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第七章 天敵求婚譚
80 レアンドロ「なんか無性に腹立つな」
しおりを挟むフランチェスカが頭を抱えて「何してますのお姉様!?」と叫んでいる頃。
お姉様本人は、夫(暫定)の腕を引いて、裏路地の小さな教会に駆け込んだところだった。
***
「離婚って何の話!? 聞いてませんわよ!?」
がらんどうの教会に、フェリータの声が響き渡る。通路の奥から入口側に向かって叫ぶその姿からは、浮かれモードはすっかり吹き飛んでいた。
呆れ顔のロレンツィオが、今しがた通ってきた扉を起点に防音魔術をかける。一瞬だけ白く発光した扉の横に立つ護衛騎士へ、剣呑な視線を向けてから、フェリータに視線をくれた。
「……野次馬の目線を避けてここ来たのに、なんの意味もねぇよ馬鹿。大聖堂ほどじゃなくても、魔術のかかりにくい場所なんだから少しはボリューム下げ」
「ロレンツィオ・カヴァリエリ!!!」
『うるせぇよ』と目で返してから、ロレンツィオは胸元からシガレットケースを取り出した。
「どういうも何も、ただの噂だろ。俺だって知らん」
「知らないですって……!」
「そっちが実家から出てこないから、憶測が面白おかしく吹聴されてるんだろうよ」
フェリータは言葉に詰まった。だが、煙草から口を放して煙を吐いた相手の『ほらな』という目つきで再び沸騰した。
「っ、なーにを偉そうに! そっちだって迎えに来なかったではありませんの!!」
「このひと月で、宮廷付きがどんだけ忙しかったと思ってる。呪獣と街の後片付けだけでも大変なのに、教会付きがいないから大聖堂の警護にも出なきゃいけなかったし、ヴィットリオ殿下は一週間動けなかったし、逆にオルテンシアは動き回るし」
淡々とした話しぶりは徐々に熱を帯びてゆき、ついには溜め込んだ鬱憤を爆発させるかのように、語気が荒々しくなった。
「リカルドは昨日まで監視付きでしか魔術を使えなかったから後手に回るし! 爺さん婆さんに無理はさせられないし! なのにあんたの父親はことあるごとにフリーズして『今頃、家で娘が死んでたらどうしよう』って情緒不安定だし!!」
「まぁ、パパったら……」
「しんみりすんな! 見かねて早上がりさせたデブの分の仕事、誰が引き受けたと思ってんだ!! ……リカルドと茶ァしばく前に、あんたこそ俺に連絡ひとつよこしても良かっただろうが」
これには、さすがのフェリータもばつが悪かった。「パパのことデブって言わないで」という小さな抗議が、薄暗い聖堂で力なく消えていく。
確かに、こうやって出歩けるようになったのは昨日今日からではない。かいがいしい世話のおかげか、実は一週間ほど前から、日常生活に支障なく動けるようにはなっていたのだ。
けれど心配げなフランチェスカや、別邸から足しげく様子を見に来てくれる母、何かを言いたそうにして黙り込んだ後に、『寝る前にしっかり食わんか!』『前よりすこし痩せてるぞ、そんなんでは治るものも治らん!』とひたすら食べさせようとする父を前に、ついつい長居してしまった。
――それに、本音で言えば、迎えにきてほしかった。父に追い返されるとわかっていても。
運河で別れる前、最後にその口から聞いたのは、流れるような罵倒だった。謝って、帰ってきてくれと言ってくるのが筋ではないか。
なのに。
「……わたくし、死にかけたのに、そんな言い方なさるのね」
不愉快そうに煙草を吸う男は顔を横に向けている。煙がフェリータに向かわないようにという気遣いかもしれないが、顔を背けられているのも嫌で、あからさまに、恨みがましい言い方になった。
妻の実家においそれと来られない状況だとしても。
今この瞬間、目の前にいる自分にかける言葉はもっと選ぶべきだ。
日傘の柄を掴む手に、必要以上の力が込もる。
きっとこれで、ロレンツィオも言い方を改めてくれる。意地悪だが馬鹿な男ではないから、フェリータがどんな言葉を欲しているかわかるはず――。
と、思ったのに。
「自業自得だろ」
日傘が、音を立てて床に転がった。
空いた両手が震える。限界まで見開かれた目で穴が開きそうなほど見つめても、男の青い目とは視線が合わなかった。
馬鹿だった。こいつ大馬鹿だった。
確かにフェリータは誰に強制されたわけでもなく運河に飛び込んだが、生還してからは本当に指一本動かせなかった。そんなこともわからないのか。
同僚の使い魔が報告のついでのように伝えてくれた『いつなら会える?』という言葉を聞くまで、ずっと寂しかったのに、そんなこともわからないのか。
――いや、まさか、もしかして。
「……ロレンツィオ、わたくしのこと、もう嫌いになってしま」
「違うわ馬鹿」
食い気味の否定におまけがついてきた。怒るべきだが、安堵でぶわっと視界が滲んだ。
呆けて涙ぐむフェリータを横目に、ロレンツィオが苦々しい顔で煙草を携帯灰皿に押し込む。そして、通路を進む靴音が荒々しく空気を震わせた。
やがてフェリータは、目の前までやってきた男の逞しい腕で肩を強く抱き寄せられた。
「……少しは俺の身になって考えろよ。運河の底で、あんたの遺体を抱えてたときの、俺の気持ちを」
フェリータは目をぱちくりとさせた。
突然ぴったりと体を密着させられて頭の中が真っ白になっていたところへ、頭上から悔しそうな、縋るような声が降ってきたのだ。
「何が嫌いになっただ。どこまで俺を舐めくさってたらそんな思考に行きつくんだ。今さら嫌いになれるなら、置いていかれたことで、こんなにずっと怒ってないんだよ」
「……ロレンツィオ」
フェリータは相手の心音を聞きながら、ようやく気が付いた。
自分だって、この男が死んだと思ったときの恐怖や絶望を、まだはっきりと思い出せる。
ロレンツィオの怒りとやらは、傷心からくるものなのだ。
フェリータは身をよじって相手と自分の体の間から両腕を引き出し、ぎゅっとその大きな体躯を抱きしめた。応えるように、男の鼻先が頭のてっぺんに埋められる。
「謝んのはそっちが先だ。二度とあんなことしないって言え」
「……でも、一応国のために」
「言え」
みし、と上半身が軋んだ。地を這うような低い声とともに頭まで抱え込まれて、このまま頭蓋骨を含めた全身が粉々にされる想像が脳裏をかすめた。
生存本能が「ごめんなさいもうしません!!」と叫ばせた。
満足したのか、腕が少し緩んで、“抱きしめる”の範囲に戻ってくる。(死ぬなって言われた直後に殺されかけた……)と息を荒くするフェリータだったが、その左手がロレンツィオに持ち上げられた。
「それとこれ、返しとく」
「え……あ!」
取られた手は、薬指に白金の指輪をつけて戻ってきた。
「ど、どどどどこにありましたの!?」
「運河の底。もうなくすなよ」
髪に顔をうずめているのか、くぐもった返事が返って来る。
なくしたタイミングから、リカルドが落としたに違いない。その身勝手さに改めて怒りがぶり返しかけたとき。
「……今日は、いい加減うちに帰ってきてくれって、伝えたかったんだ」
頭頂部から伝わってきた、切なげな声に、目を見張る。次いで、むい~っと口角が上がるのを感じた。
その言葉が聞きたかったのだ。
そう言ってくれれば、周りが何を言ってきても、自分は平気だったのに。
「……し、仕方ありませ」
「嫌ならいい」
「帰ります!! 部屋はちゃんと整えてあるのでしょうね!!?」
強がりを許さない夫の口から、ふっと息が漏れてくる。「もちろん」と含み笑いが降ってきた。
男の機嫌が良くなったのを感じた女は、気恥ずかしさに身をよじる。が、胸元のロケットペンダントが鎖を擦る音を鳴らしただけだった。
だがその音で、フェリータは預かり物のことを思い出した。
「……ロレンツィオ、ちょっと」
ポケットから落とさないようにハンカチ包みを引き出すが、すっぽり抱え込まれていては、身じろぎも満足にできない。
