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風の行方編
【風の行方編】76:xx17年11月26日
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次の出場者の名前が告げられ、再び会場内は静まり返った。
ステージ脇から登場したのは美しいブルーのドレスを着た少女、否、女性。
肩より少し長い程度の銀髪を揺らし、ステージ中央に立つ姿は、まるでどこかの姫君だ。
しかし外見に息を飲んだのはわずかな観衆のみ。
ここに集うほとんどは、クラシックという音楽そのものを深く愛し、
新しい才能、音楽を求める、貪欲で好奇心旺盛な音楽家たちだ。
「演奏曲、ベートーヴェン、『ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調クロイツェル、 第一楽章』。
ヴァヴィロフ、『カッチーニのアヴェ・マリア』」
それを聞いた音楽家たちの何名かが興味深そうに笑みを浮かべた。
前者の曲は情熱的で、ピアノとヴァイオリンの対決とさえ称されるほどの激しさのある曲だ。
そして後者はそれとは対照的。荘厳にて静謐なメロディ。
まさに静と動。
それを自由曲に選ぶという胆力に感心し、
また同時に、それを立て続けに弾ききれるのかという疑惑もあった。
ステージに立つのは儚ささえ感じられる華奢な女性。
果たしてどうなるのかという興味に会場内は包まれる。
女性は伴奏者へと視線を向ける。準備が出来た様子で頷く。
ヴァイオリンを構えた。
【ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調クロイツェル、 第一楽章】
優美なヴァイオリンの旋律。
その一応は急速にこちらの魂を引き込むかのような引力を感じさせる。
道端に咲いた花、瓦礫に咲く花、断崖に咲く花。
ささやかな美しいものを愛でるように撫でていく風が吹きこまれる。
その風の行く先、海原を走る風は、穏やかな海に波を起こしていく。
しぶきを上げ、潮を巻き上げ、波は激しく、
そして風はそれらを時に翻弄し、時に力強く押し出し強め、時に押しつぶそうとさえする。
母なる海は、風のからかいを時に受け流し、時に受け入れ、時に押し負けそうになる。
そうして二つの要素は絡み合い、大きな波風となり一体化していく。
海である伴奏者、風であるヴァイオリン。
二つは互いに決して手を抜かず、互いの力を持てる限りにぶつかり合っている。
ややもすると風のほうが強いかもしれない。
強い風は波をさらに大きくさせ、しかし耐えきれず白波となり崩れる。
風は海を残してさらなる空へ、次なる陸地へと旅立っていく。
水面に波紋を描くように飛び跳ねながら、うねりを残して立ち去り、
海はただ残され、白波をゆらし、やがて静かな表情へと戻る。
旅立った風を見送り、いつかの帰還を心待ちにするように、
名残のように砂浜を走るわずかな波が、誰かの残した文字をかき消した。
銀髪の女性の奏でたクロイツェルはその外見からは想像もできないほどに力強く
多くの観客が驚きと共に大きく拍手をして讃えた。
風と海の競演かのような力強い雄大さをその演奏に見たものは少なくない。
まるで風が生きているかのような錯覚さえ感じたのだ。
女性はひとつ息を吐き出し気持ちを切り替えるような様子を見せた。
これほどに力強く、情熱的で、戦いの中にあるような演奏をしたのだ。
つづく、アヴェ・マリアへ、どうつながるのかと、
音楽家たちは前のめりで期待を込める。
女性は改めて伴奏者へと視線を向ける。
そしてヴァイオリンを再び構えた。
優美なピアノにて始まる。
そして重なるヴァイオリンの音色。
先ほどもそうだが、最初の一音で奏者の世界へと引き込む力が余りにも強い。
その美しさに、目元が熱くなる。
美しいなどという言葉での表現さえ、どこか傲慢。
そこから感じられるのは、あらゆるものへの祈りと祝福。
愛する者との生活、
友人との安らぎの時間、
愛しいひとのてのひら。
だが美しいものばかりではない。
胸をかき乱すような苦しさ、
消し去りたいほどの苦痛の記憶、
失いたくない愛。
生きている。
生きているということはそういうことなのだ。
生きているということへの祝福が、響き渡っている。
それらが荘厳なヴァイオリンに重なり、
聴いているものの心を深く深く穿っていく。
僅かな余韻、ピアノの音。
