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第七章 天敵求婚譚
78 虜(とりこ) 前
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***
高台の上、白い壁の大きな屋敷。
その静かな廊下に、靴音と車輪の回るガラガラという音が響いていた。
「ここで待っていなさい」
見張りが頭を下げる扉の前で立ち止まったフランチェスカはそう言って、護衛騎士からワゴンを受け取った。そして、扉の鍵に向けて解錠魔術をかける。
ここは島の中心部から遠く、周囲に民家もなく静かな場所に作られた、比較的新しいぺルラ家の別邸だった。
かつて、持参金として娘が父からもらい受ける予定だったものの一つで、綺麗で広くて人目が少ない。だから王から引き取る許しを得られたとき、フランチェスカはここに連れてくることを迷いなく決めていた。
だが大きな窓から差し込む光は、この夏の盛りには暑すぎる。
部屋に入って早々に、フランチェスカはワゴンから手を放し、窓辺へと歩み寄った。
「お体の調子はいかがです」
引いたレースカーテンが揺れない。今日は風向きがよくないようだ。
フランチェスカは、出入口付近に置き去りにしたワゴンへ戻った。
「今日はお薬をお持ちしました。気つけ薬と、睡眠導入剤。それから栄養剤もありますが、なるべく用意した食事をとってくださいませ」
言いながら、テーブル上の水差しを新しいものに取り換えるために持ち上げて、その重みに顔をしかめる。「お水も適宜飲んでください」と注意して、そばには新しいグラスと錠剤の乗った小皿を置いた。
「一気に大量服用されませんよう、そのつど必要な分だけお持ちします。できれば侯爵家で保管されていた分をお持ちしたかったのですが、殿下の許可が下りませんでしたので、ご容赦を」
そこまで言って、部屋の奥、寝台の横の長椅子に視線を向ける。
父譲り、祖父譲りの青い目に、何の感情も映さずに。
「まぁ、ご容赦も何も、あなたは何かを許す立場にはありませんでしたね」
話す言葉は一方的で、フランチェスカの方には何も返っては来ない。
けれどもフランチェスカは、長椅子に仰向けで横たわる男に喋りかけるのをやめない。
「ヴァレンティノ様」
薄青の目は瞬きすらせず、打ち捨てられた人形のように天井を映すだけである。
しかし、フランチェスカは気にしないというように、長椅子のそばの肘掛椅子に腰を下ろした。
「本題に入ります。昨夜から今までの時間にかけて、何か夢を見ましたか」
応えはない。
静寂を堪能した後、フランチェスカは思案し、話題を変えた。
「お食事に手を付けてくださらない日が多くなってきましたね。この別邸の使用人は料理人含め、あなたのために新しく雇った者なので、お口に合わないなら解雇しますね」
「一族の方々はみなさま一様に“本家で起きていることは何も知らなかった”と仰っています。ご親戚のうち、微々たる魔力のある方が爵位を継げないかと陛下にご嘆願なさっているそうですが、あなた方のしてきたことを考えると難しいでしょうね」
「レリカリオを除く侯爵家の家宝は、教会がらみのものや降嫁した王族の方々ゆかりのものを除いて、競売にかけられることになりました。何か取っておいて欲しいものがあるなら今仰ってくださいな」
「侯爵は容態が回復した後、ベラーニャの監獄島に送られたそうです。生きて再会なさるのは、難しいかもしれませんね」
それぞれ、話と話の間に相手の様子を窺って、何か反応はないかと観察していた。
だが男はまるで動かない。
フランチェスカは視線を外して、やれやれと言うように息を吐いた。
「あとこれは多分ですが、フィリパ様は、バディーノ家の監視下にいらっしゃると思います」
――男の瞼がほんの少し震えた。
「オルテンシア様はご自身の再婚か、王太子殿下ご夫妻にお子様が生まれたタイミングでフィリパ様に恩赦が下ると信じ切っているそうです。信じられない神経です。あの嵐で大けがを負った人や、生活の基盤を失った人がたくさんい」
「睡眠薬を常用していた意味を考えてくれ」
