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風の行方編
【風の行方編】72:xx17年11月5日
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マッチポンプとはこのことだ、と、ひとり覚醒したましろは思った。
乃亜はジワジワと顔を真っ赤にしていき、
隣のニックはにこにこと相変わらず楽し気に乃亜を見て笑い、
更に隣の煉矢は信じられないものを見ているように目を見開いている。
乃亜への告白かと思いきや、後付けにつけられた「君のヴァイオリン」という一言。
果たして額面通りに受け取ってよいものかと思いながら、
ましろは人知れず息を吐いてコーヒーを飲んだ。
ニックは対照的な顔色の乃亜と煉矢に挟まれながら
そのまま言葉をつづけた。
「実はね、師匠のステージ、いろんな楽器とのセッションメイン。
もちろん、三味線同士のセッションもある。
でも、ギターとかドラム、ピアノ、ヴァイオリン、フルート、
いろんな楽器とのセッションする。すごく楽しそうでしょ?」
「そ、そうですね……」
「それ聞いて、僕、君を思い出してた。
君のヴァイオリンは本当にすごい。あのわずかな時間でもよくわかる。
細かな技巧や繊細な指捌き、弓を自在に、まるで身体の一部みたいに動かすセンス。
僕はヴァイオリンは専門外。
でも、同じ弦楽器だから、弦の抑え方ひとつで大きく様変わりすること、分かる。
乃亜のヴァイオリンは本当にまるで生き物。
音色から感じるのは風。
優しく涼しいときもあれば、大きくてぜんぶ跳ねのける時もある。
大嵐にもなるし、霧を晴らす希望にもなる。
なによりも、弾いているときの君は、まさに音楽の女神、ミューズ。
僕は君にミューズをいつも見てる」
「………」
あまりにも絶賛が過ぎる言葉に、もう乃亜は顔を上げていられなかった。
先ほどの告白めいた言葉に加え、素晴らしい三味線奏者からの賛美の嵐。
乃亜は顔が赤くなることを止められず、肩をゆらし所在なく膝の上の両手を握った。
その様子を、煉矢はニック越しにちらりと見ていた。
銀髪の合間から見える乃亜の横顔。
頬を染めて恥ずかしそうに、でもどこか嬉しさも感じる。
勿論、それはヴァイオリンについての称賛だからだということは理解している。
だが、その顔は、自分だけが知っているはずだった。
正体の分からない何かが湧き上がってくる。
心の深いところから何かが。
煉矢はそれを飲みこむように、コーヒーを飲んだ。
正面の三人の様子を見ていたましろは、
ニックの手放しの称賛に少し圧倒されながら声をかけた。
「あのさ、ステージには、それこそ、プロが立つんじゃないの?
乃亜はすごいと思うけど、まだアマチュアにもなってない子だよ」
「もちろん、イベントのステージはプロ。
でも乃亜はそれに負けてない。なにより、僕、まだ覚えてるよ。
乃亜とステージに立ったときのあの感動!
初めて乃亜の音色を聞いたときの興奮!
僕、あんなに楽しくて、嬉しくて、興奮したの、三味線を初めて聞いたときが最後!
今でも思い出すと楽しくなっちゃうくらい!」
ニックは興奮してきたのか再びきらきらと瞳が輝き始めた。
ましろと静は、以前動画を見せてもらった時、
ニックが普段は温和だが、ステージで興奮すると人が変わると
煉矢や乃亜が話していたことを思い出した。
こういうことか。
「そういえば、ステージでは互いに競い合うように弾いていたと話していたな」
「そう!僕、つい負けたくなくって、どんどん速くなっちゃった!
でも乃亜、それに追いついてきて、逆に僕を煽って、挑んでくるんだよ!」
「い、いえ、あの、その、つい、ステージの熱に当てられたというか……」
「分かるよ!あのステージは本当にエキサイティングだった!
