「魔物の討伐で拾われた少年――アイト・グレイモント」

(イェイソン・マヌエル・ジーン)

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第41章:守護者

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白い山脈はすでに背後に消えつつあったが、その冷たさはまるで骨の奥にまで永久に刻み込まれたようだった。
少なくとも、俺にはそう感じられた。
俺たちは黙って歩き続けた。雪を踏みしめる音だけが、世界に存在する唯一の音だった。
午後の陽光は空気を温めようとしていたが、洞窟の記憶か、それとももっと形のある何かのせいか、皮膚に張り付いた頑固な冷気は全く離れようとしなかった。
「こんな寒さ、初めて……」
リリアが腕を擦りながら呟く。
「火の魔導士なのに」
「空気の冷たさじゃない」
師匠は歩みを緩めることなく言った。
「恐怖の冷たさだ。この世界にあってはならないものに触れた時のな」
その言葉を言う時、師匠は俺を見た。
何のことかは分かっていた──守護者のことではない。俺の闇のことだ。
「……成功した。少しの間だけど」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうね。でも代償は何?」
リリアは静かに首を振った。
「あなた、あとで震えてた」
俺は答えなかった。
その “代償” が俺にも分からなかったからだ。
ただ一つ、闇で二人を包んだあと──俺は少し“欠けた”ように感じた。
魔力を使ったのではなく、どこかへ喰われたような感覚だった。
突然、師匠が立ち止まった。疲れたわけではない。
警戒だ。
「師匠?」
俺は声をかけた。
返事はなかった。
師匠の眼差しは周囲の森を鋭く探っていた。
この辺りの松は高く、古く、枝には新しい雪が重く積もっている。
「……静かだ」
そう呟いた。
その通りだった。
鳥の声も、折れる枝の音もない。
風すらも、厚い硝子越しに聞こえるかのように鈍かった。
(野営)
完全に暗くなる前に、野営することにした。
雪は深かったが、岩壁に囲まれた小さな空間を見つけた。
リリアは、注意深く、小さな焚き火をつけた。
すぐに温かいスープの匂いが漂い始める。
本来なら安心するはずなのに、逆に胸の奥の“切り離される感覚”が強くなるばかりだった。
「アイト?」
リリアが器を差し出す。
「少しは食べなよ」
「……食欲ない」
俺は嘘をついた。腹は減っていた。
だが喉を通る感覚を想像するだけで吐き気がした。
まるで体が、“軽くなれ”と、これから何が起こるか分かっているかのようだった。
師匠は森の端を見続けていた。
食事には一切手を付けていない。
「師匠も感じてるんですか?」
思わず問うと
「感じている。何かが見ている」
師匠は淡々と言った。
「だが外からではない。……山の内側からだ」
俺は背後を振り返った。
距離も霧も越えて見えるはずのない山頂が、未だに白く、空の闇に牙のように浮かんでいた。
その時、見た。
いや、“見えた気がした”というべきか。
遠い木々の間で、細く、背の高い影が風に逆らって身をよじっていた。
だがこの辺りの木はあんな風に捻じれたりしない。
あれほど“意志的”には。
「見えるか?」
俺は指差した。
二人は視線を追った。
「曲がった木じゃないの?」
リリアは眉をひそめた。
「山風で歪むんだよ」
「風はそこから吹いていない」
師匠が即座に修正した。
影が再び動いた。
その時、月光を反射する青い光が瞬いた。
心臓が止まった。
木ではない。
それは俺たちの野営地へ辿り着くまでに一時間かかった。
一歩ごとに、自分の身体と戦っているかのような痛々しい動きで。
月光の下に完全に姿を現した瞬間、喉に氷の塊が詰まったような恐怖が走った。
守護者。
だが、あの洞窟のものではない。
青い氷の蛇身はひび割れ、
黒い亀裂が胴体を深く走っていた。
前肢の一つは砕け、ぶらりと垂れ下がっている。
そして胸には……
人間がいた。
ドレイヴンだった。
騎乗していたわけではない。
隣にいたわけでもない。
胸に“埋まって”いた。
まるで守護者が彼を飲み込もうとして途中で止まったように。
胴と右腕だけが、氷の棘のように突き出ていた。
顔の半分は人、半分は氷の結晶。
人の眼は憎悪に満ち、氷の眼は青い光で不気味に輝いていた。
