76 / 77
風の行方編
【風の行方編】75:xx17年11月25日/11月26日
しおりを挟む
【11月25日】
穏やかに、けれど厳かに美しい旋律がヴァイオリン教室を響かせている。
乃亜はその最後の一音を、気を抜くことなく、弾き終えたところでようやく目を開けた。
「エクセレント!素晴らしいわね」
「ありがとうございます」
水野は大変満足げにピアノの前で笑う。
乃亜ははにかみながらその賞賛を受けた。
「いよいよ明日ね。
今回の曲は、静と動、まさに対極ともいうべき構成だから
心身ともにしっかりと自分を律しないといけないけれど、
逆に言えばそれが出来れば最高の組み合わせよ。
きっといい結果になるわ」
乃亜はそれにしっかりと頷く。
時間にしてみれば20分程度のものであるが、こうして連続で弾くと大変に疲労する。
今回演奏予定の2曲が、どれほど精神的に負荷がかかるかを明示していた。
コンクールの全国大会で演奏する2曲はいずれも自由曲だ。
つまり選んだのは乃亜自身。
かなり難解なものであると自覚はしているが、水野とも相談し決めたのだ。
今日は最後の練習の日。
なんとか納得できる仕上がりにまでたどり着けたことに安堵する。
時間が来たためヴァイオリンを片付けて帰り支度を進めた。
「それじゃ、明日また楽屋でね」
「はい。……あの、水野先生」
「なあに?」
ピアノの鍵盤にカバーを広げようとしていた水野が顔を上げる。
「本当に、水野先生にも私、色々ご心配をかけてしまって……」
「……」
「でも、水野先生のおかげで、ここまでこれました。
私、この教室に通えて本当に良かったです。
明日、どんな結果になるか、分かりませんが……でも、
先生が、少しでも、自慢に思えるような、演奏ができるように、頑張ります」
少し恥ずかしそうに、けれどしっかりと水野の顔をみて言う乃亜に、
水野は目の奥が熱くなった。
けれどそれは精一杯抑え込み、にこりと笑う。
「明日の結果がどうなっても、あなたは十分、私の自慢の生徒さんです。
それに、明日で終わりではないのよ?」
「そ、それは、そうなんですが……」
「ふふ、でも、ありがとう。
確かに色々心配はしたけれど、
先生が生徒の心配をするのは当たり前なんだから気にしないで。
さ、もうお帰りなさい。ゆっくり休んで、明日、頑張りましょうね」
「はい。ありがとうございました」
乃亜は頭を下げて、レッスン室を後にした。
水野はその姿を見送り、ふうと息を吐き出し、とたんじわりとにじんだ涙をぬぐう。
彼女は本当に変わったように思う。
ここに来た当初はあまりにも精神的に不安定な様子を見せて、
気が弱く、自分の意見を言うことにさえ怯えているようだった。
しかしある時を境に彼女は大きく変わった。
それは良いことばかりでなく、スランプや故障といったつらいこともあった。
それらの水野の心に深い影を落とした。
教師として生徒の負荷にまるきり気づいていなかったのだ。
正直かなり打ちのめされた。
しかし、彼女はそこからあまりにも鮮やかによみがえった。
ヴァイオリンを再開してからというのも、以前とは比べ物にならないほど、
その音色も立ち居振る舞いも雰囲気も、美しく、立派になっていた。
何があったのかは分からない。
わからないが、それでも、今や彼女は、立派なヴァイオリニストだ。
以前からあった彼女の大きな才能の片鱗。
それが花開いた今、水野は考えていることがあった。
「……そろそろ決めないといけないかしらね」
それは自分にとっては苦渋。けれど、乃亜の才能はもはや、自分の手には負えない。
彼女のためにも、決めなければならない。
一人の音楽家として、教師として。
可愛い自慢の生徒を、手放す時を。
ヴァイオリン教室を終えて、乃亜は教室の外に出た。
日が落ちてぐっと冷えた気温、冷たい風が頬を撫でる。
「乃亜」
「っ、煉矢さん……?!」
ヴァイオリン教室を出たところで声がかかり、