でも僕ら、最高に熱いセッションできた!だから、ね、乃亜!」
膝の上に置いていた乃亜の両手をぱっととる。
乃亜はどきりとして顔を上げると、
間近にオリーブ色の瞳が近づいてきていた。
ぎゅっと両手を握られ、明るい笑顔が目の前にある。
「僕と一緒にまた、ステージに立って!」
「っ、あ、あのっ、ニ、ニックさん……っ」
「駄目だ。
乃亜は今大事なコンクールの直前だ。他のステージにでる余裕はない」
ひたすらに動揺する乃亜に助け船を出したのは煉矢だった。
煉矢はこちらを見ていないが、その声は普段よりもいくらも低かった。
ニックはその違いを気にした様子なく、
今の言葉に首を傾げ、乃亜に目を向けた。
「あれ、そうなの?」
「あ、は、はい。
……えっと、その、ニックさんのステージはいつなんですか?」
「乃亜」
余計なことを言うな、と言わんばかりの制止の声だった。
それに少し違和感を覚えていると、ニックは握っていた乃亜の両手を離し、
スマートフォンでカレンダーを確認して言った。
乃亜は両手が離れたことにほっと息を漏らした。
「僕のステージは、二週間後だね」
「あ……では、そう、ですね、ちょうど、コンクールも、目前なので……」
一週間前ではさすがにそんな余裕はない。
興味がないといったら嘘になるが、それでも今自分にとって最重要はコンクールだ。
「そっか。それじゃあ無理だね……残念。
でも、よかったら見にきて。チケットあげる。
いい刺激になるかも。とっても楽しいよ」
「そうですね、ぜひ、見に行きたいです」
「やった!僕のミューズが見に来てくれるなら、僕もいっぱい頑張れるよ!
レンたちにもチケットあげるから、よかったら遊びに来てね」
ニックは自身のショルダーバックから束になったチケットを取り出した。
四枚分引き抜き、さらにペンで自身の名前を書いてそれぞれに差し出す。
乃亜は礼を言って受け取り確認すると、場所や時間なども書かれていた。
確かに日付は再来週。場所は都内にある小ホールのようだった。
「イベントはフランクなものだから、いつもの服装で大丈夫だよ」
「はい、ありがとうございます」
「あ、そうだ!乃亜のコンクールいつ?それって僕も見れる?」
「はい、一般公開されます。ただ、有料のチケット制で……。
ご招待できればよかったんですが……」
これは乃亜も驚いたことだが、全国大会は通常のクラシックコンサートのように
席によって価格が変わるチケット制だった。
S席にいたっては通常のコンサートとほぼ値段は変わらない。
幸い出場者の身内に関しては4席まで確保できると案内があり、
乃亜は静たち三人分の席の申し込みを済ませていた。
残りひと席についてはキャンセルで完了させてしまっていたのだ。
申し訳ない様子を見せる乃亜にニックは首を振って笑う。
「いいよ、僕、自分で予約して見に行くね。
コンクールの名前は?ホームページある?」
「あ、はい。ええと……」
乃亜はスマートフォンを取り出してコンクールの公式サイトを表示させる。
ニックは乃亜のスマートフォンを覗き見ながら自分のそれでも確認し、
内容を把握すると頷いて笑った。
「……、オッケー!ありがと!じゃあ、僕、そろそろ行くね」
残っていたコーヒーを一気に飲み干して、
ニックはショルダーバックを肩に掛け、立ち上がった。
「ステージ頑張ってくださいね」
「うん。ありがとう!レンたちもまたね!」
「ああ……」
どこか心ここにあらず。煉矢は短く挨拶し、店を出ていくニックの背中を見送った。
四人だけになったところで、ほっとしたような空気が流れた。
「……嵐みたいな人だったね」
思わずつぶやいたましろの言葉に全員が同意する。
普段どちらかというと四人の中に流れる空気は穏やかなものだ。
天真爛漫を絵にかいたようなニックの言動はそれを完全に塗り替えていた。
乃亜は苦笑いを浮かべてコーヒーを飲む。
「まぁ、ああいう手放しでの称賛は、あちらの国柄というのはあるだろうが」
「日本人よりずっとはっきりしてるみたいな、そういう?」
「もちろん、人により異なるだろうが。まぁ、そんな傾向があると言うのは確かだ」
「ニックさん、普段はもっと物腰穏やかというか、おっとりというか、
そういう印象ではあるんですけどね……」
以前アメリカにて交流していた時も、
今ほど流暢に日本語が話せなかったこともあるかもしれないが、
音の組み合わせや、重なり方などで討論していた時も
