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漣編
【漣編】24:xx15年7月4日
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ヴァイオリンを奏でている時、乃亜はある意味では何も考えていない。
もちろん、指や弓の動かし方などはある程度意識しているところはあるので
完全な無意識とは言わないだろう。
しかし目を閉じて、ただヴァイオリンから音を紡ぐとき、
なにか心の深いところに意識をむけるような、そんな心地になる。
去年の晩秋、ましろが大病を患い、その手術の前に
なにか少しでも彼女の心を慰められればと考えた。
自分にできることは本当に少ない。
それをCORDで煉矢に相談していた。
静は当時、ましろの見舞いや、自身の論文の校正で忙しかった。
勿論煉矢も忙しいだろうが、何度も相談に乗ってもらっているうちに
彼に相談することは、いくらもハードルが低くなっていたのだ。
『ヴァイオリン演奏を録音して届けてはどうだ』
そうアイデアを貰い、実行した。
だが、実際に実行するまでに様々な葛藤はあった。
乃亜にとって、自身のヴァイオリンなど本当にたかが知れているというのが自己評価だ。
無論全く弾けないわけではないので、完全に素人というわけではないが
それでも誰かに聴かせるほどのものではないと、心底考えているのだ。
耳障りだったら、大変な手術の前に気分を害したら、
自分の気持ちの押し付けにならないか、変に気を遣わせることにならないか。
様々に葛藤したが、ヴァイオリン教室の水野に頼むことにした。
おかしな演奏ではないか指摘をしてほしいとして、
快諾した彼女に録音を手伝ってもらった。
引き終えると水野は満足そうにうなずいていた。
どうやら変な演奏ではなかったことに安堵して、
続けて兄に、本当にましろが嫌な気分になったら止めてくれと
何度も繰り返し注意をしてデータを渡した。
果たしてその結果、自宅に戻った静は深く感謝してくれ、
素晴らしい演奏だったとほめてくれた。
安心はしたものの、そこまで褒められるようなことではない、と思っている。
自覚している。細かな弓の引きや弦の抑えが甘かった。
G線のみで演奏するこの曲、もっと深い響きを出せたはず。
もっと切り替えをなめらかに出来たはず。
だから乃亜はひたすらに、苦笑いでとどめる他なかった。
そうして今日もヴァイオリンを弾く。
今日弾いているのは、「ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ」。
静かに流れていく花の揺れ、噴水のせせらぎ、揺れる緑。
そんなささやかな、日常のふとした瞬間の美しさを感じさせる曲。
乃亜は水野のピアノにあわせて奏でる。
けれど時折感じ取るのは音色のズレ。
乃亜の異常に鋭い聴覚はそれを正確に感じ取る。
けれど水野はそれを指摘することなく、やがて曲は終わった。
「うん、今日もとてもいいわね!」
「そ、そうですか……?」
「あら、なにか納得がいかなかった?」
「いえ、その……ビブラートが弱いというか……」
「……成程、あなたにはそう聞えたのね」
水野は右腕の肘を左手で抱え、頬杖をつくような体勢で苦笑いを浮かべた。
乃亜ははっとして首を振った。
余計なことを言ってしまった。
「す、すみません……っ」
「謝らないでいいのよ。あなたは本当に耳がいいから、
私には感じられないなにかがあるのね」
「いえ、あの、本当に、私の勘違いだと思うので……っ。
水野先生が問題ないと仰るなら、問題ないと思いますし……!」
「そうして信頼してくれるのは嬉しいけれど……」
水野はいよいよ深く苦笑いを浮かべた。
乃亜がこの教室に通い始めて、そろそろ2年が経過しようとしている。
水野は最初の乃亜の演奏をいまだに覚えていた。
衝撃的な演奏だった。
確かに技巧としては甘い部分もあったが、その演奏にはおおきな力があった。
壮大な音色から感じられる、聞いているこちらの心を大きく揺らす力は圧倒的だった。
感情すべてをかき乱されるような音色に心底震えた。
技巧についてはこれから学べばよい、と言ったとおり、
乃亜はここで技巧について改めて学んだ。
そして水野が感じていた通り、乃亜は瞬く間にそれを吸収していった。
今や、よほどの技巧曲でなければ、ひとしきり弾くことができるだろう。
それこそ、初見の曲も含めてだ。
しかし、乃亜はそれでもどこか自信を持てないでいるように水野には見えていた。
ヴァイオリンを奏でているときは、とても堂々として自信に満ちた様子をみせるのに
