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薫風編
【薫風編】35:xx16年3月26日
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翌日。乃亜が目を覚ましたのは8時近くだった。
目を覚ました時は一瞬自分のいる場所に混乱したが、
すぐに昨日の記憶を取り戻したほっと安堵の息を漏らした。
こんな時間に目が覚めたのは初めてかもしれない。
長いフライトと時差に、自分の体内時計もだいぶおかしくなっているらしい。
洗面台で顔を洗い身支度を整えていると、外で車のエンジンがかかる音がした。
もしかしたら煉矢の父が出かけたのかもしれない。
カーテンを開けて窓を開けると、少し涼しい風が室内に入り込む。
風の匂いすら日本とは違うような気がした。
乃亜はスマートフォンに新着通知が入っていることに気付きロックを解除する。
煉矢からのメッセージだった。
自分は二階のリビングか自室にいる、
朝食は二階のリビングに置いてあるので食べて良いと。
なんだか本当に至れり尽くせりで申し訳ない。
乃亜はあてがわれた部屋から出て、
とりあえず同じフロアのリビングへ足を向けた。
天窓からの光がとても気持ちがいい。
リビングテーブルにはバケットとサラダ、
インスタントのコーヒーが置かれていた。
しっかり眠ったこともあって空腹だった。
煉矢に起床の連絡と食事の礼を返信していただくことにする。
サーモンと豆、トマト、レタス、アボカドが入ったサラダは
ボリュームがそれなりにあったが、あっさりとしたドレッシングのおかげで美味しく頂けた。
バケットはライ麦の香りがして少し酸味があったがサラダと相性が良く美味しい。
準備されていたお湯をインスタントコーヒーに注いで一息吐く。
ホットコーヒーを一口すするとき、少し足音のようなものが聞こえ、
すぐにドアの扉が開く音がした。
「おはよう、乃亜。よく眠れたか?」
「おはようございます。はい、おかげさまで」
「なら何よりだ」
彼も片手にカップを持ち、リビングの一席に腰かける。
なにかしていたのに、こちらに気を使って出てきてくれたのではないか。
それにまた申し訳ない気持ちが浮かぶ。
どうやらそれが顔に出たらしい。
「どうした?」
「あ、いえ……何から何まで、気を使っていただいているような気がして……」
「そんなことはないから、お前こそ気にしなくていい。
それより、予定通り、昼頃に大学に行く。
それまでの間だが、なにかしたいことはあるか?」
やはり気遣われている気がする。
しかし押し問答になるような気もして、乃亜はいったんそれについての追求は止めた。
「ええと、一度ヴァイオリンを確認しようかと……。
機内には持ち込んでいましたが、念のため、確認しておきたくて」
「成程。昨日も言ったが、ここを使って構わないから、自由に練習してくれ」
「わかりました」
本当にいいのかと日本の感覚が抜けないが、
問題ないというのであればそれに従うしかない。
朝食で使った食器などを一階のキッチンに片づけ、
そのまま自室へ戻ってヴァイオリンを取りあげてリビングに戻る。
リビングには煉矢がそのままテーブルについていたが、
自室からノートパソコンを持ってきていたようだった。
「俺はレポートを進めているから、気にするな」
「……音がお邪魔では?」
「逆に効率が上がる気がしてる」
どこか楽し気にそういう彼に瞳をくるりと回す。煉矢は小さく笑ったようだった。
からかわれている、と感じつつ、乃亜はヴァイオリンの確認にはいる。
幸い機内に持ち込めたおかげで傷などはない。
早速調律に入る。
調律についてはいつも通り、自分の耳で行う。
実際これで間違ったことはほぼなく、
乃亜にとってこれは特別なことではなかった。
ペグで音程を調整し終える。
ここまできたらもう、いつもと同じだ。
指慣らしのように流れるように弓を引き奏でる。
曲は少し前に教えてもらった曲がいい。
【メンデルスゾーン:歌の翼に】
普段静寂ばかりの広い家の中に、あまりにも心地よい旋律が広がる。
煉矢はノートパソコンの前で、しばし、その音楽に酔いしれる。
どこか儚さを感じさせる少女が、ヴァイオリンを構えた途端、
まったくその様相を変えたことにも内心驚いていた。
強く凛々しい、音楽にただ真摯に向き合う姿は美しささえ感じる。
ヴァイオリンの音を使って歌い舞う、まるで。
そこまで思って煉矢は自嘲する。
ともかく、彼女をと推した友人の慧眼は正解だったと思う。
などと考えていると、一曲目が終わったらしく、
彼女は少しヴァイオリンの弦を調整していた。
そしてまた音を合わせながら少しずつ奏でていく。
もうこちらの姿は目に入っていない。
煉矢もノートパソコンに表示したレポートをまとめていく。
事前に言ったように、彼女の音楽は、ひどく作業の効率を上げてくれた。
昼頃、予定通り大学へ向かっていた。
いつものレッスンとおなじような荷物をショルダーバックに入れ、
ヴァイオリンと共に車で向かう。
大学までは車で20分ほどらしい。
大学へ車通学というのもなにかもうアメリカらしいという印象しかもうない。
やがて到着したその場所は日本の概念における大学とは別物すぎていた。
あまりにも広いしあまりにも大きい。
「広い……ですね」
「これでも見える範囲はごく一部らしいがな」
「えっ?!
?……らしい?」
「さすがにすべては把握しきれん」
どうやら広さに途方に暮れた自分の感覚はおかしいものではないようだ。
乃亜はどこか諦めた様子の煉矢に小さく笑い、彼のあとに続いた。
「向かうのはデータサイエンス学部近くにあるイベントプラザだ。
見ての通り広い大学だからお前が一人で行動することはないと思うが
万が一迷うようなことがあれば、そういえば伝わる」
「……分かりました。
でも、本当に一人で出歩かないようにしようと強く心に決めたところです……」
「是非そうしてくれ」
こんな場所でひとりになったらさすがに迷惑どころでは済まない。
想像していた数倍は敷地が広すぎる。
ちらと周囲を見渡せば、学生たちがまばらに行き来しているが
中には自転車やセグウェイで移動している者さえいる。
しかしこの広さからすればそれも妥当なのかもしれない。
「ここには日本関連のクラブやイベントはいくつもあるんだが、
今回主催となっているのはそのうちの一つのクラブだ。
日本の芸術や伝統文化を紹介しつつ留学生や
この周辺に住む日本人と交流を持つというようなテーマだ」
「あの、気になっていたんですが、煉矢さんはどういう立ち位置なんですか?」
失礼な話かもしれないが、彼がそういったイベントに積極的にかかわるイメージはない。
彼は肩をすくめた。
「完全に巻き込まれだ。
同じ学部の知人経由で知り合ったやつが今回の主催でな。
日本から留学生なのだからこういったイベントにも参加すべきと
延々と説得されてな……。
イベントの有用性は理解しているが、
短期留学のこちらとしてはさほど時間が取れんと言ったんだが」
どこかうんざりとした様子が伝わって来る。
よほど繰り返し説得されたのだろうことは想像に容易い。
「仕方ないので事務方に徹することと、
今回のイベントのコンサルを務め、その結果をレポート化して
課題に活用させてもらうことを条件にした」
「統計学……でしたか?」
「ああ」
兄といい、この人といい、本当に大学で学ぶことを最大限に生かしている。
ただひたすらにこういったところは尊敬しかない。
などと話していると、大きな赤いレンガの建物が間近に迫った。
中央にトンネルのように奥へ続くようになっており、
簡易的なゲートで塞がれていた。
そこを抜けるにあたって、煉矢はカードのようにものを取り出した。
それを門の脇のパネルにカードを押し当てて開錠するようだが、
横の警備室に声をかけた。
なにやら一言二言話をして、警備担当らしき男の視線がこちらに向く。
軽く会釈をすると、向こうも視線で会釈のようなしぐさをした。
「乃亜、横の通路から通ってくれ」
「あ、はい」
どうやら入館の手続きのようなものだったらしい。
「あとでゲストカードが渡されるから、次以降はそれを使える。
日本の駅の改札のようなものだな」
納得して後ろについて先に進む。
広々とした中庭にはあまり人がいない。
今はこちらの大学も春休み期間中らしく、普段よりも人通りはすくないらしい。
とはいえ講義がなくとも登校する学生は少なくない。
中庭の最奥に、大きな建物が見えた。
今通り抜けたものよりはるかに大きい。
しかしそれより目に留まったのは、建物の前に作られた野外ステージらしきものだった。
「奥の建物がサウスホールだ。
あれと同じような大ホールが数か所あるが、
まぁそれは今は気にしなくていい。
その前に作られているあのステージが本番で使われるステージだ」
野外ステージとは聞いていたがかなり本格的だ。
ステージでは業者らしき人間が数名、なにやら作業を続けている。
それを脇目に、中庭の向かって左側の建物に進む。
今まで見ていた建物がどれもあまりにも大きかったため
少し小さく見えてしまうが、十分な大きさである。
自分が先日卒業した中学の校舎と比べてもそん色ない。
「ここがデータサイエンス学部の校舎だ。
まだ比較的新しいから校舎自体は小さいが、
近々、もう一棟増築されるらしい」
「煉矢さんの普段通われている棟とは別、なんですよね」
「そうだな。俺の通う学部はもう少し奥の統計学部棟だ。
だが、講義の関係でこちらにも顔は出す」
やがて一階の奥、ざわざわとした人のさざめきが聞こえてきた。
聞こえてくるのは当然英語ばかりだが、正直うまく聞き取れない。
英語の学校成績は決して悪くないし、むしろ他の教科よりもいいくらいだが
それでも現地の、いわゆる日常会話などに関してはどうだろうか。
今更ながら、リスニングもスピーキングも不安が大きくなってきた。
開いたままの扉のある一室に足を向け、
その出入口付近の廊下で何名かと話している青年がこちらに気付いた。
アッシュブラウンの短髪の青年で、片手をあげて挨拶のようなしぐさをした。
「Yo!Ren!」
「Hi,Liem」
親しげな様子を見せる彼は緑色の瞳で朗らかに笑い、
会話をしていた相手に断りを入れてこちらに駆け寄ってきた。
「You're earlier than expected.」
(予定より早かったな)
「The road was clear.」
(道が空いていたんでな)
「Wait... isn't that... the person behind you?!」
(……ん?後ろの子、もしかして?!)
