金20時更新「人生は彼女の物語のなかに」生真面目JKの魂が異世界の絶世の美人王女の肉体に?!運命の恋?逆ハーレム?それどころじゃありません!

なずみ智子

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第4章

ー12ー サミュエル・メイナード・ヘルキャット(4)

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 出港前夜の第二の襲撃者、サミュエル・メイナード・ヘルキャットによる妖しい薬。
 両の手足に走る肉離れのような激痛、そして眩暈と軽い吐き気にまで襲われたレイナたちは、黒い冷気が充満している床から立ち上がることすらできなかった。
 薬を使った張本人であり、薬が発する冷気を吸い込まないように、いち早く上昇したサミュエル以外は皆、禍々しいドライアイスのごとき黒い冷気に飲み込まれてしまったのだ。

 胃を鷲掴みにされたような不快感。レイナは喉を喘がせた。
 自分だけでなく、この妖しく禍々しい薬によって床に倒れざるを得なかった者たちの苦し気な息遣いと呻き声がやけに大きく耳に響いてくる。
 そのうえ、サミュエルが魔術によって生じさせた炎がこの宿をグルリと取り囲み、自分たちを蒸し焼きにしようとしている熱気が冷気に混じり合い近づいてきている――

 肉体の痛みに伴い、残酷な死の恐怖までもが着火され、燃え上がっている。レイナの額には冷たい脂汗が浮かんでいた……
 サミュエル・メイナード・ヘルキャットの手によって、このままだと全員焼死か、それとも一酸化炭素中毒で――

 夜であるが、サミュエルが生じさせた紅蓮の炎によって、黒い冷気のなかにあるものの、レイナ自身のすぐ近くに倒れている者の姿は明瞭に見えていた。
 ダニエルは仰向けの状態で床へと倒れ、青白い頬をさらに青白くし、その平たい胸を苦し気に上下させていた。
 アダムにかばわれ、彼とともに床に横向きに倒れているジェニーも口元を押さえ、その愛らしい顔を苦痛に歪めていた。
 そして、アダムはその四角い顔をしかめ、嘔吐までしていた。

「……レ…イナ……さ……」
  レイナの指先に、頭頂部を向かい合わせにしたような状態で倒れているであろうミザリーの手が触れる。ミザリーまでもが、嘔吐しているらしきゴホッという音が聞こえてきた。

「!!」
 まさか――
 レイナ自身を含め、今の狭い視界に映っている限り、普通の人間であるダニエルやジェニーは苦痛に顔を歪めているも、嘔吐までの事態にはなっていない。
 だが、魔導士であるアダムやミザリーはこうして嘔吐している。ピーターがどこにいるのかはここからは分からないが、ひょっとしたら、彼もアダムたちと同じ状態にあるのかもしれない。
 このサミュエルの薬は、魔導士の力を持って産まれた人間にはより強いダメージが与えられる薬であるという可能性だってあるのだ。
 魔導士が倒れたら、燃えさかる炎に囲まれたこの場を普通の人間が切り抜けることなどは、より不可能な状況へとジリジリ近づいていく――

 炎が迫り来る。煙と熱気が、冷気と苦痛にがんじがらめにされ、動けぬ体をいぶるように……

 出港前夜。
 過去より絡み合う糸(それも複数)にとらわれ、未来から投げつけられた幾つもの破片が心に突き刺さったまま、”希望の光を運ぶ者たち”だけだなく、その傍らにいる自分たちも悪しき者たちに殺される。
 そして、この”マリア王女”の肉体を守ろうとした者(オーガスト)も、殺そうとした者(ティモシー)も皆、サミュエル・メイナード・ヘルキャットの手へと落ちていくのだ。

 けれども、レイナは気づいた。
 この禍々しい黒い冷気が漂うなか、2人の”希望の光を運ぶ者たち”が倒れることなく、サミュエルに向かって剣を構えていることに。


「おいおい……お前らみたいな奴らがいるのは、反則だろう?」
 サミュエルは、自分に厳しい敵意の視線を向け、手の内の剣を構えている2人――自分のこの魔法薬が全く効いていない2人の男を見下ろして言った。