終わった後はどこか気弱で、自信のない控えめな少女に戻る。
どれだけヴァイオリンの演奏を褒めても
苦笑いで曖昧にうなずくばかりだ。
水野は少し考え、棚の中に入っているチラシを取りだした。
「ねぇ、乃亜さん。
もちろん、無理にじゃないんだけど」
「は、はい……」
そうして出された提案に、乃亜はひたすらに戸惑った。
暗い星空の中に一筋の星が消えていく。
心地よい音楽が流れる中、星空が半球の空に浮かび上がっている。
それをリクライニングした椅子に深く腰掛け見上げている。
『……、この七夕の物語に登場する織姫は、夜空でひときわ明るく輝くベガ、
そして彦星は、その少し離れた場所で輝くアルタイルです』
ナレーションの声とともに、満天の星空の中の二つの星を大きな矢印が示す。
『このベガは、こと座という星座、またアルタイルはわし座という星座の星ですが
それぞれ、その星座の中で最も明るい星です。
この二つの星の間に流れているのが、天の川です。
まるで牛乳を流したように見えることから、ミルキーウェイとも呼ばれています』
映像とはいえその美しさにはほっと息を吐き出すほどだ。
自分たちの住んでいる都心では難しいだろうが、
いつかこの目で見てみたいものだと正直思う。
プラネタリウムのナレーションは続けて、天の川にかかる白鳥座の解説を進めていく。
『はるか昔から人々は、この七夕の夜に、織姫と彦星の物語に想いを馳せ、
星に願いを託してきました。
私たちも今夜、満天の星空の下で、遠い物語に思いを馳せてみませんか。
そして、皆さんの心の中にある願いを、
この美しい星々にそっと語りかけてみてください。
きっと、星たちはその願いを受け止めてくれることでしょう』
星に願いを、というのは昔から言われてきたものだ。
自分は星に願いはしなかったな。
願うより先に、希望がもたらされたからかもしれない。
ましろは指を絡めて繋ぐ手に、そっと力を込める。
すぐに静は握り返してくれた。
ふと隣を見ると、目を細めて微笑んでいた。
なんだか少し照れ臭いが、ましろもそれに笑って返した。
プラネタリウムが終わり、室内が明るくなる。
ざわざわとしたほかの客もそれぞれに感想を言いながら施設から出ていった。
「プラネタリウムなんて久しぶりだったけど、面白かったね」
「そうだな、悪くなかった。またいずれ来よう」
「時期によってプログラムも違うみたいだしね」
二人もまた手をつなぎ、施設をあとにする。
ましろは去年の年末に退院し、その後順調に回復していた。
大きな問題もなく、高校生活も基本的には問題なく過ごせている。
体育といった運動や身体を動かすものについては、
病院から学校へ診断書を通して指示があるらしく、
残念ながら殆どの授業は見学だ。
これに関しては正直残念なところはある。
だがそれでも嬉しいことに、剣道の素振り程度であれば許可が下りた。
先日久しぶりに素振りをしたときは感動を覚えた。
ともあれ順調に回復は進み、少なくとも日常生活は問題ない。
こうして、休みの日に静とデートをするのはもう恒例だ。
勿論互いに予定もあるし、静も暇なわけではない。
しょっちゅうとはいわないが、
それでも時間を見つけてはこうして共に過ごすようになった。
プラネタリウムを出た二人は別のフロアへと足を向ける。
具体的になにかを目指しているわけではなく、
二人で歩きながらウィンドウショッピングを楽しむ。
季節は7月。
まだ梅雨の真っただ中で、今日も外は曇天だ。
幸い来るとき雨に降られることはなかったが、蒸し暑さは不快感を強める。
エアコンのきいた商業施設の中は、雨から逃れるように多くの人が行きかっている。
季節のファッションや雑貨、
この時期らしいレイングッズの特設売り場などを冷やかし、
二人は他愛ない話を重ね、時に小さく声を上げて笑う。
その最中もずっと手をつないだままだ。
まだしばらくは、この平凡なデートに特別さを感じてしまうだろう。
こうして肩を並べて、手を繋いで歩く日々を夢見ていたのだから。
商業施設の中央の吹き抜けを見上げながら、
二人は近くのカフェで購入した飲み物を手にベンチに座る。
ましろはアイスカフェモカ、静はアイスティー。
冷たいそれらはほっと身体の疲労を溶かした。
「疲れたか?」
「ううん、そんなに。実際、だいぶ体力も戻ったしね」
「ならいいが、無理はするなよ」
「分かってる。あなた相手には誤魔化さないよ」
「知ってる」
くすりとましろは笑う。
手の中の少し嵩の下がったカフェモカのカップ。
ストローを軽く回して上にかかった生クリームをケースの中でかき回した。
「だが今日よかったのか?もうすぐ期末だろ?」
「そういうこと言っちゃう?