どうやらリアムという名前らしい青年は、
こちらに目を向けて目を輝かせた。
乃亜は少したじろぐが、煉矢が紹介するように手を背中に当ててくれた。
「Oh, that's Noah. She arrived here yesterday.」
(ああ、乃亜だ。昨日、こちらに到着した)
「Nice to meet you! I'm Liam.」
(はじめまして!リアムだ)
「あ……、I am Noah. Nice to meet you.」
(乃亜です。よろしくお願いします)
人好きのしそうな人懐こい笑みで笑って手を差し出してくる。
乃亜は少しホッとしてその手を重ねた。
「I watched the video of the competition!
Honestly, I liked your performance more than the first place winner's.
It's an honor to have a future concertmaster here.」
(コンクールの映像見たよ!俺は正直1位の演奏より君の演奏が好きだった。
将来のコンサートマスターを招待できて光栄だよ)
なにかとんでもない称賛を浴びているような気がしつつ、
さすがに少し一気に話されてところどころしか分からない。
乃亜は少し助けを求めて煉矢に目を向けると
彼は苦笑いを浮かべて言った。
「先日のガラコンサートの映像を見て、お前を招待したがった張本人がこいつだ。
一位を取った出場者の演奏より、お前の演奏の方が好みだったと言ってる。
未来のコンサートマスターを呼べて光栄だとな」
「そっ、それはさすがにお世辞がすぎます……」
コンサートマスターはオーケストラの中で首席のヴァイオリニストだ。
あまりにも恐れ多すぎて乃亜は穴があったら入りたい心地になる。
しかしリアムは興奮した様子のまま満面に笑っていた。
「Noah isn't very fluent yet. Could you either go through me or speak slowly?」
(乃亜はまださほど流暢に話せない。俺を通すか、ゆっくり話してやってくれ)
「Oh, that's right.」
(ああ、そうだった)
つい、という様子で話していたリアムは、煉矢の言葉にはっとして頭をかいた。
「Sorry,Noah」
(ごめんな、乃亜)
「No, it's okay.」
(いいえ、大丈夫です)
乃亜が笑みでそれを受け入れるとリアムは再び笑みになる。
かなり人懐こい様子と感じたのは気のせいではないらしい。
「So, right away, would you mind playing for us a bit later?
Not just me, but the other members are also eager to hear your violin!」
(早速だけど、このあと少し演奏してもらっていいかな。
俺もそうだけど、他のメンバーも君のヴァイオリンを聴きたがってるんだ!)
「We had a few suggestions, but have you decided on the pieces?」
(いくつか候補は出していたが、選曲は決まっているのか?)
「For now, it's unanimously 'This is me' that we want to hear.
And if there's another song with a Japanese vibe, it'd be perfect!」
(とりあえず全会一致で"This is me"は聴きたい。
あともう少し日本のイメージの曲があれば文句なしだけど)
煉矢はそのまま乃亜へと通訳して伝える。
乃亜は少し考えるように首を傾げた。
「日本のイメージ……ですか?」
そういわれると逆に難しいものだ。
こちらの人の日本のイメージがどういったものなのか正直分からない。
悩む様子の乃亜を見てリアムは少し考えたあと告げた。
「Japanese traditional music is popular here too.
Traditional songs are fine as well.」
(日本の邦楽はこっちでも人気だよ。ああ、伝統的な曲でもいいし)
中々に難しいお題だ。
自分もいろんな曲は聞くがもっぱらクラシックが多く、
そこに日本らしさがあるかと言われると少々首をかしげてしまう。
「あの、もし希望の曲があれば、楽譜と原曲を聞かせていただければ弾けると思います。
楽譜は無理でも、せめて原曲だけ聞かせてもらえれば……」
「……それで弾けるのか?」
「はい。今までも、だいたい、耳で覚えてのものが多いので」
さらりと言っているがとんでもない話をしていないだろうか。
煉矢は内心驚きながらリアムにそれを伝える。
案の定、彼も目を白黒させていた。
「Wait, seriously?」
(え、それマジで?)
「That's what she said.」
(本人曰く、そうらしいな)
「If that's true, I feel like we've brought in an incredible genius?」
(もしそれが本当なら、とんでもない天才呼んじまった気がするんだが?)
「Wouldn't disagree.」
(否定しない)
やはりとんでもない話だと感じた自分の考えは間違っていないようだ。
乃亜はこちらの様子に小首をかしげているが、
そんな可愛い仕草をしても驚きはそう消えない。
そんなこちらの状況を崩してくれる声が廊下の向こうから聞こえた。
「Liam, the dance group sent in another additional application.」
(リアム、ダンスグループから追加の申請書きたわよ)
「Not again. Are they changing their lineup again...?」
(またかよ。あいつら、また構成変えんのか……)
うんざりした様子を見せたリアムに笑って肩をすくめたのは、
明るいブロンドのショートヘアに青い目が印象的な溌溂とした女性だった。
彼女はこちらにも気づいたらしく、煉矢に手を上げ挨拶をする。
「Oh, Ren, it's rare to see you coming over here.」
(あら、レン、こっちに来るなんて珍しいじゃない)
「It's about that thing. Noah.」
(例の件でな。乃亜)
挨拶を、というような様子に乃亜も頷き、
彼女に向かって軽く頭を下げた。
「Nice to meet you. My name is Noah.」
(はじめまして、乃亜と言います)
「!The one from that competition?!」
(!あのコンクールの?!)
「わっ?!」
とたん、その女性に飛びつかれた。
思わず声を上げて後ろに倒れそうになるのをとどめるが
彼女はこちらの頭を抱きしめたままなにやらひどく興奮している。
ただひたすらに目を白黒させるしかない。
「Your face wasn't really shown in the video, so I only had a vague idea,
but you're so cute! You're like a fairy! Cute!」
(映像じゃ顔映ってなかったから雰囲気しか分からなかったけど、
なんて可愛いのかしら!まるで妖精みたい!可愛い!)
