剣へと向く。
途端、細い剣身に青い光が走った。それを見てロレンツィオは瞬時に相手の刃を斜め下へと押し払い、大きく後ずさる。
直後、ヴァレンティノが振り抜いた斬撃が空を切って、体制の整わないロレンツィオに向かった。
薙ぎ払えば、斬撃が壁と床を裂いた。
「体を張って血に塗れるのは、君たち騎士の領分だろう」
荒い息の合間に絞り出された声は、怒りに満ちていた。まるで粗相をした従者を叱る主人のように、尊大な物言いだった。
「自分の役割も忘れて、おこがましくも魔術師を志して。心底癪に障る奴だったよ、昔から」
ロレンツィオはすました表情を変えなかった。その目つきが火に油を注いだかのように、ヴァレンティノは激情をあらわにし始める。
「宮廷付きも、彼女も、本来はお前のような身分で手に入れていい物じゃないだろうが!!」
ヴァレンティノが駆けて剣筋を叩きつければ、ロレンツィオがそれを弾く硬い音が響く。
「目障りだった! ずっと、ずっとずっと!! 宮廷付きになったあの春に殺しきっておくはずだったのに、結婚式の夜に今度こそと思ったのに、本当にしぶとい奴だなロレンツィオ!!」
溢れ出した敵意と殺意に顔を歪ませたヴァレンティノがさらに一撃、一撃と刃を重ねてくる。ロレンツィオはそれを至極落ち着いて受け流し、払い落としていった。
そして生じた、息継ぎのような隙を窺う。
「もう終いか? この程度の罵倒、あの女なら前哨戦なのに」
距離を取って薄く笑えば、ヴァレンティノの手が近くの椅子を掴んだ。
「人を食ったようなその態度、本っ当に嫌いだった!!」
飛んできた椅子をロレンツィオが避けると、壁に当たって壊れる大きな音が響いた。
――まずいな、彼女に聞こえたかもしれない。
ロレンツィオが注意を背後に向けた一瞬。
「失うものなど何もない、誰にも何も望まれてないお前たちばかりが……なんで」
零して、ヴァレンティノは一気に距離を詰めた。相手に剣を構える猶予を与えず、まっすぐ胸を狙って剣先が突き出す。
その切っ先から、半身引いて急所を守ったロレンツィオは、刃の中ほどを右の上腕と前腕で挟んで止めた。
「っ!」
ヴァレンティノが剣を引き戻そうとしたとき、すでにロレンツィオは左手一本で刃先の狙いを相手の喉元へ定めていた。
突き立てれば終わりだった。
二対の視線が交錯する。
薄青の目には、確かな憎しみが宿っていた。
――それでも、七年間見てきた友人の目だった。
迷いが生じた。わずか筋繊維一本動かすだけの、わずかな遅れに過ぎなくても。
それでも、仕留める手は確実に躊躇した。
勝敗を分けるに十分すぎる隙だった。
ヴァレンティノが笑う。ロレンツィオの目が惑うように揺れる。
「魔術師は血を浴びる気がない、か。その通りかもな」
腕で止めたはずの剣身は蛇に変わり、その太い腕に服ごと貫く深さで牙を立てていた。
集中力が散った一瞬で、ロレンツィオは床に倒された。相手は間髪入れず馬乗りになる。左手を踏みしめ、手から離れた剣を蹴り飛ばす。
「君と違って、私はもう頭からつま先まで浸かってる」
魔術師に、なれなかったからな。
ヴァレンティノの手の中に残っていた柄から短剣が生じる。
男はそれを高く振り上げて、獲物の喉元目掛けて振り下ろした。単純な動きをロレンツィオは蛇に噛まれた右腕で阻んだ。
上下の力が拮抗したそこへ、フェリータが息せき切って現れた。
「ロレンツィオ、なんの音……!?」
ほんの少し走っただけで、フェリータの体力は大きく削がれていた。胸を抑え、青ざめて現れた女に、ロレンツィオが「外に出ろ!」と鬼気迫る顔で叫ぶ。
だがフェリータも、目の前の光景に我を忘れた。
赤い目に戦意が迸る。レリカリオの有無も自分の状態も度外視して、魔力を放出しようとしていた。
しかしそれは、背後から床へと押し倒されて、集中力が霧散し不発となる。
「グィード、何を!?」
