「魔物の討伐で拾われた少年――アイト・グレイモント」

(イェイソン・マヌエル・ジーン)

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第38章:ホワイトマウンテンの顎

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夜明け前の山麓の寒さは、まったく別物だった。谷の涼しさではなく、衣服の層をすり抜けて肌を噛むような、鋭く乾いた冷気だった。松にかかる霧が幽霊の裂け目のように垂れ下がる中、太陽が霧を追い払う前に俺たちは出発した。
登山道と呼べるものはなく、ただ足跡によって示された、崩れた岩とねじれた根の間を通る「道の気配」だけだった。師匠が先頭に立ち、急斜面にもかかわらず滑らかな動きで進んでいく。俺とリリアはその後ろを追い、吐く息が凍った空気の中で短い白い雲となって散っていった。
「静寂は偽物だ」
師匠は振り向かずにつぶやいた。その声はアルプスのような静けさに澄んで届いた。
「ここにあるものはすべて生きている。そしてすべてが腹を空かせている」
何のことか聞く暇はなかった。甲高く、ほとんど音楽のような風切り音が空気を裂いた。黒く光る矢じりの矢が、師匠の頭から一手のところにある松の幹に突き刺さった。正面からではなく、岩壁の上から、ありえない角度で跳ね返るように飛んできたのだ。
待ち伏せだった。しかも俺たちが気づきもしなかった高所から。
命令などなかった。まるで一つの本能に導かれたように、俺たちは同時に散開した。俺は転がるように岩陰に飛び込み、次の矢が俺の足元だった場所に乾いた衝突音を残した。リリアは逆さの舞のような動きで岩棚の影に滑り込む。師匠は…そこに狙いが向く前に、ただ消えていた。
怒号が上から響いた。荒れた声、怒りに満ちた声だった。
「奴らだ!下の連中を片付けたのは!」
「親分のためだ!まずはあのジジイを仕留めろ!」
山裾の雑なチンピラではなかった。こいつらは配置し、連携し、毒の武器まで持っている。岩陰から数えたところ、最低でも六人。灰色の岩と地衣類に紛れていた。強化弓を持ち、白い毛皮の外套を羽織った一人が指揮官だと分かった。
「アイト、左の茂み!」
リリアの声は囁きだったのに、俺の頭には澄んだ鐘の音のように響いた。青い光が枝の間で一瞬きらめく。魔法の罠だ。おそらくパルス捕縛の類。殺すためではなく、動きを止めるためのもの。効率的だ。
俺は見えないまま頷いた。拳大の石を手探りで掴む。剣ではないが十分だった。短く強い投擲で茂みに石を投げ込むと、石が罠に触れた瞬間、乾いた破裂音とともに静電気の閃光が走り、葉が一瞬で炭化した。
それが師匠に必要な隙だった。
師匠は盗賊たちの背後ではなく、「真ん中」に現れた。皆の視線が閃光に向いた一瞬のうちに、垂直の岩壁を駆け上がったかのように。剣は閃かなかった。ただ銀色の弧となり、完璧な線を描いた。二人が叫びもせずに倒れ、正確な腱の打撃によって武器を失い、脚を奪われた。
弓の指揮官が舌打ちし、突然現れた脅威に向けて弓を引いた。しかし俺はすでに動いていた。
俺は側面の割れ目を風魔法で補助しながら登っていた。そうだ、俺の魔力は戻っていた。暗室と廃墟の事件から一年ぶりに。
岩棚に飛び出した瞬間、俺は指揮官の背後にいた。奴は気配に気づき、目を見開いて振り向いたが、もう遅かった。
俺は剣を振り、奴の弓を叩き折り、胸を裂いた。血が流れた。弓で防いだが意味はなかった。
奴の手が腰の短剣に伸びる。俺はその隙を与えない。低い蹴りが膝を砕き、指揮官は膝から崩れ落ちた。息を荒げながら俺を見上げ、恐怖ではなく驚いた憎悪の色で睨み付けた。
「なぜだ…?」と奴は吐き捨て、脚を押さえた。「宝なんて呪いだ…!俺たちは皆死んでいくんだ!」
返答する前に、音というより「衝撃」が山を揺らした。まるで巨大な心臓が足元で脈打ったようだった。岩は震え、小さな石の雪崩が断崖を転がり落ちた。
右側の峡谷の暗闇で、何かが動いた。獣でもなく、普通の魔物でもない。影と淡い鱗の塊。巨大すぎて、一瞬その背中を岩棚だと錯覚したほどだ。たった一つの眼が闇に開いた。盾のような大きさで、冷たく、古く、飢えた知性を輝かせていた。
それは俺たちを見なかった。遥か上、雪の絶えぬ峰を見た。そして影は峡谷の奥へ滑り込み、消えた。残されたのは、石とオゾンの匂い、そして言い知れぬ沈黙だけだった。
指揮官は憎悪を忘れ、青ざめた。
「奴だ…守護者だ。誰かが嘆きの峰に近づくたび目覚める…!あんたらは囮だ。奴を頂上に誘き寄せるためのな。これがドラヴェン様の本当の計画だ…!」
ドラヴェン。その名は石の塊のように落ちた。普通の山賊ではない。堕ちた貴族の傭兵、魂を山に売ったと噂される伝説の悪名。
師匠は峡谷を見つめた。恐怖ではなく、計算された認識の表情で。
「宝は餌で、冒険者は守護者への供物か?」
指揮官は震えながら頷く。
「ドラヴェン様は守護者が守る物を狙ってる。嘆きの峰の何かを…だが奴を逸らす必要がある。怒らせるか…満腹にさせるか…」
リリアが加わり、真剣な顔で言った。
「つまり宝は罠。私たちみたいな馬鹿が食われる間に、ドラヴェンが欲しいものを取るための」
俺は白い峰へ続く登山道を見上げた。挑戦はもう「面白い」だけではなかった。死のチェスだ。そして俺たちは狂った棋士の駒だった。
「師匠」と言うと、俺の目に宿る決意を見て、師匠は答えを聞く前に理解した。
「もう戻れない」
ゼキンの顔に、ゆっくりと危険で、そして本物に楽しそうな笑みが広がる。
「当然だ。だがルールを変えよう。囮になる代わりに…狩人を貫く槍になるんだ」
指揮官は憎悪から恐怖へ、そして信じられないという表情へと変わった。
「狂ってる…全員頭がおかしい…!」
師匠はゆっくり屈み、地面に座り込んだ指揮官と視線を合わせた。声を荒げず、しかし岩塊のような重みで言った。
「交渉の時間はない。選択肢は二つだ」
わずかな間を置いて続ける。
「一つ目。苦しみを選ぶ。お前を縛って連れていく。守護者の生き餌としてな。牙も、息も、絶望も味わいながら闇に引きずられて死ぬだろう。その瞬間、この矢の痛みを恋しく思うはずだ」
「二つ目。知っていることを全て吐く。ドラヴェンの経路、人数、武器、キャンプ、峰についての情報…今すべて吐けば、生きたまま下山してもいい。壊れたままでもな」
それは脅しではなく、現実の宣告だった。通貨は情報、対価は呼吸。慈悲など存在しない。
指揮官は息を止めた。血の気が引き、師匠の剣、俺の目、そして守護者が消えた峡谷の闇を見比べた。恐怖が計算を終えた。
「本営は東側の“反響の洞窟”だ!ドラヴェン様の兵は二十五人、最精鋭!入り口には氷魔法の罠が仕掛けてある!奴の狙いは…“ガイアの心臓”だ!守護者はその…番人だって話だ!これで全部だ、誓う!」
告白は洪水のように溢れた。師匠は少しの間観察し、冷静に一度だけ頷いた。
「よし」
師匠は立ち上がった。手を貸すことはしない。ただ背中を向けた。それだけで十分だった。こいつはもう脅威ではなく、ただの無関係。
「這え。できるならな。山には山の裁きがある」
師匠は登山道を見上げた。慈悲は贅沢。価値は通貨。奴は生き延びるために支払った。ただそれだけだ。
宝は後回しだ。
今は竜を見つけ、裏切り者を止め、山を征する番だ。
元々の計画ではなかったが、師匠の言う通り、その方がずっと面白い。
白き山の本当の登攀は、今まさに始まった。
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