というか、それ言ったら、静だってそうでしょ。
平気なの、卒業研究あるんでしょ?」
「お前とのデートの時間を確保するくらいには余裕はある」
臆面もなくそういうことをさらりという。
ましろは少し照れをごまかすように息を吐いた。
静は今大学三年生だ。
しかし、昨年、研究が認められ学会で発表した。
大学二年生でのそれは異例であり、それ以上の研究の内容に関しても
国内外からかなり注目されており、将来を大きく期待されているらしい。
そういった功績を認められ、早期卒業を認められた。
つまり一般的な大学生より一年早く大学を卒業、
卒業研究が収められれば、来年から大学院、つまり修士課程にはいることになっている。
「本当に優秀だよねぇ……」
「さあな」
なにが「さあな」なのか。
謙遜にもなりやしない。
「実際これからだ。学生だから甘くみられてるところもある。
今優秀とされても、これからなにも成果も出ないのでは意味がないしな。
今はあくまで、机上の理論程度の話だし」
「それはそうかもだけど」
「そういう意味では、安定とは言えない。
まだまだ道半ば。それで優秀と言われても、俺自身実感がない」
「静基準ならそうかもだけど、あんまり声に出して言わない方がいいよ?
絶対余計な顰蹙買うって」
「分かってる。どうみられているかは理解してるつもりだからな。
それに則った態度は取る」
「なんか愚痴りたいことでもあった?」
「いいや、今はまだ特にない。いずれあったらそうさせてくれ」
「それはもちろん構わないけど、代わりにお願いきいてくれる?」
「うん?」
意外だったのだろう、不思議そうにこちらに目を向ける。
ましろは悪戯めいた顔で笑った。
「少しだけ、家庭教師、してくれない?
数学と英語。期末、ちょっとあやしいから」
「……ふふ、ああ、いくらでも」
喧騒の中、二人はくすくすと笑いあった。
時刻は18:00過ぎ。
乃亜はヴァイオリン教室を終えて帰路に就く。
最寄駅から自宅までの10分程度の道を歩きながら、
乃亜は、先ほど水野に提案されたことを考える。
『もちろん、無理にじゃないの。ただ、少し考えてみて』
何故今、水野がそれを提案してきたのか分からない。
背中に背負うヴァイオリンケースが少し重たい。
ヴァイオリンを弾くということ。
その意味を問われているような気がして、なにか重たい。
乃亜にとってはそこまで大仰なことではないのだ。
思い返せば、もう二年も前。
兄に連れられ、ヴァイオリン教室に初めて足を踏み入れた。
なにか期待のような高揚感、緊張だった。
あの感覚がなにか、今でもよく理解できていない。
ただヴァイオリンを久しぶりに弾けるとなって、
ずっと失くしていたものが戻ってきたような心地になった。
久しぶりに奏でて、ずっと求めていたものが手に入ったような安心感。
何故そんな風に思ったのかも、よくわからないけれど。
ともあれ乃亜にとってヴァイオリンは、
なにか自分にとって特別なのかもしれないが、
その理由は明確ではなく、ただ奏でられれば良い、それだけだ。
つらつらと出口の見えない思考を続けていると
瞬く間に自分のマンションにたどり着いた。
エレベータで5階に上がり、角部屋へと向かう。
今日静はましろと出かけているはず。
もう帰ってきているだろうか。
二人の関係は知っている。
去年あのような出来事があったのだから、
二人には思い切り幸せな時間を過ごしてほしい。
もし不在であれば、夕飯はどうするかを兄に確認だけ取ろうか。
そんなことを考えながら、鞄から鍵を取り出し、解錠した。
「ただいま帰りました」
「あ、おかえり、乃亜」
「え?」
ドアを開けて帰宅の挨拶をクセのように言えば、
明るい声がリビングのほうからした。
廊下も電気がついており、扉が開いて見通せるリビングの向こうから
ひょこりと顔だけ出したのは、ましろだった。
「ましろ、来ていたんですね」
「うん、お邪魔してます」