乃亜ははっとそちらを見た。
車の横にいた煉矢の姿に驚き駆け寄る。
「え、あの、連絡いただいてましたか?」
「送ったが、もうレッスンが始まってる時間だったと思う。
悪いな、急に」
「い、いえ……その、どうしたんですか?」
今までこういった突発的な訪問はなかった。
戸惑う乃亜に、煉矢は目を細め微笑みかける。
「どうしてもお前に会いたかった」
「え……」
「乗ってくれ。家まで送る」
「あ、は……はい」
あまりにも直球過ぎる言葉に声が詰まった。
掠れた声で言われるままに、開けられた車の助手席に乗り込む。
寒いはずの11月の風がとたんに心地よいと感じるほど、頬が熱くなった。
運転席に乗り込んだ煉矢は、間もなく車を発進させた。
車で家までは15分程度だ。
乃亜はどきどきと心臓を鳴らしながら、ちらと運転席の煉矢を見る。
先週のニックのイベントの終わり。
告げられたのは少しだけ時間が欲しいと告げた自分へのタイムリミット。
それ自体は、よくはないが、まだいい。
それよりも乃亜が気になっているのは、
煉矢の様子は明らかに今までと異なっていたことだ。
なにか、追い詰められているような雰囲気を感じて。
「驚いたか?」
「それは、はい……」
「まぁ、そうだろうな。俺自身もそうだ」
「え?」
彼は一瞬だけ視線をこちらに向ける。
横顔からはなにか自嘲気味の笑みが浮かんでいた。
「迷惑かもとは思ったが」
「いえ!……そんなこと、ないです」
それは強く否定したい。
どんな形でも、こうして会いに来てくれたことに嬉しくならないはずはない。
乃亜は思わず声を張り上げてたことに少し恥ずかしさを感じつつ、
湧き上がる思いのまま口にした。
「会えて、嬉しいです……」
「……そうか」
途端、車内の空気があたたかなものに変わる。
彼が何を考え、どんなことを思っているのかは分からない。
乃亜にわかるのは、こうして会いに来てくれたと言う事実だけだ。
瞬く間に自宅のマンションが見えてきてしまった。
短い逢瀬は終わり。
少し残念だが、仕方ない話である。
車が止まり、乃亜はシートベルトを外した。
「煉矢さん、ありがとうございました」
「乃亜」
名を呼ばれ助手席のドアを開けようとしていた手を止め、振り向く。
彼は乃亜の手を取り、その手のひらに小さな小箱を乗せた。
ピローボックスと呼ばれるそれには、赤いリボンのシールが張られ、
明らかにギフト用のものであることがわかる。
「え……?」
「開けてみてくれ」
戸惑い煉矢の顔を見ると、彼は笑っている。
開けるように促され、それに従い蓋となっている部分のシールを外して押し開き、
梱包材に包まれたそれを指先で取り出した。
梱包材を丁寧に開くと全容が見えた。
銀の蔓のような装飾に白い薔薇があしらわれたイアリングだった。
更に薔薇には、青い蝶が止まっている。
指先で留め具部分を掴むと、人差し指の爪ほどの大きさの薔薇のチャームが、青い蝶とともに揺れた。
「明日、また、つけてくれないか?」
はっとして振りむく。
青に、薔薇に、銀。
明らかに、明日身に着けるドレスを意識した意匠だ。
その美しいデザインもさることながら、込められた思いが嬉しかった。
「また」と彼は言った。
前回のコンクールで、彼から貰ったイアリングをつけていたことに気付いていたのだ。
とんでもなく大きな、お守りを貰った気分だ。
「……はい、必ず」
それを抱き込み強く乃亜は頷いた。
【11月26日】
都心にあるとある音楽ホールの入り口に、乃亜は一人立っていた。
休日にしては早めの時間。
人の往来はまばらで、吹く風は冷たく思わず身がすくむ。
道路沿いに開かれた真新しい外観、隣接した公園からは、
地元の人が犬の散歩やジョギングなどのため出てきているが、駅前に比べればいくらも人は少ない。
背中に担いだヴァイオリンケースの重みがずしりと感じられ、
肩には貴重品や楽譜をしまった白い合皮のトートバッグ。
