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薫風編
【薫風編】34:xx16年3月25日
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思わぬ春休みの予定ができて翌々日の月曜日。
乃亜は静に付き添われてパスポートの申請や渡航のための準備を進めた。
静も大学が春休みに入っており、
卒論を終えた後ということもあり時間に余裕があって助かった。
またあわせて、渡航用の大きめのキャリーバック等も購入した。
学校に関してはその時期春休みであるし問題ないが、
ヴァイオリン教室についてはやすまなければならない。
水野に事情を話すと、むしろ見聞を広めるよい機会だと言って賛同してくれた。
本当にこういう心遣いはありがたい。
航空機のチケットについては、静が煉矢とやりとりをして準備を整えてくれた。
現地までは約9時間かかるらしい。
それほど長く乗り物に乗ったままということは経験がないため
それについては少し不安もあったが、なるようにしかならない。
必要な着替えなどについてはましろも買い物に付き合ってくれた。
二人で久しぶりに買い物として隣駅の商業施設に出た際に、
事情を説明すると最初は相当に驚いた様子を見せていたが、
すぐに破顔して興奮したように手を叩いた。
「どういった理由でも、会いに行けるならよかったじゃないか!
それに向こうじゃ、ずっと一緒にいるようなものでしょ?」
「え、いえ、まぁ、それは……」
否定できない。
乃亜は頬に熱がこもることを抑えられなかった。
チェーン店のコーヒーショップのオープン席、
乃亜はホットラテのカップを両手で包み込んだ。
「でも、あまりご迷惑かけないようにしたいと……」
「そうは言うけど、下手にひとりで動いた方が迷惑かかるってわかってるでしょ」
「う……」
「むしろ一緒にいることが一番迷惑にならないよ。
そこはもう開き直ったほうがいい」
「それは……そうかもしれないんですが……」
決めたはいいが、その点だけはどうしても気になってしまう。
静もましろも、煉矢自身も同様に『頼れ』の一点張りだが、
乃亜としては本当にいいのかと気が引ける。
だが今ましろが言うように、見知らぬ土地、しかも海外だ。
そこであれやこれやと下手に動くことの方がよくないと言うのも分かっている。
ずっとその葛藤なのである。
ましろはため息を吐き出しながら頬杖をついた。
「そういうところ、乃亜らしいけど。
でも、本当に気を付けるんだよ。
日本は治安がいいってよく聞くし、あっちでひとりにならないようにね。
乃亜、本当に可愛いし美人なんだからさ」
「ましろに言われるとこそばゆいんですが……」
「冗談で言ってるわけじゃないし、ひいき目で見てるわけじゃないよ。
客観的な視点から見たって、乃亜は可愛いから、その点だけ本当に心配。
そういう意味でも、絶対に煉矢さんには傍にいてもらわないとダメ」
「えぇ……」
乃亜は本気で受け取ってはいないが、ましろとしては心の底から本気だ。
親しい友人、恋人の妹、そういったフィルタを外しても、
乃亜の外見は非常に可愛い、否、美しいのだ。
出会った頃から可愛いとは思っていたが、それから月日も経過し、
本人は変わっていないというが、
幼い可愛らしさから、大人びた可愛らしさとでもいうのか、
雰囲気が美しさを伴うようになってきた。
特に、去年の秋頃、恋を自覚してから明らかに変わったと思う。
恋は女性を美しくするとはよく言ったものだ。
ミディアムボブの銀髪に、どこか儚さを感じさせるような青緑の瞳。
誰にでも平等に接しつつ、朗らかで優しい笑みは、
いったいどれほどの異性をひきつけているのか想像できない。
「乃亜に限ってそういうことはないと思うけど、
ひとりでどうにかしようとしない方がいいよ。
その方が迷惑がかかるんだからね」
「……はい、それは、よく理解してます。
私は、子供ですからね」
そう最後に付け足した言葉はどこか憂いを見せていた。
ましろはそれにはっとして、乃亜の髪をそっと撫でた。
3/25 15:30。
その後、無事に中学校を卒業し、ひとしきりの準備も終え、ついに出発の日になった。
見送りは兄とましろのふたり。
ましろは心配さを少しにじませつつも、頑張ってと明るいエールを送ってくれた。
一方の兄はというと。
「なにかあったら必ず煉矢に相談するんだぞ。
絶対にひとりで抱えるな」
繰り返し同じことを念押しするように言われていた。
兄から自分へのこういった注意は、
心底自分を心配してのものだとよく理解している。
しかしそれにしても、これはいったい何回目だろうか。
乃亜は思わず苦笑いを浮かべていた。
「静、大丈夫だよ。
乃亜だって下手にひとりで抱えるほうが、
かえって迷惑になることは分かってるんだからさ」
「……そうだな」
ましろにもたしなめられ、静は息を吐いた。
「お前にとってもいい経験になるのは間違いないだろうが、
よくよく、気をつけてな」
「はい、ありがとうございます、兄さん」
乃亜は微笑んで兄の言葉にうなずく。
ましろと顔を見合わせて少し笑ってしまったが。
「では行ってきます」
「ああ、煉矢によろしくな」
「楽しんでいっておいで」