柔和な雰囲気だったと記憶している。
そう話す乃亜に、ましろは少しからかうように告げた。
「随分と熱烈な告白受けていたじゃない」
「あ、あれは……私のヴァイオリンを評価してくださってただけですよ……」
「ま、そういうことなんだろうけど」
確かに、好きだと告げはしていたが、そのあとにヴァイオリンが、と付け加えていた。
それをこのまま取るならそうだろう。
しかし。
ましろはちらと視線だけで煉矢を見た。
彼はなにかを考え込んでいるのか、ただコーヒーを飲んで黙ったままだ。
「……本当に、嵐が起きそう」
「なんですか?」
「何でもないよ」
「それより、彼のステージを見に行くのは構わないが、
コンクールに支障をきたさないようにな」
「大丈夫ですよ、兄さん。
私も、今はコンクールだけを考えていますから」
「彼ほどでないにしても、お前も音楽のことになると、
少し積極性が増すところあるだろう」
「それは……否定しにくいですけど」
微笑ましく話す兄妹をよそに、ましろはもう一度煉矢を見た。
先ほど、乃亜がセッションに誘われているとき、
乃亜が断るより先に、真っ先に駄目だと告げたのは彼だ。
無理強いさせるなとニックを嗜めるでもなく、
スケジュール的に難しいだろうと現実的に告げるのでもなく、
「駄目だ」と言った。
彼は気づいているだろうか。
まるでそれは、乃亜のスケジュールを自分が管理しているような言い回しだ。
それは普段、理知的で論理的な彼らしくない。
ましろは溜息を小さく吐いた。
四人はカフェから出たあと帰路についた。
乃亜としては全国大会に向けて練習に時間を使いたいし、
ましろは受験生ということもあり、そう長々と遊んでもいられない。
静や乃亜、ましろと別れ、煉矢は一人方角の違う電車に乗り、自宅へと帰宅した。
時刻はまだ16:00前。
普段であれば仕事に関係する勉強に切り替えるところだが
今日はまったく手に着く気がしなかった。
ベッドに腰かけ、そのまま横になった。
簡素な室内の天井をただ見つめる。
頭の中で繰り返し思い出されるのは、愛しい女性のことだった。
先週のコンクール。
ステージに立っていた彼女は可憐で美しかった。
普段の控えめで気の弱い雰囲気が息をひそめ、
ヴァイオリンを奏でる姿は堂々として自信に満ち溢れているように見えた。
演奏を終えて、結果発表のときには、今にも倒れそうなほど、
身体を縮こまらせて両手をきつくきつく、握りしめていた。
全国大会出場のひとりに選ばれ、信じられないような表情を浮かべながら
安堵したように笑って、いつも俯きがちな顔はまっすぐに前を向いていた。
眩く、輝くような笑顔を見せて。
そして今日。
ステージドレスの新調として、彼女が選んだブルーのドレス。
試着して現れた姿に、息を飲んだ。
白く細い腕、華奢な肩を顕わにした美しいドレス姿だった。
細い腰は本当に少し力をこめたら折れそうなほどだ。
照れ臭そうに身体をよじらせる中、不安そうにこちらを見る青緑の瞳。
あまりに美しかったため、言葉を失くしていたが、
それに微笑みかければ安堵した様子で笑っていた。
その一つ一つが愛しさを募らせていった。
そんな矢先、全く予想だにしなかった突然の旧友との再会。
ただ再会するのであればよかったが、あろうことか乃亜に抱き着いてきたのだ。
ざわりと心の深いところで何かが揺れる。
思い出すだけで身体の中心が焼けるように熱くなる。
ニックは乃亜にこれでもかと称賛の言葉を投げかけ続けた。
乃亜は頬を染めて困ったようにしながら俯いていた。
ベッドに投げ出した手がきつく握り絞められ、
煉矢はそれをごまかすように目元を覆う。
だがそれでも胸の内から湧き出してくる、とめどない熱く苦いものは消えない。
先のステージでも気づいてた。
あれほどにステージで輝ける存在になっていた。
あまりにも大きな才能が花開き、
ステージで一人で立って、ヴァイオリンで聴衆を引き付けるほどの存在になった。
否、ヴァイオリンだけではない。
乃亜は美しく、魅力的だ。
ヴァイオリンだけでなく、多くの者を魅了していくのは間違いない。
誤魔化し切れないどす黒い感情が広がり、
煉矢は奥歯を噛みしめる。
自分の中に渦巻く感情を処理しきれない。
こんなことは初めてだ。
眉を顰め、起き上がり、深くため息を吐き出した。
「……このままでいい、と……思ってたんだがな」
乃亜が春に告げた、もう少しだけ時間を欲しいという言葉。
