ノエルの結婚

仁茂田もに

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第二章 夏

第四話

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 目が覚めると空は仄かに明るくなっていた。
 ずっと下働きをしていたノエルの朝はとても早い。ぱっと起き上がって、立ち上がる。冷え切った床が一瞬ひやりとしたが、すぐに気にならなくなった。カーテンを開くと、東の空から太陽がゆっくりと顔を出していた。
 寝台の中にはノエルの他には誰もいなかった。ヴィンセントはいつも目覚めるといなくなっている。毎夜、自分の部屋で寝ているのだ。
 どうしてかは分からない。ノエルをあんなに力強く抱きしめて寝てくれても、昨夜のように「ずっと一緒にいる」と答えてくれても、ノエルが寝入ると自室に戻ってしまう。

 ――まぁ、屋根裏部屋でなんて普通は寝たくないか。寝台も狭いし。

 ほんの少しの寂しさを感じて、ノエルは嘆息する。
 本当なら屋根裏部屋なんて屋敷の主人が入る場所ではない。
 それでも、ヴィンセントは毎日ノエルを訪ねてくれる。ノエルに会うためだけに。
 それで十分ではないか、とノエルは自分に言い聞かせた。そして、ずっしりと落ち込む自分に気づいた。
 どうやら自分は朝までヴィンセントと一緒にいたいらしい。朝目覚めるまで、あの逞しい腕で抱きしめていて欲しいのかもしれない。

 その望みはもっと広い寝台の上でならば叶うのだろうか。
 もうひとつノエルに与えられた寝室はヴィンセントの部屋とも近い。あちらの部屋であれば――。
 そこまで考えて、ノエルは慌てて首を横に振る。

 ――無理だ。

 あの部屋では寝られない。
 広々として寝台や文机、ソファーが置かれた洗練された、屋敷の奥方の部屋。
 窓からたくさんの日射しが差し込み、テーブルの上にはいつも季節の花が飾ってあった。
 少しの間掃除をするために滞在するくらいならば大丈夫だ。しかし、あそこで夜を明かすと思うと、考えるだけでもぞっとする。

 嘆息してノエルは気持ちを切り替えた。
 手早く着替えて、階下へと降りる。ブラッドフォード邸は小さな屋敷なので地下はなく、厨房もリネン庫も一階の端にある。ノエルは厨房に行って、朝食の準備をしなくてはいけない。
 落ち込んでいる暇はないのだ。

 毎朝の献立は決まっている。ソーセージやベーコンなどの加工肉と卵。それから豆をトマトで煮たもの。それら全てと焼いたトマトとキノコをひとつの大きな皿に全て一緒に盛って、しっかりと火で炙った薄切りのパンを添えれば完成だ。これは帝国で毎朝食べられている定番の朝食で、紅茶と一緒に食べる。
 手早く作り上げて、配膳用のワゴンに置く。紅茶を入れるため、お湯の入ったポットと茶葉と紅茶用のポットを食堂に運べばこれで朝食の準備が完了する。

 ヴィンセントがいつ起きて来てもすぐに食べられるようにカトラリーまでセットして、ノエルは玄関へ向かった。
 両開きの大きな扉を開けると、タイル張りのポーチの上に新聞が置かれている。ヴィンセントが取っている帝国新聞で、これを彼の席の前に置いて朝の仕事は完了だ。

「おはよう、ノエル」
「おはようございます」

 ノエルが食堂に戻ると、もうすでにヴィンセントが起きていた。
 紅茶用のポットに茶葉を入れて、その中にお湯を注いでいる。

「あ、俺がします」
「いい。ノエルは朝食を作ってくれたんだから、これくらい私がする」
「でも」
「席に座って。一緒に食べよう」

 後は蒸らすだけだ、と言われると確かにもうすることもない。大人しくノエルは自分の席に座るしかなかった。
 ブラッドフォード邸の食堂には立派な長テーブルがある。白いテーブルクロスがかけられたそれは、優に十人ほどが座れるくらいに大きい。その一番奥がヴィンセントの席で、角を挟んですぐ右隣がノエルだ。
 テーブルのほとんどは使っていない。近い方が話しやすいし配膳もしやすいから、この屋敷に住み始めてからずっとこの座り方だ。

「ノエル、今日は午後から休みなんだ」

 パンを口に運んでいると、唐突にヴィンセントが言った。
 ノエルは軍でヴィンセントが何をしているのかよく知らない。彼の所属は「帝国軍参謀本部」で帝都が本来の拠点であるが、今は一時的に東方司令部に出向しているらしいということは聞いている。だが、そこがどういう部署なのかまでは知らないし、当然その職務の内容なんて分からない。ただ、毎日忙しそうであまり休みがないことだけは確かだ。
 なにせ、ヴィンセントは国中の人が休む、七日に一度の安息日も仕事であることが多いのだ。
 けれども、たまにこうやって半日だったり丸一日だったり休みの日があった。

「それで、特に用事もないからどこか行かないか」

 その言葉にノエルはぱっと表情を明るくさせる。
 ヴィンセントの休みは軍の機密事項らしく、直前まで知らされることはない。
 だが、こうやって休みのたびにノエルを誘ってくれるから、ノエルはヴィンセントの休みが大好きだった。