何が起きているのかまったくわからない。
突然美女に抱き着かれてなすがままにされている乃亜に
はっとした煉矢は、彼女とごく親しいリアムに目を向けた。
「Hey, Liam...」
(おいリアム……)
「Sorry, she has a weakness for cute things...」
(すまん、あいつ可愛いものに目がなくて……)
どうやらなにか琴線に触れたらしい。
がっくりと肩を落として額を抑えるリアムは深くため息を吐き出している。
しかしこのままというわけにもいかない。
「Lindy, you're going to crush Noah.」
(リンディ、乃亜が潰れる)
「Oh, I'm sorry!」
(ああ、ごめんなさい)
そしてようやく解放された乃亜は突然のことにドキドキ騒ぐ胸を抑えはぁと息を吐いた。
彼女は少し申し訳なさそうにしながら、こちらの顔を見つめてにこりと笑った。
「私はメリンダ。みんなにはリンディって呼ばれてるの。
あなたもそう呼んでね、ノア」
「!」
とたん流ちょうな日本語が飛び出てきて乃亜は目を丸くした。
リンディは悪戯が成功したような顔でニコニコと笑った。
「私のおばあちゃんが日本人でね。
それに昔から日本のことが大好きで、ずっと勉強してるのよ。
だからある程度は問題なく話せるわ」
「いえ、とてもお上手です。びっくりしました」
「ふふ、基本的にレンがあなたの通訳になると思うけど、
私もこの通りだし、他にもレベルに違いはあっても、
話せる人も何人かいるから、安心してね」
確かに煉矢以外でも日本語が話せる人がいるのは安心感が大きい。
乃亜は頷いて握手を求めてきたリンディに応じた。
二人が挨拶をした様子を見届け、リアムは笑顔で頷いた。
「Alright, come on in!」
(よし、それじゃ中に入ってくれ!)
リアムが促し、リンディが乃亜の手を取って室内へ向かう。
乃亜は少し戸惑いながら、煉矢を見れば、彼は少し苦笑いを浮かべていたが
特に咎めるでもなくその流れに乗るように言っているようだった。
中へと入ったリアムは、
それぞれに練習したり作業をしているメンバーたちに声を上げて言った。
「Everyone! Our highly anticipated violinist has arrived!」
(みんな!期待のヴァイオリニストが到着したぞ!)
一気に視線がこちらに向く。
どきりとしたのは仕方がないが、リアムたちは素知らぬ顔だ。
室内にいる人々は人種や年齢もバラバラだったが
皆一様に興味津々という様子は隠しきれていない。
緊張が高まる中で、煉矢がこそりと、
リアムが皆にコンクールの映像を見せたと教えてくれた。
「Oh, the girl you were talking about.」
(おっ、言ってた子だな)
「She's small. Wasn't she like, 15?」
(小さいな、あれ、15歳とかだったよな?)
「You can't tell age by looks with Japanese people.」
(日本人は外見じゃ年齢分からないからな)
「Let's hear you play already! That video the other day was awesome!」
(さっそく聴かせてくれよ。こないだの映像はよかったぜ!)
「Wow, what a cute girl.」
(うわ、可愛らしい子ねぇ)
「Her performance had such a powerful impression,
I never would have thought she'd be such a delicate girl.」
(演奏は随分力強い印象だったから、あんな可憐な子だなんて思わなかったわ)
そこかしこで聞こえる英語が耳に届く。
すべてが聞き取るわけではないが、
とりあえず邪見にされているわけではないらしい点は安堵した。
「ノア、さっそく聴かせてほしいんだけど、大丈夫?」
リンディがこちらを覗き込んで言うと、
乃亜は少しハッとして頷いた。
「それは、はい、大丈夫です」
「乃亜、リアムがガラコンサートで演奏していたものがいいと」
「分かりました……」
先のコンクールで特別賞を受賞し出演したガラコンサート。
音楽を楽しむというイベントの方針と、一般公開されるということも加味し、
ヴァイオリン講師の水野が選んだのが、かの曲だった。
ある映画の挿入歌として爆発的な人気を得た楽曲。
この国発祥である映画だ。確かに日本以上に人気は高いだろう。
乃亜は周囲からの期待と興味、好奇心が入り混じったような視線の中で
ヴァイオリンの準備を済ませていく。
調律を進めていく中で、耳だけで調律する様子に
周囲が少し首をかしげる様子があったが、乃亜にはもうそれは届いていない。
ヴァイオリンにふれる時間は自分を落ち着かせてくれる。
心の深い部分に沈んでいくような感覚だ。
準備を終えると、リンディに手を引かれて部屋の中央に促される。
気付けば中央は広くあき、周囲が取り囲むようにこちらを見ている。
乃亜はふうとひとつ大きく息を吐き、ヴァイオリンを構えて目を閉じた。
この曲は、外見や内面にて他の人とは少し違うなにかを抱えた人たちが、
様々な葛藤や苦悩を抱きながらも、自分は自分だと、
強く立ち向かい生きていく決意を歌った曲だ。
最初は緩やかに、少しためらいがちに、しかしサビに入る瞬間にすべてを解放させる。
とたん、一気に音が立ち替わる。
ただのヴァイオリンソロであるはずなのに、
あまりにも鮮やかにあの映画の光景が目に浮かぶ。
演奏を聴いていた彼らは巨大な風に吹かれた感覚を得た。
そしてこの場にいるのは、形は違えど音楽やダンスといった芸術に傾倒する者たちだ。
そんな彼らが乃亜の演奏に触発されないはずはない。
まずひとりのピアニストが動いた。
乃亜のヴァイオリンに合わせて即興でピアノを叩き始めた。
同時にパーカッションのようにドラムが奏でられ、
シンガーは口ずさむような声色から高らかに歌い始めたのだ。
その変化に乃亜は戸惑うことなく、ヴァイオリンを奏でたまま笑みさえ浮かべ、
彼、彼女たちの様子を受け入れて楽し気に奏で続けていた。
唄う様子に、重なる音に、身体でリズムを取る人々を先導するように、
自身も踊るように音楽に乗って。
その様子にただひたすら煉矢は驚くほかない。
普段の彼女はどこか自信がなく、自己評価が低い。
なのにその様子とはまるで違う。別人と言っても過言ではない。
銀髪を揺らして笑みを浮かべ、周囲の人々と共に、全身をもって奏でている。
そして終わった演奏、一瞬の静寂、その後、室内は大歓声が広がり
乃亜はその声にびくりと大きく身体を震わせた。
「Whoa, that was amazing!!」
(うおおおっすげぇ!!)
「Wasn't that...?! Seriously, she could pull off a movie-like performance?!」
(これあれじゃないか?!マジで映画さながらのパフォーマンスできるんじゃないか?!)
「Hey, hey, can you play something more intense too?!」
(なぁなぁ、もっと激しいのとかも弾ける?!)
「Amazing! Hey Liam! We should definitely incorporate 'This is me' at the end!
With dance, vocals, piano, and drums too!」
(すごい!ねぇリアム!これ絶対にラストに"This is me"組み込むべきよ!
ダンスと歌とピアノと、あとドラムも入れてさ!)
「Hey, how can you make such an energetic sound when you're so tiny?!
Are you a genius?!」
(ねぇ、どうしてそんな細いのに、あんなエネルギーに満ちた音出せるの?!
天才なんじゃない?!)
「We've got a genius violinist from Japan!」
(天才ヴァイオリニストが日本から来てくれたぞ!)
先ほどの堂々とした演奏の様子から普段の様子に戻った乃亜は
ただ唖然とそれらの喝采を聞いて戸惑いに目を泳がせている。
それに近くにいたリンディが、両手を大きく振った。
「Alright, alright, hold on a sec!
I know you're all excited, but at least let her introduce herself!」
(はいはい、ちょっと待って!
興奮するのもよくわかるけど、せめて名乗りくらいさせてあげなさいよ!)
その言葉に興奮しきりのメンバーたちは笑って声量を落とした。
リンディのおかげで収拾がついたらしい。
乃亜はほっと息を吐いた。
「ごめんね、びっくりしたよね。
とりあえず、自己紹介できる?」
「は、はい、大丈夫です。えっと……、
I am Noah. I am Renya's friend, and I arrived from Japan.
Although it is a short time, I look forward to working with you.」
(乃亜です。煉矢の友人で、日本から着ました。
短い時間ですが、よろしくお願いします)
つたないながらもなんとか英語で挨拶をすると、
メンバーたちは歓声とともに拍手してくれた。
一人また一人と駆け寄り、シンガーらしき女性がこちらの手を取る。
「Of course! Nice to meet you!」
(もちろんよ!よろしくね!)
「Let's make this a success together!」
(一緒に成功させような!)
