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凪編
【凪編】42:xx16年5月30日/6月4日
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【5月30日】
ざわざわと人々の喧騒が広い空間に反響している空港内。
多国籍の様々な人種が行き来するその一角、ベンチに座りながら
静はタブレットを片手にここしばらくの研究データを洗っていた。
細かな数字とそれに関する補足事項。
それらをもとに実験の優先度をつけていく。
自身の研究についてはその後も継続して行っている。
二年前に学会にて発表した内容は以前よりも深化し、
実証データも取れてきた。
まだ形になるまでにはいかないものの、
それでも進捗としては悪くはない。
気になったことをタッチペンでメモを残している中、
タブレットの左上に表示されている時刻に気付いて顔を上げた。
そろそろのはずだ。
「到着ロビー」と書かれた天井から吊り下げられた看板の下、
出てくる人々を確認していると、ややあって、その人物は現れた。
「煉矢」
立ち上がって声をかけると、
二つのキャリーケースを押した彼はこちらに目を向けた。
「静、久し振りだな」
「ああ、帰国おめでとう」
こうして会うのは二年ぶりだ。
考えてみれば二年もの月日、一切会わずにいたのは久しぶりだ。
だが不思議なことに、特別な感慨はなかった。
ちょくちょくCORDなどでやりとりをしていたからかもしれない。
煉矢の帰国日を聞いて、荷物もあるだろうからと迎えに名乗り出た。
それくらいしてもいいと思えるくらいには、
この男にはいろいろと世話になっている。
「悪いな、本当に良かったのか?」
「ああ。気分転換の一環だ」
ずっと研究室にこもりすぎていても本当にいい結果はない。
特に自分のように、細かな数字と反応に常に意識を集中しなければならない身としては
こうして機会があるなら外にも出たい。
静はキャリーケースのひとつを引き受けて駐車場へと歩き出した。
駐車場に到着し荷物を乗せる。
二つの大きめのキャリーケースはなかなかに重い。
だが約2年もの留学を経てとい経緯であればむしろ軽いほうかもしれない。
煉矢を助手席に乗せ、出発。
観光などで混む時期からはズレているからだろう。
さほど労せず、車は道を進んでいく。
「事前に聞いてたマンスリーマンションでよかったか、場所」
「ああ、頼んだ」
さすがに少し疲れたのか、助手席に深く腰掛け息を吐きながら言った。
サンフランシスコの空港からここまでは10時間を超えるフライトだったはずだ。
くたびれていても仕方がない。
「明日からはしばらくそこで寝泊りか。
しばらく慌ただしそうだな」
「まぁな。賃貸契約もそうだが、色々やることが多い」
「だがお前の場合、契約してもまたすぐに引っ越しそうだな」
「さてな。お前ほど順当に行くかはわからん」
目を閉じてそう言い切る煉矢をチラと視線だけ一瞬向ける。
煉矢は将来的にはフリーランスを目指していると言っていた。
統計学やデータサイエンスといった大学で学んだことを最大限に活用し、
コンサルタントの道に進んでの独立。
本人はいずれは、という様子を見せているが
この男の優秀さはよく知っている。
さらりと予定通りの道に乗りそうな気がしてならない。
どの口が言うのかと内心思いつつ車を走らせていると
寝ようとしているのかと思っていた煉矢が口を開いた。
「乃亜は最近どうしてる?」
「ん?まぁ、普通だな。高校も慣れたようだし」
「ステラ・マリス女学院だったか。
特待生なら色々と大変なこともあるんじゃないのか」
「そうだな。成績キープは必須だし、それ以外でも成績優秀者として色々やることはあるな。
最近は学校内の英語スピーチコンテストに選出されたようだぞ」
「注目を浴びるのは苦手だろうに」
「だな。再来週、全校生徒の前で発表だと、困り顔で言っていた」
「目に浮かぶ」
どこかおかしそうな声色だった。
静はちらと再度煉矢に一瞬視線を向ければ、窓枠に肘をつき、頬杖をついて笑っていた。
なにか珍しさを感じた。
「ヴァイオリンコンクールもあるんだろう?」
「ああ、聞いていたのか。
6月半ばに地区予選があるな」