コンクールで成果を出してみせるから、と。
その前向きな言葉に、誇らしささえ感じて承諾した。
なにより、言葉がなくとも、今の状態でも十分、彼女は自分に応えてくれていた。
通じ合っているとさえ感じていた。
だからこそ、恋人ではない、名前のないこの関係にも満足していたのだ。
だが、今日、ニックと乃亜の様子を見て、あらためて気づいた。
乃亜はもう、どこか息をひそめて、誰かの影に隠れているような存在ではない。
自分自身で大きく輝き、花開いた存在になったのだ。
彼女はとても魅力的で美しい。
美しい花は誰だって愛でるだろうし、手折ろうとする者とて現れるのは当然だ。
自分は大きく花開く前の、つぼみの状態から守り、
水をやり、倒れないように支えてきた。
今は育ち切ってひとりで立てているその花を、
誰より近い場所で愛でている。それが自分だ。
そう、愛でているだけなのだ。
あの花は、まだ、誰のものでもない。
どす黒い感情が身の内で湧き出している。
コントロールの利かないそれは、万が一を想像させる。
もし乃亜が、自分ではない誰かの手をとったら。
もし乃亜が、自分ではない誰かの腕の中に引き込まれたら。
自分ではない、誰かのものになったら。
そんなことは、許せない。
そう思い至り、至ってしまい、とどめていた感情はついに爆発した。
美しく咲いた花を自分の手で手折りたい。
自分のものにしたい。
誰にも見せたくない。
誰にも渡したくない。
誰にも触らせたくない。
誰にも、誰にも。
どうしようもないほど、彼女が欲しい。
煉矢は頭を抱えた。
自覚してしまった貪欲な感情はもう消せない。
「……こんなにも身勝手だったのか、俺は」
これほどまでに強い感情が自分の中にあるなど知らなかった。
もしかしたらこんな感情を見せたら
乃亜は自分を嫌うかもしれない。
逃げるように、離れていくかもしれない。
そんな恐怖が湧き上がる。
けれど、それでも。
「……愛してる、乃亜」
彼女を今更、手放せない。
煉矢は一人、泣きそうな声で、彼女への愛を囁いた。
乃亜はジワジワと顔を真っ赤にしていき、
隣のニックはにこにこと相変わらず楽し気に乃亜を見て笑い、
更に隣の煉矢は信じられないものを見ているように目を見開いている。
乃亜への告白かと思いきや、後付けにつけられた「君のヴァイオリン」という一言。
果たして額面通りに受け取ってよいものかと思いながら、
ましろは人知れず息を吐いてコーヒーを飲んだ。
ニックは対照的な顔色の乃亜と煉矢に挟まれながら
そのまま言葉をつづけた。
「実はね、師匠のステージ、いろんな楽器とのセッションメイン。
もちろん、三味線同士のセッションもある。
でも、ギターとかドラム、ピアノ、ヴァイオリン、フルート、
いろんな楽器とのセッションする。すごく楽しそうでしょ?」
「そ、そうですね……」
「それ聞いて、僕、君を思い出してた。
君のヴァイオリンは本当にすごい。あのわずかな時間でもよくわかる。
細かな技巧や繊細な指捌き、弓を自在に、まるで身体の一部みたいに動かすセンス。
僕はヴァイオリンは専門外。
でも、同じ弦楽器だから、弦の抑え方ひとつで大きく様変わりすること、分かる。
乃亜のヴァイオリンは本当にまるで生き物。
音色から感じるのは風。
優しく涼しいときもあれば、大きくてぜんぶ跳ねのける時もある。
大嵐にもなるし、霧を晴らす希望にもなる。
なによりも、弾いているときの君は、まさに音楽の女神、ミューズ。
僕は君にミューズをいつも見てる」
「………」
あまりにも絶賛が過ぎる言葉に、もう乃亜は顔を上げていられなかった。
先ほどの告白めいた言葉に加え、素晴らしい三味線奏者からの賛美の嵐。
乃亜は顔が赤くなることを止められず、肩をゆらし所在なく膝の上の両手を握った。
その様子を、煉矢はニック越しにちらりと見ていた。
銀髪の合間から見える乃亜の横顔。
頬を染めて恥ずかしそうに、でもどこか嬉しさも感じる。
勿論、それはヴァイオリンについての称賛だからだということは理解している。
だが、その顔は、自分だけが知っているはずだった。
正体の分からない何かが湧き上がってくる。
心の深いところから何かが。
煉矢はそれを飲みこむように、コーヒーを飲んだ。
正面の三人の様子を見ていたましろは、
ニックの手放しの称賛に少し圧倒されながら声をかけた。
「あのさ、ステージには、それこそ、プロが立つんじゃないの?