更に両手に持つ黒のガーメントバック。
かなり大荷物だが、静がここまで車で送ってくれたことでかなり楽をさせてもらった。
静とは一度別れた。
自分の出番は午後。それに合わせてましろや煉矢と共に来ると言ってくれた。
薄青の雲一つない空が広がっている。
冷たい風を浴びながら一人立ちすくみ、会場を見上げるのは、心細さはどうしてもある。
けれど、怖くはない。
静やましろ、なにより、煉矢の存在が、心に確かにある。
乃亜足を踏み出した。
その視線はまっすぐに、会場の中を見ていた。
全国大会の参加者は20名。
規模としては大きく、開始は10時からだが終わるのは夜になる。
その間、譜面を確認したり、休憩をとったり、
他の出演者をモニターで見たりと行った具合で時間をつぶす必要がある。
尚、音を出しての練習は禁止らしい。
午前と午後10名ずつ割り振られ、完全に抽選で決められた乃亜の出番は午後の部の3番目。
お昼休憩明けの第一部に割り当てられている。
受付を済ませ、乃亜は地下の楽屋に案内された。
かなり広い会場だが、出入りしてよい場所や部屋の名前などは
明確に随所に掲示されており、道に迷うような心配はなさそうだ。
出場準備については一時間前にスタッフが声をかけるそうだが、
お昼休憩終わりには支度をすませて置いてほしいと言われた。
楽屋の外には軽食やペットボトルの水などが並べられていた。
出演者は自分の出番に関わらずほぼ1日をここで過ごすことになる。
途中昼食に出ることも出来ないための処置である。
スタッフに置いてあるものは楽屋内で好きに飲食してよいと言われた。
楽屋は3名で使うようだ。
更衣室が一つ置かれ、部屋は簡易的に仕切りが作られていた。
自身の名前がかかれた楽屋の一角に荷物を置く。
小さなセキュリティボックスもおかれており、
貴重品はそこにしまうようにとの指示を思い出した。
席に腰掛け、カウンターテーブルに置かれた鏡に映る自分をみた。
不安そうだなと乃亜は自嘲する。
どうしたって不安で心配は消えない。
本当にやるべきことをすべてやれただろうか。
なにか意図しないトラブルが起きるかもしれない。
ヴァイオリンの状態は万全といえるか。
途中、頭が真っ白になって弾けなくなるかも。
考え出したらきりがない。
乃亜は首元に揺れるペンダントに触れた。
モカブラウンのニットの上、薄水色の石が揺れている。
___煉矢さん……私に、勇気をください。
彼から感じる想いを思い返し、
震える手で、ペンダントを握りこんだ。
ざわめきが静かに広がっているホール。
午前10:00から開始された全日本ユースクラシックコンクール、
ヴァイオリン部門高校生の部、全国大会。
午前中のから昼過ぎにかけて、出場者の半分である10名が出番を終え、
遅めの昼休憩をはさみ、間もなく午後の部が開始される。
出場者の関係者席として、静たちが案内されたのは二階席の端の席だった。
一列だけならんだ端の席は、少し遠いが出場者の姿はよく見える。
乃亜の出番は午後の部の三番目。
もう間もなく出番である。
ブロック予本選とは明らかに空気感が異なっている。
緊張感もさることながら、プロの音楽家も多数見に来ているらしく
ホワイエでは威厳を感じさせる人物らが
出演した若き演奏家たちについてあれこれと話しているのを聞いた。
果たして彼らの目に、乃亜はどう映るのか。
見守っている自分たちこそなにか緊張を感じる。
「広い会場だね」
ましろがぽつりとつぶやいた。
静はそれに短く同意する。
「こんなところで乃亜、演奏するんだから、すごいよね」
「全くだな……。妹ながら、大したものだと思う」
「心配?」
「全くしていない、とは言わないが……」
数年前、それこそ共に暮らし始めた頃であれば、
おそらく心配で胃がつぶれていたように思う。
しかし、今の、ヴァイオリンときちんと向き合い初めた乃亜ならば。