他の人たちも温かく迎え入れてくれるようだ。
乃亜は少しためらいがちながらも笑顔で彼らと握手したり、頷くなどして
友好を示していく。
その様子を部屋の出入り口付近で見ていたリアムは、
はぁと大きく感嘆の息を吐き出して、隣の煉矢に興奮したように言った。
「Seriously, isn't she a real genius?
I listen to classical music a lot, but I rarely get that kind of shock, you know?」
(いや、あの子、本当に天才なんじゃないか?
俺、クラシックもよく聞くけど、あんな衝撃受けること中々ないぜ?)
「Is that so...」
(そうか……)
煉矢はそれに短く答えた。
たしかに乃亜の演奏は素晴らしい以外ない。
彼女の演奏は強くこちらを引き込んでいく。それは知っていた。
しかし、曲によってこうも大きく様子を変えるとは思わなかった。
だがそれ以上に。
リアムは煉矢の様子に首をかしげる。
「Is something bothering you?」
(なんか気になることあるのか?)
「No... I was just surprised
that she seemed like a different person during her performance.」
(いや……演奏中は、別人のようだと驚いただけだ)
「Oh, yeah, it's a pretty common thing for great performers
to go into a trance-like state while playing, so maybe it was that?」
(ああ、優れた演奏家は、演奏中はトランス状態みたいになることは、
割とよくある話だし、それじゃないか?)
「...If you say so.」
(……なら、いいが)
リアムはまだ乃亜のことを知らない。
しかしその考えはあながち間違っているとも判断できない。
煉矢は周囲の圧に戸惑いながらも笑顔で答えている様子の乃亜を見ながら
自分の疑念を一時、押し込めることにした。
二人が話している中、ひとりの青年が大きく手を上げた。
その青年はヘーゼル色の髪で、興奮が隠し切れないようにオリーブ色の瞳を輝かせている。
「Liam,Liam! I have something I'd like to propose!」
(リアム、リアム!僕から提案したいことがあるんだけど!)
「What is it, Nick?」
(なんだよ、ニック)
彼は興奮そのままにリアムたちの元に駆け寄ってきた。
「Before that, there's something I'd like to confirm with Noah.
Could I talk to her for a bit?」
(その前に、ノアに確認したいことがあるんだ。
少し話させて!)
何事かとリアムと煉矢は顔を見合わせる中、
彼の提案とやらが気になったリアムは、メンバーに取り囲まれている乃亜に声をかけた。
「Noah, Nick wants to talk to you. Is that alright?」
(ノア、ニックが話をしたいって。構わないかな?)
「あ、えと、Yes, it is alright.」
(はい、大丈夫です)
少しゆっくりめに問いかけられ、理解できた乃亜は頷いた。
それを聞くが早く、ニックと呼ばれる青年は乃亜の元に馳せ参じる。
「ぼく、ニコラウス。日本語、すこし、話すます。わかりますか?」
リンディほどでないにしても、日本語に違いない。
乃亜は笑顔で頷いた。
「あ、はい。わかります。よろしくお願いします。ニコラウスさん」
「ニック、呼ぶ、いいです。
ヴァイオリン、とても素晴らしいです、感動!
あなた、すばらしい、ヴァイオリニスト。
僕、あなたと会えて、とても嬉しい!」
興奮した様子を自分の知る日本語でなんとか表現してようとしているのが伝わる。
乃亜は気恥ずかしさを感じながら、それに礼を言う。
しかし彼の本題はそれではなかった。
ぱしり、両手をしっかりとつかまれた。
それに驚く間もなく、ずい、と顔を近づけられ、思わずどきりとしてしまった。
「ノア、僕とセッションする、ほしいです!」
「え、せ、セッション……?」
何を言われるのかと思ったが、その言葉は想定外のものだった。
彼の瞳は真剣そのものだ。
しかしこの距離感によく頭が追い付かない。
それに気づいてくれたらしい煉矢が、ニックに手を離すように伝えると、
ニックはハッとして両手を話して謝罪してくれた。
乃亜は大丈夫と伝えて、その謝罪を受け入れる。
ほっとしていると、横からリンディが疑わしそうに言った。
「ニック、セッションって言っても、あなた三味線でしょ?」
「……え、三味線、弾くんですか?」
「僕、日本、とても好き。三味線、日本、習いました。
ずっとずっと、やってます」
まさかこの地で和楽器の代表格のひとつであろう、
三味線の名前を聞くとは思わなかった。
両手を掴まれたことによる戸惑いが吹き飛び、リンディに目を向ける。
「ニックの三味線はすごいのよ。
すごい速弾きで、ロックのカバーとかもしてるのよ」
「はい。だから、僕とあなた、セッションしたいです!」
三味線とヴァイオリンの共演。
それはひどく興味深いのは確かだ。
「僕、弾きます。聴いてください!」
ニックは自分の荷物の方に足を向けて自身の楽器を取り出した。
それは確かに、三味線に違いない。
「ニックは今20歳なんだけど、子供の時に3年間くらい日本にいたんですって。
その時に三味線を聞いて感動して、弟子入りして、
こっちに戻ってからもオンラインでずっと稽古してるらしいのよ」
「すごいですね……日本人でもあまり三味線奏者にお会いすることはないです」
「そうなの?なんか不思議ねぇ」
確かにこんな異国の地で、異国の三味線奏者にであうというのは不思議な話だ。
などと話している中で、彼は準備を終えたらしく
適当な椅子に腰かけてバチを叩き始めた。
自分が日本人だからだろうか。
彼の音色はひどく心の深いところを揺さぶられる。
周囲のメンバーも息をのむようにそれを耳にしている。
そのあまりにも力強い音色、息を飲むような卓越した技巧。
そんな奏者が、自分に対して、セッションしてほしいと告げた。
アマチュア未満とはいえ、音楽につながるものとして光栄以外の何物でもない。
ぐっとヴァイオリンを持つ手に力が入った。
それに気づいたらしいリンディが、背中を軽く押した。
驚いて振り返ると、やってみなよ、と言うようにウインクされた。
周囲もなにか期待した様子がうかがえ、
なによりニックがわくわくした様子でこちらを見ている。
乃亜は少しためらいながらヴァイオリンを構える。
聞こえる音色、繰り返される旋律、そのリズム。
であれば、こうだろう。
奏でられる旋律に乗るように、自然とその中にヴァイオリンの少し低い音を乗せていく。
それに周囲はさらに興奮を広めていく。
彼が先ほど叩いていたリズム、それをヴァイオリンでも同様に奏でれば
周囲が驚嘆の歓声を上げた。
ニックと視線をあわせて息を合わせて、一気に最高潮まで広げ、
やがて競演のようなセッションは終わった。
先ほど以上の大興奮に室内は大きく沸いた。
誰よりもニックがその興奮におさまりが付かないようだった。
日本語は吹き飛び、声を上げて賞賛して、
乃亜の両手を掴んで今にも抱き着きそうな勢いだった。
リンディがそれを助けて事なきを得たものの、
周囲からの絶賛の嵐に乃亜は戸惑いのほうが大きい。
リアムがパンパンと両手を打ち鳴らして周囲を一階落ち着かせ、
セッションは採用、プログラムの調整に入る旨を案内した。
乃亜はようやく解放されほっと大きく息を吐き出した。
「乃亜」
そ、と寄り添ってくれたのは煉矢だった。
大きく安堵したのは言うまでもない。
どこか心配した様子を見せている。
乃亜はそれに首を振った。
「大丈夫です」
別に無理をしているわけではない。
皆が賞賛してくれていることに戸惑っているだけで、疲労もない。
この程度なら普段のレッスンの方がはるかに厳しいし疲れる。
煉矢は少しまだ怪訝な様子を浮かべたが、
持ってきていた飲み物を差し出すことにとどめてくれた。
乃亜はそれに礼を言って受け取り口にする。
少し暑かったので素直にありがたい。
「乃亜、いい?ニックが原曲の音源くれるって!」
「あ、はい」
リンディに呼ばれ、煉矢に礼を言ってリンディの元に向かう。
煉矢はそれを見てひとつ息を吐いた。
とりあえず、もめ事にもならず、
あたたかく乃亜が迎え入れられたことは喜ばしい。
コミュニケーションについても、リンディが率先して通訳してくれている。
元々、ニックのように、カタコトながらも
日本語ができる学生はいることは把握していたので
さして大きな問題にはならないと考えていた。
彼女の兄に感化されたのか少し心配しすぎていたかと思いなおし、
煉矢もまた自分の務めを果たすべく、ノートパソコンに向かう。
だがその後も、なにか心の奥で得体のしれない懸念が消えることはなかった。
目を覚ました時は一瞬自分のいる場所に混乱したが、
すぐに昨日の記憶を取り戻したほっと安堵の息を漏らした。
こんな時間に目が覚めたのは初めてかもしれない。
長いフライトと時差に、自分の体内時計もだいぶおかしくなっているらしい。
洗面台で顔を洗い身支度を整えていると、外で車のエンジンがかかる音がした。
もしかしたら煉矢の父が出かけたのかもしれない。
カーテンを開けて窓を開けると、少し涼しい風が室内に入り込む。
風の匂いすら日本とは違うような気がした。