乃亜はすごいと思うけど、まだアマチュアにもなってない子だよ」
「もちろん、イベントのステージはプロ。
でも乃亜はそれに負けてない。なにより、僕、まだ覚えてるよ。
乃亜とステージに立ったときのあの感動!
初めて乃亜の音色を聞いたときの興奮!
僕、あんなに楽しくて、嬉しくて、興奮したの、三味線を初めて聞いたときが最後!
今でも思い出すと楽しくなっちゃうくらい!」
ニックは興奮してきたのか再びきらきらと瞳が輝き始めた。
ましろと静は、以前動画を見せてもらった時、
ニックが普段は温和だが、ステージで興奮すると人が変わると
煉矢や乃亜が話していたことを思い出した。
こういうことか。
「そういえば、ステージでは互いに競い合うように弾いていたと話していたな」
「そう!僕、つい負けたくなくって、どんどん速くなっちゃった!
でも乃亜、それに追いついてきて、逆に僕を煽って、挑んでくるんだよ!」
「い、いえ、あの、その、つい、ステージの熱に当てられたというか……」
「分かるよ!あのステージは本当にエキサイティングだった!
でも僕ら、最高に熱いセッションできた!だから、ね、乃亜!」
膝の上に置いていた乃亜の両手をぱっととる。
乃亜はどきりとして顔を上げると、
間近にオリーブ色の瞳が近づいてきていた。
ぎゅっと両手を握られ、明るい笑顔が目の前にある。
「僕と一緒にまた、ステージに立って!」
「っ、あ、あのっ、ニ、ニックさん……っ」
「駄目だ。
乃亜は今大事なコンクールの直前だ。他のステージにでる余裕はない」
ひたすらに動揺する乃亜に助け船を出したのは煉矢だった。
煉矢はこちらを見ていないが、その声は普段よりもいくらも低かった。
ニックはその違いを気にした様子なく、
今の言葉に首を傾げ、乃亜に目を向けた。
「あれ、そうなの?」
「あ、は、はい。
……えっと、その、ニックさんのステージはいつなんですか?」
「乃亜」
余計なことを言うな、と言わんばかりの制止の声だった。
それに少し違和感を覚えていると、ニックは握っていた乃亜の両手を離し、
スマートフォンでカレンダーを確認して言った。
乃亜は両手が離れたことにほっと息を漏らした。
「僕のステージは、二週間後だね」
「あ……では、そう、ですね、ちょうど、コンクールも、目前なので……」
一週間前ではさすがにそんな余裕はない。
興味がないといったら嘘になるが、それでも今自分にとって最重要はコンクールだ。
「そっか。それじゃあ無理だね……残念。
でも、よかったら見にきて。チケットあげる。
いい刺激になるかも。とっても楽しいよ」
「そうですね、ぜひ、見に行きたいです」
「やった!僕のミューズが見に来てくれるなら、僕もいっぱい頑張れるよ!
レンたちにもチケットあげるから、よかったら遊びに来てね」
ニックは自身のショルダーバックから束になったチケットを取り出した。
四枚分引き抜き、さらにペンで自身の名前を書いてそれぞれに差し出す。
乃亜は礼を言って受け取り確認すると、場所や時間なども書かれていた。
確かに日付は再来週。場所は都内にある小ホールのようだった。
「イベントはフランクなものだから、いつもの服装で大丈夫だよ」
「はい、ありがとうございます」
「あ、そうだ!乃亜のコンクールいつ?それって僕も見れる?」
「はい、一般公開されます。ただ、有料のチケット制で……。
ご招待できればよかったんですが……」
これは乃亜も驚いたことだが、全国大会は通常のクラシックコンサートのように
席によって価格が変わるチケット制だった。
S席にいたっては通常のコンサートとほぼ値段は変わらない。
幸い出場者の身内に関しては4席まで確保できると案内があり、
乃亜は静たち三人分の席の申し込みを済ませていた。
残りひと席についてはキャンセルで完了させてしまっていたのだ。
申し訳ない様子を見せる乃亜にニックは首を振って笑う。
「いいよ、僕、自分で予約して見に行くね。
コンクールの名前は?ホームページある?」
「あ、はい。ええと……」
乃亜はスマートフォンを取り出してコンクールの公式サイトを表示させる。
ニックは乃亜のスマートフォンを覗き見ながら自分のそれでも確認し、
内容を把握すると頷いて笑った。
「……、オッケー!ありがと!じゃあ、僕、そろそろ行くね」
残っていたコーヒーを一気に飲み干して、
ニックはショルダーバックを肩に掛け、立ち上がった。
「ステージ頑張ってくださいね」
「うん。ありがとう!レンたちもまたね!」
「ああ……」
どこか心ここにあらず。煉矢は短く挨拶し、店を出ていくニックの背中を見送った。
四人だけになったところで、ほっとしたような空気が流れた。
「……嵐みたいな人だったね」
思わずつぶやいたましろの言葉に全員が同意する。
普段どちらかというと四人の中に流れる空気は穏やかなものだ。
天真爛漫を絵にかいたようなニックの言動はそれを完全に塗り替えていた。
乃亜は苦笑いを浮かべてコーヒーを飲む。
「まぁ、ああいう手放しでの称賛は、あちらの国柄というのはあるだろうが」
「日本人よりずっとはっきりしてるみたいな、そういう?」
「もちろん、人により異なるだろうが。まぁ、そんな傾向があると言うのは確かだ」
「ニックさん、普段はもっと物腰穏やかというか、おっとりというか、
そういう印象ではあるんですけどね……」
以前アメリカにて交流していた時も、
今ほど流暢に日本語が話せなかったこともあるかもしれないが、
音の組み合わせや、重なり方などで討論していた時も
柔和な雰囲気だったと記憶している。
そう話す乃亜に、ましろは少しからかうように告げた。
「随分と熱烈な告白受けていたじゃない」
「あ、あれは……私のヴァイオリンを評価してくださってただけですよ……」
「ま、そういうことなんだろうけど」
確かに、好きだと告げはしていたが、そのあとにヴァイオリンが、と付け加えていた。
それをこのまま取るならそうだろう。
しかし。
ましろはちらと視線だけで煉矢を見た。
彼はなにかを考え込んでいるのか、ただコーヒーを飲んで黙ったままだ。
「……本当に、嵐が起きそう」
「なんですか?」
「何でもないよ」
「それより、彼のステージを見に行くのは構わないが、
コンクールに支障をきたさないようにな」
「大丈夫ですよ、兄さん。
私も、今はコンクールだけを考えていますから」
「彼ほどでないにしても、お前も音楽のことになると、
少し積極性が増すところあるだろう」
「それは……否定しにくいですけど」
微笑ましく話す兄妹をよそに、ましろはもう一度煉矢を見た。
先ほど、乃亜がセッションに誘われているとき、
乃亜が断るより先に、真っ先に駄目だと告げたのは彼だ。
無理強いさせるなとニックを嗜めるでもなく、
スケジュール的に難しいだろうと現実的に告げるのでもなく、
「駄目だ」と言った。
彼は気づいているだろうか。
まるでそれは、乃亜のスケジュールを自分が管理しているような言い回しだ。
それは普段、理知的で論理的な彼らしくない。
ましろは溜息を小さく吐いた。
四人はカフェから出たあと帰路についた。
乃亜としては全国大会に向けて練習に時間を使いたいし、
ましろは受験生ということもあり、そう長々と遊んでもいられない。
静や乃亜、ましろと別れ、煉矢は一人方角の違う電車に乗り、自宅へと帰宅した。
時刻はまだ16:00前。
普段であれば仕事に関係する勉強に切り替えるところだが