曲は終わる、終わってしまった。
ステージ上の女性は深く礼をし、それにより会場中が大きな拍手に包まれた。
フラつきそうになる足取りを必死に抑え込んで、
乃亜は何とか楽屋までたどり着いていた。
自分のブースへと戻り、水野と共にぐったりと椅子に腰かけた。
普段の練習とは違う多くの観客が見ている前でのあの二曲は心底疲れた。
全身の力と言う力が抜け、持ったままだったヴァイオリンを机に置き、
そのまま突っ伏した。
「乃亜さん、大丈夫?」
「は……はい……」
絞り出すだけで精一杯だ。一つも大丈夫ではない。
それほどまでにエネルギーを一気に消耗したような気がする。
乃亜はなんとか身体を起こして、ヴァイオリンをケースへと戻す。
一つ一つの動きが自分でもわかるほどに遅い。
「素晴らしい演奏だったわ。
練習よりもずっとずっと」
「な、なら……よかったです……」
「自分ではそう思ってない?」
「いえ、ただ、その、夢中で……ミスは、してないと、思いますが……」
「あなたらしいわね。
あとは結果発表だけだし、ゆっくりおやすみなさい。私もそうするから」
「はい……」
乃亜は深く息を吐き出して自分の演奏を思い返す。
今話したように、技巧的なミスは犯していない。
ただひたすら夢中だった。自分の感じるまま、思うままに演奏した。
それが果たしてうまくいったのか、どう感じ取られているのかは分からない。
乃亜はテーブルに置いたままのペットボトルから水を飲む。
ひどく喉が渇いている気がする。
加えてかなり空腹だ。
昼食時間は食事が喉を通らなかった。
すべてを終えて、心身ともにエネルギーを使い切ったからだろう。
結果発表まではまだ3時間以上ある。
少し何かを食べてもよさそうだと考えながら、乃亜は耳の揺れを意識した。
白い薔薇のイアリングを指先で触れる。
___煉矢さん……私は、あなたの隣にいてもいい、そんな人に……なれてましたか?
今は隣にいない愛する人に、心の中で呼びかけた。
17:50。
すべてのプログラムが終わり、ついに結果発表の時間となった。
乃亜はスタッフに呼ばれ、ステージのほうへと向かう。
ステージ上ではすでに司会担当が結果発表のプログラムを進めている。
大会委員長の挨拶が終わり、続いて出場者の入場となった。
乃亜を含めた20名がステージの上へと移動する。
並びは演奏した順となり、乃亜はほぼ中央に近い位置に並んでいる。
他の演奏者は皆、疲れた顔ながらも堂々としているように見えた。
ヴァイオリンがない状態でこのようなステージに上がるのはひどく心細い。
前で組む両手に力がこもる。
「それでは審査委員長の横田様より本大会の総評となります」
壇上へと上がってきた恰幅の良い男性は短い白髪を撫でつけ、
司会者からマイクを受け取った。
横田と名乗った男性は東京都内を拠点とする、とあるオーケストラ団体の代表だ。
指揮者として様々な公演実績もある有名な人物であり、
この大会で1位を受賞した演奏者に、彼のオーケストラとの共演という副賞があったはず。
彼は総評として、大会の演奏レベルが年々上がり
今回も大変に素晴らしい演奏ばかりだったと強く賞賛した。
更に演目の多様性などをうたい、大変聴きごたえのある大会であったとも。
緊張しながらそれらを聞き、やがて彼の総評は拍手とともに終わった。
彼はステージの端に下がる。
「ありがとうございました。
では、これより、全日本ユースクラシック音楽コンクール、
ヴァイオリン部門、高校生の部、審査結果の発表に移りたいと思います」
いよいよである。
自分を含め、周囲に並ぶ出場者の表情が引き締まった。
ステージの端にはテーブルが置かれ、
そこにはいくつものメダルや盾、花束が置かれている。
「本大会では、若き才能へ一つでも多くの経験を
積んでもらうことも目的としております。
そのため、重複しての受賞はございません。
また、上位1位から5位を受賞された方につきましては、
来月開催予定のガラコンサートに出演いただきます」
司会者は手元の紙を開きなおした。
「ではまず、区長賞の発表です。
本大会開催地である、渋谷区は若者の街として有名ですが、
昨今それだけではなく、サブカルチャーやエンターテイメントをはじめとした、
日本の新しい文化の発信地として注目されております。
そういった区としてのイメージに見合った演奏を行った演奏者へ贈られる賞となります。
それでは、発表いたします」
一呼吸置く。
審査員はマイクを構えた。
「中部ブロック代表、田島 美幸さん!