「おかえり、乃亜」
「ただいま帰りました、兄さん」
靴を脱いで廊下を行くと、キッチン奥に静の姿もあった。
静とましろは二人並んでキッチンに立っていた。
「お二人とも、はやかったんですね」
「ちょっと試験勉強しててね」
ましろがそう言いながら手元でレタスをちぎっている。
リビングのローテーブルを見ると、そこに見覚えのない教科書とノートが並んでいた。
「乃亜もだと思うけど、もうすぐ期末でしょ?」
「ああ、成程」
「それで家にきたから、そのまま夕食を一緒にという話になった。
まだかかるから、お前は休んでいていいぞ」
「はい、ありがとうございます」
乃亜は納得し、二人に断りを入れて自室に荷物を片付けに行った。
普段静と二人で食事を作る時間も心地よいが、
ましろもそこにいてくれるのはなんだかくすぐったくも楽しい。
リビングに面した自室へ入り、スライドのドアを閉じる。
キッチンの方で、静とましろが夕食の支度をしているのを聞きながら
乃亜はくすりと笑った。
ヴァイオリンを片付け、トートバックを一度ベッドに置く。
しまったままにしておくのもおかしいかと、
乃亜はバックの中から一枚のチラシを取り出した。
ベッドに座りそれをじっと眺め、小さく息を吐き出す。
大きな施設の写真、その入り口から広がる虹の絵。
ピアノや音符、フルート、ヴァイオリンのイラストが明るく描かれ。
中央には大きく【Sound Palette Fes'15】とポップなロゴ。
水野から渡された、音楽コンクール出場者募集のチラシだった。
もちろん、指や弓の動かし方などはある程度意識しているところはあるので
完全な無意識とは言わないだろう。
しかし目を閉じて、ただヴァイオリンから音を紡ぐとき、
なにか心の深いところに意識をむけるような、そんな心地になる。
去年の晩秋、ましろが大病を患い、その手術の前に
なにか少しでも彼女の心を慰められればと考えた。
自分にできることは本当に少ない。
それをCORDで煉矢に相談していた。
静は当時、ましろの見舞いや、自身の論文の校正で忙しかった。
勿論煉矢も忙しいだろうが、何度も相談に乗ってもらっているうちに
彼に相談することは、いくらもハードルが低くなっていたのだ。
『ヴァイオリン演奏を録音して届けてはどうだ』
そうアイデアを貰い、実行した。
だが、実際に実行するまでに様々な葛藤はあった。
乃亜にとって、自身のヴァイオリンなど本当にたかが知れているというのが自己評価だ。
無論全く弾けないわけではないので、完全に素人というわけではないが
それでも誰かに聴かせるほどのものではないと、心底考えているのだ。
耳障りだったら、大変な手術の前に気分を害したら、
自分の気持ちの押し付けにならないか、変に気を遣わせることにならないか。
様々に葛藤したが、ヴァイオリン教室の水野に頼むことにした。
おかしな演奏ではないか指摘をしてほしいとして、
快諾した彼女に録音を手伝ってもらった。
引き終えると水野は満足そうにうなずいていた。
どうやら変な演奏ではなかったことに安堵して、
続けて兄に、本当にましろが嫌な気分になったら止めてくれと
何度も繰り返し注意をしてデータを渡した。
果たしてその結果、自宅に戻った静は深く感謝してくれ、
素晴らしい演奏だったとほめてくれた。
安心はしたものの、そこまで褒められるようなことではない、と思っている。
自覚している。細かな弓の引きや弦の抑えが甘かった。
G線のみで演奏するこの曲、もっと深い響きを出せたはず。
もっと切り替えをなめらかに出来たはず。
だから乃亜はひたすらに、苦笑いでとどめる他なかった。
そうして今日もヴァイオリンを弾く。
今日弾いているのは、「ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ」。
静かに流れていく花の揺れ、噴水のせせらぎ、揺れる緑。