今日はまったく手に着く気がしなかった。
ベッドに腰かけ、そのまま横になった。
簡素な室内の天井をただ見つめる。
頭の中で繰り返し思い出されるのは、愛しい女性のことだった。
先週のコンクール。
ステージに立っていた彼女は可憐で美しかった。
普段の控えめで気の弱い雰囲気が息をひそめ、
ヴァイオリンを奏でる姿は堂々として自信に満ち溢れているように見えた。
演奏を終えて、結果発表のときには、今にも倒れそうなほど、
身体を縮こまらせて両手をきつくきつく、握りしめていた。
全国大会出場のひとりに選ばれ、信じられないような表情を浮かべながら
安堵したように笑って、いつも俯きがちな顔はまっすぐに前を向いていた。
眩く、輝くような笑顔を見せて。
そして今日。
ステージドレスの新調として、彼女が選んだブルーのドレス。
試着して現れた姿に、息を飲んだ。
白く細い腕、華奢な肩を顕わにした美しいドレス姿だった。
細い腰は本当に少し力をこめたら折れそうなほどだ。
照れ臭そうに身体をよじらせる中、不安そうにこちらを見る青緑の瞳。
あまりに美しかったため、言葉を失くしていたが、
それに微笑みかければ安堵した様子で笑っていた。
その一つ一つが愛しさを募らせていった。
そんな矢先、全く予想だにしなかった突然の旧友との再会。
ただ再会するのであればよかったが、あろうことか乃亜に抱き着いてきたのだ。
ざわりと心の深いところで何かが揺れる。
思い出すだけで身体の中心が焼けるように熱くなる。
ニックは乃亜にこれでもかと称賛の言葉を投げかけ続けた。
乃亜は頬を染めて困ったようにしながら俯いていた。
ベッドに投げ出した手がきつく握り絞められ、
煉矢はそれをごまかすように目元を覆う。
だがそれでも胸の内から湧き出してくる、とめどない熱く苦いものは消えない。
先のステージでも気づいてた。
あれほどにステージで輝ける存在になっていた。
あまりにも大きな才能が花開き、
ステージで一人で立って、ヴァイオリンで聴衆を引き付けるほどの存在になった。
否、ヴァイオリンだけではない。
乃亜は美しく、魅力的だ。
ヴァイオリンだけでなく、多くの者を魅了していくのは間違いない。
誤魔化し切れないどす黒い感情が広がり、
煉矢は奥歯を噛みしめる。
自分の中に渦巻く感情を処理しきれない。
こんなことは初めてだ。
眉を顰め、起き上がり、深くため息を吐き出した。
「……このままでいい、と……思ってたんだがな」
乃亜が春に告げた、もう少しだけ時間を欲しいという言葉。
コンクールで成果を出してみせるから、と。
その前向きな言葉に、誇らしささえ感じて承諾した。
なにより、言葉がなくとも、今の状態でも十分、彼女は自分に応えてくれていた。
通じ合っているとさえ感じていた。
だからこそ、恋人ではない、名前のないこの関係にも満足していたのだ。
だが、今日、ニックと乃亜の様子を見て、あらためて気づいた。
乃亜はもう、どこか息をひそめて、誰かの影に隠れているような存在ではない。
自分自身で大きく輝き、花開いた存在になったのだ。
彼女はとても魅力的で美しい。
美しい花は誰だって愛でるだろうし、手折ろうとする者とて現れるのは当然だ。
自分は大きく花開く前の、つぼみの状態から守り、
水をやり、倒れないように支えてきた。
今は育ち切ってひとりで立てているその花を、
誰より近い場所で愛でている。それが自分だ。
そう、愛でているだけなのだ。
あの花は、まだ、誰のものでもない。
どす黒い感情が身の内で湧き出している。
コントロールの利かないそれは、万が一を想像させる。
もし乃亜が、自分ではない誰かの手をとったら。
もし乃亜が、自分ではない誰かの腕の中に引き込まれたら。
自分ではない、誰かのものになったら。
そんなことは、許せない。
そう思い至り、至ってしまい、とどめていた感情はついに爆発した。
美しく咲いた花を自分の手で手折りたい。
自分のものにしたい。
誰にも見せたくない。
誰にも渡したくない。
誰にも触らせたくない。
誰にも、誰にも。
どうしようもないほど、彼女が欲しい。
煉矢は頭を抱えた。
自覚してしまった貪欲な感情はもう消せない。
「……こんなにも身勝手だったのか、俺は」
これほどまでに強い感情が自分の中にあるなど知らなかった。
もしかしたらこんな感情を見せたら
乃亜は自分を嫌うかもしれない。
逃げるように、離れていくかもしれない。
そんな恐怖が湧き上がる。
けれど、それでも。
「……愛してる、乃亜」
彼女を今更、手放せない。
煉矢は一人、泣きそうな声で、彼女への愛を囁いた。
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