二人に手を振り、乃亜は保安検査場の向こうへと姿を消した。
乃亜の姿が完全に見えなくなり、静はまたひとつ息を吐いた。
「心配?」
「……まぁそうだな」
静にとって、乃亜はどうしても守る対象である。
勿論煉矢を信用していないわけではないし、
乃亜自身、とてもしっかりしているし、人当たりもよく、
常識も分別もきちんとわきまえている。
そういう意味では心配はいらないが、
まったく意図しないなにかがおきてもおかしくないのは世の常だ。
それになにより、乃亜は表面上はかつての面影はなくとも、
あれだけの苦しい環境に長く身を置いていたのだ。
心の中までは、どうなっているのかわからない。
ただ祈るのは、また同じように、傷つく事態にならないでほしい。
静の繰り返しの注意は、そういった祈りが根底にある。
「大丈夫だよ、きっと」
「ましろ……」
「一人じゃない。
乃亜のことも、あなたのことも、ちゃんと知ってる人が
あの子の傍にいるんだから、きっと大丈夫」
自分の心の中で繰りかえし自分に言っていたことを告げられる。
ましろは早生まれのため、ついこの間16になったばかりだ。
だが昔からこういうとき、本当に大人びていて、はっとさせられることを口にする。
静はようやく口元に笑みが浮かび、ましろの肩をそっと抱いた。
「少しデートでもして帰ろう」
「いいの?今日、大学に顔出すとか言ってなかった?」
「たまには予定外なことがあってもいい」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
ましろはくすりと笑って、静に肩を抱かれるまま、
並んでゆっくりと歩き出した。
飛行機のフライトは順調に進んだ。
初めての飛行機で最初は少し緊張して落ち着かなかったが、
離陸したあとしばらくしてそれはだいぶ落ち着いた。
春休み時期とはいえさほど混んでいなかったのは幸いであるが、
ただどうしても大きな音は落ち着かず、耳栓や
イヤフォンで音楽を聴くなどして何とかその時間を乗り越えた。
機内食などを経験し、やがて消灯して仮眠の時間となったが
さすがにぐっすりとはいかず、うつらうつらする程度になったのは仕方ない。
そうして約9時間のフライトを経て、ついに目的地へと到着し
着陸したときはさすがにほっと安堵した。
手荷物をもって飛行機を降り、到着口を目指す。
キャリーバックもなんとか見つけてそれを押して進んでいく。
周囲から聞こえるのは当然ながら英語ばかり。
英会話はまださすがにそこまで習得できていないが、
読み書き程度で、知っている単語であればある程度理解できる。
あたりに書かれた英語の案内板を頼りに進み
ようやく到着ゲートを出ることができた。
「乃亜」
静かな声にはっと気が付いてそちらに顔を向けると
片手をあげてこちらに合図する、懐かしい人の姿があった。
ずっと会いたいと思ってた人。思わず息を飲み込んだ。
安堵と久しぶりに会えたことによる嬉しさが広がり、笑みがこぼれた。
乃亜はそちらへまっすぐ、小走りでかけていく。
「煉矢さん、お久しぶりです……!」
「ああ、無事に到着できたようで何よりだ」
「はい、私もほっとしているところです」
正直な感想を告げれば、彼も控えめながら笑ってくれた。
「特に問題なければこのまま家に向かうが、
大丈夫か?」
「はい。機内で飲み物などは頂いていましたから」
「分かった。なら行こう」
煉矢はさりげなく乃亜の押していたキャリーケースを取って押し始めた。
それになにかを言う前に彼は乃亜と反対側へとそれを移動させてしまう。
乃亜は苦笑いを浮かべて、彼の横についた。
最後にあったときから変わった様子はない。
淡々としながらも自然とこちらを気遣ってくれる優しさも。
ひとまず普通に話せていることに一安心した。
「移動は電車ですか?」
「いや、車だ。免許は取った」
「ええと、国際免許でしたか?」
「いや、現地の免許だ。
観光程度ならそれでいいんだが、長期滞在だと取得が必須だった」
「すごいですね……大変だったのでは?」
「簡単とは言わないが……、
ただ、取って正解だった。こちらは完全に車社会だからな」
確かに日本と国土が違いすぎているのでそれも仕方ないのかもしれない。
二人はそのまま空港内の駐車場まで向かう。
途中、ドルに両替だけさせてもらった。
さほどお金を使う機会はないかもしれないが、まったく手持ちがないというのは不安がある。
車にたどり着き、乃亜は助手席に座らせてもらった。
日本に比べるとサイズ感が大きいような気がする。
キャリーケースをトランクにしまい、
運転席に乗り込んでエンジンが駆けられ出発した。
何も迷う様子がない煉矢に、
本当に日々車で生活していることを実感する。
「左ハンドルって違和感ありませんでしたか?」
「免許を取る最初はそうだったが、まぁ、じきに慣れた。
とはいえ、日本に戻ったら今度は逆だからな……。
一度講習を受け直したほうがいいかもしれん」
「車だけではなくて、他にもいろいろ違いはありそうですよね」
「そうだな。文化や風習慣習、考え方もそうだ。
最初は大学の講義以上に、慣れることに集中していた気がするな」
簡単に言うが、それでもそれを乗り越えて、
今は普通に生活をして大学に通い学んでいるのだから尊敬しかない。