「っ、お許しを。衰弱したお嬢様に決して魔術を使わせるなと、厳命にございます」
その言葉に、フェリータは目を見開いて怒鳴った。
「パパの命令!? ええいどきなさいっ、どけ!!」
フェリータの必死の抵抗を、心得た忠実な騎士は難なく抑えつける。
頭の痛みと心臓を突き破りそうな拍動。それに加えて首筋を圧迫され、フェリータの意識が急速に遠のいていった。
「やめ……」
ほんの数メートル先で命の危機に瀕する男に、フェリータの手は届かない。ヴァレンティノの短剣を握る手は緩むことなく、目はまっすぐ標的を見下ろしている。
刃先が、ロレンツィオの喉元へと着実に近づいていく。
――その緊張を、扉の開く重い音が遮った。
「お、おじゃましまーす。ヴァレンティノ、……さんに、お会いできますかー?」
玄関ホールから響いた声に、部屋の空気が固まる。
「……ウ、ルバーノ?」
ロレンツィオの呟きは驚きと焦りを含んでいた。
名前はフェリータにも覚えがあった。挙式と、そのあとの宴に招いた客の一人だ。
ロレンツィオの、学生時代の友人だ。
「夜分遅くに申し訳ないですが、鍵が開いていたもので。自分はヴァレンティノさんの学院時代の友人でして、ロ……友人夫妻が行方不明って聞いたので、ちょっと相談したいんですけどー……あれ。あの、誰かいますかぁ?」
場違いな、どこか間の抜けた声だった。
来てはいけない、と思ってもフェリータには何もできない。伯爵からよほどきつく言い含められたのか、グィードの拘束は固く、意識もギリギリ保つのがやっとだった。
だがこのままでは“ウルバーノ”も殺されてしまう。恐れと焦りで、ヴァレンティノへと視線を向けると。
男は、短剣を握りしめたまま、声のする方に蒼白の顔を向けて固まっていた。
「こちらのご令息なら、何かご存知かなと、思いましてー……」
途中途中で別の部屋を覗きながら歩いているのか。声の合間にカチャ、カチャ、と扉の開閉音を挟みながら、声はだんだんと近づいてくる。
ヴァレンティノの様子を受けて、フェリータにのしかかるグィードが隠し持った短剣を抜く気配があった。投擲する気か。気づかれれば、外れれば、ロレンツィオが危ない。
けれどその緊張を、また脳天気な声がかき乱す。
「ロレンツィオの、親友だったのでー……」
どこか遠慮しがちな、けれど何も疑わない、信頼しきった声。
ヴァレンティノの唇が震えながら、くるな、と動いたとき。
ゴツッと鈍い音がした。
赤茶の髪が揺れて、短剣が床に転がった。馬乗りになっていた体が傾ぐ。
と思うと、倒れ込むヴァレンティノと入れ替わるように、ゆっくりとロレンツィオが体を起こした。
「……死んだの?」
フェリータの落ち着きを察し、護衛騎士が上から退く。
床に手をつき上体を起こして問うと、ロレンツィオは目を倒れた男に向けたまま、無言で首を振った。
そこでようやく、新たな客人が居間に到着した。
「いないのか、ヴァレン……あれ、ロレンツィオいるじゃん! えっ何この状況、喧嘩か!?」
混乱した声が、やけに虚しく響き渡る。
立ち上がったフェリータが隣に行くまで、ロレンツィオは座り込んだまま、指先一つ動かさなかった。
***
グィードが呼んだ憲兵団には、宮廷付き魔術師長であるパンドラと、大司教も随行していた。
「世話をかけた。最初の通報ですぐ宮廷付きの誰かが向かえていればよかったんだが、リカルドの件で人が出払っていたものでな」
泡を食って「大聖堂は騙されたのだ!」、「本物の侯爵夫人はどこにおられるのだっ、畏れ多くも教皇猊下の姪御だぞ!!」と憲兵たち相手に騒ぐ大司教を背後に、パンドラは申し訳無さそうにそう口にした。
対応するロレンツィオは、もういつも通りのすこし気怠そうな、不遜にも見える態度に戻ったように見えた。その背後には、拘束されたヴァレンティノが憲兵に囲まれている。