そんなささやかな、日常のふとした瞬間の美しさを感じさせる曲。
乃亜は水野のピアノにあわせて奏でる。
けれど時折感じ取るのは音色のズレ。
乃亜の異常に鋭い聴覚はそれを正確に感じ取る。
けれど水野はそれを指摘することなく、やがて曲は終わった。
「うん、今日もとてもいいわね!」
「そ、そうですか……?」
「あら、なにか納得がいかなかった?」
「いえ、その……ビブラートが弱いというか……」
「……成程、あなたにはそう聞えたのね」
水野は右腕の肘を左手で抱え、頬杖をつくような体勢で苦笑いを浮かべた。
乃亜ははっとして首を振った。
余計なことを言ってしまった。
「す、すみません……っ」
「謝らないでいいのよ。あなたは本当に耳がいいから、
私には感じられないなにかがあるのね」
「いえ、あの、本当に、私の勘違いだと思うので……っ。
水野先生が問題ないと仰るなら、問題ないと思いますし……!」
「そうして信頼してくれるのは嬉しいけれど……」
水野はいよいよ深く苦笑いを浮かべた。
乃亜がこの教室に通い始めて、そろそろ2年が経過しようとしている。
水野は最初の乃亜の演奏をいまだに覚えていた。
衝撃的な演奏だった。
確かに技巧としては甘い部分もあったが、その演奏にはおおきな力があった。
壮大な音色から感じられる、聞いているこちらの心を大きく揺らす力は圧倒的だった。
感情すべてをかき乱されるような音色に心底震えた。
技巧についてはこれから学べばよい、と言ったとおり、
乃亜はここで技巧について改めて学んだ。
そして水野が感じていた通り、乃亜は瞬く間にそれを吸収していった。
今や、よほどの技巧曲でなければ、ひとしきり弾くことができるだろう。
それこそ、初見の曲も含めてだ。
しかし、乃亜はそれでもどこか自信を持てないでいるように水野には見えていた。
ヴァイオリンを奏でているときは、とても堂々として自信に満ちた様子をみせるのに
終わった後はどこか気弱で、自信のない控えめな少女に戻る。
どれだけヴァイオリンの演奏を褒めても
苦笑いで曖昧にうなずくばかりだ。
水野は少し考え、棚の中に入っているチラシを取りだした。
「ねぇ、乃亜さん。
もちろん、無理にじゃないんだけど」
「は、はい……」
そうして出された提案に、乃亜はひたすらに戸惑った。
暗い星空の中に一筋の星が消えていく。
心地よい音楽が流れる中、星空が半球の空に浮かび上がっている。
それをリクライニングした椅子に深く腰掛け見上げている。
『……、この七夕の物語に登場する織姫は、夜空でひときわ明るく輝くベガ、
そして彦星は、その少し離れた場所で輝くアルタイルです』
ナレーションの声とともに、満天の星空の中の二つの星を大きな矢印が示す。
『このベガは、こと座という星座、またアルタイルはわし座という星座の星ですが
それぞれ、その星座の中で最も明るい星です。
この二つの星の間に流れているのが、天の川です。
まるで牛乳を流したように見えることから、ミルキーウェイとも呼ばれています』
映像とはいえその美しさにはほっと息を吐き出すほどだ。
自分たちの住んでいる都心では難しいだろうが、
いつかこの目で見てみたいものだと正直思う。
プラネタリウムのナレーションは続けて、天の川にかかる白鳥座の解説を進めていく。
『はるか昔から人々は、この七夕の夜に、織姫と彦星の物語に想いを馳せ、
星に願いを託してきました。
私たちも今夜、満天の星空の下で、遠い物語に思いを馳せてみませんか。
そして、皆さんの心の中にある願いを、
この美しい星々にそっと語りかけてみてください。
きっと、星たちはその願いを受け止めてくれることでしょう』
星に願いを、というのは昔から言われてきたものだ。
自分は星に願いはしなかったな。
願うより先に、希望がもたらされたからかもしれない。
ましろは指を絡めて繋ぐ手に、そっと力を込める。
すぐに静は握り返してくれた。
ふと隣を見ると、目を細めて微笑んでいた。