「コンクールに学校にと忙しそうだが、大丈夫なのか?」
「俺もそれは心配してるところだ……」
痛いところをついてくる。
だがここ最近の様子からして本当に無理をしているようには見えない。
もちろん慎重にすべきとは思うが、それでも、特に3月、
アメリカから戻ってからは見違えるようにどこか表情が明るくなったように感じている。
とはいえ、懸念が消えることはおそらくない。
静は肩で一つ息をはいた。
「我慢強いのも遠慮がちなのも変わらないからな、家にいるときは注意している」
「その点は相変わらずだな」
「だが、アメリカから戻ってから少し前向きになったようだ。
向こうで得難い経験をしたんだろうな。
イベントは随分楽しかったと言っていたし、
お前の誘いに乗ったのは正解だったようだ」
「……そうか」
まただ。
あまり聞き覚えのない声色での相槌。
煉矢とは両親の離婚後の再開から数えても6年以上の付き合いになる。
何事にも基本的に淡白で、冷静沈着というのはこの男の為にあるような言葉だ。
しかし決して冷たい人間ではなく、親しい友人に対しては何かと世話を焼く。
一手先んじた気遣いを見せてはそれについてなにも言わない。
そんな彼を慕う友人は多かった。
静は密かに人たらしだと思っているが、本人はそういったことに対しては無頓着だ。
自分がどう思われているかということに対して興味がない。
だからか、自分が気にならなければ、さっさと手を離すのが常だ。
未だにつきあいが続いているのは自分と乃亜くらいだろうか。
幼い頃から、どうやら煉矢にとって自分たちは少々別枠らしい。
そう静は納得することにした。
信号が赤になり車を停車させたところで、
ふと気になっていたことを尋ねることにした。
「そういえば、アメリカでのイベントは動画か何か、撮ってないのか?
写真は乃亜に見せてもらったが」
「撮ってない。色々忙しくてな」
「……そこは気を利かせてほしかったぞ」
「普段俺に借りを作ると渋るくせに調子のいい」
「妹の晴れ舞台は見たいだろう……」
「コンクールは見てるんだからそれで相殺しろ」
「くっ……」
言い返せない静に煉矢はくつくつと笑った。
【6月4日】
二週間後のレッスン当日。
元の調子に戻っているか自分では判断が付かない。
以前も自分がうまくいっていないということに気付けなかったからだ。
そのため不安を少し抱きながら課題曲を進めていく。
荘厳で厳格な響きを、許されない精密さで奏でていく。
指使い注意しながらそれを進め、やがて弾き終えた。
無事に終えたことに内心ほっとしながら瞳を開ける。
しかし、水野の表情はあまり晴れていなかった。
「……そうね、悪くはないわ」
しかし言葉の割に表情は堅い。
「技巧的にはうまくなってさえいると思う。
この誤魔化しの許されない曲を丁寧に弾けていると思う」
それは間違いなく誉め言葉である。
しかし水野の表情は硬く、乃亜は緊張を解けない。
彼女は口元に手を当て、しばし考えた後、乃亜の目を見た。
「ねぇ、乃亜さん。
なにか私生活で変わったこととかなかった?」
「え?」
「困っていたり、悩んだりとか……」
水野の表情は真剣そのものだ。
しかし乃亜にはなにも思い当たらない。
むしろ逆。
ここしばらくは、親しい人たちも含めて順風満帆とさえいえた。
むしろ去年のコンクール時期のほうがよほど思い悩んでいたくらいだ。
乃亜は戸惑ったように視線をさまよわせ首を振る。
「いえ、そんなことは、なにも……」
「そう……」
「あの、先生……どういう、意味でしょうか……」
水野は少し迷いも見せたが肩で小さく息を吐き、両肘を抱えるように腕を組んだ。
「前回も言ったけれど、伸びやかさというのかしら。
以前のあなたの演奏にあったものがないというか。
……心になにも感じられないの」
「心に、感じない……?」
申し訳ないが、どういうことかが理解できない。
否、理解できないわけではないが、
自分としてはむしろ、それをやっているつもりなのである。
前回のコンクールの時には分からなかった。
けれど、今ならわかる気がしたのだ。
あのアメリカでのステージを経て、あの時のように弾きたいと考えるようになった。
水野は固かった表情と吐息と共にやわらげ、口元に笑みを浮かべた。
「まぁ、スランプかもしれないわね」