離れろという意図を込めて名を呼んだが、男は抱き寄せる腕の力を緩めない。聞こえていないわけはないのに、片方の手は結い上げて下に流したフェリータの髪を梳くことに専念している。
「ちょっと、動けないのだけれど?」
「……」
また無視された。その上、梳いた毛先をさらに指で弄び始めたのが、見えなくてもわかる。もちろん自慢の髪だ。手触りがいいのは百も承知だが。
――毛先や、それをいじる指が、こしょこしょとうなじや耳をかすめていくのがものすごく気になる。フェリータは頬に熱が集まり始めるのを感じていた。
そもそもこの距離感も、神聖な教会の中ではよろしくない。背後に鎮座する偶像に冷たい視線を送られている気がする。
その上、グィードが無言で同じ空間にとどまっていることも、じわじわと気恥ずかしくなってきた。ここは通路のど真ん中だから、彼からは丸見えだ。
肩を抱いていた腕が若干下がって腰に向かい始めたのを察したフェリータは、離せと言う代わりに声を大きくした。
「リ、リカルドから、レリカリオを預かってるのだけれど!」
「……どうも」
小さく舌打ちが聞こえた気がしたが、つついたら蛇が出そうなので黙る。解放されたフェリータは赤く染まった顔を必死にむくれさせながら、やや苦労しつつハンカチの包みを解いた。
「これ、もう逆行魔術は発動しないんですって。公爵閣下も直せなかったと」
「逆行魔術? ……ああ、あれか。別にいい」
懐中時計を取り、文字盤を確認していたロレンツィオは一瞬眉根を寄せたが、すぐに興味を失っていつもの場所へ手早く仕舞った。
「とても限定的で複雑な発動条件だったんですって。なんの目的でそんなものを用意してたの?」
「さあ。でもあんな事態は二度と起こさせない。だから逆行も必要ない」
言葉とともに見つめられ、桃色の前髪をかきわけられ、額を撫でられる。ロレンツィオには、祖父の意図がわかっているようだった。
突然、予想外の強気な言葉と真摯な視線にあてられて、フェリータは照れて目を合わせていられなくなる。
そして同時に、胸の奥が、鉛のかたまりのような、重苦しい物で塞がれたのを感じた。頬に下りてきた大きな手に、自分のそれを重ねる。
「……ロレンツィオ、あの」
もう大魔術は使えないかもしれないと言いかけて、「フェリータ、」と遮られる。
「復帰後は無茶させないからな」
頬から手が離れていく。置き土産の言葉は気遣いのそれだった。
それに、フェリータの心臓はぎゅうと引き絞られた。――無茶は、しようもないのに。
言わねばならない。
フェリータは教会の入り口に立つグィードに目配せをした。
意図を正しく受け取った護衛騎士が外に出たのを見届けると、夫の手を引いて、近くのベンチに並んで座った。
「ロレンツィオ」
「ん?」
相手に伝わらないよう、小さく、深く、息を整える。
大丈夫。リカルドだってそう言った。
「わたくし、あのやり方は、もうできなくなりましたの。二度と」
ロレンツィオが、二度瞬きを繰り返した。その目が、フェリータの持つハンカチに向かい、口が薄く開いた。
「そうか」
不安が胸をよぎる。
好きな男と一緒にいるときは、正直言って甘やかされたい。この上なくかわいい女として、優しく扱ってもらいたい。
でもそれはそれとして、魔術師としては絶対に下に見られたくないプライドも、まだ確かにある。誰に対してもそうなのだ。心の底から愛する夫であっても、全身全霊で守ってくれる騎士であっても。
憐れまれたくない。
対等以上に戦った天敵相手なら、なおさらに。
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――それから、眉根を寄せて。
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むくれた頬を、にやっと笑う男の指が摘まんだので、フェリータはぺちっと払いのけた。
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