なんだか少し照れ臭いが、ましろもそれに笑って返した。
プラネタリウムが終わり、室内が明るくなる。
ざわざわとしたほかの客もそれぞれに感想を言いながら施設から出ていった。
「プラネタリウムなんて久しぶりだったけど、面白かったね」
「そうだな、悪くなかった。またいずれ来よう」
「時期によってプログラムも違うみたいだしね」
二人もまた手をつなぎ、施設をあとにする。
ましろは去年の年末に退院し、その後順調に回復していた。
大きな問題もなく、高校生活も基本的には問題なく過ごせている。
体育といった運動や身体を動かすものについては、
病院から学校へ診断書を通して指示があるらしく、
残念ながら殆どの授業は見学だ。
これに関しては正直残念なところはある。
だがそれでも嬉しいことに、剣道の素振り程度であれば許可が下りた。
先日久しぶりに素振りをしたときは感動を覚えた。
ともあれ順調に回復は進み、少なくとも日常生活は問題ない。
こうして、休みの日に静とデートをするのはもう恒例だ。
勿論互いに予定もあるし、静も暇なわけではない。
しょっちゅうとはいわないが、
それでも時間を見つけてはこうして共に過ごすようになった。
プラネタリウムを出た二人は別のフロアへと足を向ける。
具体的になにかを目指しているわけではなく、
二人で歩きながらウィンドウショッピングを楽しむ。
季節は7月。
まだ梅雨の真っただ中で、今日も外は曇天だ。
幸い来るとき雨に降られることはなかったが、蒸し暑さは不快感を強める。
エアコンのきいた商業施設の中は、雨から逃れるように多くの人が行きかっている。
季節のファッションや雑貨、
この時期らしいレイングッズの特設売り場などを冷やかし、
二人は他愛ない話を重ね、時に小さく声を上げて笑う。
その最中もずっと手をつないだままだ。
まだしばらくは、この平凡なデートに特別さを感じてしまうだろう。
こうして肩を並べて、手を繋いで歩く日々を夢見ていたのだから。
商業施設の中央の吹き抜けを見上げながら、
二人は近くのカフェで購入した飲み物を手にベンチに座る。
ましろはアイスカフェモカ、静はアイスティー。
冷たいそれらはほっと身体の疲労を溶かした。
「疲れたか?」
「ううん、そんなに。実際、だいぶ体力も戻ったしね」
「ならいいが、無理はするなよ」
「分かってる。あなた相手には誤魔化さないよ」
「知ってる」
くすりとましろは笑う。
手の中の少し嵩の下がったカフェモカのカップ。
ストローを軽く回して上にかかった生クリームをケースの中でかき回した。
「だが今日よかったのか?もうすぐ期末だろ?」
「そういうこと言っちゃう?
というか、それ言ったら、静だってそうでしょ。
平気なの、卒業研究あるんでしょ?」
「お前とのデートの時間を確保するくらいには余裕はある」
臆面もなくそういうことをさらりという。
ましろは少し照れをごまかすように息を吐いた。
静は今大学三年生だ。
しかし、昨年、研究が認められ学会で発表した。
大学二年生でのそれは異例であり、それ以上の研究の内容に関しても
国内外からかなり注目されており、将来を大きく期待されているらしい。
そういった功績を認められ、早期卒業を認められた。
つまり一般的な大学生より一年早く大学を卒業、
卒業研究が収められれば、来年から大学院、つまり修士課程にはいることになっている。
「本当に優秀だよねぇ……」
「さあな」
なにが「さあな」なのか。
謙遜にもなりやしない。
「実際これからだ。学生だから甘くみられてるところもある。
今優秀とされても、これからなにも成果も出ないのでは意味がないしな。
今はあくまで、机上の理論程度の話だし」
「それはそうかもだけど」
「そういう意味では、安定とは言えない。
まだまだ道半ば。それで優秀と言われても、俺自身実感がない」
「静基準ならそうかもだけど、あんまり声に出して言わない方がいいよ?