乃亜はスマートフォンに新着通知が入っていることに気付きロックを解除する。
煉矢からのメッセージだった。
自分は二階のリビングか自室にいる、
朝食は二階のリビングに置いてあるので食べて良いと。
なんだか本当に至れり尽くせりで申し訳ない。
乃亜はあてがわれた部屋から出て、
とりあえず同じフロアのリビングへ足を向けた。
天窓からの光がとても気持ちがいい。
リビングテーブルにはバケットとサラダ、
インスタントのコーヒーが置かれていた。
しっかり眠ったこともあって空腹だった。
煉矢に起床の連絡と食事の礼を返信していただくことにする。
サーモンと豆、トマト、レタス、アボカドが入ったサラダは
ボリュームがそれなりにあったが、あっさりとしたドレッシングのおかげで美味しく頂けた。
バケットはライ麦の香りがして少し酸味があったがサラダと相性が良く美味しい。
準備されていたお湯をインスタントコーヒーに注いで一息吐く。
ホットコーヒーを一口すするとき、少し足音のようなものが聞こえ、
すぐにドアの扉が開く音がした。
「おはよう、乃亜。よく眠れたか?」
「おはようございます。はい、おかげさまで」
「なら何よりだ」
彼も片手にカップを持ち、リビングの一席に腰かける。
なにかしていたのに、こちらに気を使って出てきてくれたのではないか。
それにまた申し訳ない気持ちが浮かぶ。
どうやらそれが顔に出たらしい。
「どうした?」
「あ、いえ……何から何まで、気を使っていただいているような気がして……」
「そんなことはないから、お前こそ気にしなくていい。
それより、予定通り、昼頃に大学に行く。
それまでの間だが、なにかしたいことはあるか?」
やはり気遣われている気がする。
しかし押し問答になるような気もして、乃亜はいったんそれについての追求は止めた。
「ええと、一度ヴァイオリンを確認しようかと……。
機内には持ち込んでいましたが、念のため、確認しておきたくて」
「成程。昨日も言ったが、ここを使って構わないから、自由に練習してくれ」
「わかりました」
本当にいいのかと日本の感覚が抜けないが、
問題ないというのであればそれに従うしかない。
朝食で使った食器などを一階のキッチンに片づけ、
そのまま自室へ戻ってヴァイオリンを取りあげてリビングに戻る。
リビングには煉矢がそのままテーブルについていたが、
自室からノートパソコンを持ってきていたようだった。
「俺はレポートを進めているから、気にするな」
「……音がお邪魔では?」
「逆に効率が上がる気がしてる」
どこか楽し気にそういう彼に瞳をくるりと回す。煉矢は小さく笑ったようだった。
からかわれている、と感じつつ、乃亜はヴァイオリンの確認にはいる。
幸い機内に持ち込めたおかげで傷などはない。
早速調律に入る。
調律についてはいつも通り、自分の耳で行う。
実際これで間違ったことはほぼなく、
乃亜にとってこれは特別なことではなかった。
ペグで音程を調整し終える。
ここまできたらもう、いつもと同じだ。
指慣らしのように流れるように弓を引き奏でる。
曲は少し前に教えてもらった曲がいい。
【メンデルスゾーン:歌の翼に】
普段静寂ばかりの広い家の中に、あまりにも心地よい旋律が広がる。
煉矢はノートパソコンの前で、しばし、その音楽に酔いしれる。
どこか儚さを感じさせる少女が、ヴァイオリンを構えた途端、
まったくその様相を変えたことにも内心驚いていた。
強く凛々しい、音楽にただ真摯に向き合う姿は美しささえ感じる。
ヴァイオリンの音を使って歌い舞う、まるで。
そこまで思って煉矢は自嘲する。
ともかく、彼女をと推した友人の慧眼は正解だったと思う。
などと考えていると、一曲目が終わったらしく、
彼女は少しヴァイオリンの弦を調整していた。
そしてまた音を合わせながら少しずつ奏でていく。
もうこちらの姿は目に入っていない。
煉矢もノートパソコンに表示したレポートをまとめていく。
事前に言ったように、彼女の音楽は、ひどく作業の効率を上げてくれた。
昼頃、予定通り大学へ向かっていた。
いつものレッスンとおなじような荷物をショルダーバックに入れ、
ヴァイオリンと共に車で向かう。
大学までは車で20分ほどらしい。
大学へ車通学というのもなにかもうアメリカらしいという印象しかもうない。
やがて到着したその場所は日本の概念における大学とは別物すぎていた。
あまりにも広いしあまりにも大きい。
「広い……ですね」
「これでも見える範囲はごく一部らしいがな」
「えっ?!
?……らしい?」
「さすがにすべては把握しきれん」
どうやら広さに途方に暮れた自分の感覚はおかしいものではないようだ。
乃亜はどこか諦めた様子の煉矢に小さく笑い、彼のあとに続いた。
「向かうのはデータサイエンス学部近くにあるイベントプラザだ。
見ての通り広い大学だからお前が一人で行動することはないと思うが
万が一迷うようなことがあれば、そういえば伝わる」
「……分かりました。
でも、本当に一人で出歩かないようにしようと強く心に決めたところです……」
「是非そうしてくれ」
こんな場所でひとりになったらさすがに迷惑どころでは済まない。
想像していた数倍は敷地が広すぎる。
ちらと周囲を見渡せば、学生たちがまばらに行き来しているが
中には自転車やセグウェイで移動している者さえいる。
しかしこの広さからすればそれも妥当なのかもしれない。
「ここには日本関連のクラブやイベントはいくつもあるんだが、
今回主催となっているのはそのうちの一つのクラブだ。
日本の芸術や伝統文化を紹介しつつ留学生や
この周辺に住む日本人と交流を持つというようなテーマだ」
「あの、気になっていたんですが、煉矢さんはどういう立ち位置なんですか?」
失礼な話かもしれないが、彼がそういったイベントに積極的にかかわるイメージはない。
彼は肩をすくめた。
「完全に巻き込まれだ。
同じ学部の知人経由で知り合ったやつが今回の主催でな。
日本から留学生なのだからこういったイベントにも参加すべきと
延々と説得されてな……。
イベントの有用性は理解しているが、
短期留学のこちらとしてはさほど時間が取れんと言ったんだが」
どこかうんざりとした様子が伝わって来る。
よほど繰り返し説得されたのだろうことは想像に容易い。
「仕方ないので事務方に徹することと、
今回のイベントのコンサルを務め、その結果をレポート化して
課題に活用させてもらうことを条件にした」
「統計学……でしたか?」
「ああ」
兄といい、この人といい、本当に大学で学ぶことを最大限に生かしている。
ただひたすらにこういったところは尊敬しかない。
などと話していると、大きな赤いレンガの建物が間近に迫った。
中央にトンネルのように奥へ続くようになっており、
簡易的なゲートで塞がれていた。
そこを抜けるにあたって、煉矢はカードのようにものを取り出した。
それを門の脇のパネルにカードを押し当てて開錠するようだが、
横の警備室に声をかけた。
なにやら一言二言話をして、警備担当らしき男の視線がこちらに向く。
軽く会釈をすると、向こうも視線で会釈のようなしぐさをした。
「乃亜、横の通路から通ってくれ」
「あ、はい」
どうやら入館の手続きのようなものだったらしい。
「あとでゲストカードが渡されるから、次以降はそれを使える。
日本の駅の改札のようなものだな」
納得して後ろについて先に進む。
広々とした中庭にはあまり人がいない。
今はこちらの大学も春休み期間中らしく、普段よりも人通りはすくないらしい。
とはいえ講義がなくとも登校する学生は少なくない。
中庭の最奥に、大きな建物が見えた。
今通り抜けたものよりはるかに大きい。
しかしそれより目に留まったのは、建物の前に作られた野外ステージらしきものだった。
「奥の建物がサウスホールだ。
あれと同じような大ホールが数か所あるが、
まぁそれは今は気にしなくていい。
その前に作られているあのステージが本番で使われるステージだ」
野外ステージとは聞いていたがかなり本格的だ。
ステージでは業者らしき人間が数名、なにやら作業を続けている。
それを脇目に、中庭の向かって左側の建物に進む。
今まで見ていた建物がどれもあまりにも大きかったため
少し小さく見えてしまうが、十分な大きさである。
自分が先日卒業した中学の校舎と比べてもそん色ない。
「ここがデータサイエンス学部の校舎だ。
まだ比較的新しいから校舎自体は小さいが、
近々、もう一棟増築されるらしい」
「煉矢さんの普段通われている棟とは別、なんですよね」
「そうだな。俺の通う学部はもう少し奥の統計学部棟だ。
だが、講義の関係でこちらにも顔は出す」
やがて一階の奥、ざわざわとした人のさざめきが聞こえてきた。
聞こえてくるのは当然英語ばかりだが、正直うまく聞き取れない。
英語の学校成績は決して悪くないし、むしろ他の教科よりもいいくらいだが
それでも現地の、いわゆる日常会話などに関してはどうだろうか。
今更ながら、リスニングもスピーキングも不安が大きくなってきた。
開いたままの扉のある一室に足を向け、
その出入口付近の廊下で何名かと話している青年がこちらに気付いた。
アッシュブラウンの短髪の青年で、片手をあげて挨拶のようなしぐさをした。
「Yo!Ren!」
「Hi,Liem」
親しげな様子を見せる彼は緑色の瞳で朗らかに笑い、
会話をしていた相手に断りを入れてこちらに駆け寄ってきた。
「You're earlier than expected.」
(予定より早かったな)
「The road was clear.」
(道が空いていたんでな)
「Wait... isn't that... the person behind you?!」
(……ん?後ろの子、もしかして?!)