「ヴァイオリンを弾くために立つんだ。
それなら、きっと大丈夫だ」
静は笑みを浮かべたまま、ステージを見つめる。
ましろはそれに目を細めた。
二人の会話を横で聞きながら、煉矢もまた、静に同意していた。
だが二人とは違う、また別の思いもある。
乃亜は果たして、このステージから、どこまで飛び立つのか。
そういった身勝手な思いだ。
このコンクールが終わったら。
以前乃亜へと告げた言葉。
コンクールが終わったら、その手を取ってもいいだろうか。
しかしそれは、果たして彼女の為になるのか。
今だ答えの出ないそれに、煉矢が内心苦く思っている中、
ついに午後の部開始のアナウンスが響いた。
「斉王さん、間もなくです。
移動お願いします」
「はい」
乃亜は楽屋の席から立ち上がる。
オリエンタルブルーと呼ばれる深い海を思わせる青のドレス。
その腰に咲く銀の薔薇が一層の高貴さを感じさせる。
銀髪の細い髪は特に結ぶことなくそのままだ。
耳に輝く銀の薔薇のイアリングが歩くたびに揺れている。
手に持つのはヴァイオリンのみ。
今にも震えそうな足を必死に動かし、ステージ脇へと移動を終える。
ひとつ前の演奏者がヴァイオリンを奏でている。
それをどこか遠くに聞きながら、乃亜は待機用の椅子に腰かけていた。
すぐ隣には伴奏を務めてくれる水野がいる。
彼女は乃亜を励ますように、両肩にそのあたたかな手を置いてくれていた。
「大丈夫、あなたなら、絶対」
「はい。ありがとうございます」
小さく告げた励ましに、乃亜は頷く。
大丈夫。きっと。
耳に揺れるイアリング。
会場で見ていてくれる最愛の兄、信頼する友人、そして。
もう一度乃亜は煉矢の名前を心で呼ぶ。
やがて、ひとつ前の演奏者が終わり、立ち上がる。
どこか晴れやかな様子でステージを後にしたその奏者に
軽く会釈をしてすれ違い、乃亜はステージを見る。
「続きまして、関東地区、斉王乃亜さん」
自分の名前を呼ぶアナウンス。
乃亜はかつて、遠い世界だと感じていたそのステージに、向かった。
穏やかに、けれど厳かに美しい旋律がヴァイオリン教室を響かせている。
乃亜はその最後の一音を、気を抜くことなく、弾き終えたところでようやく目を開けた。
「エクセレント!素晴らしいわね」
「ありがとうございます」
水野は大変満足げにピアノの前で笑う。
乃亜ははにかみながらその賞賛を受けた。
「いよいよ明日ね。
今回の曲は、静と動、まさに対極ともいうべき構成だから
心身ともにしっかりと自分を律しないといけないけれど、
逆に言えばそれが出来れば最高の組み合わせよ。
きっといい結果になるわ」
乃亜はそれにしっかりと頷く。
時間にしてみれば20分程度のものであるが、こうして連続で弾くと大変に疲労する。
今回演奏予定の2曲が、どれほど精神的に負荷がかかるかを明示していた。
コンクールの全国大会で演奏する2曲はいずれも自由曲だ。
つまり選んだのは乃亜自身。
かなり難解なものであると自覚はしているが、水野とも相談し決めたのだ。
今日は最後の練習の日。
なんとか納得できる仕上がりにまでたどり着けたことに安堵する。
時間が来たためヴァイオリンを片付けて帰り支度を進めた。
「それじゃ、明日また楽屋でね」
「はい。……あの、水野先生」
「なあに?」
ピアノの鍵盤にカバーを広げようとしていた水野が顔を上げる。
「本当に、水野先生にも私、色々ご心配をかけてしまって……」
「……」
「でも、水野先生のおかげで、ここまでこれました。
私、この教室に通えて本当に良かったです。
明日、どんな結果になるか、分かりませんが……でも、
先生が、少しでも、自慢に思えるような、演奏ができるように、頑張ります」
少し恥ずかしそうに、けれどしっかりと水野の顔をみて言う乃亜に、
水野は目の奥が熱くなった。
けれどそれは精一杯抑え込み、にこりと笑う。
「明日の結果がどうなっても、あなたは十分、私の自慢の生徒さんです。