絶対余計な顰蹙買うって」
「分かってる。どうみられているかは理解してるつもりだからな。
それに則った態度は取る」
「なんか愚痴りたいことでもあった?」
「いいや、今はまだ特にない。いずれあったらそうさせてくれ」
「それはもちろん構わないけど、代わりにお願いきいてくれる?」
「うん?」
意外だったのだろう、不思議そうにこちらに目を向ける。
ましろは悪戯めいた顔で笑った。
「少しだけ、家庭教師、してくれない?
数学と英語。期末、ちょっとあやしいから」
「……ふふ、ああ、いくらでも」
喧騒の中、二人はくすくすと笑いあった。
時刻は18:00過ぎ。
乃亜はヴァイオリン教室を終えて帰路に就く。
最寄駅から自宅までの10分程度の道を歩きながら、
乃亜は、先ほど水野に提案されたことを考える。
『もちろん、無理にじゃないの。ただ、少し考えてみて』
何故今、水野がそれを提案してきたのか分からない。
背中に背負うヴァイオリンケースが少し重たい。
ヴァイオリンを弾くということ。
その意味を問われているような気がして、なにか重たい。
乃亜にとってはそこまで大仰なことではないのだ。
思い返せば、もう二年も前。
兄に連れられ、ヴァイオリン教室に初めて足を踏み入れた。
なにか期待のような高揚感、緊張だった。
あの感覚がなにか、今でもよく理解できていない。
ただヴァイオリンを久しぶりに弾けるとなって、
ずっと失くしていたものが戻ってきたような心地になった。
久しぶりに奏でて、ずっと求めていたものが手に入ったような安心感。
何故そんな風に思ったのかも、よくわからないけれど。
ともあれ乃亜にとってヴァイオリンは、
なにか自分にとって特別なのかもしれないが、
その理由は明確ではなく、ただ奏でられれば良い、それだけだ。
つらつらと出口の見えない思考を続けていると
瞬く間に自分のマンションにたどり着いた。
エレベータで5階に上がり、角部屋へと向かう。
今日静はましろと出かけているはず。
もう帰ってきているだろうか。
二人の関係は知っている。
去年あのような出来事があったのだから、
二人には思い切り幸せな時間を過ごしてほしい。
もし不在であれば、夕飯はどうするかを兄に確認だけ取ろうか。
そんなことを考えながら、鞄から鍵を取り出し、解錠した。
「ただいま帰りました」
「あ、おかえり、乃亜」
「え?」
ドアを開けて帰宅の挨拶をクセのように言えば、
明るい声がリビングのほうからした。
廊下も電気がついており、扉が開いて見通せるリビングの向こうから
ひょこりと顔だけ出したのは、ましろだった。
「ましろ、来ていたんですね」
「うん、お邪魔してます」
「おかえり、乃亜」
「ただいま帰りました、兄さん」
靴を脱いで廊下を行くと、キッチン奥に静の姿もあった。
静とましろは二人並んでキッチンに立っていた。
「お二人とも、はやかったんですね」
「ちょっと試験勉強しててね」
ましろがそう言いながら手元でレタスをちぎっている。
リビングのローテーブルを見ると、そこに見覚えのない教科書とノートが並んでいた。
「乃亜もだと思うけど、もうすぐ期末でしょ?」
「ああ、成程」
「それで家にきたから、そのまま夕食を一緒にという話になった。
まだかかるから、お前は休んでいていいぞ」
「はい、ありがとうございます」
乃亜は納得し、二人に断りを入れて自室に荷物を片付けに行った。
普段静と二人で食事を作る時間も心地よいが、
ましろもそこにいてくれるのはなんだかくすぐったくも楽しい。
リビングに面した自室へ入り、スライドのドアを閉じる。
キッチンの方で、静とましろが夕食の支度をしているのを聞きながら
乃亜はくすりと笑った。
ヴァイオリンを片付け、トートバックを一度ベッドに置く。
しまったままにしておくのもおかしいかと、
乃亜はバックの中から一枚のチラシを取り出した。
ベッドに座りそれをじっと眺め、小さく息を吐き出す。
大きな施設の写真、その入り口から広がる虹の絵。
ピアノや音符、フルート、ヴァイオリンのイラストが明るく描かれ。
中央には大きく【Sound Palette Fes'15】とポップなロゴ。
水野から渡された、音楽コンクール出場者募集のチラシだった。
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