場をかき乱したウルバーノは、部屋の隅の椅子で呆然と、ひとり座り込んでいた。
己のレリカリオを取り戻したフェリータは、その光景を複雑な気持ちで見つめたあと、女主人の寝室へと向かった。
パンドラと男の話が終わって自分が話す番が回って来るまで、フィリパの様子を見るためだったが。
「……あら?」
寝室には、憲兵たちがいるばかりで、侯爵令嬢の姿はどこにもなかった。
憲兵隊付きの魔術師に行方を聞いても、「侯爵同様、捜索隊を出しているところでございます」としか返ってこない。
『なんで!!』
「……はやく見つけてさしあげなさい」
言って魔術師を解放すると、フェリータは部屋を見渡した。
割れた窓。
人形の寝かされた寝台。
いびつな肖像画群。
隠し部屋と、その奥にあるという通路。
フィリパや侯爵が見つかるのは時間の問題だろう。
裁かれる彼らに――彼女に、フェリータができることはもう何もない。
フェリータは隠し部屋を見つめた。白骨はすでに回収されて寝室へと動かされているが、今のそこには黄金の首飾りが並ぶだけで、ほとんど人がいない。
この家の人間は、どんな思いでこの部屋を見ていたのか。
輝く黄金のおびただしい数は、チェステ家の過去の栄光そのものだった。
それはそのまま重荷となり、やがて呪いに転じた。
(ペルラ家も、いつこうなってもおかしくないのかもしれないということ?)
失われたのは魔力が先か、レリカリオが先か。
この屋敷の蔵書から、記録から、暴かれ、調べ尽くされる。多くの魔術師の一族がそれを知りたがるはず。グィナの教会も、天罰として大々的に喧伝するかもしれない。守護者に任じたことなど棚に上げて。
フェリータは呪物への吐き気と同時に、虚しさを抱えて、隠し部屋へと近づいた。
そしてそこで、自分の目を疑った。
多くのレリカリオのうち、隠し部屋の入り口近くにあったひとつ。
フェリータが中身の腐敗を確認したペンダントは、ロケットの蓋が開いたまま。
空っぽの、容器の内側を晒していた。
『誰かが、金色の棺から“魔女の心臓”を取り出す夢を――』
フェリータは鬼のような形相で、近くにいた憲兵の腕を掴んだ。
「誰か、この小部屋のレリカリオに触った!?」
目を白黒させて、憲兵が首を振る。大声に動きを止めた他の憲兵や魔術師に視線を動かせば、彼らも勢いよく否定した。
「わ、我々のだれも……魔女の心臓が腐っているのですから、触れませぬ」
フェリータは少し冷静になって声をトーンダウンさせた。
「……でも、それなら誰が」
――誰が?
決まっているではないか。
フェリータは部屋を飛び出した。廊下を駆けて階段を飛ぶように降り、もう一度居間へと舞い戻った。
「パンドラ!」
ロレンツィオと向き合っていた魔術師ふたりは、駆け込んできたフェリータに目を向けた。
「すぐに宮廷付きたちに、フィリパ・チェステ嬢の捜索をさせ、全島に厳戒態勢を敷いてください!」
「何だ、急に」パンドラが眉を寄せる。
「腐敗した“魔女の心臓”が、外に持ち出されましたわ!!」
その言葉に、二人だけでなく、その場にいた全員の顔色が変わった。大司教が「はぁぁ!?」と上ずった声を上げる。
確信していた。母の言葉は“器に魔女の心臓を収める”ことができるリカルドではなく、今のこの“器から魔女の心臓が持ち出される”事態を予知していたのだ。
フェリータは憲兵を押しのけて、ヴァレンティノの胸ぐらを掴んだ。
「お前、妹がどこにいるか分からないの!?」
醒めた目で見上げてきて口を開けない男の頬に、フェリータの平手打ちが炸裂した。
「……」
「次は灰皿で殴りますわよ!!」
ウルバーノが焦って腰を上げ、青褪めた大司教が床に転がっていた灰皿を袖の下に隠したとき。
「……運河かもしれない」
ヴァレンティノの低い声に、パンドラが「わかるのか?」と険しい声で確認した。
「わからない、けれど白昼夢ではそうだった」