それに、明日で終わりではないのよ?」
「そ、それは、そうなんですが……」
「ふふ、でも、ありがとう。
確かに色々心配はしたけれど、
先生が生徒の心配をするのは当たり前なんだから気にしないで。
さ、もうお帰りなさい。ゆっくり休んで、明日、頑張りましょうね」
「はい。ありがとうございました」
乃亜は頭を下げて、レッスン室を後にした。
水野はその姿を見送り、ふうと息を吐き出し、とたんじわりとにじんだ涙をぬぐう。
彼女は本当に変わったように思う。
ここに来た当初はあまりにも精神的に不安定な様子を見せて、
気が弱く、自分の意見を言うことにさえ怯えているようだった。
しかしある時を境に彼女は大きく変わった。
それは良いことばかりでなく、スランプや故障といったつらいこともあった。
それらの水野の心に深い影を落とした。
教師として生徒の負荷にまるきり気づいていなかったのだ。
正直かなり打ちのめされた。
しかし、彼女はそこからあまりにも鮮やかによみがえった。
ヴァイオリンを再開してからというのも、以前とは比べ物にならないほど、
その音色も立ち居振る舞いも雰囲気も、美しく、立派になっていた。
何があったのかは分からない。
わからないが、それでも、今や彼女は、立派なヴァイオリニストだ。
以前からあった彼女の大きな才能の片鱗。
それが花開いた今、水野は考えていることがあった。
「……そろそろ決めないといけないかしらね」
それは自分にとっては苦渋。けれど、乃亜の才能はもはや、自分の手には負えない。
彼女のためにも、決めなければならない。
一人の音楽家として、教師として。
可愛い自慢の生徒を、手放す時を。
ヴァイオリン教室を終えて、乃亜は教室の外に出た。
日が落ちてぐっと冷えた気温、冷たい風が頬を撫でる。
「乃亜」
「っ、煉矢さん……?!」
ヴァイオリン教室を出たところで声がかかり、
乃亜ははっとそちらを見た。
車の横にいた煉矢の姿に驚き駆け寄る。
「え、あの、連絡いただいてましたか?」
「送ったが、もうレッスンが始まってる時間だったと思う。
悪いな、急に」
「い、いえ……その、どうしたんですか?」
今までこういった突発的な訪問はなかった。
戸惑う乃亜に、煉矢は目を細め微笑みかける。
「どうしてもお前に会いたかった」
「え……」
「乗ってくれ。家まで送る」
「あ、は……はい」
あまりにも直球過ぎる言葉に声が詰まった。
掠れた声で言われるままに、開けられた車の助手席に乗り込む。
寒いはずの11月の風がとたんに心地よいと感じるほど、頬が熱くなった。
運転席に乗り込んだ煉矢は、間もなく車を発進させた。
車で家までは15分程度だ。
乃亜はどきどきと心臓を鳴らしながら、ちらと運転席の煉矢を見る。
先週のニックのイベントの終わり。
告げられたのは少しだけ時間が欲しいと告げた自分へのタイムリミット。
それ自体は、よくはないが、まだいい。
それよりも乃亜が気になっているのは、
煉矢の様子は明らかに今までと異なっていたことだ。
なにか、追い詰められているような雰囲気を感じて。
「驚いたか?」
「それは、はい……」
「まぁ、そうだろうな。俺自身もそうだ」
「え?」
彼は一瞬だけ視線をこちらに向ける。
横顔からはなにか自嘲気味の笑みが浮かんでいた。
「迷惑かもとは思ったが」
「いえ!……そんなこと、ないです」
それは強く否定したい。
どんな形でも、こうして会いに来てくれたことに嬉しくならないはずはない。
乃亜は思わず声を張り上げてたことに少し恥ずかしさを感じつつ、
湧き上がる思いのまま口にした。
「会えて、嬉しいです……」
「……そうか」
途端、車内の空気があたたかなものに変わる。
彼が何を考え、どんなことを思っているのかは分からない。
乃亜にわかるのは、こうして会いに来てくれたと言う事実だけだ。
瞬く間に自宅のマンションが見えてきてしまった。
短い逢瀬は終わり。