「あなたこそ、このような薬を使うのは反則でしょう? それはご自分が先ほどおしゃったことです」
 その怒りを抑えているテノールの声には、艶があった。
 2人のうちの1人――燃えるような鮮やかな赤毛に、均整の取れた長身で、滅多にお目にかかれないような美しい男。そう、ヴィンセントという名の”例の男”を顔をサミュエルはチラリと見た。
 フランシスは、確かこの男については「ユーフェミア国を救う民の中に、普通の人間というよりは人智を越えた存在に近い彼のような存在が選ばれたのはますます面白いことですね。彼自身はその力をはっきりとは自覚しておらず、完全に使いこなせてはいないようですけど。それに、私もあなたも女性経験は豊富でございますけど、彼もなかなかのテクニシャンな気がします」と言っていたこともサミュエルは思い出した。

「……お前が何をしたんだか知らないが、まずはもとを絶たないとな」
 研ぎ澄まされた刃を思わせる、ハスキーな声。
 もう1人の男――吸い込まれるような深いグレーの瞳、瞳と同じ色をした全くうねり毛のないグレーの髪。引き締まった体躯の青年、フレデリックという名の”凍った騎士”。彼が構えている剣の刃がキラリと光を見せた。
 フランシスは、確かこの”凍った騎士”については「あなたの昔馴染であるアダムが、彼を含む7人の騎士の魂をも凍てつかせた”あの呪い”をたった数年で紐解いたのですよ。いよいよ最後の1人となった彼の番が来たとき、ネイサンがおいたをいたしまして、彼だけが中途半端な状態のまま、この世に取り残されてしまうことになったんですけど……」と感慨深そうに言っていた。
 この”凍った騎士”も、そしてフランシスにいたっても、何事もなく天寿を全うしていたら、今というこの時に生きているはずがない者である。フレディと”本来の”フランシスの誕生年は、数十年ほど離れているも、生きる時代がかぶっていたかもしれない者なのだ。

「お前ら……距離を考えろよ。お前らが、宙にこうして浮かぶことができるこの俺に届くわけないだろ。腕っぷしには多少の自信があるのかもしれねえけど、魔導士の俺と剣を構えているお前らではそもそも戦うフィールドが違う。鳥に喧嘩を売る魚もいなければ、魚に喧嘩を売る鳥もいないわけだしな。いや、鳥の中には魚を補食するのはいるな……今のこの例え話で、俺とお前ら、どっちが魚で、どっちが鳥かは分かるだろ?」
 ふう、と溜息を吐いたサミュエルは、なおも自分に向かって、敵意――いや闘志の炎を揺るがせようとしないヴィンセントとフレディに視線を落とした。

「無謀な喧嘩をこの俺に売る前に、今のうちに数人だけでも外へ運んでおいたほうがいいと思うぜ。まあ、火だるまになりながら炎の壁を突破することになるだろうけど……200年の凍てついた時間にためられた気と魂の記憶でその肉体を保っている亡霊騎士ならともかく、そっちの赤毛は普通の人間と同じく炎でダメージを負うだろうしな」
 サミュエルは、全く余裕を崩さなかった。
 花の色を思わせるような紫色の優し気な彼の瞳にも、彼自身が火を付けた燃え上がる炎は映っていた。


「……女子供でも平気で殺そうとするとはな。それに、お前が今、葬ろうとしている女子供のうちの1人は、アドリアナ王国の直系の王族の血が流れている肉体でもあるんだぞ。アドリアナ王国の民として王族を敬う気持ちはないのか!」
 下半身を黒い靄に包まれながらも、怒りで声を荒げたフレディと、彼に同調するように頷き唇を噛みしめたヴィンセントに、サミュエルは”ああ、うるせえ”と言いたげに右手の中指で耳の穴をふさぐような動作を見せた。