唖然としたフェリータだったが、ヴァレンティノにふざけた様子は見て取れない。男は同じ調子で続けた。
「大運河にいた。カーニバルで式典を行う、中腹あたりだった。……父上と一緒に、ゴンドラに乗っていた」
刃がぶつかり、剣身が擦れ、打ち払う音が続く。
ロレンツィオが上から一撃を打ち込めば、受け止めたヴァレンティノは自分に向く切っ先を横に逸らす。
狙いを逸らされたロレンツィオが、すぐに重心を取り戻してヴァレンティノの喉を狙って突き入れる。
それをまた剣で弾いて逸らすと、ヴァレンティノは大きく退いてロレンツィオから距離を取った。
「どうしたよ。その手で殺したかった割には、さっきから防戦一方じゃないか」
グラスから変えた剣を手に、ロレンツィオは意地悪く笑った。
ヴァレンティノはその挑発を冷ややかに受け止める。ただ、ロレンツィオが呼吸一つ乱していないのに対し、その肩はわずかに上下していた。
「接近戦は想定外だったか。魔術師はいつもそうだな」
言いながらロレンツィオが再び切りつける。ヴァレンティノの剣が受け止める。
「殺す殺すと息巻くくせに、その手で肉を断ち血を浴びることはまるで考えてない」
刃を挟んで睨み合う。鋭い眼差しのまま、ヴァレンティノが抑揚のない声で小さく答えた。
「……必要ないからな、魔術師には」
ヴァレンティノの目が己の剣へと向く。
途端、細い剣身に青い光が走った。それを見てロレンツィオは瞬時に相手の刃を斜め下へと押し払い、大きく後ずさる。
直後、ヴァレンティノが振り抜いた斬撃が空を切って、体制の整わないロレンツィオに向かった。
薙ぎ払えば、斬撃が壁と床を裂いた。
「体を張って血に塗れるのは、君たち騎士の領分だろう」
荒い息の合間に絞り出された声は、怒りに満ちていた。まるで粗相をした従者を叱る主人のように、尊大な物言いだった。
「自分の役割も忘れて、おこがましくも魔術師を志して。心底癪に障る奴だったよ、昔から」
ロレンツィオはすました表情を変えなかった。その目つきが火に油を注いだかのように、ヴァレンティノは激情をあらわにし始める。
「宮廷付きも、彼女も、本来はお前のような身分で手に入れていい物じゃないだろうが!!」
ヴァレンティノが駆けて剣筋を叩きつければ、ロレンツィオがそれを弾く硬い音が響く。
「目障りだった! ずっと、ずっとずっと!! 宮廷付きになったあの春に殺しきっておくはずだったのに、結婚式の夜に今度こそと思ったのに、本当にしぶとい奴だなロレンツィオ!!」
溢れ出した敵意と殺意に顔を歪ませたヴァレンティノがさらに一撃、一撃と刃を重ねてくる。ロレンツィオはそれを至極落ち着いて受け流し、払い落としていった。
そして生じた、息継ぎのような隙を窺う。
「もう終いか? この程度の罵倒、あの女なら前哨戦なのに」
距離を取って薄く笑えば、ヴァレンティノの手が近くの椅子を掴んだ。
「人を食ったようなその態度、本っ当に嫌いだった!!」
飛んできた椅子をロレンツィオが避けると、壁に当たって壊れる大きな音が響いた。
――まずいな、彼女に聞こえたかもしれない。
ロレンツィオが注意を背後に向けた一瞬。
「失うものなど何もない、誰にも何も望まれてないお前たちばかりが……なんで」
零して、ヴァレンティノは一気に距離を詰めた。相手に剣を構える猶予を与えず、まっすぐ胸を狙って剣先が突き出す。
その切っ先から、半身引いて急所を守ったロレンツィオは、刃の中ほどを右の上腕と前腕で挟んで止めた。
「っ!」
ヴァレンティノが剣を引き戻そうとしたとき、すでにロレンツィオは左手一本で刃先の狙いを相手の喉元へ定めていた。
突き立てれば終わりだった。
二対の視線が交錯する。
薄青の目には、確かな憎しみが宿っていた。
――それでも、七年間見てきた友人の目だった。
迷いが生じた。わずか筋繊維一本動かすだけの、わずかな遅れに過ぎなくても。