「スランプ……ですか?」
「そう。まぁ、誰にでもあるものよ。
プロの演奏家にだってあるし、私も何度も経験してるわ。
ちょっと前にできてたことができなくなるなんてことはね。
だからそう気にしないでいいわ。
こういう問題は、時間が解決するものだから。
とりあえず、技巧的なところを少し確認していきましょうか」
「は、はい……」
水野は努めて明るくしているように見えた。
それに対して乃亜はひとすらに戸惑いの方が大きく、
左手で持つヴァイオリンを、ただじっと見ていた。
その後も課題曲を奏でるも、結局水野の評価はとくに変わらなかったようだった。
乃亜は腑に落ちないままヴァイオリンのレッスンを終え、帰宅の途に就いた。
帰宅のバスに乗り、空いているバスの人席に座り窓の外を眺める。
流れていく景色を見つめながら、先ほどの水野の指摘を考える。
" 心に何も感じられないの "
どういう意味だろうか。
乃亜としては特段弾き方を変えたつもりはない。
楽器も買えていないし、弦の劣化も問題なさそうだった。
なにより腑に落ちないのは、それを指摘されるのが今だということだ。
アメリカでの経験を思い返して
あのときのように弾きたいと感じるようになった。
だからそんな思いを込めて、ヴァイオリンを奏でるように意識するようになった。
なのにそれが上手くできていない。
腹の前に抱えたヴァイオリンケースを支える手に知らずうちに力がこもった。
自宅に帰り、家の玄関を開けるも室内は暗い。
今日、静は帰りが遅いと言っていた。
先月から参加しているプロジェクトの関係だそうだ。
廊下の電気をつけ、廊下を進んでリビングダイニングの電気をつける。
どこか少し蒸し暑さを感じ、乃亜はリビングの窓を開ける。
レースカーテンがふわりと浮いて風が吹き込む。
それにほっと息をついて自室の方へと足を向けた。
締めきっていた自室も同じく空気がこもっていた。
乃亜はドアを開けたまま、電気をつけずに窓へと足を向けた。
夕飯を食べていないのでリビングに戻るつもりだからだ。
リビング同様に窓を開けると空気が通り始める。
乃亜はふうと息を吐き出し踵を返す。
キッチンへ戻り適当になにか用意しなければと思ったが
その途中にある、棚に飾る写真立てに目が向いた。
ステージ上で、ヴァイオリンを生き生きと弾き、
近くにいるエマたちシンガーや、
勢いでステージ脇から出てきたニックらと笑いあっている写真だ。
写真立てに手に取り、写真の中の自分の顔を右手の指でなぞる。
「……あなたになりたいと、思ってるのに……」
心に響かない、そういわれた。
この帰り道、否、二週間前のヴァイオリン教室からずっと考えているが答えは出ない。
暗い部屋の中で再び目を伏せ、考える。
心に響かないという自分の演奏。
それはまるで、数か月前の自分とは対極ではないだろうか。
写真立ての横に飾られたままの
審査員特別賞のガラスのトロフィーに視線だけ向ける。
その賞は、「優れた表現力と感受性」を評価されてのものだったはずだ。
つまり、昨年の秋のコンクールではどうやら出来ていたということだ。
だがその頃の演奏を思い返していても、それがなんであったかは分からない。
ただ言えるのは、その演奏に対して、多くの人が拍手をしてくれていた。
水野も絶賛し、思った通りだったと喜んでくれた。
静とましろに至っては、感動して泣いたとまで言ってくれた。
再び視線を写真へと戻す。
3月末に短い時間ながらも共に過ごして、素晴らしいステージに共に立った年上の友人たち。
リアムにリンディ、ニック、エマらシンガー。
それに直接共演することはなかったが、ジャズバンドのような演奏をしていた人らもそうだ。
練習中に息抜きだといって、即興でセッションすることもあった。
彼・彼女らは、皆乃亜の演奏を心に響く、素敵なものだと言ってくれていた。
それが、今できなくなっているとしたら。
乃亜はぞっと背筋が冷え込むのを感じた。
目を見開き、息を飲み、写真立てを持つ手がこわばる。
震える唇を閉じ、その考えを打ち消すように、唇の裏を噛みしめた。
スランプだと水野は言っていたが、だからと言ってなにもしないままではいられない。
「……練習しなきゃ」
乃亜は夕食を取ることも忘れ、
部屋の片隅に置いている電子ヴァイオリンへと足を向ける。
その日は結局、静が帰宅する0:00近くまで、休みなく練習をし続けていた。
ざわざわと人々の喧騒が広い空間に反響している空港内。
多国籍の様々な人種が行き来するその一角、ベンチに座りながら
静はタブレットを片手にここしばらくの研究データを洗っていた。
細かな数字とそれに関する補足事項。
それらをもとに実験の優先度をつけていく。
自身の研究についてはその後も継続して行っている。
二年前に学会にて発表した内容は以前よりも深化し、
実証データも取れてきた。
まだ形になるまでにはいかないものの、
それでも進捗としては悪くはない。
気になったことをタッチペンでメモを残している中、
タブレットの左上に表示されている時刻に気付いて顔を上げた。
そろそろのはずだ。
「到着ロビー」と書かれた天井から吊り下げられた看板の下、
出てくる人々を確認していると、ややあって、その人物は現れた。
「煉矢」
立ち上がって声をかけると、
二つのキャリーケースを押した彼はこちらに目を向けた。
「静、久し振りだな」
「ああ、帰国おめでとう」
こうして会うのは二年ぶりだ。
考えてみれば二年もの月日、一切会わずにいたのは久しぶりだ。
だが不思議なことに、特別な感慨はなかった。
ちょくちょくCORDなどでやりとりをしていたからかもしれない。
煉矢の帰国日を聞いて、荷物もあるだろうからと迎えに名乗り出た。
それくらいしてもいいと思えるくらいには、
この男にはいろいろと世話になっている。
「悪いな、本当に良かったのか?」
「ああ。気分転換の一環だ」
ずっと研究室にこもりすぎていても本当にいい結果はない。
特に自分のように、細かな数字と反応に常に意識を集中しなければならない身としては
こうして機会があるなら外にも出たい。
静はキャリーケースのひとつを引き受けて駐車場へと歩き出した。
駐車場に到着し荷物を乗せる。
二つの大きめのキャリーケースはなかなかに重い。
だが約2年もの留学を経てとい経緯であればむしろ軽いほうかもしれない。
煉矢を助手席に乗せ、出発。
観光などで混む時期からはズレているからだろう。
さほど労せず、車は道を進んでいく。
「事前に聞いてたマンスリーマンションでよかったか、場所」
「ああ、頼んだ」
さすがに少し疲れたのか、助手席に深く腰掛け息を吐きながら言った。
サンフランシスコの空港からここまでは10時間を超えるフライトだったはずだ。
くたびれていても仕方がない。
「明日からはしばらくそこで寝泊りか。
しばらく慌ただしそうだな」
「まぁな。賃貸契約もそうだが、色々やることが多い」
「だがお前の場合、契約してもまたすぐに引っ越しそうだな」
「さてな。お前ほど順当に行くかはわからん」
目を閉じてそう言い切る煉矢をチラと視線だけ一瞬向ける。
煉矢は将来的にはフリーランスを目指していると言っていた。
統計学やデータサイエンスといった大学で学んだことを最大限に活用し、
コンサルタントの道に進んでの独立。
本人はいずれは、という様子を見せているが
この男の優秀さはよく知っている。
さらりと予定通りの道に乗りそうな気がしてならない。
どの口が言うのかと内心思いつつ車を走らせていると
寝ようとしているのかと思っていた煉矢が口を開いた。
「乃亜は最近どうしてる?」
「ん?まぁ、普通だな。高校も慣れたようだし」
「ステラ・マリス女学院だったか。
特待生なら色々と大変なこともあるんじゃないのか」
「そうだな。成績キープは必須だし、それ以外でも成績優秀者として色々やることはあるな。
最近は学校内の英語スピーチコンテストに選出されたようだぞ」
「注目を浴びるのは苦手だろうに」
「だな。再来週、全校生徒の前で発表だと、困り顔で言っていた」
「目に浮かぶ」
どこかおかしそうな声色だった。
静はちらと再度煉矢に一瞬視線を向ければ、窓枠に肘をつき、頬杖をついて笑っていた。
なにか珍しさを感じた。
「ヴァイオリンコンクールもあるんだろう?」
「ああ、聞いていたのか。
6月半ばに地区予選があるな」
「コンクールに学校にと忙しそうだが、大丈夫なのか?」
「俺もそれは心配してるところだ……」
痛いところをついてくる。
だがここ最近の様子からして本当に無理をしているようには見えない。