「車でだいたい1時間くらいだ。
眠ければ寝ていてかまわないぞ」
「あ、はい。でも、大丈夫です」
事実、今は少し興奮しているのか眠気がない。
「ならいいが、夜は早めに就寝しておけ。
時差ぼけも出てくるだろうしな」
「はい、そうします」
こちらと日本の時差は16時間。
スマートフォンを取り出すと、
自動的に時刻がこちらの時間に切り替わっていた。
3/25 11:10とある。
日本を出た時間より遡っているのだから不思議なものだ。
そういえば到着したら一報するように言われていた。
CORDアプリで兄に到着して煉矢とも会えたことを報告する。
これで少しは安堵してくれたらいいが。
「静か?」
「あ、はい。到着したら一報入れるように、と」
「相変わらずのようだな」
「随分、心配かけていますから、私」
「お前にそう問題はないだろう。やつ自身の気持ちの問題だ」
「だと、いいんですが」
本当になにも迷惑や気がかりなことをしていないかなど、自分ではさすがに分からない。
乃亜は苦く笑って端末を片付けた。
やがてハイウェイを抜けて住宅らしき家々が並ぶ地域に入り始めた。
間もなく到着なのかと想像していた通り、その一角にて車は止まった。
ガレージに車を停車させ、エンジンが切られる。
「着いたぞ」
「ここ、ですか?」
「ああ」
思わず聞き返したのは、想像よりはるかにその家が大きかったからだ。
日本ではおそらく豪邸と言われても差し支えない。
しかし周囲を見渡すと、確かに家はどれも大差ないほどに大きい。
乃亜は助手席から出て、改めて家を見上げる。
二階建て自体は日本でも珍しくはないが、敷地面積が広すぎないか。
なにか少し緊張を覚えた。
「乃亜」
「あ、はい!」
キャリーケースを引いてくれてる煉矢に呼ばれ、
乃亜はあわてて彼の後を追った。
正面から見ても本当に大きい。
玄関の右側には二階部分の広いバルコニーに上がるための階段が設置され、
バルコニーにはのんびりとしたウッドチェアとテーブルが並んでいる。
すこし緑がかった黒い屋根と、ベージュ色のレンガ張りのような外壁、
白い縁取りがよりシックな趣がある。
そんな広い家の向こうには芝生が敷かれた庭のようなものも見えた。
玄関の鍵を開ける煉矢は小さく笑った。
「こっちはではさほど大きい部類ではないらしいぞ」
「……日本との敷地面積の差がとんでもないですね」
「同感だ」
がちゃりと鍵が開錠され、中へとはいると室内もまたとても広々としていた。
靴を脱ぐ風習がないためそのまま奥へと進んでいく。
「入って左がダイニング、そのさらに左奥がリビングだ。
正面壁の向こう側にあるのがキッチンだな。
家の中は改めて案内するが、まずはお前の部屋に案内する」
煉矢はそういって入って右側の階段へ足を向けた。
二階がどうやらあてがわれるらしい。
「二階には客間が二部屋あって、一つを俺が使ってる。
お前はもう一部屋の方を使ってくれ。
階段の先の右側がそうだ」
階段を上がり終えて短い廊下を進む。
突き当たったところで左右にそれぞれ扉が設置されていた。
「ここだ」
右側の部屋の扉を開けて中へ招かれる。
落ち着きのある乳白色の壁に、深い茶色のフローリング。
深緑のシーツがかかったダブルベッドが中央に鎮座している。
書き物用のデスクや棚までも完備されており、
まったく滞在に困るような気はしない。
「奥の扉、右側がクローゼット、左側が水回りだ」
「洗面台ですか?」
「洗面台、トイレ、シャワールームだな」
室内に水回りがあると言うのが驚きだ。
「この部屋は自由に使っていい。
もちろん、クローゼットやシャワーもな」
「色々ありがとうございます。なにか、整えてくださったようで……」
「繰り返しになるが呼んだのはこちらだ。
これくらい労力の内にも入らない。
疲れただろうし、荷解きがてら、少し休んでくれ」
「分かりました」
「俺の部屋は正面だから、荷解きを終えて一息つけたら声をかけろ。
それと、これは静から口酸っぱく言われているだろうが、
必ず部屋にいる時は内鍵をかけるようにな」
「……煉矢さんも言われましたか?」
「ああ、他にもいくつもな」
「……」
なんかもうすみません、と口から出そうになった。
乃亜はひとつ咳払いすることで胡麻化した。
「あの、煉矢さんのお父様はお出かけ中ですか?」
「ああ。帰るのはだいたいいつも夜遅い。
親父のことは気にしないでいいが、
……まぁ、お前の性格上、そうもいかないか」
「その、お家にお世話になるので……。
あ、でも決して無理にではないです、お忙しいかと思いますし」
「分かってる。タイミングが合えばということでいいな」
「はい、それでお願いします」
「ではまた後でな」
「はい、ありがとうございました」
ぱたん、と扉が閉じる。
言われたように内鍵をかけさせてもらい、乃亜は改めて部屋を見渡した。
クローゼットを開けると三畳か四畳はありそうなウォークインクローゼットだった。
更に気になっていたもうひとつのドアを開ける。
白い陶器製できれいに磨かれた鏡と洗面台とトイレ。
洗面台の横には、ミネラルウォータのペットボトルが3本並んでいた。
わざわざ購入して置いてくれていたらしい。
こちらは水道水を飲むことはできない。
さらに奥にシャワー室が完備されていた。
さすがに湯舟ではないが、それは贅沢すぎるというもの。
他所の男性の住む家で、トイレにしろシャワーにしろ、
共用して利用するのはさすがに少し緊張を覚えると思っていた。
だが部屋の中で済ませられるのであれば本当にありがたい。
少し休むか迷ったが、先に荷物の整理をすることにした。
ひとしきり荷解きを終えて時刻を確認すると13時を回っていた。
部屋を出た正面の扉が煉矢の部屋であるらしいので
言われていたように声をかけた。
昼食がてら、室内を軽く案内するというのでそれに従う。
広い家は部屋の数というよりも空間に広さをひどく感じた。
二階には二人の部屋のほかにバーカウンターや、ゲスト用のリビングまでがあった。
もしヴァイオリンの練習をするならリビング使って良いとのこと。
わずかな騒音さえも過敏にならざるを得ない日本の事情とはまったく違う。
一階に降りて階段より奥は主寝室、
つまり煉矢の父の寝室と書斎があるらしい。
そちらにはよほどのことがあってもなるべく近づかないようにしようと決めた。
反対側にあるキッチンは広々としていて、
巨大な冷蔵庫と食器棚にワインセラーまであった。彼の父の趣味らしい。
ダイニングは広く、奥のリビングとつながっていて、その広さに圧倒されていると、
こちらではホームパーティを開くことが多く、こういった作りは珍しくないらしい。
さらに芝生の広がる庭へ出るための
リビングから出るポーチなども軽く紹介された。
本当に心の底からこちらは規模が違う。
食事についてはあらかじめ下準備は整えていたらしい。
魚介のトマトシチューに、白身魚のフライや野菜を具材に使ったトルティーヤは、
こちらの地方ではよく食べられるメニューとのことだ。
とても美味しくいただいているなか、
そういえば彼の料理を食べるのは初めてではないかと気付く。
それを指摘すれば、彼は少し苦笑いを浮かべた。
その意味を尋ねれば人にふるまうこと自体あまりないらしく、
さほど味に自信はないとのことだった。
しかし全く問題なく、むしろ十分に美味しかった。
やがて食事が終わり、片づけを手伝う傍ら、明日の予定を告げられた。
「明日は昼頃に大学に行く予定だ。そのつもりでいてくれ」
少し慌ただしいことについては謝罪されたが
なにせあまり時間はあるわけではないのだ。
早々に顔合わせや打ち合わせを、と求められるのは仕方がない。
乃亜は承諾して、その後、部屋へと戻った。
さすがに睡魔が襲ってきていた。
ほんとうであれば少しヴァイオリンに触れておきたい。
時刻は間もなく16時。
寝るには早いが時差ぼけもあり眠気がひどい。
乃亜は仕方なく、仮眠としてベッドに入ることにした。
ベッドにはラベンダーのポプリを置いておいた。
ましろが買い物に一緒に行った時、
落ち着いて眠れるようにとプレゼントしてくれたのだ。
馴染みのあるラベンダーの香りをかぎながら、見慣れない天井を見る。
ずっと会いたいと思っていた人との時間は
ひどく心が満たされる心地だった。
同時に車の中や、食事の中での時間は安心した。
約二年離れていたとは感じられないほどに、
こちらに接する彼の態度は変わりがない。
それが本当に嬉しかったし、心地よかった。
少し前まで、会いたくて仕方なかった人が、今身近にいる。
まるで夢を見ているかのように思いながら今日の出来事を思い返す。
煉矢はこちらでの生活にすっかりなじんでいるようだった。
元々高校時代から一人暮らしをしていたという話であるから
そういう意味では順応性が高いのだろう。
留学を一人で決断し、それに伴う準備を進め、
こちらにわたり、免許を取り、生活に馴染み、
そして大学でも安定して過ごしているようだ。
けれど静まり返った家の中で、ふと乃亜は思う。
自分はどういった環境であったとしても、
一人で暮らしたという経験はない。
煉矢にしても、兄にしても、
自分の尊敬するひとたちはそういったことを経験している。
今の自分にそれができるのか、それは正直自信がないし少し怖さもあった。
もう少し、いつかもう少し大人になったら、それを願ってもいいだろうか。
そんなことを考えながら、乃亜はベッドの中で眠りについた。
乃亜は静に付き添われてパスポートの申請や渡航のための準備を進めた。
静も大学が春休みに入っており、
卒論を終えた後ということもあり時間に余裕があって助かった。
またあわせて、渡航用の大きめのキャリーバック等も購入した。
学校に関してはその時期春休みであるし問題ないが、
ヴァイオリン教室についてはやすまなければならない。
水野に事情を話すと、むしろ見聞を広めるよい機会だと言って賛同してくれた。
本当にこういう心遣いはありがたい。
航空機のチケットについては、静が煉矢とやりとりをして準備を整えてくれた。
現地までは約9時間かかるらしい。
それほど長く乗り物に乗ったままということは経験がないため
それについては少し不安もあったが、なるようにしかならない。
必要な着替えなどについてはましろも買い物に付き合ってくれた。
二人で久しぶりに買い物として隣駅の商業施設に出た際に、
事情を説明すると最初は相当に驚いた様子を見せていたが、
すぐに破顔して興奮したように手を叩いた。
「どういった理由でも、会いに行けるならよかったじゃないか!
それに向こうじゃ、ずっと一緒にいるようなものでしょ?」
「え、いえ、まぁ、それは……」
否定できない。
乃亜は頬に熱がこもることを抑えられなかった。
チェーン店のコーヒーショップのオープン席、
乃亜はホットラテのカップを両手で包み込んだ。
「でも、あまりご迷惑かけないようにしたいと……」
「そうは言うけど、下手にひとりで動いた方が迷惑かかるってわかってるでしょ」
「う……」
「むしろ一緒にいることが一番迷惑にならないよ。
そこはもう開き直ったほうがいい」
「それは……そうかもしれないんですが……」
決めたはいいが、その点だけはどうしても気になってしまう。
静もましろも、煉矢自身も同様に『頼れ』の一点張りだが、
乃亜としては本当にいいのかと気が引ける。
だが今ましろが言うように、見知らぬ土地、しかも海外だ。
そこであれやこれやと下手に動くことの方がよくないと言うのも分かっている。
ずっとその葛藤なのである。
ましろはため息を吐き出しながら頬杖をついた。
「そういうところ、乃亜らしいけど。
でも、本当に気を付けるんだよ。
日本は治安がいいってよく聞くし、あっちでひとりにならないようにね。
乃亜、本当に可愛いし美人なんだからさ」
「ましろに言われるとこそばゆいんですが……」
「冗談で言ってるわけじゃないし、ひいき目で見てるわけじゃないよ。
客観的な視点から見たって、乃亜は可愛いから、その点だけ本当に心配。
そういう意味でも、絶対に煉矢さんには傍にいてもらわないとダメ」
「えぇ……」
乃亜は本気で受け取ってはいないが、ましろとしては心の底から本気だ。
親しい友人、恋人の妹、そういったフィルタを外しても、
乃亜の外見は非常に可愛い、否、美しいのだ。
出会った頃から可愛いとは思っていたが、それから月日も経過し、
本人は変わっていないというが、
幼い可愛らしさから、大人びた可愛らしさとでもいうのか、
雰囲気が美しさを伴うようになってきた。
特に、去年の秋頃、恋を自覚してから明らかに変わったと思う。
恋は女性を美しくするとはよく言ったものだ。
ミディアムボブの銀髪に、どこか儚さを感じさせるような青緑の瞳。
誰にでも平等に接しつつ、朗らかで優しい笑みは、
いったいどれほどの異性をひきつけているのか想像できない。
「乃亜に限ってそういうことはないと思うけど、
ひとりでどうにかしようとしない方がいいよ。
その方が迷惑がかかるんだからね」
「……はい、それは、よく理解してます。
私は、子供ですからね」
そう最後に付け足した言葉はどこか憂いを見せていた。
ましろはそれにはっとして、乃亜の髪をそっと撫でた。
3/25 15:30。
その後、無事に中学校を卒業し、ひとしきりの準備も終え、ついに出発の日になった。
見送りは兄とましろのふたり。
ましろは心配さを少しにじませつつも、頑張ってと明るいエールを送ってくれた。
一方の兄はというと。
「なにかあったら必ず煉矢に相談するんだぞ。
絶対にひとりで抱えるな」
繰り返し同じことを念押しするように言われていた。
兄から自分へのこういった注意は、
心底自分を心配してのものだとよく理解している。
しかしそれにしても、これはいったい何回目だろうか。
乃亜は思わず苦笑いを浮かべていた。
「静、大丈夫だよ。
乃亜だって下手にひとりで抱えるほうが、
かえって迷惑になることは分かってるんだからさ」
「……そうだな」
ましろにもたしなめられ、静は息を吐いた。
「お前にとってもいい経験になるのは間違いないだろうが、
よくよく、気をつけてな」
「はい、ありがとうございます、兄さん」
乃亜は微笑んで兄の言葉にうなずく。
ましろと顔を見合わせて少し笑ってしまったが。
「では行ってきます」
「ああ、煉矢によろしくな」
「楽しんでいっておいで」
二人に手を振り、乃亜は保安検査場の向こうへと姿を消した。
乃亜の姿が完全に見えなくなり、静はまたひとつ息を吐いた。
「心配?」
「……まぁそうだな」
静にとって、乃亜はどうしても守る対象である。
勿論煉矢を信用していないわけではないし、
乃亜自身、とてもしっかりしているし、人当たりもよく、
常識も分別もきちんとわきまえている。
そういう意味では心配はいらないが、
まったく意図しないなにかがおきてもおかしくないのは世の常だ。
それになにより、乃亜は表面上はかつての面影はなくとも、
あれだけの苦しい環境に長く身を置いていたのだ。
心の中までは、どうなっているのかわからない。
ただ祈るのは、また同じように、傷つく事態にならないでほしい。
静の繰り返しの注意は、そういった祈りが根底にある。
「大丈夫だよ、きっと」
「ましろ……」
「一人じゃない。
乃亜のことも、あなたのことも、ちゃんと知ってる人が
あの子の傍にいるんだから、きっと大丈夫」
自分の心の中で繰りかえし自分に言っていたことを告げられる。
ましろは早生まれのため、ついこの間16になったばかりだ。
だが昔からこういうとき、本当に大人びていて、はっとさせられることを口にする。
静はようやく口元に笑みが浮かび、ましろの肩をそっと抱いた。
「少しデートでもして帰ろう」
「いいの?今日、大学に顔出すとか言ってなかった?」
「たまには予定外なことがあってもいい」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
ましろはくすりと笑って、静に肩を抱かれるまま、
並んでゆっくりと歩き出した。
飛行機のフライトは順調に進んだ。
初めての飛行機で最初は少し緊張して落ち着かなかったが、
離陸したあとしばらくしてそれはだいぶ落ち着いた。
春休み時期とはいえさほど混んでいなかったのは幸いであるが、
ただどうしても大きな音は落ち着かず、耳栓や
イヤフォンで音楽を聴くなどして何とかその時間を乗り越えた。
機内食などを経験し、やがて消灯して仮眠の時間となったが
さすがにぐっすりとはいかず、うつらうつらする程度になったのは仕方ない。
そうして約9時間のフライトを経て、ついに目的地へと到着し
着陸したときはさすがにほっと安堵した。
手荷物をもって飛行機を降り、到着口を目指す。
キャリーバックもなんとか見つけてそれを押して進んでいく。
周囲から聞こえるのは当然ながら英語ばかり。
英会話はまださすがにそこまで習得できていないが、
読み書き程度で、知っている単語であればある程度理解できる。
あたりに書かれた英語の案内板を頼りに進み
ようやく到着ゲートを出ることができた。
「乃亜」
静かな声にはっと気が付いてそちらに顔を向けると
片手をあげてこちらに合図する、懐かしい人の姿があった。
ずっと会いたいと思ってた人。思わず息を飲み込んだ。
安堵と久しぶりに会えたことによる嬉しさが広がり、笑みがこぼれた。
乃亜はそちらへまっすぐ、小走りでかけていく。
「煉矢さん、お久しぶりです……!」
「ああ、無事に到着できたようで何よりだ」
「はい、私もほっとしているところです」
正直な感想を告げれば、彼も控えめながら笑ってくれた。
「特に問題なければこのまま家に向かうが、
大丈夫か?」
「はい。機内で飲み物などは頂いていましたから」
「分かった。なら行こう」
煉矢はさりげなく乃亜の押していたキャリーケースを取って押し始めた。
それになにかを言う前に彼は乃亜と反対側へとそれを移動させてしまう。
乃亜は苦笑いを浮かべて、彼の横についた。
最後にあったときから変わった様子はない。
淡々としながらも自然とこちらを気遣ってくれる優しさも。
ひとまず普通に話せていることに一安心した。
「移動は電車ですか?」
「いや、車だ。免許は取った」
「ええと、国際免許でしたか?」
「いや、現地の免許だ。
観光程度ならそれでいいんだが、長期滞在だと取得が必須だった」
「すごいですね……大変だったのでは?」
「簡単とは言わないが……、
ただ、取って正解だった。こちらは完全に車社会だからな」
確かに日本と国土が違いすぎているのでそれも仕方ないのかもしれない。
二人はそのまま空港内の駐車場まで向かう。
途中、ドルに両替だけさせてもらった。
さほどお金を使う機会はないかもしれないが、まったく手持ちがないというのは不安がある。
車にたどり着き、乃亜は助手席に座らせてもらった。
日本に比べるとサイズ感が大きいような気がする。
キャリーケースをトランクにしまい、
運転席に乗り込んでエンジンが駆けられ出発した。
何も迷う様子がない煉矢に、
本当に日々車で生活していることを実感する。
「左ハンドルって違和感ありませんでしたか?」
「免許を取る最初はそうだったが、まぁ、じきに慣れた。
とはいえ、日本に戻ったら今度は逆だからな……。
一度講習を受け直したほうがいいかもしれん」
「車だけではなくて、他にもいろいろ違いはありそうですよね」
「そうだな。文化や風習慣習、考え方もそうだ。
最初は大学の講義以上に、慣れることに集中していた気がするな」
簡単に言うが、それでもそれを乗り越えて、
今は普通に生活をして大学に通い学んでいるのだから尊敬しかない。
「車でだいたい1時間くらいだ。
眠ければ寝ていてかまわないぞ」
「あ、はい。でも、大丈夫です」
事実、今は少し興奮しているのか眠気がない。
「ならいいが、夜は早めに就寝しておけ。
時差ぼけも出てくるだろうしな」
「はい、そうします」
こちらと日本の時差は16時間。
スマートフォンを取り出すと、
自動的に時刻がこちらの時間に切り替わっていた。
3/25 11:10とある。
日本を出た時間より遡っているのだから不思議なものだ。
そういえば到着したら一報するように言われていた。
CORDアプリで兄に到着して煉矢とも会えたことを報告する。
これで少しは安堵してくれたらいいが。
「静か?」
「あ、はい。到着したら一報入れるように、と」
「相変わらずのようだな」
「随分、心配かけていますから、私」
「お前にそう問題はないだろう。やつ自身の気持ちの問題だ」
「だと、いいんですが」
本当になにも迷惑や気がかりなことをしていないかなど、自分ではさすがに分からない。
乃亜は苦く笑って端末を片付けた。
やがてハイウェイを抜けて住宅らしき家々が並ぶ地域に入り始めた。
間もなく到着なのかと想像していた通り、その一角にて車は止まった。
ガレージに車を停車させ、エンジンが切られる。
「着いたぞ」
「ここ、ですか?」
「ああ」
思わず聞き返したのは、想像よりはるかにその家が大きかったからだ。
日本ではおそらく豪邸と言われても差し支えない。
しかし周囲を見渡すと、確かに家はどれも大差ないほどに大きい。
乃亜は助手席から出て、改めて家を見上げる。
二階建て自体は日本でも珍しくはないが、敷地面積が広すぎないか。
なにか少し緊張を覚えた。
「乃亜」
「あ、はい!」
キャリーケースを引いてくれてる煉矢に呼ばれ、
乃亜はあわてて彼の後を追った。
正面から見ても本当に大きい。
玄関の右側には二階部分の広いバルコニーに上がるための階段が設置され、
バルコニーにはのんびりとしたウッドチェアとテーブルが並んでいる。
すこし緑がかった黒い屋根と、ベージュ色のレンガ張りのような外壁、
白い縁取りがよりシックな趣がある。
そんな広い家の向こうには芝生が敷かれた庭のようなものも見えた。
玄関の鍵を開ける煉矢は小さく笑った。
「こっちはではさほど大きい部類ではないらしいぞ」
「……日本との敷地面積の差がとんでもないですね」
「同感だ」
がちゃりと鍵が開錠され、中へとはいると室内もまたとても広々としていた。
靴を脱ぐ風習がないためそのまま奥へと進んでいく。
「入って左がダイニング、そのさらに左奥がリビングだ。
正面壁の向こう側にあるのがキッチンだな。
家の中は改めて案内するが、まずはお前の部屋に案内する」
煉矢はそういって入って右側の階段へ足を向けた。
二階がどうやらあてがわれるらしい。
「二階には客間が二部屋あって、一つを俺が使ってる。
お前はもう一部屋の方を使ってくれ。
階段の先の右側がそうだ」
階段を上がり終えて短い廊下を進む。
突き当たったところで左右にそれぞれ扉が設置されていた。
「ここだ」
右側の部屋の扉を開けて中へ招かれる。
落ち着きのある乳白色の壁に、深い茶色のフローリング。
深緑のシーツがかかったダブルベッドが中央に鎮座している。
書き物用のデスクや棚までも完備されており、
まったく滞在に困るような気はしない。
「奥の扉、右側がクローゼット、左側が水回りだ」
「洗面台ですか?」
「洗面台、トイレ、シャワールームだな」
室内に水回りがあると言うのが驚きだ。
「この部屋は自由に使っていい。
もちろん、クローゼットやシャワーもな」
「色々ありがとうございます。なにか、整えてくださったようで……」
「繰り返しになるが呼んだのはこちらだ。
これくらい労力の内にも入らない。
疲れただろうし、荷解きがてら、少し休んでくれ」
「分かりました」
「俺の部屋は正面だから、荷解きを終えて一息つけたら声をかけろ。
それと、これは静から口酸っぱく言われているだろうが、
必ず部屋にいる時は内鍵をかけるようにな」
「……煉矢さんも言われましたか?」
「ああ、他にもいくつもな」
「……」
なんかもうすみません、と口から出そうになった。
乃亜はひとつ咳払いすることで胡麻化した。
「あの、煉矢さんのお父様はお出かけ中ですか?」
「ああ。帰るのはだいたいいつも夜遅い。
親父のことは気にしないでいいが、
……まぁ、お前の性格上、そうもいかないか」
「その、お家にお世話になるので……。
あ、でも決して無理にではないです、お忙しいかと思いますし」
「分かってる。タイミングが合えばということでいいな」
「はい、それでお願いします」
「ではまた後でな」
「はい、ありがとうございました」
ぱたん、と扉が閉じる。
言われたように内鍵をかけさせてもらい、乃亜は改めて部屋を見渡した。
クローゼットを開けると三畳か四畳はありそうなウォークインクローゼットだった。
更に気になっていたもうひとつのドアを開ける。
白い陶器製できれいに磨かれた鏡と洗面台とトイレ。
洗面台の横には、ミネラルウォータのペットボトルが3本並んでいた。
わざわざ購入して置いてくれていたらしい。
こちらは水道水を飲むことはできない。
さらに奥にシャワー室が完備されていた。
さすがに湯舟ではないが、それは贅沢すぎるというもの。
他所の男性の住む家で、トイレにしろシャワーにしろ、
共用して利用するのはさすがに少し緊張を覚えると思っていた。
だが部屋の中で済ませられるのであれば本当にありがたい。
少し休むか迷ったが、先に荷物の整理をすることにした。
ひとしきり荷解きを終えて時刻を確認すると13時を回っていた。
部屋を出た正面の扉が煉矢の部屋であるらしいので
言われていたように声をかけた。
昼食がてら、室内を軽く案内するというのでそれに従う。
広い家は部屋の数というよりも空間に広さをひどく感じた。
二階には二人の部屋のほかにバーカウンターや、ゲスト用のリビングまでがあった。
もしヴァイオリンの練習をするならリビング使って良いとのこと。
わずかな騒音さえも過敏にならざるを得ない日本の事情とはまったく違う。
一階に降りて階段より奥は主寝室、
つまり煉矢の父の寝室と書斎があるらしい。
そちらにはよほどのことがあってもなるべく近づかないようにしようと決めた。
反対側にあるキッチンは広々としていて、
巨大な冷蔵庫と食器棚にワインセラーまであった。彼の父の趣味らしい。
ダイニングは広く、奥のリビングとつながっていて、その広さに圧倒されていると、
こちらではホームパーティを開くことが多く、こういった作りは珍しくないらしい。
さらに芝生の広がる庭へ出るための
リビングから出るポーチなども軽く紹介された。
本当に心の底からこちらは規模が違う。
食事についてはあらかじめ下準備は整えていたらしい。
魚介のトマトシチューに、白身魚のフライや野菜を具材に使ったトルティーヤは、
こちらの地方ではよく食べられるメニューとのことだ。
とても美味しくいただいているなか、
そういえば彼の料理を食べるのは初めてではないかと気付く。
それを指摘すれば、彼は少し苦笑いを浮かべた。
その意味を尋ねれば人にふるまうこと自体あまりないらしく、
さほど味に自信はないとのことだった。
しかし全く問題なく、むしろ十分に美味しかった。
やがて食事が終わり、片づけを手伝う傍ら、明日の予定を告げられた。
「明日は昼頃に大学に行く予定だ。そのつもりでいてくれ」
少し慌ただしいことについては謝罪されたが
なにせあまり時間はあるわけではないのだ。
早々に顔合わせや打ち合わせを、と求められるのは仕方がない。
乃亜は承諾して、その後、部屋へと戻った。
さすがに睡魔が襲ってきていた。
ほんとうであれば少しヴァイオリンに触れておきたい。
時刻は間もなく16時。
寝るには早いが時差ぼけもあり眠気がひどい。
乃亜は仕方なく、仮眠としてベッドに入ることにした。
ベッドにはラベンダーのポプリを置いておいた。
ましろが買い物に一緒に行った時、
落ち着いて眠れるようにとプレゼントしてくれたのだ。
馴染みのあるラベンダーの香りをかぎながら、見慣れない天井を見る。
ずっと会いたいと思っていた人との時間は
ひどく心が満たされる心地だった。
同時に車の中や、食事の中での時間は安心した。
約二年離れていたとは感じられないほどに、
こちらに接する彼の態度は変わりがない。
それが本当に嬉しかったし、心地よかった。
少し前まで、会いたくて仕方なかった人が、今身近にいる。
まるで夢を見ているかのように思いながら今日の出来事を思い返す。
煉矢はこちらでの生活にすっかりなじんでいるようだった。
元々高校時代から一人暮らしをしていたという話であるから
そういう意味では順応性が高いのだろう。
留学を一人で決断し、それに伴う準備を進め、
こちらにわたり、免許を取り、生活に馴染み、
そして大学でも安定して過ごしているようだ。
けれど静まり返った家の中で、ふと乃亜は思う。
自分はどういった環境であったとしても、
一人で暮らしたという経験はない。
煉矢にしても、兄にしても、
自分の尊敬するひとたちはそういったことを経験している。
今の自分にそれができるのか、それは正直自信がないし少し怖さもあった。
もう少し、いつかもう少し大人になったら、それを願ってもいいだろうか。
そんなことを考えながら、乃亜はベッドの中で眠りについた。
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