それでも、仕留める手は確実に躊躇した。
勝敗を分けるに十分すぎる隙だった。
ヴァレンティノが笑う。ロレンツィオの目が惑うように揺れる。
「魔術師は血を浴びる気がない、か。その通りかもな」
腕で止めたはずの剣身は蛇に変わり、その太い腕に服ごと貫く深さで牙を立てていた。
集中力が散った一瞬で、ロレンツィオは床に倒された。相手は間髪入れず馬乗りになる。左手を踏みしめ、手から離れた剣を蹴り飛ばす。
「君と違って、私はもう頭からつま先まで浸かってる」
魔術師に、なれなかったからな。
ヴァレンティノの手の中に残っていた柄から短剣が生じる。
男はそれを高く振り上げて、獲物の喉元目掛けて振り下ろした。単純な動きをロレンツィオは蛇に噛まれた右腕で阻んだ。
上下の力が拮抗したそこへ、フェリータが息せき切って現れた。
「ロレンツィオ、なんの音……!?」
ほんの少し走っただけで、フェリータの体力は大きく削がれていた。胸を抑え、青ざめて現れた女に、ロレンツィオが「外に出ろ!」と鬼気迫る顔で叫ぶ。
だがフェリータも、目の前の光景に我を忘れた。
赤い目に戦意が迸る。レリカリオの有無も自分の状態も度外視して、魔力を放出しようとしていた。
しかしそれは、背後から床へと押し倒されて、集中力が霧散し不発となる。
「グィード、何を!?」
「っ、お許しを。衰弱したお嬢様に決して魔術を使わせるなと、厳命にございます」
その言葉に、フェリータは目を見開いて怒鳴った。
「パパの命令!? ええいどきなさいっ、どけ!!」
フェリータの必死の抵抗を、心得た忠実な騎士は難なく抑えつける。
頭の痛みと心臓を突き破りそうな拍動。それに加えて首筋を圧迫され、フェリータの意識が急速に遠のいていった。
「やめ……」
ほんの数メートル先で命の危機に瀕する男に、フェリータの手は届かない。ヴァレンティノの短剣を握る手は緩むことなく、目はまっすぐ標的を見下ろしている。
刃先が、ロレンツィオの喉元へと着実に近づいていく。
――その緊張を、扉の開く重い音が遮った。
「お、おじゃましまーす。ヴァレンティノ、……さんに、お会いできますかー?」
玄関ホールから響いた声に、部屋の空気が固まる。
「……ウ、ルバーノ?」
ロレンツィオの呟きは驚きと焦りを含んでいた。
名前はフェリータにも覚えがあった。挙式と、そのあとの宴に招いた客の一人だ。
ロレンツィオの、学生時代の友人だ。
「夜分遅くに申し訳ないですが、鍵が開いていたもので。自分はヴァレンティノさんの学院時代の友人でして、ロ……友人夫妻が行方不明って聞いたので、ちょっと相談したいんですけどー……あれ。あの、誰かいますかぁ?」
場違いな、どこか間の抜けた声だった。
来てはいけない、と思ってもフェリータには何もできない。伯爵からよほどきつく言い含められたのか、グィードの拘束は固く、意識もギリギリ保つのがやっとだった。
だがこのままでは“ウルバーノ”も殺されてしまう。恐れと焦りで、ヴァレンティノへと視線を向けると。
男は、短剣を握りしめたまま、声のする方に蒼白の顔を向けて固まっていた。
「こちらのご令息なら、何かご存知かなと、思いましてー……」
途中途中で別の部屋を覗きながら歩いているのか。声の合間にカチャ、カチャ、と扉の開閉音を挟みながら、声はだんだんと近づいてくる。
ヴァレンティノの様子を受けて、フェリータにのしかかるグィードが隠し持った短剣を抜く気配があった。投擲する気か。気づかれれば、外れれば、ロレンツィオが危ない。
けれどその緊張を、また脳天気な声がかき乱す。
「ロレンツィオの、親友だったのでー……」
どこか遠慮しがちな、けれど何も疑わない、信頼しきった声。
ヴァレンティノの唇が震えながら、くるな、と動いたとき。
ゴツッと鈍い音がした。
赤茶の髪が揺れて、短剣が床に転がった。馬乗りになっていた体が傾ぐ。