フランチェスカは無言で瞬きした。
天井を見たままのヴァレンティノが、再び口を開く。少し掠れ、抑揚も熱もない声だった。
「たとえ寝られて、夢を見ていたとしても、内容の確認は無意味だ。ただの夢とそうでないものの区別がつかない」
「……いいえ、分かるはずです。母は感覚的に、夢の区別がついています。あなたもそうでしょう? だから、お姉様がレオナルド様に襲われている場に間に合った」
“そうでしょう?”で男の口は開いていたが、続くフランチェスカの言葉に返事はなかった。
ただ吸った息を吐いただけで力をなくした唇に、娘の醒めた視線が落とされる。
「勘違いなさらないでください。あなたは直接生贄を殺していないとはいえ、別に許されていないのです。お父上のような暗く狭い牢に入れられていないのは、国があなたを“飼う”ことに決め、このぺルラ家に世話係を任じたため」
そう言うと、フランチェスカは立ち上がって水差しの置かれたテーブルへと戻った。グラスに水が注がれる音を響かせる。
「未来予知ができる占術師は、王家だって確保しておきたいでしょうからね」
「予知じゃなくて偶然だ」
間髪入れない否定を、水を手に戻ってきたフランチェスカはさらに否定した。
「いいえ、偶然ではない。あの夜、使用人たちが屋敷から出されていたのも、おびき寄せたロレンツィオ殿を閉じ込めた後、さらにお姉様やロレンツィオ殿本人と対決することになるのを予知していたからでしょう。なぜ否定なさるんです? 牢に入りたい? それとも私に世話をされるのが嫌ですか」
「……」
「私の顔を見ると、お姉様への未練が断ち切れない?」
はじめて、男の口から音を立てて息が漏れた。笑い声らしきものだった。
だが、どちらかというと、嘲りに近かった。
「難儀だな。あの姉を持ち上げるようなポーズを取るのは、内心の妬みや羨望に気が付かれたくないからかい」
視線の合わない男を見下ろすフランチェスカの瑠璃色の目が、底知れない闇をはらむ。
部屋のカーテンが、風もないのに揺れた。
「そうかもしれません」
揺れはすぐに収まった。短い無言の後、素直に肯定したフランチェスカがもとの椅子に座りなおす。
持ったグラスを男に渡すそぶりも無ければ、自分で飲む様子も見せない。
「でもあなただって、お姉様の花嫁姿を『綺麗だ』って仰ってました。破れた片思いの記憶はお辛いでしょう」
無気力に開いているだけだった氷の色の目が、はっきりと揺れた。その様子に、フランチェスカも部屋に入って初めて口の端を上げた。
「誰にも気がつかれていないと思ったのですか。確かに、みなさまあの姿に見惚れてて、愚直な感想の主が誰だったかなんて、気にもとめてなかったですね」
来ない返事をフランチェスカは待たなかった。もとから期待していないというように、言葉を紡ぐ。
視線だけは、男の一挙手一投足を見逃さまいとぎらつかせながら。
「あなたの身柄を引き取るにあたって、聴取内容を見せてもらいました。ひどい内容でした。国への恨みとカヴァリエリ家への侮辱の羅列。その上、魔力の強い子どもが欲しくてお姉様を狙ったなんて。何から何まで嘘ばっかり」
風の吹きこまない部屋。グラスの外側を雫が伝い始める。
息苦しさが部屋を満たす。
それが、少女にとって名状しがたい快感に変わっていく。支配欲が満たされていくのを、肌で感じていた。
「ねぇ、あの人のどこを好きになったのですか? 次は髪を巻いてここに来ましょうか。あの人の服を借りて、あの人の香水をつけて、傍若無人で自信満々なふるまいをしましょうか」
動かないことを良いことに、そっと男の耳の後ろの髪を払う。指先に感じた汗を、愛しいもののように擦る。
「短気で、無神経で、純粋で、与えられた愛の分だけ誰かを深く愛してしまう人。その愛情が、上手くいけば独占できたのに。あの人の夫を、ロレンツィオ殿を殺すまでは、あともうちょっとだったのに。楽しかった学生時代の、大切な親友を殺す決意まで固めたのに」
男の目が、もはや隠しようもない嫌悪に染まる。それを視認した瞬間、フランチェスカの背筋は愉悦にぞくぞくと震えた。
「そんなことに気を取られて、ヴァレンティノ様、私のこと、すっかり忘れていたでしょう」
気が付かなかったのだろう、とほくそ笑む。
白黒の盤の上で、誰からも忘れられたポーンが虎視眈々と昇格を狙っていたことを、と。
フランチェスカはヴァレンティノの頬に手を添わせた。夢にまで見た肌の感触に、自分の胸が薄暗い喜びで満たされていくのを感じた。
「お伝えしましたでしょうか。あなたの拘束はリカルド様の解放を認めることとの交換条件だったんです」
それは、バディーノ家とエルロマーニ家の貴公子に突きつけた取り引きだった。
『すべてが終わったあと、ヴァレンティノ・チェステの身柄が生きたままぺルラ家に渡るよう、取り計らってください』
チェステ家がかつて、公爵家の末子を攫おうとしていたということも、ヴァレンティノがリカルドに罪を着せようとしていたことも、フランチェスカは嵐の翌朝に知らされていた。
知っていてリカルドの名前を口にした。
今、目の前で、憎悪に曇る氷の瞳が見たいがために。
「朝になって、占術師の可能性があると言われたときはしまったと思いました。王家が抱え込んでしまうかもと。でも、ちゃんとお二方が約束を守ってくださった。今なら、身勝手な関係者一同に感謝してもいい気持ちです」
フランチェスカはヴァレンティノの手にグラスを握らせた。
「今は国王陛下からの預かりものですが、予知ができなければ用なしです。このまま打ち上げられた死体みたいに過ごすつもりなら、いずれ私のおもちゃまっしぐらですね」
そう言って、物も言わずに睨みつけてくる男にこらえ切れなかった笑みを見せつける。
――早くそうなってほしい。役立たずになって、見限られてしまえばいい。
そうしたら自分が一生大事にする。娘に甘い父には何とでも言える。貴族たちだって、きっとすぐに彼を忘れる。だって魔術師ではないのだから。むしろ重要なのは、彼の妹の今後なのだから。
この島で、この世界で、彼を気にするのは自分だけになる。王都の喧騒からも遠いこの別邸で、この人を独占できる。
自分には、それができるだけの財と力が譲渡される。
良かった、家督が回ってきて。
ヴァレンティノの頬を撫でながら、フランチェスカがうっとりと目を細めたとき。
「下賤な母親を持つくせに、高望みをするのだな」
高台の上、白い壁の大きな屋敷。
その静かな廊下に、靴音と車輪の回るガラガラという音が響いていた。
「ここで待っていなさい」
見張りが頭を下げる扉の前で立ち止まったフランチェスカはそう言って、護衛騎士からワゴンを受け取った。そして、扉の鍵に向けて解錠魔術をかける。
ここは島の中心部から遠く、周囲に民家もなく静かな場所に作られた、比較的新しいぺルラ家の別邸だった。
かつて、持参金として娘が父からもらい受ける予定だったものの一つで、綺麗で広くて人目が少ない。だから王から引き取る許しを得られたとき、フランチェスカはここに連れてくることを迷いなく決めていた。
だが大きな窓から差し込む光は、この夏の盛りには暑すぎる。
部屋に入って早々に、フランチェスカはワゴンから手を放し、窓辺へと歩み寄った。
「お体の調子はいかがです」
引いたレースカーテンが揺れない。今日は風向きがよくないようだ。
フランチェスカは、出入口付近に置き去りにしたワゴンへ戻った。
「今日はお薬をお持ちしました。気つけ薬と、睡眠導入剤。それから栄養剤もありますが、なるべく用意した食事をとってくださいませ」
言いながら、テーブル上の水差しを新しいものに取り換えるために持ち上げて、その重みに顔をしかめる。「お水も適宜飲んでください」と注意して、そばには新しいグラスと錠剤の乗った小皿を置いた。
「一気に大量服用されませんよう、そのつど必要な分だけお持ちします。できれば侯爵家で保管されていた分をお持ちしたかったのですが、殿下の許可が下りませんでしたので、ご容赦を」
そこまで言って、部屋の奥、寝台の横の長椅子に視線を向ける。
父譲り、祖父譲りの青い目に、何の感情も映さずに。
「まぁ、ご容赦も何も、あなたは何かを許す立場にはありませんでしたね」
話す言葉は一方的で、フランチェスカの方には何も返っては来ない。
けれどもフランチェスカは、長椅子に仰向けで横たわる男に喋りかけるのをやめない。
「ヴァレンティノ様」
薄青の目は瞬きすらせず、打ち捨てられた人形のように天井を映すだけである。
しかし、フランチェスカは気にしないというように、長椅子のそばの肘掛椅子に腰を下ろした。
「本題に入ります。昨夜から今までの時間にかけて、何か夢を見ましたか」
応えはない。
静寂を堪能した後、フランチェスカは思案し、話題を変えた。
「お食事に手を付けてくださらない日が多くなってきましたね。この別邸の使用人は料理人含め、あなたのために新しく雇った者なので、お口に合わないなら解雇しますね」
「一族の方々はみなさま一様に“本家で起きていることは何も知らなかった”と仰っています。ご親戚のうち、微々たる魔力のある方が爵位を継げないかと陛下にご嘆願なさっているそうですが、あなた方のしてきたことを考えると難しいでしょうね」
「レリカリオを除く侯爵家の家宝は、教会がらみのものや降嫁した王族の方々ゆかりのものを除いて、競売にかけられることになりました。何か取っておいて欲しいものがあるなら今仰ってくださいな」
「侯爵は容態が回復した後、ベラーニャの監獄島に送られたそうです。生きて再会なさるのは、難しいかもしれませんね」
それぞれ、話と話の間に相手の様子を窺って、何か反応はないかと観察していた。
だが男はまるで動かない。
フランチェスカは視線を外して、やれやれと言うように息を吐いた。
「あとこれは多分ですが、フィリパ様は、バディーノ家の監視下にいらっしゃると思います」
――男の瞼がほんの少し震えた。
「オルテンシア様はご自身の再婚か、王太子殿下ご夫妻にお子様が生まれたタイミングでフィリパ様に恩赦が下ると信じ切っているそうです。信じられない神経です。あの嵐で大けがを負った人や、生活の基盤を失った人がたくさんい」
「睡眠薬を常用していた意味を考えてくれ」
フランチェスカは無言で瞬きした。
天井を見たままのヴァレンティノが、再び口を開く。少し掠れ、抑揚も熱もない声だった。
「たとえ寝られて、夢を見ていたとしても、内容の確認は無意味だ。ただの夢とそうでないものの区別がつかない」
「……いいえ、分かるはずです。母は感覚的に、夢の区別がついています。あなたもそうでしょう? だから、お姉様がレオナルド様に襲われている場に間に合った」
“そうでしょう?”で男の口は開いていたが、続くフランチェスカの言葉に返事はなかった。
ただ吸った息を吐いただけで力をなくした唇に、娘の醒めた視線が落とされる。
「勘違いなさらないでください。あなたは直接生贄を殺していないとはいえ、別に許されていないのです。お父上のような暗く狭い牢に入れられていないのは、国があなたを“飼う”ことに決め、このぺルラ家に世話係を任じたため」
そう言うと、フランチェスカは立ち上がって水差しの置かれたテーブルへと戻った。グラスに水が注がれる音を響かせる。
「未来予知ができる占術師は、王家だって確保しておきたいでしょうからね」
「予知じゃなくて偶然だ」
間髪入れない否定を、水を手に戻ってきたフランチェスカはさらに否定した。
「いいえ、偶然ではない。あの夜、使用人たちが屋敷から出されていたのも、おびき寄せたロレンツィオ殿を閉じ込めた後、さらにお姉様やロレンツィオ殿本人と対決することになるのを予知していたからでしょう。なぜ否定なさるんです? 牢に入りたい? それとも私に世話をされるのが嫌ですか」
「……」
「私の顔を見ると、お姉様への未練が断ち切れない?」
はじめて、男の口から音を立てて息が漏れた。笑い声らしきものだった。
だが、どちらかというと、嘲りに近かった。
「難儀だな。あの姉を持ち上げるようなポーズを取るのは、内心の妬みや羨望に気が付かれたくないからかい」
視線の合わない男を見下ろすフランチェスカの瑠璃色の目が、底知れない闇をはらむ。
部屋のカーテンが、風もないのに揺れた。
「そうかもしれません」
揺れはすぐに収まった。短い無言の後、素直に肯定したフランチェスカがもとの椅子に座りなおす。
持ったグラスを男に渡すそぶりも無ければ、自分で飲む様子も見せない。
「でもあなただって、お姉様の花嫁姿を『綺麗だ』って仰ってました。破れた片思いの記憶はお辛いでしょう」
無気力に開いているだけだった氷の色の目が、はっきりと揺れた。その様子に、フランチェスカも部屋に入って初めて口の端を上げた。
「誰にも気がつかれていないと思ったのですか。確かに、みなさまあの姿に見惚れてて、愚直な感想の主が誰だったかなんて、気にもとめてなかったですね」
来ない返事をフランチェスカは待たなかった。もとから期待していないというように、言葉を紡ぐ。
視線だけは、男の一挙手一投足を見逃さまいとぎらつかせながら。
「あなたの身柄を引き取るにあたって、聴取内容を見せてもらいました。ひどい内容でした。国への恨みとカヴァリエリ家への侮辱の羅列。その上、魔力の強い子どもが欲しくてお姉様を狙ったなんて。何から何まで嘘ばっかり」
風の吹きこまない部屋。グラスの外側を雫が伝い始める。
息苦しさが部屋を満たす。
それが、少女にとって名状しがたい快感に変わっていく。支配欲が満たされていくのを、肌で感じていた。
「ねぇ、あの人のどこを好きになったのですか? 次は髪を巻いてここに来ましょうか。あの人の服を借りて、あの人の香水をつけて、傍若無人で自信満々なふるまいをしましょうか」
動かないことを良いことに、そっと男の耳の後ろの髪を払う。指先に感じた汗を、愛しいもののように擦る。
「短気で、無神経で、純粋で、与えられた愛の分だけ誰かを深く愛してしまう人。その愛情が、上手くいけば独占できたのに。あの人の夫を、ロレンツィオ殿を殺すまでは、あともうちょっとだったのに。楽しかった学生時代の、大切な親友を殺す決意まで固めたのに」
男の目が、もはや隠しようもない嫌悪に染まる。それを視認した瞬間、フランチェスカの背筋は愉悦にぞくぞくと震えた。
「そんなことに気を取られて、ヴァレンティノ様、私のこと、すっかり忘れていたでしょう」
気が付かなかったのだろう、とほくそ笑む。
白黒の盤の上で、誰からも忘れられたポーンが虎視眈々と昇格を狙っていたことを、と。
フランチェスカはヴァレンティノの頬に手を添わせた。夢にまで見た肌の感触に、自分の胸が薄暗い喜びで満たされていくのを感じた。
「お伝えしましたでしょうか。あなたの拘束はリカルド様の解放を認めることとの交換条件だったんです」
それは、バディーノ家とエルロマーニ家の貴公子に突きつけた取り引きだった。
『すべてが終わったあと、ヴァレンティノ・チェステの身柄が生きたままぺルラ家に渡るよう、取り計らってください』
チェステ家がかつて、公爵家の末子を攫おうとしていたということも、ヴァレンティノがリカルドに罪を着せようとしていたことも、フランチェスカは嵐の翌朝に知らされていた。
知っていてリカルドの名前を口にした。
今、目の前で、憎悪に曇る氷の瞳が見たいがために。
「朝になって、占術師の可能性があると言われたときはしまったと思いました。王家が抱え込んでしまうかもと。でも、ちゃんとお二方が約束を守ってくださった。今なら、身勝手な関係者一同に感謝してもいい気持ちです」
フランチェスカはヴァレンティノの手にグラスを握らせた。
「今は国王陛下からの預かりものですが、予知ができなければ用なしです。このまま打ち上げられた死体みたいに過ごすつもりなら、いずれ私のおもちゃまっしぐらですね」
そう言って、物も言わずに睨みつけてくる男にこらえ切れなかった笑みを見せつける。
――早くそうなってほしい。役立たずになって、見限られてしまえばいい。
そうしたら自分が一生大事にする。娘に甘い父には何とでも言える。貴族たちだって、きっとすぐに彼を忘れる。だって魔術師ではないのだから。むしろ重要なのは、彼の妹の今後なのだから。
この島で、この世界で、彼を気にするのは自分だけになる。王都の喧騒からも遠いこの別邸で、この人を独占できる。
自分には、それができるだけの財と力が譲渡される。
良かった、家督が回ってきて。
ヴァレンティノの頬を撫でながら、フランチェスカがうっとりと目を細めたとき。
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