どうやらリアムという名前らしい青年は、
こちらに目を向けて目を輝かせた。
乃亜は少したじろぐが、煉矢が紹介するように手を背中に当ててくれた。
「Oh, that's Noah. She arrived here yesterday.」
(ああ、乃亜だ。昨日、こちらに到着した)
「Nice to meet you! I'm Liam.」
(はじめまして!リアムだ)
「あ……、I am Noah. Nice to meet you.」
(乃亜です。よろしくお願いします)
人好きのしそうな人懐こい笑みで笑って手を差し出してくる。
乃亜は少しホッとしてその手を重ねた。
「I watched the video of the competition!
Honestly, I liked your performance more than the first place winner's.
It's an honor to have a future concertmaster here.」
(コンクールの映像見たよ!俺は正直1位の演奏より君の演奏が好きだった。
将来のコンサートマスターを招待できて光栄だよ)
なにかとんでもない称賛を浴びているような気がしつつ、
さすがに少し一気に話されてところどころしか分からない。
乃亜は少し助けを求めて煉矢に目を向けると
彼は苦笑いを浮かべて言った。
「先日のガラコンサートの映像を見て、お前を招待したがった張本人がこいつだ。
一位を取った出場者の演奏より、お前の演奏の方が好みだったと言ってる。
未来のコンサートマスターを呼べて光栄だとな」
「そっ、それはさすがにお世辞がすぎます……」
コンサートマスターはオーケストラの中で首席のヴァイオリニストだ。
あまりにも恐れ多すぎて乃亜は穴があったら入りたい心地になる。
しかしリアムは興奮した様子のまま満面に笑っていた。
「Noah isn't very fluent yet. Could you either go through me or speak slowly?」
(乃亜はまださほど流暢に話せない。俺を通すか、ゆっくり話してやってくれ)
「Oh, that's right.」
(ああ、そうだった)
つい、という様子で話していたリアムは、煉矢の言葉にはっとして頭をかいた。
「Sorry,Noah」
(ごめんな、乃亜)
「No, it's okay.」
(いいえ、大丈夫です)
乃亜が笑みでそれを受け入れるとリアムは再び笑みになる。
かなり人懐こい様子と感じたのは気のせいではないらしい。
「So, right away, would you mind playing for us a bit later?
Not just me, but the other members are also eager to hear your violin!」
(早速だけど、このあと少し演奏してもらっていいかな。
俺もそうだけど、他のメンバーも君のヴァイオリンを聴きたがってるんだ!)
「We had a few suggestions, but have you decided on the pieces?」
(いくつか候補は出していたが、選曲は決まっているのか?)
「For now, it's unanimously 'This is me' that we want to hear.
And if there's another song with a Japanese vibe, it'd be perfect!」
(とりあえず全会一致で"This is me"は聴きたい。
あともう少し日本のイメージの曲があれば文句なしだけど)
煉矢はそのまま乃亜へと通訳して伝える。
乃亜は少し考えるように首を傾げた。
「日本のイメージ……ですか?」
そういわれると逆に難しいものだ。
こちらの人の日本のイメージがどういったものなのか正直分からない。
悩む様子の乃亜を見てリアムは少し考えたあと告げた。
「Japanese traditional music is popular here too.
Traditional songs are fine as well.」
(日本の邦楽はこっちでも人気だよ。ああ、伝統的な曲でもいいし)
中々に難しいお題だ。
自分もいろんな曲は聞くがもっぱらクラシックが多く、
そこに日本らしさがあるかと言われると少々首をかしげてしまう。
「あの、もし希望の曲があれば、楽譜と原曲を聞かせていただければ弾けると思います。
楽譜は無理でも、せめて原曲だけ聞かせてもらえれば……」
「……それで弾けるのか?」
「はい。今までも、だいたい、耳で覚えてのものが多いので」
さらりと言っているがとんでもない話をしていないだろうか。
煉矢は内心驚きながらリアムにそれを伝える。
案の定、彼も目を白黒させていた。
「Wait, seriously?」
(え、それマジで?)
「That's what she said.」
(本人曰く、そうらしいな)
「If that's true, I feel like we've brought in an incredible genius?」
(もしそれが本当なら、とんでもない天才呼んじまった気がするんだが?)
「Wouldn't disagree.」
(否定しない)
やはりとんでもない話だと感じた自分の考えは間違っていないようだ。
乃亜はこちらの様子に小首をかしげているが、
そんな可愛い仕草をしても驚きはそう消えない。
そんなこちらの状況を崩してくれる声が廊下の向こうから聞こえた。
「Liam, the dance group sent in another additional application.」
(リアム、ダンスグループから追加の申請書きたわよ)
「Not again. Are they changing their lineup again...?」
(またかよ。あいつら、また構成変えんのか……)
うんざりした様子を見せたリアムに笑って肩をすくめたのは、
明るいブロンドのショートヘアに青い目が印象的な溌溂とした女性だった。
彼女はこちらにも気づいたらしく、煉矢に手を上げ挨拶をする。
「Oh, Ren, it's rare to see you coming over here.」
(あら、レン、こっちに来るなんて珍しいじゃない)
「It's about that thing. Noah.」
(例の件でな。乃亜)
挨拶を、というような様子に乃亜も頷き、
彼女に向かって軽く頭を下げた。
「Nice to meet you. My name is Noah.」
(はじめまして、乃亜と言います)
「!The one from that competition?!」
(!あのコンクールの?!)
「わっ?!」
とたん、その女性に飛びつかれた。
思わず声を上げて後ろに倒れそうになるのをとどめるが
彼女はこちらの頭を抱きしめたままなにやらひどく興奮している。
ただひたすらに目を白黒させるしかない。
「Your face wasn't really shown in the video, so I only had a vague idea,
but you're so cute! You're like a fairy! Cute!」
(映像じゃ顔映ってなかったから雰囲気しか分からなかったけど、
なんて可愛いのかしら!まるで妖精みたい!可愛い!)