もちろん慎重にすべきとは思うが、それでも、特に3月、
アメリカから戻ってからは見違えるようにどこか表情が明るくなったように感じている。
とはいえ、懸念が消えることはおそらくない。
静は肩で一つ息をはいた。
「我慢強いのも遠慮がちなのも変わらないからな、家にいるときは注意している」
「その点は相変わらずだな」
「だが、アメリカから戻ってから少し前向きになったようだ。
向こうで得難い経験をしたんだろうな。
イベントは随分楽しかったと言っていたし、
お前の誘いに乗ったのは正解だったようだ」
「……そうか」
まただ。
あまり聞き覚えのない声色での相槌。
煉矢とは両親の離婚後の再開から数えても6年以上の付き合いになる。
何事にも基本的に淡白で、冷静沈着というのはこの男の為にあるような言葉だ。
しかし決して冷たい人間ではなく、親しい友人に対しては何かと世話を焼く。
一手先んじた気遣いを見せてはそれについてなにも言わない。
そんな彼を慕う友人は多かった。
静は密かに人たらしだと思っているが、本人はそういったことに対しては無頓着だ。
自分がどう思われているかということに対して興味がない。
だからか、自分が気にならなければ、さっさと手を離すのが常だ。
未だにつきあいが続いているのは自分と乃亜くらいだろうか。
幼い頃から、どうやら煉矢にとって自分たちは少々別枠らしい。
そう静は納得することにした。
信号が赤になり車を停車させたところで、
ふと気になっていたことを尋ねることにした。
「そういえば、アメリカでのイベントは動画か何か、撮ってないのか?
写真は乃亜に見せてもらったが」
「撮ってない。色々忙しくてな」
「……そこは気を利かせてほしかったぞ」
「普段俺に借りを作ると渋るくせに調子のいい」
「妹の晴れ舞台は見たいだろう……」
「コンクールは見てるんだからそれで相殺しろ」
「くっ……」
言い返せない静に煉矢はくつくつと笑った。
【6月4日】
二週間後のレッスン当日。
元の調子に戻っているか自分では判断が付かない。
以前も自分がうまくいっていないということに気付けなかったからだ。
そのため不安を少し抱きながら課題曲を進めていく。
荘厳で厳格な響きを、許されない精密さで奏でていく。
指使い注意しながらそれを進め、やがて弾き終えた。
無事に終えたことに内心ほっとしながら瞳を開ける。
しかし、水野の表情はあまり晴れていなかった。
「……そうね、悪くはないわ」
しかし言葉の割に表情は堅い。
「技巧的にはうまくなってさえいると思う。
この誤魔化しの許されない曲を丁寧に弾けていると思う」
それは間違いなく誉め言葉である。
しかし水野の表情は硬く、乃亜は緊張を解けない。
彼女は口元に手を当て、しばし考えた後、乃亜の目を見た。
「ねぇ、乃亜さん。
なにか私生活で変わったこととかなかった?」
「え?」
「困っていたり、悩んだりとか……」
水野の表情は真剣そのものだ。
しかし乃亜にはなにも思い当たらない。
むしろ逆。
ここしばらくは、親しい人たちも含めて順風満帆とさえいえた。
むしろ去年のコンクール時期のほうがよほど思い悩んでいたくらいだ。
乃亜は戸惑ったように視線をさまよわせ首を振る。
「いえ、そんなことは、なにも……」
「そう……」
「あの、先生……どういう、意味でしょうか……」
水野は少し迷いも見せたが肩で小さく息を吐き、両肘を抱えるように腕を組んだ。
「前回も言ったけれど、伸びやかさというのかしら。
以前のあなたの演奏にあったものがないというか。
……心になにも感じられないの」
「心に、感じない……?」
申し訳ないが、どういうことかが理解できない。
否、理解できないわけではないが、
自分としてはむしろ、それをやっているつもりなのである。
前回のコンクールの時には分からなかった。
けれど、今ならわかる気がしたのだ。
あのアメリカでのステージを経て、あの時のように弾きたいと考えるようになった。
水野は固かった表情と吐息と共にやわらげ、口元に笑みを浮かべた。
「まぁ、スランプかもしれないわね」
「スランプ……ですか?」
「そう。まぁ、誰にでもあるものよ。
プロの演奏家にだってあるし、私も何度も経験してるわ。
ちょっと前にできてたことができなくなるなんてことはね。
だからそう気にしないでいいわ。