「行きます」
「どこか行きたいところがあるか?」

 訊ねられて、ノエルは頭を捻る。
 前の休みは乗合馬車に乗って、少し離れたところにある大きな植物園に連れて行ってもらった。その前は、州立だというとても立派な図書館で本を借りた。商店街も回ったし、湖のある公園も行った。
 すぐに思いつかなくて、ノエルはううん、と唸った。
 ノエルとしては別にどこかに行かなくてもいいのだ。ヴィンセントと一緒にずっといられるだけで、心がほこほこする。
 悩むノエルを見て、ヴィンセントは「特に思いつかないなら、手芸屋はどうだ?」と言った。

「手芸屋?」
「刺繍糸になくなりそうなものがあると言っていなかったか?」

 言われて、ああ、と頷いた。確かに、帝都から持ってきた色糸のいくつかがなくなりそうだった。

「帝都ほどではないが、それなりの品揃えの大きな店があるはずだ。まぁ、私は手芸屋には入ったことはないが」

 ヴィンセントの提案にノエルは嬉しくなった。手芸店に行けるのも嬉しかったが、なによりノエルが口にした些細なことを覚えてくれていたことが嬉しい。

「近くにカフェがある。そこで甘いものでも食べて帰ろう」
「はい」

 ヴィンセントは本当にいい人だ。すごく優しくて、いつもノエルのことを考えてくれる。
 それは旦那さまたちもそうだったけれど、オルグレン家のみんなとは少し違う気がした。どこが違うのかと聞かれても、上手く答えることは出来ないけれど。

「昼過ぎには帰ってくる」

 そう言って、ヴィンセントは玄関へと向かった。マーサたちが出勤してくるのはもう少し後なので、毎朝彼を見送るのはノエルだけだ。

「いってらっしゃいませ。お気をつけて」

 頭を下げて言うと、頭上で「ああ」と頷く声がした。
 いつもの挨拶。いつもの返事だ。
 顔を上げてノエルはヴィンセントを見た。
 彼がこうして仕事に行くのは毎朝のことなのに、今朝はどうしてだが無性に寂しく思えてしまい、知らず知らずのうちに眉が下がってしまう。昨日の夜、ノエルを抱きしめて頭を撫でてくれた手が遠くに行ってしまう。

 苦しい。寂しい。――行かないで。
 そんなことを考えてしまって、ノエルははっとした。
 誰かに対して、こんな風に思うのは初めてのことだったからだ。
 ノエルにとって大好きなのは旦那さまやセドリックも変わらない。けれど、彼らが仕事に行くときにこんな気持ちになったことはなかった。

「ノエル」
「はい……」
「すぐに帰ってくるから」

 そうだ、今日は明るいうちに帰って来てれる。そしたら、一緒に出掛けられるのだ。離れているのは数時間だけ。それなのに何をそんなに寂しがることがあるだろう。
 沈む心に言い聞かせていると、ヴィンセントがそっとノエルに手を伸ばした。
 手袋越しの手がノエルに触れて、頤を持ち上げる。え? と思っていると、そのままヴィンセントの顔が近づいて来た。

「いってきます」
「……はい」

 触れるだけの口づけをして、ヴィンセントはさっと踵を返した。
 わざとらしく軍帽を被り直しているのは、彼もまた照れているからなのかもしれない。
 しかし、ノエルの驚きはそれ以上だった。
 呼吸するのも忘れて、ノエルはその場に立ち尽くした。

 ノエルにとって、口づけは夜の寝台でするものだ。それをこんな明るい日差しの中で、しかも玄関先でするとは。
 ヴィンセントの突然の行動に混乱して、ノエルはもう寂しくはなかった。
 それよりも熱くなった頬とどきどきと早鐘を打つ心臓がうるさい。
 いきなりのことだったので、恥ずかしいと怒ることも出来なかった。

「……ヴィンスさん」

 ヴィンセントが門の外に消えるのをノエルは呆然と見送った。
 寂しくはない、けれども、彼の温もりが恋しかった。
 さっきまでこんなに近くにいたのに、もうすでに会いたい。
 叫び出したくなる気持ちを必死に抑えて、ノエルは屋敷の中に取って返した。食堂にそのままになっている食器を集めて、ワゴンで厨房へと運ぶ。マーサが来るまでに洗っておきたいと思ったのだ。何かしていなければ、本当に叫びながら走り出してしまいそうだった。

 ノエルはヴィンセントのことが好きだ。
 初対面からいい人だと思っていたし、今も変わらずとても優しくしてくれる。ノエルの傷を見ても嫌がらなかったし、結婚した日に「お互いのことをゆっくり知っていこう」と言ってくれたことも嬉しかった。
 けれど、その「好き」はノエルが旦那さまや奥さまたちに抱くものと同じ類のもののはずだ。
 親愛と信頼。それ以外の感情をノエルはまだ知らなかった。

 でも、ノエルは旦那さまに頭を撫でられても、奥さまやセドリックに抱きしめられてもこんなにどきどきはしなかった。優しい石鹸の匂いと柔らかい体温が気持ちいいと思ったけれど、こんなにずっと一緒にいたいと強く思うことはなかった。

 では、どうしてヴィンセントにだけこんな風に思うのだろうか。
 皿を洗いながら考えたがよく分からない。ノエルはまだ自分の中に育っている大きな感情に気づいていなかったのだ。


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