何が起きているのかまったくわからない。
突然美女に抱き着かれてなすがままにされている乃亜に
はっとした煉矢は、彼女とごく親しいリアムに目を向けた。
「Hey, Liam...」
(おいリアム……)
「Sorry, she has a weakness for cute things...」
(すまん、あいつ可愛いものに目がなくて……)
どうやらなにか琴線に触れたらしい。
がっくりと肩を落として額を抑えるリアムは深くため息を吐き出している。
しかしこのままというわけにもいかない。
「Lindy, you're going to crush Noah.」
(リンディ、乃亜が潰れる)
「Oh, I'm sorry!」
(ああ、ごめんなさい)
そしてようやく解放された乃亜は突然のことにドキドキ騒ぐ胸を抑えはぁと息を吐いた。
彼女は少し申し訳なさそうにしながら、こちらの顔を見つめてにこりと笑った。
「私はメリンダ。みんなにはリンディって呼ばれてるの。
あなたもそう呼んでね、ノア」
「!」
とたん流ちょうな日本語が飛び出てきて乃亜は目を丸くした。
リンディは悪戯が成功したような顔でニコニコと笑った。
「私のおばあちゃんが日本人でね。
それに昔から日本のことが大好きで、ずっと勉強してるのよ。
だからある程度は問題なく話せるわ」
「いえ、とてもお上手です。びっくりしました」
「ふふ、基本的にレンがあなたの通訳になると思うけど、
私もこの通りだし、他にもレベルに違いはあっても、
話せる人も何人かいるから、安心してね」
確かに煉矢以外でも日本語が話せる人がいるのは安心感が大きい。
乃亜は頷いて握手を求めてきたリンディに応じた。
二人が挨拶をした様子を見届け、リアムは笑顔で頷いた。
「Alright, come on in!」
(よし、それじゃ中に入ってくれ!)
リアムが促し、リンディが乃亜の手を取って室内へ向かう。
乃亜は少し戸惑いながら、煉矢を見れば、彼は少し苦笑いを浮かべていたが
特に咎めるでもなくその流れに乗るように言っているようだった。
中へと入ったリアムは、
それぞれに練習したり作業をしているメンバーたちに声を上げて言った。
「Everyone! Our highly anticipated violinist has arrived!」
(みんな!期待のヴァイオリニストが到着したぞ!)
一気に視線がこちらに向く。
どきりとしたのは仕方がないが、リアムたちは素知らぬ顔だ。
室内にいる人々は人種や年齢もバラバラだったが
皆一様に興味津々という様子は隠しきれていない。
緊張が高まる中で、煉矢がこそりと、
リアムが皆にコンクールの映像を見せたと教えてくれた。
「Oh, the girl you were talking about.」
(おっ、言ってた子だな)
「She's small. Wasn't she like, 15?」
(小さいな、あれ、15歳とかだったよな?)
「You can't tell age by looks with Japanese people.」
(日本人は外見じゃ年齢分からないからな)
「Let's hear you play already! That video the other day was awesome!」
(さっそく聴かせてくれよ。こないだの映像はよかったぜ!)
「Wow, what a cute girl.」
(うわ、可愛らしい子ねぇ)
「Her performance had such a powerful impression,
I never would have thought she'd be such a delicate girl.」
(演奏は随分力強い印象だったから、あんな可憐な子だなんて思わなかったわ)
そこかしこで聞こえる英語が耳に届く。
すべてが聞き取るわけではないが、
とりあえず邪見にされているわけではないらしい点は安堵した。
「ノア、さっそく聴かせてほしいんだけど、大丈夫?」
リンディがこちらを覗き込んで言うと、
乃亜は少しハッとして頷いた。
「それは、はい、大丈夫です」
「乃亜、リアムがガラコンサートで演奏していたものがいいと」
「分かりました……」
先のコンクールで特別賞を受賞し出演したガラコンサート。
音楽を楽しむというイベントの方針と、一般公開されるということも加味し、
ヴァイオリン講師の水野が選んだのが、かの曲だった。
ある映画の挿入歌として爆発的な人気を得た楽曲。
この国発祥である映画だ。確かに日本以上に人気は高いだろう。
乃亜は周囲からの期待と興味、好奇心が入り混じったような視線の中で
ヴァイオリンの準備を済ませていく。
調律を進めていく中で、耳だけで調律する様子に
周囲が少し首をかしげる様子があったが、乃亜にはもうそれは届いていない。
ヴァイオリンにふれる時間は自分を落ち着かせてくれる。
心の深い部分に沈んでいくような感覚だ。
準備を終えると、リンディに手を引かれて部屋の中央に促される。
気付けば中央は広くあき、周囲が取り囲むようにこちらを見ている。
乃亜はふうとひとつ大きく息を吐き、ヴァイオリンを構えて目を閉じた。
この曲は、外見や内面にて他の人とは少し違うなにかを抱えた人たちが、
様々な葛藤や苦悩を抱きながらも、自分は自分だと、
強く立ち向かい生きていく決意を歌った曲だ。
最初は緩やかに、少しためらいがちに、しかしサビに入る瞬間にすべてを解放させる。
とたん、一気に音が立ち替わる。
ただのヴァイオリンソロであるはずなのに、
あまりにも鮮やかにあの映画の光景が目に浮かぶ。
演奏を聴いていた彼らは巨大な風に吹かれた感覚を得た。
そしてこの場にいるのは、形は違えど音楽やダンスといった芸術に傾倒する者たちだ。
そんな彼らが乃亜の演奏に触発されないはずはない。
まずひとりのピアニストが動いた。
乃亜のヴァイオリンに合わせて即興でピアノを叩き始めた。
同時にパーカッションのようにドラムが奏でられ、
シンガーは口ずさむような声色から高らかに歌い始めたのだ。
その変化に乃亜は戸惑うことなく、ヴァイオリンを奏でたまま笑みさえ浮かべ、
彼、彼女たちの様子を受け入れて楽し気に奏で続けていた。
唄う様子に、重なる音に、身体でリズムを取る人々を先導するように、
自身も踊るように音楽に乗って。
その様子にただひたすら煉矢は驚くほかない。
普段の彼女はどこか自信がなく、自己評価が低い。
なのにその様子とはまるで違う。別人と言っても過言ではない。
銀髪を揺らして笑みを浮かべ、周囲の人々と共に、全身をもって奏でている。
そして終わった演奏、一瞬の静寂、その後、室内は大歓声が広がり
乃亜はその声にびくりと大きく身体を震わせた。
「Whoa, that was amazing!!」
(うおおおっすげぇ!!)
「Wasn't that...?! Seriously, she could pull off a movie-like performance?!」
(これあれじゃないか?!マジで映画さながらのパフォーマンスできるんじゃないか?!)
「Hey, hey, can you play something more intense too?!」
(なぁなぁ、もっと激しいのとかも弾ける?!)
「Amazing! Hey Liam! We should definitely incorporate 'This is me' at the end!
With dance, vocals, piano, and drums too!」
(すごい!ねぇリアム!これ絶対にラストに"This is me"組み込むべきよ!
ダンスと歌とピアノと、あとドラムも入れてさ!)
「Hey, how can you make such an energetic sound when you're so tiny?!
Are you a genius?!」
(ねぇ、どうしてそんな細いのに、あんなエネルギーに満ちた音出せるの?!
天才なんじゃない?!)
「We've got a genius violinist from Japan!」
(天才ヴァイオリニストが日本から来てくれたぞ!)
先ほどの堂々とした演奏の様子から普段の様子に戻った乃亜は
ただ唖然とそれらの喝采を聞いて戸惑いに目を泳がせている。
それに近くにいたリンディが、両手を大きく振った。
「Alright, alright, hold on a sec!
I know you're all excited, but at least let her introduce herself!」
(はいはい、ちょっと待って!
興奮するのもよくわかるけど、せめて名乗りくらいさせてあげなさいよ!)
その言葉に興奮しきりのメンバーたちは笑って声量を落とした。
リンディのおかげで収拾がついたらしい。
乃亜はほっと息を吐いた。
「ごめんね、びっくりしたよね。
とりあえず、自己紹介できる?」
「は、はい、大丈夫です。えっと……、
I am Noah. I am Renya's friend, and I arrived from Japan.
Although it is a short time, I look forward to working with you.」
(乃亜です。煉矢の友人で、日本から着ました。
短い時間ですが、よろしくお願いします)
つたないながらもなんとか英語で挨拶をすると、
メンバーたちは歓声とともに拍手してくれた。
一人また一人と駆け寄り、シンガーらしき女性がこちらの手を取る。
「Of course! Nice to meet you!」
(もちろんよ!よろしくね!)
「Let's make this a success together!」
(一緒に成功させような!)
他の人たちも温かく迎え入れてくれるようだ。
乃亜は少しためらいがちながらも笑顔で彼らと握手したり、頷くなどして
友好を示していく。
その様子を部屋の出入り口付近で見ていたリアムは、
はぁと大きく感嘆の息を吐き出して、隣の煉矢に興奮したように言った。
「Seriously, isn't she a real genius?