こういう問題は、時間が解決するものだから。
とりあえず、技巧的なところを少し確認していきましょうか」
「は、はい……」
水野は努めて明るくしているように見えた。
それに対して乃亜はひとすらに戸惑いの方が大きく、
左手で持つヴァイオリンを、ただじっと見ていた。
その後も課題曲を奏でるも、結局水野の評価はとくに変わらなかったようだった。
乃亜は腑に落ちないままヴァイオリンのレッスンを終え、帰宅の途に就いた。
帰宅のバスに乗り、空いているバスの人席に座り窓の外を眺める。
流れていく景色を見つめながら、先ほどの水野の指摘を考える。
" 心に何も感じられないの "
どういう意味だろうか。
乃亜としては特段弾き方を変えたつもりはない。
楽器も買えていないし、弦の劣化も問題なさそうだった。
なにより腑に落ちないのは、それを指摘されるのが今だということだ。
アメリカでの経験を思い返して
あのときのように弾きたいと感じるようになった。
だからそんな思いを込めて、ヴァイオリンを奏でるように意識するようになった。
なのにそれが上手くできていない。
腹の前に抱えたヴァイオリンケースを支える手に知らずうちに力がこもった。
自宅に帰り、家の玄関を開けるも室内は暗い。
今日、静は帰りが遅いと言っていた。
先月から参加しているプロジェクトの関係だそうだ。
廊下の電気をつけ、廊下を進んでリビングダイニングの電気をつける。
どこか少し蒸し暑さを感じ、乃亜はリビングの窓を開ける。
レースカーテンがふわりと浮いて風が吹き込む。
それにほっと息をついて自室の方へと足を向けた。
締めきっていた自室も同じく空気がこもっていた。
乃亜はドアを開けたまま、電気をつけずに窓へと足を向けた。
夕飯を食べていないのでリビングに戻るつもりだからだ。
リビング同様に窓を開けると空気が通り始める。
乃亜はふうと息を吐き出し踵を返す。
キッチンへ戻り適当になにか用意しなければと思ったが
その途中にある、棚に飾る写真立てに目が向いた。
ステージ上で、ヴァイオリンを生き生きと弾き、
近くにいるエマたちシンガーや、
勢いでステージ脇から出てきたニックらと笑いあっている写真だ。
写真立てに手に取り、写真の中の自分の顔を右手の指でなぞる。
「……あなたになりたいと、思ってるのに……」
心に響かない、そういわれた。
この帰り道、否、二週間前のヴァイオリン教室からずっと考えているが答えは出ない。
暗い部屋の中で再び目を伏せ、考える。
心に響かないという自分の演奏。
それはまるで、数か月前の自分とは対極ではないだろうか。
写真立ての横に飾られたままの
審査員特別賞のガラスのトロフィーに視線だけ向ける。
その賞は、「優れた表現力と感受性」を評価されてのものだったはずだ。
つまり、昨年の秋のコンクールではどうやら出来ていたということだ。
だがその頃の演奏を思い返していても、それがなんであったかは分からない。
ただ言えるのは、その演奏に対して、多くの人が拍手をしてくれていた。
水野も絶賛し、思った通りだったと喜んでくれた。
静とましろに至っては、感動して泣いたとまで言ってくれた。
再び視線を写真へと戻す。
3月末に短い時間ながらも共に過ごして、素晴らしいステージに共に立った年上の友人たち。
リアムにリンディ、ニック、エマらシンガー。
それに直接共演することはなかったが、ジャズバンドのような演奏をしていた人らもそうだ。
練習中に息抜きだといって、即興でセッションすることもあった。
彼・彼女らは、皆乃亜の演奏を心に響く、素敵なものだと言ってくれていた。
それが、今できなくなっているとしたら。
乃亜はぞっと背筋が冷え込むのを感じた。
目を見開き、息を飲み、写真立てを持つ手がこわばる。
震える唇を閉じ、その考えを打ち消すように、唇の裏を噛みしめた。
スランプだと水野は言っていたが、だからと言ってなにもしないままではいられない。
「……練習しなきゃ」
乃亜は夕食を取ることも忘れ、
部屋の片隅に置いている電子ヴァイオリンへと足を向ける。
その日は結局、静が帰宅する0:00近くまで、休みなく練習をし続けていた。
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