と思うと、倒れ込むヴァレンティノと入れ替わるように、ゆっくりとロレンツィオが体を起こした。
「……死んだの?」
フェリータの落ち着きを察し、護衛騎士が上から退く。
床に手をつき上体を起こして問うと、ロレンツィオは目を倒れた男に向けたまま、無言で首を振った。
そこでようやく、新たな客人が居間に到着した。
「いないのか、ヴァレン……あれ、ロレンツィオいるじゃん! えっ何この状況、喧嘩か!?」
混乱した声が、やけに虚しく響き渡る。
立ち上がったフェリータが隣に行くまで、ロレンツィオは座り込んだまま、指先一つ動かさなかった。
***
グィードが呼んだ憲兵団には、宮廷付き魔術師長であるパンドラと、大司教も随行していた。
「世話をかけた。最初の通報ですぐ宮廷付きの誰かが向かえていればよかったんだが、リカルドの件で人が出払っていたものでな」
泡を食って「大聖堂は騙されたのだ!」、「本物の侯爵夫人はどこにおられるのだっ、畏れ多くも教皇猊下の姪御だぞ!!」と憲兵たち相手に騒ぐ大司教を背後に、パンドラは申し訳無さそうにそう口にした。
対応するロレンツィオは、もういつも通りのすこし気怠そうな、不遜にも見える態度に戻ったように見えた。その背後には、拘束されたヴァレンティノが憲兵に囲まれている。
場をかき乱したウルバーノは、部屋の隅の椅子で呆然と、ひとり座り込んでいた。
己のレリカリオを取り戻したフェリータは、その光景を複雑な気持ちで見つめたあと、女主人の寝室へと向かった。
パンドラと男の話が終わって自分が話す番が回って来るまで、フィリパの様子を見るためだったが。
「……あら?」
寝室には、憲兵たちがいるばかりで、侯爵令嬢の姿はどこにもなかった。
憲兵隊付きの魔術師に行方を聞いても、「侯爵同様、捜索隊を出しているところでございます」としか返ってこない。
『なんで!!』
「……はやく見つけてさしあげなさい」
言って魔術師を解放すると、フェリータは部屋を見渡した。
割れた窓。
人形の寝かされた寝台。
いびつな肖像画群。
隠し部屋と、その奥にあるという通路。
フィリパや侯爵が見つかるのは時間の問題だろう。
裁かれる彼らに――彼女に、フェリータができることはもう何もない。
フェリータは隠し部屋を見つめた。白骨はすでに回収されて寝室へと動かされているが、今のそこには黄金の首飾りが並ぶだけで、ほとんど人がいない。
この家の人間は、どんな思いでこの部屋を見ていたのか。
輝く黄金のおびただしい数は、チェステ家の過去の栄光そのものだった。
それはそのまま重荷となり、やがて呪いに転じた。
(ペルラ家も、いつこうなってもおかしくないのかもしれないということ?)
失われたのは魔力が先か、レリカリオが先か。
この屋敷の蔵書から、記録から、暴かれ、調べ尽くされる。多くの魔術師の一族がそれを知りたがるはず。グィナの教会も、天罰として大々的に喧伝するかもしれない。守護者に任じたことなど棚に上げて。
フェリータは呪物への吐き気と同時に、虚しさを抱えて、隠し部屋へと近づいた。
そしてそこで、自分の目を疑った。
多くのレリカリオのうち、隠し部屋の入り口近くにあったひとつ。
フェリータが中身の腐敗を確認したペンダントは、ロケットの蓋が開いたまま。
空っぽの、容器の内側を晒していた。
『誰かが、金色の棺から“魔女の心臓”を取り出す夢を――』
フェリータは鬼のような形相で、近くにいた憲兵の腕を掴んだ。
「誰か、この小部屋のレリカリオに触った!?」
目を白黒させて、憲兵が首を振る。大声に動きを止めた他の憲兵や魔術師に視線を動かせば、彼らも勢いよく否定した。
「わ、我々のだれも……魔女の心臓が腐っているのですから、触れませぬ」
フェリータは少し冷静になって声をトーンダウンさせた。
「……でも、それなら誰が」
――誰が?
決まっているではないか。
フェリータは部屋を飛び出した。廊下を駆けて階段を飛ぶように降り、もう一度居間へと舞い戻った。
「パンドラ!」
ロレンツィオと向き合っていた魔術師ふたりは、駆け込んできたフェリータに目を向けた。
「すぐに宮廷付きたちに、フィリパ・チェステ嬢の捜索をさせ、全島に厳戒態勢を敷いてください!」
「何だ、急に」パンドラが眉を寄せる。
「腐敗した“魔女の心臓”が、外に持ち出されましたわ!!」
その言葉に、二人だけでなく、その場にいた全員の顔色が変わった。大司教が「はぁぁ!?」と上ずった声を上げる。
確信していた。母の言葉は“器に魔女の心臓を収める”ことができるリカルドではなく、今のこの“器から魔女の心臓が持ち出される”事態を予知していたのだ。
フェリータは憲兵を押しのけて、ヴァレンティノの胸ぐらを掴んだ。
「お前、妹がどこにいるか分からないの!?」
醒めた目で見上げてきて口を開けない男の頬に、フェリータの平手打ちが炸裂した。
「……」
「次は灰皿で殴りますわよ!!」
ウルバーノが焦って腰を上げ、青褪めた大司教が床に転がっていた灰皿を袖の下に隠したとき。
「……運河かもしれない」
ヴァレンティノの低い声に、パンドラが「わかるのか?」と険しい声で確認した。
「わからない、けれど白昼夢ではそうだった」
唖然としたフェリータだったが、ヴァレンティノにふざけた様子は見て取れない。男は同じ調子で続けた。
「大運河にいた。カーニバルで式典を行う、中腹あたりだった。……父上と一緒に、ゴンドラに乗っていた」
21
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
いくら政略結婚だからって、そこまで嫌わなくてもいいんじゃないですか?いい加減、腹が立ってきたんですけど!
夢呼
恋愛
伯爵令嬢のローゼは大好きな婚約者アーサー・レイモンド侯爵令息との結婚式を今か今かと待ち望んでいた。
しかし、結婚式の僅か10日前、その大好きなアーサーから「私から愛されたいという思いがあったら捨ててくれ。それに応えることは出来ない」と告げられる。
ローゼはその言葉にショックを受け、熱を出し寝込んでしまう。数日間うなされ続け、やっと目を覚ました。前世の記憶と共に・・・。
愛されることは無いと分かっていても、覆すことが出来ないのが貴族間の政略結婚。日本で生きたアラサー女子の「私」が八割心を占めているローゼが、この政略結婚に臨むことになる。
いくら政略結婚といえども、親に孫を見せてあげて親孝行をしたいという願いを持つローゼは、何とかアーサーに振り向いてもらおうと頑張るが、鉄壁のアーサーには敵わず。それどころか益々嫌われる始末。
一体私の何が気に入らないんだか。そこまで嫌わなくてもいいんじゃないんですかね!いい加減腹立つわっ!
世界観はゆるいです!
カクヨム様にも投稿しております。
※10万文字を超えたので長編に変更しました。
【完結】旦那様、どうぞ王女様とお幸せに!~転生妻は離婚してもふもふライフをエンジョイしようと思います~
魯恒凛
恋愛
地味で気弱なクラリスは夫とは結婚して二年経つのにいまだに触れられることもなく、会話もない。伯爵夫人とは思えないほど使用人たちにいびられ冷遇される日々。魔獣騎士として人気の高い夫と国民の妹として愛される王女の仲を引き裂いたとして、巷では悪女クラリスへの風当たりがきついのだ。
ある日前世の記憶が甦ったクラリスは悟る。若いクラリスにこんな状況はもったいない。白い結婚を理由に円満離婚をして、夫には王女と幸せになってもらおうと決意する。そして、離婚後は田舎でもふもふカフェを開こうと……!
そのためにこっそり仕事を始めたものの、ひょんなことから夫と友達に!?
「好きな相手とどうやったらうまくいくか教えてほしい」
初恋だった夫。胸が痛むけど、お互いの幸せのために王女との仲を応援することに。
でもなんだか様子がおかしくて……?
不器用で一途な夫と前世の記憶が甦ったサバサバ妻の、すれ違い両片思いのラブコメディ。
※5/19〜5/21 HOTランキング1位!たくさんの方にお読みいただきありがとうございます
※他サイトでも公開しています。
死を望まれた王女は敵国で白い結婚を望む。「ご安心ください、私もあなたを愛するつもりはありません」
千紫万紅
恋愛
次期女王として王位継承が内定していたフランツェスカ。
だが戦況の悪化を理由に父王に争いの最前線に送られた。
それから一年、命からがら王都へ戻った彼女を待っていたのは労いの言葉ではなく、敵国・シュヴァルツヴァルトの王太子への輿入れ命令。
しかも父王は病弱な異母妹アリーシアを王妃に据え、フランツェスカの婚約者レナードを王にするという。
怒りと絶望の中フランツェスカはかつて敵将であったシュヴァルツヴァルト王太子・フリードのもとへお飾りの妻として嫁ぐことを決意する。
戦地での過去を封じ、王族としての最後の務めを果たすために。
乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!
ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。
相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。
結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。
現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう…
その時に前世の記憶を取り戻すのだった…
「悪役令嬢の兄の婚約者って…」
なんとも微妙なポジション。
しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。
どうしてあなたが後悔するのですか?~私はあなたを覚えていませんから~
クロユキ
恋愛
公爵家の家系に生まれたジェシカは一人娘でもあり我が儘に育ちなんでも思い通りに成らないと気がすまない性格だがそんな彼女をイヤだと言う者は居なかった。彼氏を作るにも慎重に選び一人の男性に目を向けた。
同じ公爵家の男性グレスには婚約を約束をした伯爵家の娘シャーロットがいた。
ジェシカはグレスに強制にシャーロットと婚約破棄を言うがしっこいと追い返されてしまう毎日、それでも諦めないジェシカは貴族で集まった披露宴でもグレスに迫りベランダに出ていたグレスとシャーロットを見つけ寄り添う二人を引き離そうとグレスの手を握った時グレスは手を払い退けジェシカは体ごと手摺をすり抜け落下した…
誤字脱字がありますが気にしないと言っていただけたら幸いです…更新は不定期ですがよろしくお願いします。
【完結】婚約者は私を大切にしてくれるけれど、好きでは無かったみたい。
まりぃべる
恋愛
伯爵家の娘、クラーラ。彼女の婚約者は、いつも優しくエスコートしてくれる。そして蕩けるような甘い言葉をくれる。
少しだけ疑問に思う部分もあるけれど、彼が不器用なだけなのだと思っていた。
そんな甘い言葉に騙されて、きっと幸せな結婚生活が送れると思ったのに、それは偽りだった……。
そんな人と結婚生活を送りたくないと両親に相談すると、それに向けて動いてくれる。
人生を変える人にも出会い、学院生活を送りながら新しい一歩を踏み出していくお話。
☆※感想頂いたからからのご指摘により、この一文を追加します。
王道(?)の、世間にありふれたお話とは多分一味違います。
王道のお話がいい方は、引っ掛かるご様子ですので、申し訳ありませんが引き返して下さいませ。
☆現実にも似たような名前、言い回し、言葉、表現などがあると思いますが、作者の世界観の為、現実世界とは少し異なります。
作者の、緩い世界観だと思って頂けると幸いです。
☆以前投稿した作品の中に出てくる子がチラッと出てきます。分かる人は少ないと思いますが、万が一分かって下さった方がいましたら嬉しいです。(全く物語には響きませんので、読んでいなくても全く問題ありません。)
☆完結してますので、随時更新していきます。番外編も含めて全35話です。
★感想いただきまして、さすがにちょっと可哀想かなと最後の35話、文を少し付けたしました。私めの表現の力不足でした…それでも読んで下さいまして嬉しいです。
辺境伯へ嫁ぎます。
アズやっこ
恋愛
私の父、国王陛下から、辺境伯へ嫁げと言われました。
隣国の王子の次は辺境伯ですか… 分かりました。
私は第二王女。所詮国の為の駒でしかないのです。 例え父であっても国王陛下には逆らえません。
辺境伯様… 若くして家督を継がれ、辺境の地を護っています。
本来ならば第一王女のお姉様が嫁ぐはずでした。
辺境伯様も10歳も年下の私を妻として娶らなければいけないなんて可哀想です。
辺境伯様、大丈夫です。私はご迷惑はおかけしません。
それでも、もし、私でも良いのなら…こんな小娘でも良いのなら…貴方を愛しても良いですか?貴方も私を愛してくれますか?
そんな望みを抱いてしまいます。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 設定はゆるいです。
(言葉使いなど、優しい目で読んで頂けると幸いです)
❈ 誤字脱字等教えて頂けると幸いです。
(出来れば望ましいと思う字、文章を教えて頂けると嬉しいです)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる