一葉のコンチェルト

碧いろは

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漣編

【漣編】27:xx15年7月15日

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一学期の期末テスト最終日。
乃亜はひとまず自身の出来る限りの範囲で無事に終えることができた。
明日からテストの返却、そして金曜には終業式があり夏休みに入る。
クラスメイトたちは皆山場を乗り切ったとリラックスした様子で話していた。
それは確かにその通りで、乃亜も皆に合わせて微笑んでいた。

しかし、内面では試験という別の集中できるものが終わったことで、
いよいよ向き合わなければならないものが頭をもたげ始めていた。

試験終わりのため午前授業だった乃亜は昼頃には自宅へ帰っていた。
兄は大学に行っており、ひとり、簡単に昼食を終える。
生活音だけの部屋で、乃亜は溜息をこぼしそうになるのをこらえ、
代わりにスマートフォンを操作し、動画配信サービスのアプリ、ViewTubeを立ち上げた。
いくつか登録しているお気に入りの曲の中から、一曲を選んで再生する。

【ラフマニノフ : ヴォカリーズ】

歌詞のない歌曲。
言葉がなくとも音色がある、演奏で言葉以上のものを伝えられると作曲者は宣ったそうだ。
今の乃亜にはそれがとてもよく感じ取れる気がする。
言葉にならないこのもどかしい気持ちを、まるで代弁してくれているような。

今日はヴァイオリン教室がある。
コンクールへの出場について、なにかしら返事をしなければならない。
それが乃亜の心を重くしている要因だった。

勿論、今日その答えを出さずともいいのだろう。
今月中に、とのことだった。
しかし、水野の真剣な顔と眼差し。
それが乃亜の気持ちを急かしていた。
ここ一週間は、期末試験もあり、
そちらに注力することで考える時間をなくすことが出来ていた。
しかしそれはある意味では逃避だった。

乃亜は自室のベッドの上に座り、膝を折りながら天井を見る。
ちらと視線を向けるのは、壁際に置かれたヴァイオリンケース。
その脇に置かれた電子ヴァイオリンと譜面台。

 「……やりたいか、どうか……」

答えは出ない。分からない。
乃亜はついに溜息を抑えきれず、深く吐きだした。
そして無性にヴァイオリンを弾きたくなった。

少し苛立ったように立ち上がり、電子ヴァイオリンを手に取る。
イヤフォンを耳に装着してそれを構えた。
譜面台にはなにもない。
乃亜は心を落ち着かせるために、あるいは、心の深い部分に沈んでいくように、
息をゆっくりと吐きだし、吸い込み、止め、弓を構えた。

ただ思うままに思いついた曲を奏でる。
思い出しているのは、いつかのガラコンサートだ。
かの演奏会で鮮烈に耳にも頭にも焼き付いた曲のひとつが、
自分が奏でるままに、イヤフォン越しに耳に響いてくる。

【ブルッフ:スコットランド幻想曲 第二楽章】

譜面はない。
目も閉じている。
けれど正確にその指は脳内に思い描くガラコンサートでの旋律を奏でていく。
乃亜にしてみればそれはいつか聞いた衝撃には届かない。
拙い、人に聴かせるようなものではない。
それでも徐々にその口元には笑みが浮かび始めていた。
あの輝くようなステージで、オーケストラともに奏でるように、
軽やかにカデンツァを響き渡らせ、風が草原を駆け抜けていくように。
はるかな空へと明るい太陽へと鳥が羽ばたいていくように。

やがて奏で終えたところで、乃亜は瞼を薄く開いた。
窓にかかるレースカーテンがエアコンの風にわずかに揺れ、
その向こうでは夏の陽射しが葉を揺らしている。

 「……やりたい、なんて……考えていいの……?」

夏の陽射しに問う。答えは当然ない。
電子ヴァイオリンと弓を持つ手を下ろし、視線も下へと下がる。
床に揺れるカーテンの影。
ひどく頼りないそれに、自分の心を見た。

水野はコンサートに出てほしいと言っていた。
静はやりたいかどうかを考えろと言った。

せめていっそ、出ろ、と命じてくれたほうが楽だった。
乃亜は唇を噛む。
二人とも、自分の気持ちを第一に考えて言葉を選んでくれている。
最後の決断をゆだねてくれている。
けれど、その一歩が、どうしても、踏み出せない。
自分の気持ちを問おうとすると、どうしても、頭に衝撃が走る。

手を伸ばすことさえ怖い。
考えることさえ怖い。
弓を持つ手がこわばる。

   "大丈夫か?"

はっとして顔を上げた。
身体の硬直が解け、乃亜は止めていた息を吐き出した。

少し戸惑いながらも、差し伸べてくれた手と、声。
見上げた先にあった、優しい、赤い瞳。

   "お前が、「悪い子」だったことなど一度もない"

いつかよりも低い声。けれど同じ赤い瞳で言ってくれた言葉を思い出した。
乃亜はスチールデスクに置いたままのスマートフォンを見た。
電子ヴァイオリンをベッドの上に置いて、それを手に取る。
時刻は13:41。
この時間であれば、大丈夫だろうか。

CORDアプリを開いて、3つほど下にさがったチャットルームを見つける。
羽黒煉矢の名前をタップした。

 「……煉矢さん」

チャットルームにはいくつもの自分からの相談事。
彼がアメリカへ留学してから、否、その前からも、
幾度か、彼には相談をしていた。
兄へ直接言うことができないことや、
どうしてもうまく言葉にできない相談事については
何故かいつも、煉矢を頼ってしまっていた。
彼はこちらが上手く言葉にできない相談にも、
辛抱強く付き合って、言葉を引き出してくれる。

彼がもう一人の兄のように、そっと見守ってくれているから。
自分の幼い頃のことを知っているから。
いつも的確な助言をくれるから。
理由はいくつかあるが、なにより、悪い子ではない、と否定してくれたこと。
あの地獄から逃げた自分を、最初に掬い上げてくれたこと。
それが一番大きいと、乃亜自身自覚している。

乃亜はベッドに腰かけ、メッセージを打ち込み始めた。

 『いつもごめんなさい。少し、相談してもいいでしょうか』

5分ほど間を空けて、既読がついた。

 『通話のほうがいいか?』

それだけで泣きそうなほどに胸がざわつく。
涙が出そうになるのをこらえて、乃亜は短く、『はい』と返事をした。
ややあって、着信が入る。
乃亜は通話開始ボタンをタップした。

 「……こんばんわ、煉矢さん」

あちらはおそらく夜だ。
乃亜がそれを察して挨拶すると、小さく笑ったような息遣いが聞こえた。

 『ああ、こんにちわ。それで、どうした?』

こちらの時間に合わせて挨拶をしてくれたのが少しおかしくて、
乃亜は口元に笑みを浮かべた。

 「……ヴァイオリン教室の先生に、コンクールに出てほしい、と言われたんです」
 『出てほしい?出ないか、ではなくか?』
 「はい……」

乃亜はそこで、先日静に話したことと同じようなことを説明した。
多くの人に聴かせたい、という理由で出場を勧められていること。
けれど乃亜自身は、そんなたいそうな技巧もないので戸惑っていると言うこと。

 『静には相談したのか?』
 「兄さんは……やりたいかどうかを、考えろと……」

だがそれが分からない。
否、正確には、それを考えたくないのだ。

 「……怖いんです」
 『怖い?』
 「やりたい、とか……考えることが」
 『……成程』

煉矢は低い声で、深く得心を得たように言った。
乃亜はベッドの上に置いた右手を強く握る。
こめかみが強く痛んだ気がして、いつものように、唇の裏を噛んで耐える。

 『乃亜』
 「……はい」
 『お前のそれは、昔を振り返ってのことだろう?
  今のお前は、どう思ってるんだ?』
 「え……」
 『薬師先生のところでヴァイオリンに初めて触れて、
  静と共に暮らし始めて、教室に通って、日々を過ごして。
  そんな、今のお前は、どう思ってるのか教えてくれ』
 「……今の、私………?」

そんな風に考えたことはなかった。
今の自分はつもり、過去の自分の延長だ。
乃亜は戸惑い、瞳を揺らす。
言葉がない乃亜に、煉矢はつづけた。

 『ヴァイオリンを弾いてる今のお前は、あのころにはいなかった。
  そうだろう?』

その言葉に、乃亜ははっとさらに瞳を大きくした。
同じに、考えなくていい。
煉矢はそう言っている気がした。
今の自分。ヴァイオリンを弾き始めた自分。
その自分が、思っていること。

何故だか分からない。
分からないが、あの眩しい舞台の向こうへの道を
初めて目を逸らさずに見えた気がした。
ヴァイオリンというツールが、その方向への道を指し示している。
普段噛みしめている唇が震える。
乃亜はその震える唇で、それを紡ぎだした。

 「……去年、の、誕生日、に……」
 『ああ』
 「兄さんと……コンサートに、行ったんです……。
  コンクールで、受賞されたひとたちが、行う、ガラコンサート……」

あの時の自分はどう思っただろう。
輝くようなステージを見て。
幾度も考えていたことだ。
そしてその直後、頭への衝撃を思い出してしまっていた。
けれど、それは、別物と考えていいのだろうか。

 「……見たい、と、思ったんです……」
 『……なにを?』
 「あの、眩しい、ステージ、の、向こう側……」
 『……そうか』

そう、ずっと思っていた。
けれどそれはいけないことだと思っていた。
だってそう望んだら、叩かれたから。
だってそう望んだら、悪い子だと言われたから。

 「……煉矢さん」
 『なんだ』
 「あの時、の、私が、悪い子……でも、今の、私は……違い、ますか……?
  ……手を、のばしても……見たい、と……思っても、
  今の、私は……悪い子じゃ、ないですか……?」

声が震える。
そんなことを聞くだけでも心の深いところが引き裂かれそうだ。
身体の中の、奥の方がぐしゃぐしゃとかき乱されて気持ちが悪い。
強く強く、歯を噛みしめ、気分の悪さに瞳が潤む。

 『前にも言ったな。お前が悪い子だった時なんて、一度もない』

その言葉に、かみしめていた歯が浮いた。
かき乱されていた気分の悪さが和らぐ。
耳元で聞こえる声はとても優しく、姿も見えず、ここにいないのに
そっとその手で髪を撫でられるような安堵を感じた。

 『乃亜、お前が見たいと思うなら見にいくといい。
  手を伸ばしたっていい。
  誰もそれを咎めない。
  静も、お前の友人も、応援するさ』
 「れ、んや、さん……」
 『もちろん俺もな』
 「……っ、は、い……」

どうにか絞り出して返事をした。
泣き出しそうな声を何とか抑え、喉が詰まる感覚を覚える。
ひとつ深呼吸してそれを打ち消すと、
乃亜は久しぶりに、心からの笑みを口元に浮かべていた。
本当に、いつもこの人には助けられてばかりだ。

 「……煉矢さん、いつも、ありがとうございます」
 『話相手になっているだけだ。気にしないでいい』
 「それでも、です」
 『なら、日本に戻ったら、お前のヴァイオリンを聴かせてくれ。
  考えてみたら、俺は聞いたことがないからな』
 「……はい。私も、煉矢さんに、聴いてほしいです」
 『楽しみにしている』

そうして通話は終わる。
乃亜は終わった後に、気付いた。
煉矢に聞いてほしい。
これも、やりたいこと、なのかもしれない。
それを自然と口にしていた自分に驚くが、乃亜は胸元にスマートフォンを抱いた。

 「煉矢さん……」

思わず口にした名前。
先ほどまであった気分の悪さがもうない。
本当に彼の言葉は魔法の言葉のようだ。
あのころの、地獄の日々から、幾度も自分を掬い上げてくれる。
胸の中にあるあたたかい気持ちに、自然と笑みが浮かんでいた。
しかし、僅かに頬が赤くなっていたことに、乃亜は気づかなかった。

その後、ヴァイオリン教室に向かった。
以前は重かった足取りはもう重くはない。

ヴァイオリン教室を訪れた乃亜は、
水野に対し、まっすぐとした目を向け、告げた。

 「コンクール、出てみたいです」

その表情には、どこか晴れやかな笑みが浮かんでいた。

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