「……ありえない……」
リリアは後退した。
「そんなの……」
「融合か」
師匠がゆっくりと、しかし迷いなく剣を抜いた。
「吸収しようとした守護者。支配しようとした人間。その結果が……あれだ」
“守護者ドレイヴン”としか言いようのないそれは、焚き火の外側で止まった。
氷の眼が俺たちをスキャンし、リリア、師匠、そして俺で止まった。
「……お前……」
ドレイヴンの口から擦れた声が漏れ、
その声が守護者の胸で反響した。
「……冷たい……闇……」
前へ進む。
動きは歪で、蛇部分は滑らかに進もうとし、
人間部分は苦痛か反抗か分からない痙攣を見せる。
全身がぐらついた。
「止まれ!」
師匠が前に出た。
ドレイヴンは笑った。
乾いた、砕けた笑い。氷片を吐き出しながら。
「……これが……俺を……支配してると……思うのか……?」
人の眼が狂気で燃えた。
「俺が……支配してる……!
その力は……俺のものだ……!
そして……お前のも……!」
守護者は咆哮した。
それは怒りではなく“抵抗”の叫びだった。
真実は融合ではなかった。
寄生だった。
ドレイヴンは心臓に触れたとき、守護者に“張り付いた”。
だが支配しきれず、強制的に乗っているだけ。
氷の筋肉一つ動かすたびに、両者は支配権を奪い合っていた。
「アイト」
師匠が振り向かずに言った。
「闇で隔離できるか」
理解した。
ドレイヴンではなく守護者の側を“分ける”。
「分からない」
「やれ。さもなくばお前もリリアも死ぬ」
守護者ドレイヴンが突進した。
不器用だが強烈な突撃。
口が開き、冬のブレスが放たれようとしていた。
思考の暇はなかった。
ただ本能が動いた。
俺は目を閉じた。
集中のためではない。
“委ねる”ため。
闇が出た。
だが隠すためではなく、見極めるために。
感覚を伸ばす。
この奇妙で拙い、新しい感覚を。
感じた。
二つの“冷”。
一つは深く、古く、氷河の重みを思わせる。
守護者。
一つは鋭く、貪るようで、かすかに人の温度を引き摺る。
ドレイヴン。
そして触れ合う場所には──痛み。
裂けるような痛み。
「今だ!」
俺は闇を“楔”として打ち込んだ。
それは一瞬だけ成功した。
守護者が止まった。
氷の眼に一瞬の明瞭さ、理解、認識が宿る。
俺を見た。
その視線にあったのは、古く静かな願い。
──解放してくれ。
ドレイヴンが咆哮する。
怒りと恐怖の混ざった声。
支配を強め、後退させようとする。
「ダメだ!これは……俺の……!俺が……!」
その瞬間、守護者は弓なりに体を反らせた。
攻撃ではない。最後の反抗だ。
全身の氷が震え、
黒い亀裂が走り、
そして千の窓ガラスが同時に砕けるような音と共に──
胸を貫く氷が砕けた。
優しくではない。
暴力的に。
ドレイヴンは射出された。
魔力の投石のように雪上を転がり、数メートル先で止まった。
自由になった守護者は音を発した。
それは勝利ではなく、終わりの疲弊の声。
白い山脈を見た。
次に俺たちを見た。
最後に俺を見た。
そして崩れた。
水ではなく──青みがかった細かい雪となって。
古の存在がいた場所に、静かに積もった。
世界は完全な沈黙に包まれた。
雪上でドレイヴンが動いた。
起き上がろうとするが、片腕と胴の半分が氷と肉で融合していた。
咳をし、氷片を吐き出す。
師匠が近づいた。
剣を構えてではなく──諦めの表情で。
「……冷えは……」
ドレイヴンが空を見ながら呟いた。
「消え……ない……」
「そうだ」
師匠は静かに答えた。
「抱えて行くものだ」
最後の言葉を言おうとしたが、喉が凍りついた。
身体は硬直し、氷の膨張音だけがわずかに響いた。
誰も近づかなかった。
触れもしなかった。
掘られぬ墓もある。
勝手に沈んでいくものも。
リリアが俺の手を握った。
俺は即座に振り払った。
俺の肌は冷たすぎた。
だがリリアは諦めず、再び握った。
思ったほど冷たくはなかったらしい。
俺には暖かかった。
酒場で抱きしめられたあの夜のように。
「行くぞ」
師匠が言った。
「山は裁きを下した。我々にはまだ道がある」
俺たちは歩き出した。
青い雪から、凍った男から離れていった。
胸の闇は静かに脈打ち、
役目を果たしたと満足していた。
怖かったのは──
その“役目”が何なのか、俺にすら分からないことだった。
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