妾の嫁入り

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 離れから戻った瑛久は、ベッドに腰を下ろし、浴衣の襟元をくつろがせた。
 反対側のベッドで寝ているはずの妻は、今日も姿が見えない。
 紫乃とはまだ閨をともにしていないので、夕餉が終わればこうして母屋の寝室に戻ってくるのだが、それもあとどれくらいのことか。

 妾を迎え入れることを父から提案──半ば命令に近いが──されたのは、妻である蒔子が三度目の流産をした直後のことだった。

 『もう駄目だろう』

 哀れみも、落胆すらも感じられない抑揚のない声音から、父は今回の妊娠を最初から期待してはいなかったのだろう。

 同じ深川で商売を営む裕福な家庭に生まれた蒔子とは、見合い結婚だった。
 料亭で行われた見合い当日のこと。
 蒔子は、少し遅れて現れた瑛久を見るなり驚いたような表情をして固まり、その後は終始俯いたままぎこちない会話が続いた。
 誰の目にも、これは破談だと映ったが、意外なことにそうはならなかった。
 仲人によれば、蒔子は瑛久のあまりの美丈夫ぶりに驚いて、なにも喋れなくなってしまったのだという。
 そして、家に帰ってきてからは、瑛久を想って夜も眠れぬほどだったとかで。
 仲人も紹介した手前、だいぶ誇張して言ったのだろうが、とにかくそういう事ならとふたりは無事交際に至った。
 その後、蒔子は気難しい母と妹にも気に入られ、自然と水無瀬家の輪に溶け込んでいった。
 瑛久は蒔子に対し、これといって激しい気持ちがあったわけではなかった。
 だが、甲斐甲斐しく瑛久に尽くす彼女はいじらしく、可愛いと思えた。
 だから、そんな蒔子と結婚するのはごく自然な流れだったのだ。

 結婚生活は円満だった。もちろん家族仲も。
 そしてさらに慶事は続き、結婚から三ヶ月で蒔子は懐妊。
 しかしこの後、予期せぬ不幸がふたりを襲った。

 流産を医師から告げられた時、蒔子は人目も憚らずその場に泣き崩れた。
 食べることも眠ることもできず、痩せこけていく蒔子。
 『ごめんなさい、ごめんなさい……!』
 瑛久を始め、家族に向かって土下座し、ひたすらに謝り続ける蒔子の姿は痛々しかった。
 そんな蒔子を皆が懸命に励ました。
 この時はまだ父も『まだ若い、次がある』と蒔子に気に病まぬよう言い聞かせていた。
 しかし二度目の流産を経て、医師から子が育たぬ腹かもしれぬと告げられた瑛久は、蒔子の負担も考えて、一度は子どもを諦めようとした。
 けれど他ならぬ蒔子がそれを拒んだのだ。
 どうしても瑛久の子が欲しいと泣いて懇願する蒔子。
 宥めれば宥めるほど興奮し、我を忘れて取り乱す彼女に、これ以上なすすべもなかった。
 そして迎えた三度目の妊娠。
 誰もが神に祈るような気持ちで日々を過ごした。
 けれど運命は残酷で、小さな生命の灯火は、静かに消えてしまった。

 三度目の流産からほどなくして、跡継ぎを産めない娘が申し訳ないと、蒔子の生家から離縁の申し入れがあった。
 しかし、蒔子はこれを受け入れなかった。
 どうしても離縁だけは嫌だと、両親の懸命な説得にも応じず、瑛久に縋るより先に珠子と鈴子に泣きつき、使用人も抱き込んで徒党を組んだ。
 もちろん瑛久とて、子が産めないからと簡単に離婚する気などなかったが、この時の蒔子のやり方には疑問を感じてならなかった。
 この展開に父も難色を示したが、蒔子の生家とは仕事上の付き合いもあり、子が産めないからと本人の意思を無視して放り出すことは、外聞も悪いと判断した。

 そして話は冒頭へ戻る。
 蒔子の気持ちを考えれば、妾を迎えるのはもう少し先の方が良かったのかもしれない。
 しかし、条件に見合う女性が簡単に見つかるわけでもない。
 日陰の身として生きることを納得できて、子が産める年齢、健康で出自もしっかりとした女性──それが奇跡的に見つかった。紫乃だ。
 
 蒔子の気持ちを考えると、心が痛まなかったわけではない。
 けれど瑛久は三十路を迎え、他に打つ手が見つからなかった。

 紫乃を迎えることが決まってから、蒔子は無言の抵抗に加え、心労から体調を崩したと言って別室に籠城している。
 正直なところ、この状況に瑛久も疲れ切っていた。
 せめて、自分の子を産ませることになる紫乃という娘が、これ以上家族を刺激しない存在であってくれたらと切に願った。

 瑛久は紫乃が二十歳で、古川家当主の妾の子ということ以外は聞かされていなかった。
 古川の当主は経済界では狸で有名。
 その娘で、ひと回り近く年上の男の妾になることを承諾した女性だ。
 どんなに肝の据わったのが来るのかと思ったが──肝が据わるもなにもない。
 そもそも父親から詳細はなにも聞かされずに来たというのだから、拍子抜けしてしまった。
 生い立ちの割に、実際の紫乃は控えめで、素直な娘だった。
 若干痩せすぎなところは気になったが、好き嫌いもなくよく食べるし、瑛久の話を聞いては興味深そうに相槌を打つ。
 余計なことは喋らないし、媚びるような真似も一切しない。
 何というか【妾】という言葉からはかけ離れているというか、瑛久の知る女性とは一線を画す紫乃に、毒気を抜かれるような気持ちだった。
 庶子という立場から、古川家では居心地の悪い生活を送ってきたであろう紫乃には、この水無瀬の家で心穏やかに過ごしてもらいたいと思った。
 年頃の娘らしいことも楽しんでほしいと。
 そう思ったからこそ、祭りに行くことも提案してみたのだが、それを聞いた紫乃の様子は明らかにおかしかった。
 (遠慮しているのだろうか)
 けれどなんだかそれとも違うような、落胆したような表情だった。
 理由を聞いてみようかとも思ったが、紫乃は不満を口にするような性格ではなさそうだし。
 (せめて年の近い鈴子と話ができればいいのだが)
 鈴子は遅くにできた子で、瑛久と十歳も年が離れている。
 母親が甘やかして育てたものだから、わがままで、瑛久も手を焼くことがしばしば。
 (どうしたものかな)
 自分の子を産ませる女性。
 できれば良い関係を築きたいのだが──
 考えることにも疲れてしまい、瑛久はベッドに横になり、目を閉じたのだった。
 
 
 
 

 
 
 
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