「悪いな。俺は、最初から愛国心なんてもんは持ち合わせてはいない。たまたま、俺が生を受けた大地がアドリアナ王国の領土だっただけだってのに。そのうえ、”マリア王女”は慈愛に満ちた王女殿下ってわけじゃなかったのは、お前らも知っているだろ。それに同じ女でも、顔だけお綺麗な王女殿下よりも、ヘレンやローズマリーの方がずっと俺たちの役に立つんでね。王女の本体がどうなろうが、俺の知ったこっちゃないさ。今の王女の”中身”もそこまでの運命だったってことだろ」
 サミュエルは、はん、と口から笑いを漏らした。
「俺はお前ら2人なんて、別にどうだっていいんだよ。ま、お前らはこうしてやる気を見せているわけだし、特別にサービスして相手になってやろうか? ……本当に残念アンド無念だな。敬うべき国王陛下直々に命を受けたってのに、出港前夜にこんな結末を迎えてよ。でもこれは、自分の実力を考えずに、この俺に喧嘩を売ったお前たちの落ち度だと冥海で存分に悔やむんだな」
 軽く舌打ちをしたサミュエルの紫色の瞳に、冷たい光がスッと宿った。
 そして、彼はゆっくりと自身の右手をすっと胸の前にかざし、身構えた。
 彼の下に広がる暗黒の冷たい海。その海の上に浮かぶ彼の姿は、翼を持たない残酷な堕天使そのものであった。



――俺はまだ、こんなところで死ねやしない……!! マリア王女のためにも……!!
 この宿の中にいる大多数の者と同じく、床に倒れ込み、全身に走る痛みをこらえ続けてるオーガストは、血が滲むほどに唇を強く噛んだ。
 精一杯の気力――いや、彼の場合は愛しい女への愛を振り絞り、愛しい”マリア王女”も倒れ込んでいるであろう方向へと顔を向けようとした。
 だが、動くのはせいぜい指先ぐらいで、腕の一本をも動かすことはできなかった。
 すぐ近くに、自分の誰よりも愛しい女を殺そうとした男――ティモシー・ロバート・ワイズも、顔を歪めて呻き声とともに荒い息を吐いていた。
 確か「娘の仇を」などと言って、”マリア王女”の肉体を傷つけ、いや殺そうとしていたこの男も自分と同じく、狡猾で陰険なサミュエル・メイナード・ヘルキャットが作り出した暗黒の海のなかで嬲られている。 

――マリア王女……!!
 おそらく、今の”マリア王女”のすぐ近くにいるのは、ウェーブがかった艶のある黒髪が印象的な根暗そうな男と、顔の骨格がやけに大づくりな女の魔導士の2人に違いない。俺があの方のすぐ近くにいれば、俺のこの身をあの方の盾にすることだってできたのに……と、オーガストの瞳は愛する者を守れぬ悔しさで潤み始めていた。

――馬鹿だった。俺は本当に馬鹿だった。よくよく考えると、ここに来るまでに、サミュエルさんは俺にヒントを小出しにしていたんだ……このワイズが狙っていた「獲物」は、あのルークとかいう奴らじゃなくて”マリア王女”だったんだ。そして、サミュエルさんが言っていた「どちらにあの者の運命は転ぶかな」という言葉のなかの”あの者”もマリア王女を指していた。やっぱり、フランシスと同じで底意地の悪い悪魔のような奴だ。中の魂は違えど、このアドリアナ王国の王族を殺そうとすることに何のためらいも見せていない。それに……今ここには、タウンゼントのじいさんの孫娘だっている。何の力も持っていない少女まで平気で焼き殺そうと……でも、絶対にあの方の肉体だけは、お守りしなければ……!! 

 自身を奮い立たせるように、目をつぶったオーガストの脳裏には、どこか天国を思わせるような花畑のなかで、天使のごときマリア王女がこの上なく美しい微笑みを浮かべている姿が映し出された。
 それは本当のマリア王女ではなく、彼が作り上げた偶像としてのマリア王女だっただろう。だが、彼女のその切ないまでに(外見だけは)美しく、輝きに満ちたその姿は、彼の愛の力をより強いものとした。
――こんなところで死んでたまるものか! 俺のこの人生はあの方のためだけにあるんだから……
 荒い息を喘がせながら、オーガストは黒い視界に覆われた宙を仰ぎ見た。前髪が吹き出る脂汗で額に張りついていた。
「!!」
 オーガストは、目の端で信じられない光景をとらえた。
 この冷たい暗黒の海のなかに下半身を浸しているも、2人の男がサミュエルに剣を向け、構えているという信じられない光景を。

――なんで、あいつら……あの赤毛で妙に自信ありげな男と、グレーの髪の感情の起伏が乏しそうな男には、サミュエルさんの薬が効いていないんだ……?! 一体、何なんだ、あいつら?!
 彼ら2人を除く者たちの苦し気な息遣いが聞こえるなか、オーガストが耳に澄ますと、彼らは何やらサミュエルと言い争っているらしかった。
 苛立たし気なサミュエルの語気と舌打ちらしきものがオーガストにも聞こえた。
 オーガストの全身のブワッと毛穴が開き、さらに鳥肌だった。
 サミュエルから発せられた殺気は、オーガストにも伝染するかのように伝わってきた。
――馬鹿だろ、あいつら……! 自分たちに注意を惹きつけておくつもりなのか? なんで、サミュエルさんを挑発しようとするんだよ?! それに、サミュエルさんも、その挑発に乗るなよ……!!

 一瞬の間。

 その直後、鋭い稲妻のごとき閃光が、ビュッという風を斬る音とともに一直線に発せられたのだ。

「!!!」
 その閃光の眩しさに、床に倒れ伏したまま動けぬレイナもオーガストも、反射的に目をつぶっていた。

 網膜にまでに焼き付くような、その鋭い閃光。
 けれども、その閃光は、上から下へ――つまりはサミュエルからヴィンセントとフレディへと発せられたものではなかった。
 下から上へと、”この冷たい暗黒の海の中から”サミュエルに向かって発せられたものであったのだ。

  その証拠に、サミュエルはわずかに顔をしかめ、彼の服の左腰部分は裂けていた。裂けた箇所から吹き出たサミュエルの血が、下に広がる冷たい暗黒の海へと滴り落ちていったのだから――
 
「おい……そこの魔導士……お前、今、自分が何したか分かってんのか? 自殺行為だろ、これはよ……」
 今の閃光の主は、魔導士ピーター・ザック・マッキンタイヤーであった。
 床にうつ伏せの体勢で倒れているピーターの唇の端からは、ねばついた胃液が滴った。
 ボサボサ頭の前髪に、彼の瞳は隠されていた。だが、彼の瞳にはきっと、悪しき魔導士に屈することなどできないという闘志が宿っているに違いなかった。
 
「ふん……この特製の魔法薬は魔導士の力を持つ人間の魂と肉体には、より強く効くようにブレンドしたんだがな。実は俺自身でテスト済だ。神人の力を手に入れている俺ですら、後々数日寝こむほどの事態になるほどのもんだぜ……ジジイと女、そして若い男のお前の3人じゃ、お前が体力的に一番動ける余地が残ってたってことか……でも、俺の心臓を狙ったつもりが外すとは非常に残念だったな」

 ピーターの渾身の一撃は、サミュエルの左腰部分を少し切り裂いただけであった。肌を切り裂かれた瞬間は痛みで顔をしかめたサミュエルであったが、まだ数刻もたっていないのに出血はすでに止まっているようであり、痛みもとうに消えているようであった。
「城お抱えの魔導士2人とはいえ、女の魔導士の方はワイズの侵入を自ら許しちまうし、男の方はこうして人生最後となる一撃を外しちまうし、つくづくツメの甘い奴らだな。だが、お前の気を練り上げるスピードといい、威力といい、まずまずだと褒めてやるさ。俺を肉体を傷つけることができただけでも上出来さ。こんな傷なんて、すぐにふさがるけどよ。でもよ、腰はやめてもらいたい。俺は耄碌ジジイの誰かさんと違って、男としてまだまだ現役なもんでね」

「そんなこと、誰も聞いちゃいませんよ」
 ヴィンセントが言い放った。ヴィンセントとフレディが、ピーターの盾になるように彼の前にザッと立った。
 今のヴィンセントの言葉に、サミュエルは片眉をピクリと動かした。


――ヴィンセントさんとフレディさんには、この変な薬は効いていないの!? それに、今の閃光を発したのはピーターさん……!?
 グワングワンと揺れ続ける視界と体の痛みに、彼らの会話の詳細まではレイナのところまでは聞こえなかった。
 だが、靄がかかっているような視界に映るフレディの横顔はいつにも増して研ぎ澄まされているようであり、普段、穏やかな顔を見せているヴィンセントの横顔からも、彼の怒りが静かに抑えられていることが分かった。
 ヴィンセントが何かを言い、それに対してサミュエルがムッとしたらしいことも。

 普通ならば、サミュエルのように恐ろしい魔導士に対峙した時、自分の体が自由に動くとしたら倒れるふりをして、自分だけでもこっそりと逃げようとする者だっているだろう。
 だが、彼ら2人は圧倒的な力を持つであろう、サミュエルに真正面から剣を向け、睨み合っている。
 一度、「死」というものを経験し、なおアドリアナ王国への強い忠誠心を持つフレディ、そして年若い者でありながらも何もかも達観したようなヴィンセントは、死の恐怖をその胸に抱えながらもサミュエルに対峙しているのだ。


 そして――
 レイナは2つの変化を、この苦痛で思うように動かせぬ肉体に感じた。
 1つ目は、レイナの指先と重なり合っていたミザリーの指先が動いたのだ。そして、ミザリーの手がレイナの手に重なった。
 ミザリーの手の温かさが伝わってきた。
 そう、”必ず守ります”というように――
 更なる2つ目は、この宿を取り囲み、焼き尽くそうとしている業火の勢いが、ほんの少しだけ押さえつけられたようにも……  

 次の瞬間、ミザリーのもう片方の手からは渾身の気が発せられた!!

――!!!――

 ミザリーが苦痛に喘ぎながらも練り上げた渾身の気は、宙に浮かぶサミュエルではなく、外へと向かって発せられた。
 禍々しい冷気が充満している空間ではなく、外へと向かって――

 紅蓮の炎に焦がされゆく白亜の壁の一部が砕け、外の、何にも侵されていない清らかな空気が、苦しみ喘ぐ者がいる広間へと救いの風のごとく、ザアアッと流れ込んできた。

「ふっ……女の魔導士の方もまだ動けたとはな。だが……」
 ”やってくれるじゃねえか”と言いたげに、壊された壁の方に顔を向けたサミュエルはハッとした。
 フレディもヴィンセントも、気づいた。
 体の痺れがわずかに弱まりかけてきたレイナも、先ほど感じた2つ目の変化が、自分の生への願望からのものではなく、実際にで起こり始めていることだと確信した。

 この宿を取り囲んでいる、サミュエルの炎の勢いが押さえつけられているのだ。サミュエル自身が、炎の勢いを弱めたわけではない。

「その女魔導士は、俺の炎を押さえられるほどの力は持ってはいないはずだが……」
――何者かがこの俺の炎を押さえ込んだ。そんなことができるのは、フランシスかアダムぐらいだ。だが、フランシスがそんなことをするはずがないし、アダムまだ床にのたうち回ってゲロを吐いているはずだ。そうなると……
 サミュエルの顔はみるみる険しくなっていった。
 

「……”お前”だな?」
 サミュエルは、眼下で剣を構えている”ヴィンセント”に、さらにギロリとその視線を向けた。
「何を、訳が分からないことを……!」
「訳が分からないのは、お前だろ。舐めた真似しやがって。自覚がないってのは、厄介だな」
――炎を押さえ込んでいるのは、絶対に”この男”だ。人智を越えた存在、つまりはアポストルに近い特異な存在であるこいつぐらいしか、こんな真似はできないだろう。まずは、この赤毛の方からサクッと殺しておこうか……
 サミュエルが身構えた。

 体の自由が少しだけききはじめたレイナのところにも、外の空気とともに祭の喧噪、いや、これはこの宿が炎に包まれている状況――はたから見たら不始末による火災発生としか言えない状況に居合わせた、善良な市民たちの悲鳴、もしくは救援の声なるものが聞こえ始めた。

 燃え上がる炎が押さえつけられ、ミザリーの手により清らかな空気が禍々しい冷気を吹き飛ばすがごとく、流れ込んできたことによって……
「……く……っ」
 痺れる体の痛みに顔を歪めながらも、剣を手にしたルーク、ディラン、トレヴァーの3人が、ヴィンセントとフレディに加勢するようにふらつきながらも立ち上がる姿が、レイナに見えた。

「一丁前に形勢逆転のつもりかよ……でもよぉ、俺とお前らでは、戦うフィールドが違…」
 炎を押さえられながらも、まだ余裕を崩すつもりがないサミュエルが言葉を全て言い終える前であった。
「!!!」
 和らぎゆく暗黒の海より吹きあがった突風が、サミュエルの両脚をガッと掴み――

 サミュエルは、自身が作り上げた暗黒の海へと引きずり込まれたのだ!
 床で大切な腰をしたたかに打ったサミュエルは、まだ漂っている冷気を不覚にも吸い込んでしまい、咳き込んだ。
 今の突風の”気”の主であり、彼と”同じフィールドで戦う”ことができる魔導士のアダム・ポール・タウンゼントが、両腕に孫娘ジェニーをかばい、ふらつきながらも立ち上がっていた。
「……その通りじゃ……お前と戦う相手はわしだ……」
 土気色の顔で荒い息をゼエゼエと吐き出し続けているアダムは口元を拭い、サミュエルに向かって、その憎しみと悲しみを宿した胡桃色の瞳をギロリと光らせた。



「ありゃりゃあ……まさか、あのサミュエルさんが足元をすくわれるなんて……あいつら相手だと、どうも調子狂っちゃいますね」
 今、神人の船のフランシスの傍らにて、港町で繰り広げられている光景を覗き見しているのは、ヘレンではなくネイサンに変わっていた。
 先ほどまでローズマリーと一緒にマリア王女の面倒を見ていたネイサンであったが、頬を引きつらせ赤い顔をしたヘレンが自分たちがいる部屋に足を踏み入れ、「サミュエルの襲撃が始まったわよ」と自分に告げた。
 よって、ネイサンはローズマリーの「こら、待てよ!」と止める声にも振り返らず、マリア王女の世話もそこそこにフランシスがいるこの場所へ息せき切って、駆け付けてきたのだ。

「なんだか、さっきのヘレンさんの様子もおかしかったような気もするんですけど……女って本当によく分からないや」
 そのネイサンの呟きに、フランシスが頷いた。
「男と女は相容れない生き物ですからね。同じ人間と言えどもね。ちなみに、ヘレンのご機嫌斜めの理由は、私が先ほど彼女の心の琴線に触れてしまったからなのですよ。先ほどのことは、完全に私に非がありますね。後できちんと謝罪しようと思います」

 ネイサンは「??」といった表情を浮かべたが、すぐに目の前の映像に、その興味を一直線に向けた。
 地上で繰り広げられている面白い嵐に。そして、自分自身もとても加わりたかった嵐に。

「でも、サミュエルさんって結構よく喋るんですね。顔立ちにあわず、クールな人だと思っていたんですけど、今の映像見てて、完全にイメージ変わりましたよ」
 ネイサンは”やっぱり、フランシスさんと長年一緒にいたから、長話する癖が移ったんじゃないんですか?”という言葉は、喉の奥深くに飲み込んだが。

「……サミュエルですが、昔馴染との何十年ぶりかの再会にテンションがあがっているんでしょう。やっぱり、彼も心の奥深くでは、向こうは順調に年を重ねた姿になっているとはいえ、かつてのライバルに再会できたことに歓びを感じているのかと……まあ、意地っ張りな本人は絶対に認めませんでしょうけど」
 フランシスは、その唇から優美にフッと息を吐いた。
「それに年を取ると、いろいろと長話をしたくなるものなんですよ」
「そうですよね。まあ、言われてみれば俺の祖父とかも結構、話が長かったです。それも若かった頃に苦労した話をまるで勲章のように延々とね……」
 ネイサンは、ツンと尖った鼻から息を鳴らし、プククと思い出し笑いをした。

「ネイサン……あなたは実家に戻る気はないのですか?」
「まさかあ、あんな退屈で平凡そのものな家に戻る気なんてないですよ」
 ハハッと笑いながら、ネイサンは首を横に振った。
「あなたは今、平凡とおっしゃいましたが、例えば今、苦痛を堪えながらも立ち上がった、あなたと同年代の3人の青年、ルーク、ディラン、トレヴァーに比べると、相当に恵まれた生まれであると思いますよ。穏やかに幸せに暮らしていくことを第一に臨む両親が2人とも揃い、衣食住に困ることもないような中流の上の暮らし、高等教育だってあなたが望めば受けることができたでしょうに。両親にとって、いや一族の誉れにもなる王族直属の魔導士になれる機会だって、あなたの人生にはあったのに」
 フランシスは含みを持たせたように、ネイサンの顔をチラリと覗き込んだ。

 ネイサンはそのフランシスの含みに気づいていたが受け流した。そして、自分が受け流したことをフランシスも気づいたと理解していたが、彼は言葉を続けた。
「前に首都シャノンで会ったカールやダリオとかいう奴らみたいな面白味がないエリート街道よりも、俺はもっと個性的で凡人が決して送ることができない人生を歩みたいだけなんです。せっかく、凡人が努力しても身に着けることができない力を持って生まれてきたのに、国や王族なんかに捧げるなんてまっぴらごめんですよ」
「おやおや、あなたは本当に刺激フェチでございますね。体への刺激ではなく、その精神への刺激を常に望んでいるマゾなんですね。まあ、あなただけではなく日常のなかにいる者は非日常を望み、非日常のなかにいる者は日常を何よりも望むといった具合ですか」
 フランシスは、おかしそうに笑った。

「俺がマゾとかサドとかいうことよりも、サミュエルさんが大ピンチじゃないですか? あのきっつい魔法薬を自分自身も吸い込んでしまったんだし、あのままタウンゼントさんに倒されたらどうするんです?」
 そのネイサンの声は、サミュエルの身を案じているようでありながら、どこかウキウキとしているように感じられた。
「まあ……サミュエルなら、自力で何とかするでしょう。心配することなど、ありませんよ。こんなことで倒されるような魔導士を私は自分の右腕としては選びませんし……それよりも、私がこの状況で一番気がかりなのは、”彼”のことです」
「……”彼”?」

 ネイサンのその疑問には答えず、フランシスは右手をくゆらせるようにして、目の前に展開さている、覗き見のさざ波の視点を動かした。
 その視点の先は、ネイサンが気になってたまらない「サミュエル・メイナード・ヘルキャットVSアダム・ポール・タウンゼント」ではなく、その他の者たちと同じく、必死で立ち上がろうとしている人形職人のオーガスト・セオドア・グッドマンであった。


――動ける……動くことができる! 俺はあの方を……!
 オーガストの手足の自由も、戻りかけてきた。
 状況はよくわからないが、何かが砕けたような音がして、この宿の広間を覆いつくしていた冷気は外へと流れている。
 オーガストを含む大多数の者にとって、事態は好転し始めていた。
 上半身を起こし、外から流れ込んでくる清らかな空気を吸い込んだオーガストの瞳に映ったのは、魔導士の女に肩を貸し、立ち上がろうとしている”マリア王女”と、あのヒョロヒョロとした黒髪の男の姿であった。

「ま……待て! 淫売っ……!」
 ティモシー・ロバート・ワイズの声に、オーガストはハッとした。
 そうだった。自分がこうして動けるということは、”マリア王女”を殺そうとしているティモシーの体の自由も戻り始めているということだ。
――……あの方をこの男に殺させたりなんかさせるものか……!!

 ふらつきながらも何とか立ち上がり”憎い女”の後を追おうとしているティモシーを、オーガストは”愛しい女”を守るために後ろから羽交い締めにしようとした。
 だが、オーガストもティモシーも、まだ肉体が本調子には戻ってはおらず、ティモシーはオーガストの胸板に、オーガストはティモシーの背中に互いに寄りかかるような体勢になった。
 彼らは再び、黒い冷気が晴れかけている床に重なり合うようにしてドサリと倒れ込んだ。

「邪魔をするな……っ……!」
「お前こそっ……!」
――そうです、俺がこの男を押さえ込んでいるうちに、早くお逃げください! ”マリア王女”……!
 ティモシーと互いの体を押さえ合い、ただ愛する女の肉体を守ることだけを願うオーガストは、まだ残留している禍々しい冷気を吸い込んでしまい、ティモシーとともに咳き込んだ。

 ふらつき睨み合いながらも立ち上がろうとする彼は、いや彼らは――次の瞬間、ハッと息を呑み、同時に顔を上げた。
 頭上より聞こえた奇妙で不吉な音。
 そう、サミュエルによる炎はこの宿の壁を焦がし、すでに広間の天井の一部にまで回っていたのだ。
 そして、自分たちが今いる、まさにこの場所へと、崩れ落ちようとしている天井の一部がガラガラと音を立てながら――

「!!!!!」

 逃げるにも体の自由が利かず、死を覚悟し、オーガストとティモシーは反射的に目をつぶった。

 けれども、死の痛みと衝撃は襲ってこなかった。自分たちの肉体は、天井に押しつぶされてなどいなかった。
 恐る恐る瞳を開いたオーガストとティモシーが見たのは、崩れ落ちてきた天井の一部が自分たちのわずか数メートル上で氷漬けにされている光景であった。
 それだけではない。
 炎の壁にぐるりと囲まれ、自身も炎と化したであろうこの宿は、一瞬で氷漬けにされていたのだ。
 サミュエルの薬とは違う冷気――氷の宿となってしまったこの宿は、いまや瞬く間に別の冷気に包まれ始めだした。
「フ……ランシス……?」
 宙を見上げたままのオーガストは、今宵、自分たちの心を弄んだはずの悪しき魔導士の名を喘ぐように呟いていた。
――あいつが俺を助けてくれたのか? まさか、あいつがそんなこと……いや、でもこれはあいつ以外に考えられない……



「えーと、あの役立た……いや、オーガストを助けちゃったんですか?」
 ネイサンがフランシスに問う。
 港町より遠く離れたこの神人の船に居ながらも、オーガストとティモシーを直撃するはずだった天井の一部のみならず、サミュエルの炎を押さえつけ、宿全体を一瞬で氷漬けにしたフランシスの魔力にネイサンは、”やっぱ、この人、すげえや”と思わずにはいられなかった。

「なあに……オーガストには”今後使用する予定”のかなり精巧な人形を数体作っていただいた借りがありますしね。それに、オーガストのターンの時間は、ワイズに比べると随分と短かったでしょう? そのことを考慮すると、やや不公平ですしね。まあ、何より、オーガストもワイズも……愛する者を思い突っ走っている彼ら2人ともが私たちにその心を弄ばれたまま、その身をグシャっと平に押しつぶされて冥海へと旅立つのは、あまりにも哀れだと思いましたからね」
 フランシスのその言葉に、”何を今さら”とネイサンは思いながらも黙っておくことにした。
 ”しかし、この人……残酷かと思えば情が深いところもあり、たまにはごく真っ当なことも言うし、やっぱ、俺たちの大将はよく分からない人だ。まるで1つの肉体に幾人もが住んでいるみたいだ”という思いも、ネイサンは心の奥深くへと静かに沈め込んだ。

「サミュエルの炎を消してしまったことは、無事にこの神人の船に戻ってきた彼に絶対に文句は言われるとは思いますけれどね……まあ、私も彼も若者のように殴り合いの喧嘩をするほどの元気はありませんから、しばらく冷戦状態が続くだけでしょう。さて、ネイサン、”希望の光を運ぶ者たち”も、マリア王女の中の人も、一睡もすることができなかった出港前夜ですが、そろそろ終盤に差し掛かっているとは思いませんか? 目に見える炎はとりあえずはおさまりました……というよりも、私が一瞬で氷漬けにしただけなんですけど。けれども、各々の心に燃えさかる炎はまだまだ、くすぶっているようですよ」
 フランシスはクククと嫌な笑いを漏らし、ネイサンに目くばせした。
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