おめでとうございます!
拍手が響く。
乃亜よりいくらか先に左側に並んでいた人が深く礼をした。
ふんわりとしたウェーブのかかった髪の女性はステージの中央へ向かい、
審査員長より花束と盾を渡された。
もう一度礼をし、彼女は元立っていた場所へと戻った。
「おめでとうございます。
では、続きまして、奨励賞の発表です。
この賞は、上位入賞には惜しくも届かなかったものの、
特に優れた演奏者、二名へ贈られる賞となります。
二名続けて発表させていただきます。
……、
……関東ブロック代表、結城 悠さん!
そして、近畿ブロック代表、花村 琴葉さん!
お二方ともおめでとうございます!」
関東ブロック、確かにその名前に聞き覚えがある。
二人はそれぞれその場で礼をし、拍手が響く中、前へと出た。
先ほどど同じく、審査員長が花束と盾を渡している。
乃亜も緊張を感じながら二人の栄誉を称える。
「おめでとうございます。
続きまして、審査員特別賞の発表です。
この賞は、審査基準とは別の観点にて素晴らしい演奏を披露してくださった
演奏者へ贈られる賞です。
今回につきましては、ヴァイオリンの持つ音色そのものを
最大限に高め披露した点が高く評価されました」
このコンクールではないが、以前、乃亜も同名の賞を受賞した。
あの時はなぜ自分が受賞したのか、理由をきいても理解できなかった。
思い返しても、あの時の自分が得るにはあまりにも出来すぎだったと思う。
「発表いたします。
……、九州沖縄ブロック代表、朝倉 日向さん!
おめでとうございます!」
乃亜の隣に立っていた女性が息を飲み深く礼をした。
彼女は他のひとより一層深く腰を折り、やがて前に出た。
審査員長から渡される花束と盾を、
泣きそうな笑顔で大切そうに受け取り、抱き締め、こちらに戻って来る。
それを見て、乃亜はやはり、以前の自分にもらう資格はなかったな、と小さく自嘲した。
演奏面というよりも、覚悟も思い入れも何もかもなかったと思うのだ。
しかし今はどうだろうか。
「おめでとうございます。
それではこれより、上位5名の発表を行います」
あのころに比べれば、少しは、なにかを得る資格や覚悟は出来ているだろうか。
「では、まず第5位の発表となります。
……、四国ブロック代表、藤原 櫂さん!おめでとうございます!」
ぱっと該当の人物のスポットライトがあたった。
ここからは上位となり演出も少し変わるらしい。
受賞者は深くその場で礼をして誇らしい笑顔でステージ中央へ大股で歩く。
審査員長は先ほどよりも一回り大きな盾と花束を渡した。
受賞者は礼をして元の位置へと戻る。
気付けば残りはもう後四枠だけだった。
乃亜はここにきてとてつもなく不安を感じ始めた。
結果を出したい。
そう思い願ってここまできた。
たったひとつの思いのためにここまで。
仮に何も得られなくても、きっと何も言われない。
けれど自分では納得できない。
自分が納得するために、
ヴァイオリンという唯一自分の力と思えるもので自信を持ちたい。
そう思ってここまで来た。
「続いて、第4位の発表です。
……、中部ブロック代表、水上 結月さん!
