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番外編
甘い罠 前編
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この頃すっかり寒くなった。
こんな日は、暖かい部屋で、ゆっくり甘いものをいただくに限る。
*
「おい」
「おいってなんです無礼者」
「……伯爵夫人のいる別邸って、ヴィーナ通り沿いって言われた気がするんだが」
ガラスの菓子入れをお供に、ソファに腰かけたフェリータは顔を上げた。
夫のロレンツィオは、これから出かけるところのようだった。
「ええ、そうですけれど。ママに何かご用?」
彼がフェリータにいう“伯爵夫人”は、たいてい母ジーナ・ペルラのことを指している。
問い返されて、ロレンツィオは身支度を整える手に意識を集中させたまま「いや」と答えた。
「用ってほどじゃ。ただ以前、挨拶でもと思って見回りついでに探したんだが、見つけられなかったから」
「でしょうね」
手首のカフスを留めていたロレンツィオが、眉をひそめて顔を上げる。フェリータは構わず菓子入れの蓋を持ち上げた。
「パパが魔術で隠してますもの。ママのいるところには、パパが認めた人間しかたどり着けませんわよ」
言いながら、フェリータは容器から摘まんだ、薄紙に包まれた楕円形のチョコレート菓子に意識を向けていた。うっすら漂うのは、甘い、芳醇な香り。
こんなもの、この男は絶対食べないくせに、なんで屋敷に置いてあるのだろう。
――十中八九、こういう菓子が大好きな自分のためだ。成り行きで結婚した夫の、至らないところは数えるときりがないが、隠れ愛妻家なところはおおいに評価できる。隠さなければもっといい。
「結婚したばっかりの頃、後ろ盾のないママがパパの政敵に狙われたことがあったみたいで。それで、別邸に住まわせて家ごと隠したんですって。贈り物も毒が入ってるかもしれないから、一回本邸でパパの目を経由するようになってますし」
フェリータの言葉に、ロレンツィオは合点がいったように頷きながら、上着の合わせを整えた。
「はあ、なるほどね。別居にそんな理由があったとは」
「逆に、夫婦が別々に暮らすのに、それ以外にどんな理由があると思ってらしたの?」
「ほとんどの人間は住めないだろ、あんな男と一緒には」
「どういう意味ですの」
「言葉通りの意味ですのよ」
包みを開きながら、フェリータはムッとした。父は母のことを本当に大切にしているのだ。それをまあ、母の屋敷に行かせてもらうこともできない分際でずけずけと。
「……お仕事にいくの?」
「王妃殿下の護衛でな。物見塔の竣工式にお出になるってよ」
「バディーノ家とは相変わらず仲がよろしいのねぇ。わたくしが、青いネックレスで大変な目にあったのに」
「それとこれとは話が……何怒ってんだよ」
「別に。早くお行きよ、王妃様がお待ちかねでしょ」
菓子の入れ物を横に置いたフェリータは、ソファの上で両膝を立てて腕で囲い込み、顔を隠すようにそこへ顎を乗せた。わかりやすくふてくされた妻の様子に、身支度を整えたロレンツィオがため息交じりに近づき、かがんで視線を合わせる。
「仕方ないだろ、陛下の指名なんだから。忘れてないよあの件は」
「そういえば、パパが何より警戒してたのはバディーノ家からの贈り物とカヴァリエリ家からの贈り物でしたわね」
「ならレオナルド殿が持ってきたネックレスをホイホイ身につけんなよ」
「は? まさか、わたくしが悪いと思っ」
顔を上げた拍子に、顎を掴まれ、素早く口づけられる。
「思ってないけど、あんたも用心しろよ。俺のためにも」
口論の芽を摘み取った、触れるだけのキス。フェリータがそれでも口角を下げたままでいるのを見たロレンツィオは、懐中時計を一瞥してから妻の横に座り、小さな肩に腕を回して自分の方に引き寄せた。
再び唇が重なる。今度は、先程よりも深く濃厚なものだった。フェリータの腕が夫の首へと回る。角度を変えて、少し口を開けて、舌を相手と絡めて。
二人の間で紡がれた、小さな水音。
――次の瞬間、ロレンツィオは目を見開き、フェリータの肩を勢いよく押して距離を取った。
「おまっ……!」
口をおさえて立ち上がった男に、突き飛ばされるように離されたフェリータは、ふっと嘲るように口角を上げる。ついでに、口の中に残っていた糖衣のかけらをガリ、と噛みしめた。
「あーらあら、どうなさったのロレンツィオ殿。そんなに慌てて」
フェリータがわざとらしく問いかける。ロレンツィオは答えず、後ずさるようにソファから離れると壁際のチェストに手をつき、えずくように俯いた。
その背後で、フェリータは上機嫌で口の中に残ったチョコレートの風味を堪能していた。チョコに包まれていた、リキュール・ボンボンの中心部を、割れかけた糖衣ごと男の口内に押し込んだ舌が、唇の隙間からちらりと覗く。
ロレンツィオは酒に弱い。フェリータはそれを、結婚してから知った。
そんな印象がまるでなかったのだが、リカルドはちゃんと知っていたらしく、問いただせば『ああ』と、関心の薄そうな声が返ってきた。
『学生の時はともかく、今は人前であんまり飲んでないみたいだから、下戸って分かりづらいかもね。仕事に関わる場ではまず絶対酔わないようにしてるんじゃない。有事に備える意味でも、ぺ、……政敵に足元をすくわれないようにする意味でも』
――哀れな男。天敵に弱みを見せまいと用心深く酒を遠ざけていたのに、その天敵と結婚した途端こうもあっさり罠にかかってしまうだなんて。
「あららららまあまあまあ、ごめんなさいねぇ! まさかこんな小さなお菓子でそんなに苦しむなんて思わなくって! やだぁどうしましょ、ちっちゃなボンボン一つで酔っ払ってお仕事に行けなくなっちゃうなんてなっっっさけないですけど、よければわたくし、王妃様にご連絡しておいてあげてもよろしいんですのよ~~~~?」
そう言いながら、フェリータはうつむく男の大きな背中にとびついた。わざとらしい手つきで大げさにさすってやる。
どうせ報復したくても、もう仕事に行かないといけないからろくに何もできないはず。フェリータは勝ち誇って夫の顔を覗き込み、――その笑みをすぐさま引っ込めた。
「……ロレンツィオ?」
男は、まだ口を抑えていた。眉を寄せ、目を見開き、顔を青ざめさせて。
気づけば、さすってやっていた背中もかすかに震えている。今度はフェリータが顔色を変える番だった。
やりすぎた。
いや。確かに下戸なのだろうが、まったく飲めないわけではなかったはず。これだって、弱い人間にはあまり美味く感じないだろうという程度の、悪戯心のなせるわざだ。量だってたかが知れている。
なのにこんな、極端な反応は、まるで。
毒でも飲んだかのようではないか。
「ロ――っひ! やだ、あなた!!」
青ざめて呼びかけようとしたフェリータの前で、ロレンツィオはその場に蹲った。とっさに抱き起そうとすれば、触れた首の熱に目が白黒する。発熱。間違いない、何か盛られている。
しかしロレンツィオは、医師を呼びに行こうとするフェリータの行動を阻むように、その手を鷲掴みにした。
「……人は呼ぶな。これ、どこで手に入れた?」
フェリータは手を離せともがきながら「知るわけないでしょ!」と叫んで返した。
「あ、あなたがわたくしのために用意したものだとばっかり、……ええい放しなさいバカ力めっ、呼ばないわけにいきませんわよ!」
「食い物全部自分あてだと思うな……こんなん俺知らないぞ……こんな」
続く言葉を聞くために、フェリータは口をつぐみ、顔を寄せて耳を澄ませた。
「……魔術薬……媚薬効果の薬が混ぜられてるものなんて」
「び」
それきり、フェリータは絶句した。男の言葉が信じられなくて、改めてその様子に目を向ける。
しばらく、まん丸の目で蹲る全身をくまなく見回して。
「……なるほど」
大真面目な顔で納得し、頷いた。
なお、ピンクの髪に覆われた頭の中は、この事態にまだまだ大混乱のままである。
「……グ、グィーーーーード!!」
「呼ぶな! いらんから来るなーーーーーーー!!」
「だって、だってどうすればぁ……、っ!」
部屋の扉はフェリータの大声で素早く開きかけたが、ロレンツィオのそれ以上の強い制止で静かに閉まった。護衛が主人以外の命令を優先するなどあり得ないことだが、叱責する余裕はそのときのフェリータにはなかった。
しかし、自分の無様な涙声で、かえってフェリータの頭は少し冷静になっていた。
どうすればいいか、だって?
少なくとも、男の言う通り、『下手に人を呼んではいけない』のは確かだ。
フェリータは自分たちにとって名誉がどれほど重要か、よく知っていた。新興の家だってそれは同じ。ましてやロレンツィオは、魔術師としての働きが評価され、その地位を得たばかり。
それなのに、混ぜ物がされている菓子が家の中にあることに気づかず、おめおめとその薬効に屈しただなんて、笑い話では済まないかもしれない。――知らずに食べさせてしまったフェリータも、同じだ。
当主教育を受けていたフェリータは知っている。
誰に、どこで足を引っ張られるかわからないこの時世。家の不名誉につながるトラブルは、ある程度、内々で片付けねばならないということを。
「……」
しばらくその場で固まっていたフェリータだったが、再びロレンツィオが「……フェリータ、手を貸せ」と、唸るように呼びかけてきたときには、すっかり覚悟が決まっていた。
「ええ、わかってますわ。とにかくロレンツィオ、ひとまずあなたは寝台へ」
大きく頷くと、続きの部屋の寝台へと背中を押す。ロレンツィオは、硬い表情のフェリータの様子をうかがうような視線を寄越してきた。
「わかってるって……できるか? 慣れてないだろ」
「っ、あ、当たり前でしょうが! わたくしを誰だとお思い?」
寝台の上から危ういものを見るように確認されて、思わず返事がつっかえた。フェリータの怒ったようなその様子に、ロレンツィオのほうがばつが悪そうに視線をそらす。
「悪い、手間かける」
常にない殊勝な態度の夫を安心させるように「大丈夫よ」と笑いかける。
それから改めて内なる自分に向けても“大丈夫よ”と鼓舞し、慣れた寝台へと乗り上げる。
「……そこの」
「いいから。大丈夫、わかってますから」
男の声を遮り、その肩を押して完全に横たわらせる。そしてフェリータは、自らも寝台に乗り上げると、片足をわずかに上げ、されるがままの相手の腰をまたいで膝立ちになった。
――大丈夫。早鐘を打つ自分の心臓に、繰り返し言い聞かせる。
媚薬を飲んだ男のもとに、医者が呼ばれたなら事件だが。
妻がいたなら、ただの戯れ。
フェリータは、自分の出した結論に、無言でうんうんと大きく頷いた。
こういうときに落ち着いて機転を利かせられるかが、貴族当主や宮廷付き魔術師としての素質の有無に繋がるのだ。慣れてない? 問題ない。最初の一発で成功させればいいだけのこと。幸いもう何も知らない小娘ではないし、調べたところによるとこの体勢、女優位の形だという。ちょうどいい、この機会に夫婦の主導権も逆転させておけば――……
「待てや」
緊張で盛大に震えながら男の腰に伸ばした手が、気づくと強く掴まれていた。
地を這うような声を出した夫は、信じられないものを見るような目でこちらを見ている。
「なにする気だあんた」
「なにって、えっ、やだ言わせるの?」
「なにがヤダだ解術薬を作れバカ女!!」
えっ。
「なんっか様子がおかしいと思ったら!! 俺魔術薬だって言ったよな!? 魔術! 呪いで身体に影響を及ぼす薬液!! このあと何が起こるかわからない、体液介して移るタイプかもしれないってのに、つられて発情しやがって……、いいか、今! すぐに! 俺の血を抜き取って解析してそこの棚の材料で解術薬つくれベースはあるから! できないなら宮廷付きの誰かに頼めなんでこの状況でしらふで盛れるんだだいっっったいこっちは仕事行くとこだって言っただろうがいい加減そこから退けこのバカ女ーーーーーーーーッ!!!!」
***
カフェには暖かな空気と、焙煎したコーヒーのくすぐるような香りが心地よく漂っている。
その中で、リカルドは椅子にかけたまま、俯いて目を覆い、力なく吐き出した息とともにつぶやいた。
「面白すぎる」
「笑わないでっ!」
向かいで、フェリータは閉じた扇子でテーブルをバチンと力いっぱい叩いた。
こんな日は、暖かい部屋で、ゆっくり甘いものをいただくに限る。
*
「おい」
「おいってなんです無礼者」
「……伯爵夫人のいる別邸って、ヴィーナ通り沿いって言われた気がするんだが」
ガラスの菓子入れをお供に、ソファに腰かけたフェリータは顔を上げた。
夫のロレンツィオは、これから出かけるところのようだった。
「ええ、そうですけれど。ママに何かご用?」
彼がフェリータにいう“伯爵夫人”は、たいてい母ジーナ・ペルラのことを指している。
問い返されて、ロレンツィオは身支度を整える手に意識を集中させたまま「いや」と答えた。
「用ってほどじゃ。ただ以前、挨拶でもと思って見回りついでに探したんだが、見つけられなかったから」
「でしょうね」
手首のカフスを留めていたロレンツィオが、眉をひそめて顔を上げる。フェリータは構わず菓子入れの蓋を持ち上げた。
「パパが魔術で隠してますもの。ママのいるところには、パパが認めた人間しかたどり着けませんわよ」
言いながら、フェリータは容器から摘まんだ、薄紙に包まれた楕円形のチョコレート菓子に意識を向けていた。うっすら漂うのは、甘い、芳醇な香り。
こんなもの、この男は絶対食べないくせに、なんで屋敷に置いてあるのだろう。
――十中八九、こういう菓子が大好きな自分のためだ。成り行きで結婚した夫の、至らないところは数えるときりがないが、隠れ愛妻家なところはおおいに評価できる。隠さなければもっといい。
「結婚したばっかりの頃、後ろ盾のないママがパパの政敵に狙われたことがあったみたいで。それで、別邸に住まわせて家ごと隠したんですって。贈り物も毒が入ってるかもしれないから、一回本邸でパパの目を経由するようになってますし」
フェリータの言葉に、ロレンツィオは合点がいったように頷きながら、上着の合わせを整えた。
「はあ、なるほどね。別居にそんな理由があったとは」
「逆に、夫婦が別々に暮らすのに、それ以外にどんな理由があると思ってらしたの?」
「ほとんどの人間は住めないだろ、あんな男と一緒には」
「どういう意味ですの」
「言葉通りの意味ですのよ」
包みを開きながら、フェリータはムッとした。父は母のことを本当に大切にしているのだ。それをまあ、母の屋敷に行かせてもらうこともできない分際でずけずけと。
「……お仕事にいくの?」
「王妃殿下の護衛でな。物見塔の竣工式にお出になるってよ」
「バディーノ家とは相変わらず仲がよろしいのねぇ。わたくしが、青いネックレスで大変な目にあったのに」
「それとこれとは話が……何怒ってんだよ」
「別に。早くお行きよ、王妃様がお待ちかねでしょ」
菓子の入れ物を横に置いたフェリータは、ソファの上で両膝を立てて腕で囲い込み、顔を隠すようにそこへ顎を乗せた。わかりやすくふてくされた妻の様子に、身支度を整えたロレンツィオがため息交じりに近づき、かがんで視線を合わせる。
「仕方ないだろ、陛下の指名なんだから。忘れてないよあの件は」
「そういえば、パパが何より警戒してたのはバディーノ家からの贈り物とカヴァリエリ家からの贈り物でしたわね」
「ならレオナルド殿が持ってきたネックレスをホイホイ身につけんなよ」
「は? まさか、わたくしが悪いと思っ」
顔を上げた拍子に、顎を掴まれ、素早く口づけられる。
「思ってないけど、あんたも用心しろよ。俺のためにも」
口論の芽を摘み取った、触れるだけのキス。フェリータがそれでも口角を下げたままでいるのを見たロレンツィオは、懐中時計を一瞥してから妻の横に座り、小さな肩に腕を回して自分の方に引き寄せた。
再び唇が重なる。今度は、先程よりも深く濃厚なものだった。フェリータの腕が夫の首へと回る。角度を変えて、少し口を開けて、舌を相手と絡めて。
二人の間で紡がれた、小さな水音。
――次の瞬間、ロレンツィオは目を見開き、フェリータの肩を勢いよく押して距離を取った。
「おまっ……!」
口をおさえて立ち上がった男に、突き飛ばされるように離されたフェリータは、ふっと嘲るように口角を上げる。ついでに、口の中に残っていた糖衣のかけらをガリ、と噛みしめた。
「あーらあら、どうなさったのロレンツィオ殿。そんなに慌てて」
フェリータがわざとらしく問いかける。ロレンツィオは答えず、後ずさるようにソファから離れると壁際のチェストに手をつき、えずくように俯いた。
その背後で、フェリータは上機嫌で口の中に残ったチョコレートの風味を堪能していた。チョコに包まれていた、リキュール・ボンボンの中心部を、割れかけた糖衣ごと男の口内に押し込んだ舌が、唇の隙間からちらりと覗く。
ロレンツィオは酒に弱い。フェリータはそれを、結婚してから知った。
そんな印象がまるでなかったのだが、リカルドはちゃんと知っていたらしく、問いただせば『ああ』と、関心の薄そうな声が返ってきた。
『学生の時はともかく、今は人前であんまり飲んでないみたいだから、下戸って分かりづらいかもね。仕事に関わる場ではまず絶対酔わないようにしてるんじゃない。有事に備える意味でも、ぺ、……政敵に足元をすくわれないようにする意味でも』
――哀れな男。天敵に弱みを見せまいと用心深く酒を遠ざけていたのに、その天敵と結婚した途端こうもあっさり罠にかかってしまうだなんて。
「あららららまあまあまあ、ごめんなさいねぇ! まさかこんな小さなお菓子でそんなに苦しむなんて思わなくって! やだぁどうしましょ、ちっちゃなボンボン一つで酔っ払ってお仕事に行けなくなっちゃうなんてなっっっさけないですけど、よければわたくし、王妃様にご連絡しておいてあげてもよろしいんですのよ~~~~?」
そう言いながら、フェリータはうつむく男の大きな背中にとびついた。わざとらしい手つきで大げさにさすってやる。
どうせ報復したくても、もう仕事に行かないといけないからろくに何もできないはず。フェリータは勝ち誇って夫の顔を覗き込み、――その笑みをすぐさま引っ込めた。
「……ロレンツィオ?」
男は、まだ口を抑えていた。眉を寄せ、目を見開き、顔を青ざめさせて。
気づけば、さすってやっていた背中もかすかに震えている。今度はフェリータが顔色を変える番だった。
やりすぎた。
いや。確かに下戸なのだろうが、まったく飲めないわけではなかったはず。これだって、弱い人間にはあまり美味く感じないだろうという程度の、悪戯心のなせるわざだ。量だってたかが知れている。
なのにこんな、極端な反応は、まるで。
毒でも飲んだかのようではないか。
「ロ――っひ! やだ、あなた!!」
青ざめて呼びかけようとしたフェリータの前で、ロレンツィオはその場に蹲った。とっさに抱き起そうとすれば、触れた首の熱に目が白黒する。発熱。間違いない、何か盛られている。
しかしロレンツィオは、医師を呼びに行こうとするフェリータの行動を阻むように、その手を鷲掴みにした。
「……人は呼ぶな。これ、どこで手に入れた?」
フェリータは手を離せともがきながら「知るわけないでしょ!」と叫んで返した。
「あ、あなたがわたくしのために用意したものだとばっかり、……ええい放しなさいバカ力めっ、呼ばないわけにいきませんわよ!」
「食い物全部自分あてだと思うな……こんなん俺知らないぞ……こんな」
続く言葉を聞くために、フェリータは口をつぐみ、顔を寄せて耳を澄ませた。
「……魔術薬……媚薬効果の薬が混ぜられてるものなんて」
「び」
それきり、フェリータは絶句した。男の言葉が信じられなくて、改めてその様子に目を向ける。
しばらく、まん丸の目で蹲る全身をくまなく見回して。
「……なるほど」
大真面目な顔で納得し、頷いた。
なお、ピンクの髪に覆われた頭の中は、この事態にまだまだ大混乱のままである。
「……グ、グィーーーーード!!」
「呼ぶな! いらんから来るなーーーーーーー!!」
「だって、だってどうすればぁ……、っ!」
部屋の扉はフェリータの大声で素早く開きかけたが、ロレンツィオのそれ以上の強い制止で静かに閉まった。護衛が主人以外の命令を優先するなどあり得ないことだが、叱責する余裕はそのときのフェリータにはなかった。
しかし、自分の無様な涙声で、かえってフェリータの頭は少し冷静になっていた。
どうすればいいか、だって?
少なくとも、男の言う通り、『下手に人を呼んではいけない』のは確かだ。
フェリータは自分たちにとって名誉がどれほど重要か、よく知っていた。新興の家だってそれは同じ。ましてやロレンツィオは、魔術師としての働きが評価され、その地位を得たばかり。
それなのに、混ぜ物がされている菓子が家の中にあることに気づかず、おめおめとその薬効に屈しただなんて、笑い話では済まないかもしれない。――知らずに食べさせてしまったフェリータも、同じだ。
当主教育を受けていたフェリータは知っている。
誰に、どこで足を引っ張られるかわからないこの時世。家の不名誉につながるトラブルは、ある程度、内々で片付けねばならないということを。
「……」
しばらくその場で固まっていたフェリータだったが、再びロレンツィオが「……フェリータ、手を貸せ」と、唸るように呼びかけてきたときには、すっかり覚悟が決まっていた。
「ええ、わかってますわ。とにかくロレンツィオ、ひとまずあなたは寝台へ」
大きく頷くと、続きの部屋の寝台へと背中を押す。ロレンツィオは、硬い表情のフェリータの様子をうかがうような視線を寄越してきた。
「わかってるって……できるか? 慣れてないだろ」
「っ、あ、当たり前でしょうが! わたくしを誰だとお思い?」
寝台の上から危ういものを見るように確認されて、思わず返事がつっかえた。フェリータの怒ったようなその様子に、ロレンツィオのほうがばつが悪そうに視線をそらす。
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常にない殊勝な態度の夫を安心させるように「大丈夫よ」と笑いかける。
それから改めて内なる自分に向けても“大丈夫よ”と鼓舞し、慣れた寝台へと乗り上げる。
「……そこの」
「いいから。大丈夫、わかってますから」
男の声を遮り、その肩を押して完全に横たわらせる。そしてフェリータは、自らも寝台に乗り上げると、片足をわずかに上げ、されるがままの相手の腰をまたいで膝立ちになった。
――大丈夫。早鐘を打つ自分の心臓に、繰り返し言い聞かせる。
媚薬を飲んだ男のもとに、医者が呼ばれたなら事件だが。
妻がいたなら、ただの戯れ。
フェリータは、自分の出した結論に、無言でうんうんと大きく頷いた。
こういうときに落ち着いて機転を利かせられるかが、貴族当主や宮廷付き魔術師としての素質の有無に繋がるのだ。慣れてない? 問題ない。最初の一発で成功させればいいだけのこと。幸いもう何も知らない小娘ではないし、調べたところによるとこの体勢、女優位の形だという。ちょうどいい、この機会に夫婦の主導権も逆転させておけば――……
「待てや」
緊張で盛大に震えながら男の腰に伸ばした手が、気づくと強く掴まれていた。
地を這うような声を出した夫は、信じられないものを見るような目でこちらを見ている。
「なにする気だあんた」
「なにって、えっ、やだ言わせるの?」
「なにがヤダだ解術薬を作れバカ女!!」
えっ。
「なんっか様子がおかしいと思ったら!! 俺魔術薬だって言ったよな!? 魔術! 呪いで身体に影響を及ぼす薬液!! このあと何が起こるかわからない、体液介して移るタイプかもしれないってのに、つられて発情しやがって……、いいか、今! すぐに! 俺の血を抜き取って解析してそこの棚の材料で解術薬つくれベースはあるから! できないなら宮廷付きの誰かに頼めなんでこの状況でしらふで盛れるんだだいっっったいこっちは仕事行くとこだって言っただろうがいい加減そこから退けこのバカ女ーーーーーーーーッ!!!!」
***
カフェには暖かな空気と、焙煎したコーヒーのくすぐるような香りが心地よく漂っている。
その中で、リカルドは椅子にかけたまま、俯いて目を覆い、力なく吐き出した息とともにつぶやいた。
「面白すぎる」
「笑わないでっ!」
向かいで、フェリータは閉じた扇子でテーブルをバチンと力いっぱい叩いた。
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