I listen to classical music a lot, but I rarely get that kind of shock, you know?」
(いや、あの子、本当に天才なんじゃないか?
俺、クラシックもよく聞くけど、あんな衝撃受けること中々ないぜ?)
「Is that so...」
(そうか……)
煉矢はそれに短く答えた。
たしかに乃亜の演奏は素晴らしい以外ない。
彼女の演奏は強くこちらを引き込んでいく。それは知っていた。
しかし、曲によってこうも大きく様子を変えるとは思わなかった。
だがそれ以上に。
リアムは煉矢の様子に首をかしげる。
「Is something bothering you?」
(なんか気になることあるのか?)
「No... I was just surprised
that she seemed like a different person during her performance.」
(いや……演奏中は、別人のようだと驚いただけだ)
「Oh, yeah, it's a pretty common thing for great performers
to go into a trance-like state while playing, so maybe it was that?」
(ああ、優れた演奏家は、演奏中はトランス状態みたいになることは、
割とよくある話だし、それじゃないか?)
「...If you say so.」
(……なら、いいが)
リアムはまだ乃亜のことを知らない。
しかしその考えはあながち間違っているとも判断できない。
煉矢は周囲の圧に戸惑いながらも笑顔で答えている様子の乃亜を見ながら
自分の疑念を一時、押し込めることにした。
二人が話している中、ひとりの青年が大きく手を上げた。
その青年はヘーゼル色の髪で、興奮が隠し切れないようにオリーブ色の瞳を輝かせている。
「Liam,Liam! I have something I'd like to propose!」
(リアム、リアム!僕から提案したいことがあるんだけど!)
「What is it, Nick?」
(なんだよ、ニック)
彼は興奮そのままにリアムたちの元に駆け寄ってきた。
「Before that, there's something I'd like to confirm with Noah.
Could I talk to her for a bit?」
(その前に、ノアに確認したいことがあるんだ。
少し話させて!)
何事かとリアムと煉矢は顔を見合わせる中、
彼の提案とやらが気になったリアムは、メンバーに取り囲まれている乃亜に声をかけた。
「Noah, Nick wants to talk to you. Is that alright?」
(ノア、ニックが話をしたいって。構わないかな?)
「あ、えと、Yes, it is alright.」
(はい、大丈夫です)
少しゆっくりめに問いかけられ、理解できた乃亜は頷いた。
それを聞くが早く、ニックと呼ばれる青年は乃亜の元に馳せ参じる。
「ぼく、ニコラウス。日本語、すこし、話すます。わかりますか?」
リンディほどでないにしても、日本語に違いない。
乃亜は笑顔で頷いた。
「あ、はい。わかります。よろしくお願いします。ニコラウスさん」
「ニック、呼ぶ、いいです。
ヴァイオリン、とても素晴らしいです、感動!
あなた、すばらしい、ヴァイオリニスト。
僕、あなたと会えて、とても嬉しい!」
興奮した様子を自分の知る日本語でなんとか表現してようとしているのが伝わる。
乃亜は気恥ずかしさを感じながら、それに礼を言う。
しかし彼の本題はそれではなかった。
ぱしり、両手をしっかりとつかまれた。
それに驚く間もなく、ずい、と顔を近づけられ、思わずどきりとしてしまった。
「ノア、僕とセッションする、ほしいです!」
「え、せ、セッション……?」
何を言われるのかと思ったが、その言葉は想定外のものだった。
彼の瞳は真剣そのものだ。
しかしこの距離感によく頭が追い付かない。
それに気づいてくれたらしい煉矢が、ニックに手を離すように伝えると、
ニックはハッとして両手を話して謝罪してくれた。
乃亜は大丈夫と伝えて、その謝罪を受け入れる。
ほっとしていると、横からリンディが疑わしそうに言った。
「ニック、セッションって言っても、あなた三味線でしょ?」
「……え、三味線、弾くんですか?」
「僕、日本、とても好き。三味線、日本、習いました。
ずっとずっと、やってます」
まさかこの地で和楽器の代表格のひとつであろう、
三味線の名前を聞くとは思わなかった。
両手を掴まれたことによる戸惑いが吹き飛び、リンディに目を向ける。
「ニックの三味線はすごいのよ。
すごい速弾きで、ロックのカバーとかもしてるのよ」
「はい。だから、僕とあなた、セッションしたいです!」
三味線とヴァイオリンの共演。
それはひどく興味深いのは確かだ。
「僕、弾きます。聴いてください!」
ニックは自分の荷物の方に足を向けて自身の楽器を取り出した。
それは確かに、三味線に違いない。
「ニックは今20歳なんだけど、子供の時に3年間くらい日本にいたんですって。
その時に三味線を聞いて感動して、弟子入りして、
こっちに戻ってからもオンラインでずっと稽古してるらしいのよ」
「すごいですね……日本人でもあまり三味線奏者にお会いすることはないです」
「そうなの?なんか不思議ねぇ」
確かにこんな異国の地で、異国の三味線奏者にであうというのは不思議な話だ。
などと話している中で、彼は準備を終えたらしく
適当な椅子に腰かけてバチを叩き始めた。
自分が日本人だからだろうか。
彼の音色はひどく心の深いところを揺さぶられる。
周囲のメンバーも息をのむようにそれを耳にしている。
そのあまりにも力強い音色、息を飲むような卓越した技巧。
そんな奏者が、自分に対して、セッションしてほしいと告げた。
アマチュア未満とはいえ、音楽につながるものとして光栄以外の何物でもない。
ぐっとヴァイオリンを持つ手に力が入った。
それに気づいたらしいリンディが、背中を軽く押した。
驚いて振り返ると、やってみなよ、と言うようにウインクされた。
周囲もなにか期待した様子がうかがえ、
なによりニックがわくわくした様子でこちらを見ている。
乃亜は少しためらいながらヴァイオリンを構える。
聞こえる音色、繰り返される旋律、そのリズム。
であれば、こうだろう。
奏でられる旋律に乗るように、自然とその中にヴァイオリンの少し低い音を乗せていく。
それに周囲はさらに興奮を広めていく。
彼が先ほど叩いていたリズム、それをヴァイオリンでも同様に奏でれば
周囲が驚嘆の歓声を上げた。
ニックと視線をあわせて息を合わせて、一気に最高潮まで広げ、
やがて競演のようなセッションは終わった。
先ほど以上の大興奮に室内は大きく沸いた。
誰よりもニックがその興奮におさまりが付かないようだった。
日本語は吹き飛び、声を上げて賞賛して、
乃亜の両手を掴んで今にも抱き着きそうな勢いだった。
リンディがそれを助けて事なきを得たものの、
周囲からの絶賛の嵐に乃亜は戸惑いのほうが大きい。
リアムがパンパンと両手を打ち鳴らして周囲を一階落ち着かせ、
セッションは採用、プログラムの調整に入る旨を案内した。
乃亜はようやく解放されほっと大きく息を吐き出した。
「乃亜」
そ、と寄り添ってくれたのは煉矢だった。
大きく安堵したのは言うまでもない。
どこか心配した様子を見せている。
乃亜はそれに首を振った。
「大丈夫です」
別に無理をしているわけではない。
皆が賞賛してくれていることに戸惑っているだけで、疲労もない。
この程度なら普段のレッスンの方がはるかに厳しいし疲れる。
煉矢は少しまだ怪訝な様子を浮かべたが、
持ってきていた飲み物を差し出すことにとどめてくれた。
乃亜はそれに礼を言って受け取り口にする。
少し暑かったので素直にありがたい。
「乃亜、いい?ニックが原曲の音源くれるって!」
「あ、はい」
リンディに呼ばれ、煉矢に礼を言ってリンディの元に向かう。
煉矢はそれを見てひとつ息を吐いた。
とりあえず、もめ事にもならず、
あたたかく乃亜が迎え入れられたことは喜ばしい。
コミュニケーションについても、リンディが率先して通訳してくれている。
元々、ニックのように、カタコトながらも
日本語ができる学生はいることは把握していたので
さして大きな問題にはならないと考えていた。
彼女の兄に感化されたのか少し心配しすぎていたかと思いなおし、
煉矢もまた自分の務めを果たすべく、ノートパソコンに向かう。
だがその後も、なにか心の奥で得体のしれない懸念が消えることはなかった。
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