おめでとうございます!」
もう一方の隣人にあたるスポットライト。
乃亜はそれに唇の裏を噛み、拍手でそれをごまかした。
隣の彼女は礼をして同じように審査員長の元へ向かって行く。
花束と盾を受け取り、戻ってきた隣人は涙ぐんでいた。
両側から感じる喜びの雰囲気。
乃亜は顔に出さないように必死に前を向く。
怖い。
この会場に来てから感じなかった恐怖が湧き上がってくる。
「続いて、第3位の発表です」
ステージの明かりが消える。
どきどきと心臓が激しくたたかれる。
おねがい、と祈るしかできない。
「……、九州・沖縄ブロック代表、和泉 累さん!おめでとうございます!」
ぱっとついた反対側の位置。
駄目だった。残りは二枠。
乃亜は拍手して、必死に笑顔を取り繕う。
こうでもしないと涙が出そうだったからだ。
彼は審査員長より、銅色の盾と黄色の大きな花束を受け取っていた。
こちらに戻るために振り返った彼は顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
「続いて、第2位の発表です」
ここまで来た。
尊敬する人たちと一緒にいられる自分でいたい。
敬愛する兄の誇れる妹になりたい。
信頼する友人の力になれる友でいたい。
あの人の、
愛する人の、隣にいてもいいと思える、自分になりたい。
ステージが暗くなる。
乃亜は目を伏せ、震える肩で祈った。
「関東ブロック代表、斉王 乃亜さん!おめでとうございます!」
ぱっと明るくなった。
乃亜は息を大きく吸い込み顔を上げる。頭上から降り注ぐ光。
司会者の視線、周囲からの拍手。
唖然とする中、司会者に促され、乃亜ははっとしてステージの中央に立つ。
本当に?
自分が?
驚きながら会場に向かい深い礼をする。
どきどきと心臓がうるさい。
散々他の受賞者がしていたのを見ていてよかった。
茫然とする中でもなんとか同じような動きをすることができる。
審査員長はにこやかに微笑み、銀色の盾と共に、大きな青の花束を差し出してくれた。
それを落とさないように受け取る。
そしてもう一度会場を見る。
あの時見ていた遠い世界。
そこに今自分は立っている。
そして、あの時見たいと思った、その先の世界。
確かに、自分はそこに立っている。
乃亜は万感の思いで、もう一度深く客席に向かい礼をした。
ステージ脇から登場したのは美しいブルーのドレスを着た少女、否、女性。
肩より少し長い程度の銀髪を揺らし、ステージ中央に立つ姿は、まるでどこかの姫君だ。
しかし外見に息を飲んだのはわずかな観衆のみ。
ここに集うほとんどは、クラシックという音楽そのものを深く愛し、
新しい才能、音楽を求める、貪欲で好奇心旺盛な音楽家たちだ。
「演奏曲、ベートーヴェン、『ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調クロイツェル、 第一楽章』。
ヴァヴィロフ、『カッチーニのアヴェ・マリア』」
それを聞いた音楽家たちの何名かが興味深そうに笑みを浮かべた。
前者の曲は情熱的で、ピアノとヴァイオリンの対決とさえ称されるほどの激しさのある曲だ。
そして後者はそれとは対照的。荘厳にて静謐なメロディ。
まさに静と動。
それを自由曲に選ぶという胆力に感心し、
また同時に、それを立て続けに弾ききれるのかという疑惑もあった。
ステージに立つのは儚ささえ感じられる華奢な女性。
果たしてどうなるのかという興味に会場内は包まれる。
女性は伴奏者へと視線を向ける。準備が出来た様子で頷く。
ヴァイオリンを構えた。
【ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第9番 イ長調クロイツェル、 第一楽章】
優美なヴァイオリンの旋律。
その一応は急速にこちらの魂を引き込むかのような引力を感じさせる。
道端に咲いた花、瓦礫に咲く花、断崖に咲く花。
ささやかな美しいものを愛でるように撫でていく風が吹きこまれる。
その風の行く先、海原を走る風は、穏やかな海に波を起こしていく。
しぶきを上げ、潮を巻き上げ、波は激しく、
そして風はそれらを時に翻弄し、時に力強く押し出し強め、時に押しつぶそうとさえする。
母なる海は、風のからかいを時に受け流し、時に受け入れ、時に押し負けそうになる。
そうして二つの要素は絡み合い、大きな波風となり一体化していく。
海である伴奏者、風であるヴァイオリン。
二つは互いに決して手を抜かず、互いの力を持てる限りにぶつかり合っている。
ややもすると風のほうが強いかもしれない。
強い風は波をさらに大きくさせ、しかし耐えきれず白波となり崩れる。
風は海を残してさらなる空へ、次なる陸地へと旅立っていく。
水面に波紋を描くように飛び跳ねながら、うねりを残して立ち去り、
海はただ残され、白波をゆらし、やがて静かな表情へと戻る。
旅立った風を見送り、いつかの帰還を心待ちにするように、
名残のように砂浜を走るわずかな波が、誰かの残した文字をかき消した。
銀髪の女性の奏でたクロイツェルはその外見からは想像もできないほどに力強く
多くの観客が驚きと共に大きく拍手をして讃えた。
風と海の競演かのような力強い雄大さをその演奏に見たものは少なくない。
まるで風が生きているかのような錯覚さえ感じたのだ。
女性はひとつ息を吐き出し気持ちを切り替えるような様子を見せた。
これほどに力強く、情熱的で、戦いの中にあるような演奏をしたのだ。
つづく、アヴェ・マリアへ、どうつながるのかと、
音楽家たちは前のめりで期待を込める。
女性は改めて伴奏者へと視線を向ける。
そしてヴァイオリンを再び構えた。
優美なピアノにて始まる。
そして重なるヴァイオリンの音色。
先ほどもそうだが、最初の一音で奏者の世界へと引き込む力が余りにも強い。
その美しさに、目元が熱くなる。
美しいなどという言葉での表現さえ、どこか傲慢。
そこから感じられるのは、あらゆるものへの祈りと祝福。
愛する者との生活、
友人との安らぎの時間、
愛しいひとのてのひら。
だが美しいものばかりではない。
胸をかき乱すような苦しさ、
消し去りたいほどの苦痛の記憶、
失いたくない愛。
生きている。
生きているということはそういうことなのだ。
生きているということへの祝福が、響き渡っている。
それらが荘厳なヴァイオリンに重なり、
聴いているものの心を深く深く穿っていく。
僅かな余韻、ピアノの音。
曲は終わる、終わってしまった。
ステージ上の女性は深く礼をし、それにより会場中が大きな拍手に包まれた。
フラつきそうになる足取りを必死に抑え込んで、
乃亜は何とか楽屋までたどり着いていた。
自分のブースへと戻り、水野と共にぐったりと椅子に腰かけた。
普段の練習とは違う多くの観客が見ている前でのあの二曲は心底疲れた。
全身の力と言う力が抜け、持ったままだったヴァイオリンを机に置き、
そのまま突っ伏した。
「乃亜さん、大丈夫?」
「は……はい……」
絞り出すだけで精一杯だ。一つも大丈夫ではない。
それほどまでにエネルギーを一気に消耗したような気がする。
乃亜はなんとか身体を起こして、ヴァイオリンをケースへと戻す。
一つ一つの動きが自分でもわかるほどに遅い。
「素晴らしい演奏だったわ。
練習よりもずっとずっと」
「な、なら……よかったです……」
「自分ではそう思ってない?」
「いえ、ただ、その、夢中で……ミスは、してないと、思いますが……」
「あなたらしいわね。
あとは結果発表だけだし、ゆっくりおやすみなさい。私もそうするから」
「はい……」
乃亜は深く息を吐き出して自分の演奏を思い返す。
今話したように、技巧的なミスは犯していない。
ただひたすら夢中だった。自分の感じるまま、思うままに演奏した。
それが果たしてうまくいったのか、どう感じ取られているのかは分からない。
乃亜はテーブルに置いたままのペットボトルから水を飲む。
ひどく喉が渇いている気がする。
加えてかなり空腹だ。
昼食時間は食事が喉を通らなかった。
すべてを終えて、心身ともにエネルギーを使い切ったからだろう。
結果発表まではまだ3時間以上ある。
少し何かを食べてもよさそうだと考えながら、乃亜は耳の揺れを意識した。
白い薔薇のイアリングを指先で触れる。
___煉矢さん……私は、あなたの隣にいてもいい、そんな人に……なれてましたか?
今は隣にいない愛する人に、心の中で呼びかけた。
17:50。
すべてのプログラムが終わり、ついに結果発表の時間となった。
乃亜はスタッフに呼ばれ、ステージのほうへと向かう。
ステージ上ではすでに司会担当が結果発表のプログラムを進めている。
大会委員長の挨拶が終わり、続いて出場者の入場となった。
乃亜を含めた20名がステージの上へと移動する。
並びは演奏した順となり、乃亜はほぼ中央に近い位置に並んでいる。
他の演奏者は皆、疲れた顔ながらも堂々としているように見えた。
ヴァイオリンがない状態でこのようなステージに上がるのはひどく心細い。
前で組む両手に力がこもる。
「それでは審査委員長の横田様より本大会の総評となります」
壇上へと上がってきた恰幅の良い男性は短い白髪を撫でつけ、
司会者からマイクを受け取った。
横田と名乗った男性は東京都内を拠点とする、とあるオーケストラ団体の代表だ。
指揮者として様々な公演実績もある有名な人物であり、
この大会で1位を受賞した演奏者に、彼のオーケストラとの共演という副賞があったはず。
彼は総評として、大会の演奏レベルが年々上がり
今回も大変に素晴らしい演奏ばかりだったと強く賞賛した。
更に演目の多様性などをうたい、大変聴きごたえのある大会であったとも。
緊張しながらそれらを聞き、やがて彼の総評は拍手とともに終わった。
彼はステージの端に下がる。
「ありがとうございました。
では、これより、全日本ユースクラシック音楽コンクール、
ヴァイオリン部門、高校生の部、審査結果の発表に移りたいと思います」
いよいよである。
自分を含め、周囲に並ぶ出場者の表情が引き締まった。
ステージの端にはテーブルが置かれ、
そこにはいくつものメダルや盾、花束が置かれている。
「本大会では、若き才能へ一つでも多くの経験を
積んでもらうことも目的としております。
そのため、重複しての受賞はございません。
また、上位1位から5位を受賞された方につきましては、
来月開催予定のガラコンサートに出演いただきます」
司会者は手元の紙を開きなおした。
「ではまず、区長賞の発表です。
本大会開催地である、渋谷区は若者の街として有名ですが、
昨今それだけではなく、サブカルチャーやエンターテイメントをはじめとした、
日本の新しい文化の発信地として注目されております。
そういった区としてのイメージに見合った演奏を行った演奏者へ贈られる賞となります。
それでは、発表いたします」
一呼吸置く。
審査員はマイクを構えた。
「中部ブロック代表、田島 美幸さん!
おめでとうございます!
拍手が響く。
乃亜よりいくらか先に左側に並んでいた人が深く礼をした。
ふんわりとしたウェーブのかかった髪の女性はステージの中央へ向かい、
審査員長より花束と盾を渡された。
もう一度礼をし、彼女は元立っていた場所へと戻った。
「おめでとうございます。
では、続きまして、奨励賞の発表です。
この賞は、上位入賞には惜しくも届かなかったものの、
特に優れた演奏者、二名へ贈られる賞となります。
二名続けて発表させていただきます。
……、
……関東ブロック代表、結城 悠さん!
そして、近畿ブロック代表、花村 琴葉さん!
お二方ともおめでとうございます!」
関東ブロック、確かにその名前に聞き覚えがある。
二人はそれぞれその場で礼をし、拍手が響く中、前へと出た。
先ほどど同じく、審査員長が花束と盾を渡している。
乃亜も緊張を感じながら二人の栄誉を称える。
「おめでとうございます。
続きまして、審査員特別賞の発表です。
この賞は、審査基準とは別の観点にて素晴らしい演奏を披露してくださった
演奏者へ贈られる賞です。
今回につきましては、ヴァイオリンの持つ音色そのものを
最大限に高め披露した点が高く評価されました」
このコンクールではないが、以前、乃亜も同名の賞を受賞した。
あの時はなぜ自分が受賞したのか、理由をきいても理解できなかった。
思い返しても、あの時の自分が得るにはあまりにも出来すぎだったと思う。
「発表いたします。
……、九州沖縄ブロック代表、朝倉 日向さん!
おめでとうございます!」
乃亜の隣に立っていた女性が息を飲み深く礼をした。
彼女は他のひとより一層深く腰を折り、やがて前に出た。
審査員長から渡される花束と盾を、
泣きそうな笑顔で大切そうに受け取り、抱き締め、こちらに戻って来る。
それを見て、乃亜はやはり、以前の自分にもらう資格はなかったな、と小さく自嘲した。
演奏面というよりも、覚悟も思い入れも何もかもなかったと思うのだ。
しかし今はどうだろうか。
「おめでとうございます。
それではこれより、上位5名の発表を行います」
あのころに比べれば、少しは、なにかを得る資格や覚悟は出来ているだろうか。
「では、まず第5位の発表となります。
……、四国ブロック代表、藤原 櫂さん!おめでとうございます!」
ぱっと該当の人物のスポットライトがあたった。
ここからは上位となり演出も少し変わるらしい。
受賞者は深くその場で礼をして誇らしい笑顔でステージ中央へ大股で歩く。
審査員長は先ほどよりも一回り大きな盾と花束を渡した。
受賞者は礼をして元の位置へと戻る。
気付けば残りはもう後四枠だけだった。
乃亜はここにきてとてつもなく不安を感じ始めた。
結果を出したい。
そう思い願ってここまできた。
たったひとつの思いのためにここまで。
仮に何も得られなくても、きっと何も言われない。
けれど自分では納得できない。
自分が納得するために、
ヴァイオリンという唯一自分の力と思えるもので自信を持ちたい。
そう思ってここまで来た。
「続いて、第4位の発表です。
……、中部ブロック代表、水上 結月さん!
おめでとうございます!」
もう一方の隣人にあたるスポットライト。
乃亜はそれに唇の裏を噛み、拍手でそれをごまかした。
隣の彼女は礼をして同じように審査員長の元へ向かって行く。
花束と盾を受け取り、戻ってきた隣人は涙ぐんでいた。
両側から感じる喜びの雰囲気。
乃亜は顔に出さないように必死に前を向く。
怖い。
この会場に来てから感じなかった恐怖が湧き上がってくる。
「続いて、第3位の発表です」
ステージの明かりが消える。
どきどきと心臓が激しくたたかれる。
おねがい、と祈るしかできない。
「……、九州・沖縄ブロック代表、和泉 累さん!おめでとうございます!」
ぱっとついた反対側の位置。
駄目だった。残りは二枠。
乃亜は拍手して、必死に笑顔を取り繕う。
こうでもしないと涙が出そうだったからだ。
彼は審査員長より、銅色の盾と黄色の大きな花束を受け取っていた。
こちらに戻るために振り返った彼は顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
「続いて、第2位の発表です」
ここまで来た。
尊敬する人たちと一緒にいられる自分でいたい。
敬愛する兄の誇れる妹になりたい。
信頼する友人の力になれる友でいたい。
あの人の、
愛する人の、隣にいてもいいと思える、自分になりたい。
ステージが暗くなる。
乃亜は目を伏せ、震える肩で祈った。
「関東ブロック代表、斉王 乃亜さん!おめでとうございます!」
ぱっと明るくなった。
乃亜は息を大きく吸い込み顔を上げる。頭上から降り注ぐ光。
司会者の視線、周囲からの拍手。
唖然とする中、司会者に促され、乃亜ははっとしてステージの中央に立つ。
本当に?
自分が?
驚きながら会場に向かい深い礼をする。
どきどきと心臓がうるさい。
散々他の受賞者がしていたのを見ていてよかった。
茫然とする中でもなんとか同じような動きをすることができる。
審査員長はにこやかに微笑み、銀色の盾と共に、大きな青の花束を差し出してくれた。
それを落とさないように受け取る。
そしてもう一度会場を見る。
あの時見ていた遠い世界。
そこに今自分は立っている。
そして、あの時見たいと思った、その先の世界。
確かに、自分はそこに立っている。
乃亜は万感の思いで、もう一度深く客席に向かい礼をした。
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