少し残念だが、仕方ない話である。
車が止まり、乃亜はシートベルトを外した。
「煉矢さん、ありがとうございました」
「乃亜」
名を呼ばれ助手席のドアを開けようとしていた手を止め、振り向く。
彼は乃亜の手を取り、その手のひらに小さな小箱を乗せた。
ピローボックスと呼ばれるそれには、赤いリボンのシールが張られ、
明らかにギフト用のものであることがわかる。
「え……?」
「開けてみてくれ」
戸惑い煉矢の顔を見ると、彼は笑っている。
開けるように促され、それに従い蓋となっている部分のシールを外して押し開き、
梱包材に包まれたそれを指先で取り出した。
梱包材を丁寧に開くと全容が見えた。
銀の蔓のような装飾に白い薔薇があしらわれたイアリングだった。
更に薔薇には、青い蝶が止まっている。
指先で留め具部分を掴むと、人差し指の爪ほどの大きさの薔薇のチャームが、青い蝶とともに揺れた。
「明日、また、つけてくれないか?」
はっとして振りむく。
青に、薔薇に、銀。
明らかに、明日身に着けるドレスを意識した意匠だ。
その美しいデザインもさることながら、込められた思いが嬉しかった。
「また」と彼は言った。
前回のコンクールで、彼から貰ったイアリングをつけていたことに気付いていたのだ。
とんでもなく大きな、お守りを貰った気分だ。
「……はい、必ず」
それを抱き込み強く乃亜は頷いた。
【11月26日】
都心にあるとある音楽ホールの入り口に、乃亜は一人立っていた。
休日にしては早めの時間。
人の往来はまばらで、吹く風は冷たく思わず身がすくむ。
道路沿いに開かれた真新しい外観、隣接した公園からは、
地元の人が犬の散歩やジョギングなどのため出てきているが、駅前に比べればいくらも人は少ない。
背中に担いだヴァイオリンケースの重みがずしりと感じられ、
肩には貴重品や楽譜をしまった白い合皮のトートバッグ。
更に両手に持つ黒のガーメントバック。
かなり大荷物だが、静がここまで車で送ってくれたことでかなり楽をさせてもらった。
静とは一度別れた。
自分の出番は午後。それに合わせてましろや煉矢と共に来ると言ってくれた。
薄青の雲一つない空が広がっている。
冷たい風を浴びながら一人立ちすくみ、会場を見上げるのは、心細さはどうしてもある。
けれど、怖くはない。
静やましろ、なにより、煉矢の存在が、心に確かにある。
乃亜足を踏み出した。
その視線はまっすぐに、会場の中を見ていた。
全国大会の参加者は20名。
規模としては大きく、開始は10時からだが終わるのは夜になる。
その間、譜面を確認したり、休憩をとったり、
他の出演者をモニターで見たりと行った具合で時間をつぶす必要がある。
尚、音を出しての練習は禁止らしい。
午前と午後10名ずつ割り振られ、完全に抽選で決められた乃亜の出番は午後の部の3番目。
お昼休憩明けの第一部に割り当てられている。
受付を済ませ、乃亜は地下の楽屋に案内された。
かなり広い会場だが、出入りしてよい場所や部屋の名前などは
明確に随所に掲示されており、道に迷うような心配はなさそうだ。
出場準備については一時間前にスタッフが声をかけるそうだが、
お昼休憩終わりには支度をすませて置いてほしいと言われた。
楽屋の外には軽食やペットボトルの水などが並べられていた。
出演者は自分の出番に関わらずほぼ1日をここで過ごすことになる。
途中昼食に出ることも出来ないための処置である。
スタッフに置いてあるものは楽屋内で好きに飲食してよいと言われた。
楽屋は3名で使うようだ。
更衣室が一つ置かれ、部屋は簡易的に仕切りが作られていた。
自身の名前がかかれた楽屋の一角に荷物を置く。
小さなセキュリティボックスもおかれており、
貴重品はそこにしまうようにとの指示を思い出した。
席に腰掛け、カウンターテーブルに置かれた鏡に映る自分をみた。
不安そうだなと乃亜は自嘲する。
どうしたって不安で心配は消えない。
本当にやるべきことをすべてやれただろうか。
なにか意図しないトラブルが起きるかもしれない。
ヴァイオリンの状態は万全といえるか。
途中、頭が真っ白になって弾けなくなるかも。
考え出したらきりがない。
乃亜は首元に揺れるペンダントに触れた。
モカブラウンのニットの上、薄水色の石が揺れている。
___煉矢さん……私に、勇気をください。
彼から感じる想いを思い返し、
震える手で、ペンダントを握りこんだ。
ざわめきが静かに広がっているホール。
午前10:00から開始された全日本ユースクラシックコンクール、
ヴァイオリン部門高校生の部、全国大会。
午前中のから昼過ぎにかけて、出場者の半分である10名が出番を終え、
遅めの昼休憩をはさみ、間もなく午後の部が開始される。
出場者の関係者席として、静たちが案内されたのは二階席の端の席だった。
一列だけならんだ端の席は、少し遠いが出場者の姿はよく見える。
乃亜の出番は午後の部の三番目。
もう間もなく出番である。
ブロック予本選とは明らかに空気感が異なっている。
緊張感もさることながら、プロの音楽家も多数見に来ているらしく
ホワイエでは威厳を感じさせる人物らが
出演した若き演奏家たちについてあれこれと話しているのを聞いた。
果たして彼らの目に、乃亜はどう映るのか。
見守っている自分たちこそなにか緊張を感じる。
「広い会場だね」
ましろがぽつりとつぶやいた。
静はそれに短く同意する。
「こんなところで乃亜、演奏するんだから、すごいよね」
「全くだな……。妹ながら、大したものだと思う」
「心配?」
「全くしていない、とは言わないが……」
数年前、それこそ共に暮らし始めた頃であれば、
おそらく心配で胃がつぶれていたように思う。
しかし、今の、ヴァイオリンときちんと向き合い初めた乃亜ならば。
「ヴァイオリンを弾くために立つんだ。
それなら、きっと大丈夫だ」
静は笑みを浮かべたまま、ステージを見つめる。
ましろはそれに目を細めた。
二人の会話を横で聞きながら、煉矢もまた、静に同意していた。
だが二人とは違う、また別の思いもある。
乃亜は果たして、このステージから、どこまで飛び立つのか。
そういった身勝手な思いだ。
このコンクールが終わったら。
以前乃亜へと告げた言葉。
コンクールが終わったら、その手を取ってもいいだろうか。
しかしそれは、果たして彼女の為になるのか。
今だ答えの出ないそれに、煉矢が内心苦く思っている中、
ついに午後の部開始のアナウンスが響いた。
「斉王さん、間もなくです。
移動お願いします」
「はい」
乃亜は楽屋の席から立ち上がる。
オリエンタルブルーと呼ばれる深い海を思わせる青のドレス。
その腰に咲く銀の薔薇が一層の高貴さを感じさせる。
銀髪の細い髪は特に結ぶことなくそのままだ。
耳に輝く銀の薔薇のイアリングが歩くたびに揺れている。
手に持つのはヴァイオリンのみ。
今にも震えそうな足を必死に動かし、ステージ脇へと移動を終える。
ひとつ前の演奏者がヴァイオリンを奏でている。
それをどこか遠くに聞きながら、乃亜は待機用の椅子に腰かけていた。
すぐ隣には伴奏を務めてくれる水野がいる。
彼女は乃亜を励ますように、両肩にそのあたたかな手を置いてくれていた。
「大丈夫、あなたなら、絶対」
「はい。ありがとうございます」
小さく告げた励ましに、乃亜は頷く。
大丈夫。きっと。
耳に揺れるイアリング。
会場で見ていてくれる最愛の兄、信頼する友人、そして。
もう一度乃亜は煉矢の名前を心で呼ぶ。
やがて、ひとつ前の演奏者が終わり、立ち上がる。
どこか晴れやかな様子でステージを後にしたその奏者に
軽く会釈をしてすれ違い、乃亜はステージを見る。
「続きまして、関東地区、斉王乃亜さん」
自分の名前を呼ぶアナウンス。
乃亜はかつて、遠い世界だと感じていたそのステージに、向かった。
0
あなたにおすすめの小説
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
【書籍化決定】アシュリーの願いごと
ましろ
恋愛
「まあ、本当に?」
もしかして。そう思うことはありました。
でも、まさか本当だっただなんて。
「…それならもう我慢する必要は無いわね?」
嫁いでから6年。まるで修道女が神に使えるが如くこの家に尽くしてきました。
すべては家の為であり、夫の為であり、義母の為でありました。
愛する息子すら後継者として育てるからと産まれてすぐにとりあげられてしまいました。
「でも、もう変わらなくてはね」
この事を知ったからにはもう何も我慢するつもりはありません。
だって。私には願いがあるのだから。
✻基本ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
✻1/19、タグを2つ追加しました
✻1/27、短編から長編に変更しました
✻2/2、タグを変更しました
召喚とか聖女とか、どうでもいいけど人の都合考えたことある?
浅海 景
恋愛
水谷 瑛莉桂(みずたに えりか)の目標は堅実な人生を送ること。その一歩となる社会人生活を踏み出した途端に異世界に召喚されてしまう。召喚成功に湧く周囲をよそに瑛莉桂は思った。
「聖女とか絶対ブラックだろう!断固拒否させてもらうから!」
ナルシストな王太子や欲深い神官長、腹黒騎士などを相手に主人公が幸せを勝ち取るため奮闘する物語です。
強い祝福が原因だった
棗
恋愛
大魔法使いと呼ばれる父と前公爵夫人である母の不貞により生まれた令嬢エイレーネー。
父を憎む義父や義父に同調する使用人達から冷遇されながらも、エイレーネーにしか姿が見えないうさぎのイヴのお陰で孤独にはならずに済んでいた。
大魔法使いを王国に留めておきたい王家の思惑により、王弟を父に持つソレイユ公爵家の公子ラウルと婚約関係にある。しかし、彼が愛情に満ち、優しく笑い合うのは義父の娘ガブリエルで。
愛される未来がないのなら、全てを捨てて実父の許へ行くと決意した。
※「殿下が好きなのは私だった」と同じ世界観となりますが此方の話を読まなくても大丈夫です。
※なろうさんにも公開しています。
君に恋していいですか?
櫻井音衣
恋愛
卯月 薫、30歳。
仕事の出来すぎる女。
大食いで大酒飲みでヘビースモーカー。
女としての自信、全くなし。
過去の社内恋愛の苦い経験から、
もう二度と恋愛はしないと決めている。
そんな薫に近付く、同期の笠松 志信。
志信に惹かれて行く気持ちを否定して
『同期以上の事は期待しないで』と
志信を突き放す薫の前に、
かつての恋人・浩樹が現れて……。
こんな社内恋愛は、アリですか?
地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定
妾に恋をした
はなまる
恋愛
ミーシャは22歳の子爵令嬢。でも結婚歴がある。夫との結婚生活は半年。おまけに相手は子持ちの再婚。 そして前妻を愛するあまり不能だった。実家に出戻って来たミーシャは再婚も考えたが何しろ子爵領は超貧乏、それに弟と妹の学費もかさむ。ある日妾の応募を目にしてこれだと思ってしまう。
早速面接に行って経験者だと思われて採用決定。
実際は純潔の乙女なのだがそこは何とかなるだろうと。
だが実際のお相手ネイトは妻とうまくいっておらずその日のうちに純潔を散らされる。ネイトはそれを知って狼狽える。そしてミーシャに好意を寄せてしまい話はおかしな方向に動き始める。
ミーシャは無事ミッションを成せるのか?
それとも玉砕されて追い出されるのか?
ネイトの恋心はどうなってしまうのか?
カオスなガストン侯爵家は一体どうなるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる