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第二章 夏
第五話
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昼過ぎには帰ってくると言っていたとおり、ヴィンセントは昼食を少し過ぎた頃に帰って来た。
手芸店に行った後、カフェで甘いものを食べて夕飯も外で食べようと誘われた。おすすめの店があり、そこの魚料理が美味しいらしい。ノエルはあまり外食をしたことがないから、ヴィンセントの話を聞いただけでわくわくした。
夕飯はいらないため、マーサとロバートも午後は休みにした。ふたりで出かけると伝えると、マーサは嬉しそうにノエルの支度を手伝ってくれた。
「うわぁ、たくさんありますね」
ヴィンセントが連れて来てくれた手芸店は、東部で一番大きい店だという。
中心街の百貨店のそばにある、三階建ての建物の全てにぎっしりと手芸用品が並んでいるのだ。
刺繍用の色糸を眺めながら、ノエルは感嘆の声を漏らした。
壁の一面が刺繍糸の売り場になっていて、そこに様々な色の糸が置かれていた。それを見て、すごいすごいと子どものようにはしゃいでしまった。
「欲しい糸を買うといい。今は何を縫っているんだ?」
「イニシャルです。その周りに季節の花をいくつか」
昨日、ノエルが刺繍していたヴィンセントのハンカチはもう完成間近だった。イニシャルは早々に縫い終わってしまったから、追加で花を刺繍することにしたのだが、それもそう手間がかかるものでもない。
あと少し、と答えるとヴィンセントは感心したように「すごいな」と言った。
「私はそういう細かい作業が苦手だから、ノエルがあっという間に様々な図柄を刺繍していくのは本当にすごいと思う」
「そうでしょうか。オルグレンの奥さまやそのお友だちはもっとお上手ですよ」
手放しに褒められて、ノエルはとても恥ずかしくなった。
ノエルの周りにはたくさん刺繍を嗜む人たちがいたが、その中でノエルは特別に上手だったわけではない。むしろ指導を受ける立場で、あれが出来ていないここが雑だと厳しく教えてもらっていた。
「俺はヴィンスさんみたいに、しっかり働いているのすごいと思います」
ノエルに出来ないことをヴィンセントはたくさん出来るはずだ。
そんな人に褒められると、なんだか申し訳ない気がしてくる。
肩を落として言うと、ヴィンセントは僅かに眉を上げて不思議そうな顔をする。
「ノエルも家のことをやっているだろう。屋敷の管理だけじゃなく、マーサやロバートの手伝いまでしている。それもすごいことだ」
「それは、身体を動かしていないと落ち着かないからで……」
「ノエルが重たいものを運んだり、高いところの作業を率先してやってくれるので助かっている、とマーサとロバートが言っていた」
「あのふたりがそんなことを? よかった……、仕事の邪魔になってないかと思っていたんです」
ヴィンセントから告げられたふたりの本音にノエルはほっと息を吐いた。
下働きの仕事をもらうため、ノエルはマーサやロバートの周りをよくうろうろしている。人によっては鬱陶しいと思うだろう距離で纏わりついては、何か手伝うことはないかと毎日のように訊ねるのだ。
優しいふたりは何も言わないけれど、内心はノエルのことを面倒くさいと思っているのではないかと心配に思っていた。
「マーサもロバートももう若くはないから、ノエルの気遣いはありがたいと思うが」
少し丸まったノエルの背中をヴィンセントの大きな手が撫でた。ヴィンセントの手はとても温かくて、いつもノエルの不安を癒してくれる。
「どの糸がいい?」
ヴィンセントがノエルの前に優しく訊ねた。
ノエルは少し考えて、並んでいる色とりどりの糸の中から緑色の糸を選んだ。深緑のような深い色で、ヴィンセントの瞳によく似た色だ。今度はこの糸で自分に何か作ろう、とノエルは思った。
他にもいくつかの色糸を買って店を出た。手芸店は布や糸だけではなく、レースや釦といった服飾に使うものがたくさん売っていて見ているだけで楽しかった。
予定していたカフェはヴィンセントが言うとおり、手芸店のすぐ近くにあった。
付近には百貨店もあり、買い物を終えた多くのご婦人がお茶を楽しんでいた。
ノエルは紅茶と糖みつパイを頼んだ。たっぷりのはちみつと砂糖を使ったパイは舌が痺れるほど甘く、苦みのあるお茶によく合っていた。ヴィンセントはあまり甘いものを好まない。それなのにカフェに連れて来てくれたのは、ノエルがあまり外食をしたことがないと以前言ったからだろう。
「お店で飲むお茶って美味しいですね」
紅茶を飲みながらノエルが言うと、ヴィンセントは「ノエルが入れてくれるお茶も旨いぞ」と真面目な顔をして言う。
そういえば、ヴィンセントが入れてくれるお茶も普段自分で入れるものよりも美味しい気がする。そのことに気づいてノエルは微笑んだ。
「俺、ヴィンスさんの入れてくれたお茶が一番好きです」
「そうか」
ヴィンセントが照れ隠しのように手元の紅茶を一口飲んだ。
逸らされた視線が可愛らしく、ヴィンセントのように立派な人でもこんな表情をするのかと愛おしくなる。
「家に帰ったらお茶を入れるので、ふたりで飲みましょう」
「そうだな」
テーブルの上に置かれたノエルの手にヴィンセントの大きな手が重なった。
自分に向けられる柔らかい視線と、穏やかな声。ここがカフェでなければ、もっとくっつけるのに。ノエルはふとそんなことを思った。
手芸店に行った後、カフェで甘いものを食べて夕飯も外で食べようと誘われた。おすすめの店があり、そこの魚料理が美味しいらしい。ノエルはあまり外食をしたことがないから、ヴィンセントの話を聞いただけでわくわくした。
夕飯はいらないため、マーサとロバートも午後は休みにした。ふたりで出かけると伝えると、マーサは嬉しそうにノエルの支度を手伝ってくれた。
「うわぁ、たくさんありますね」
ヴィンセントが連れて来てくれた手芸店は、東部で一番大きい店だという。
中心街の百貨店のそばにある、三階建ての建物の全てにぎっしりと手芸用品が並んでいるのだ。
刺繍用の色糸を眺めながら、ノエルは感嘆の声を漏らした。
壁の一面が刺繍糸の売り場になっていて、そこに様々な色の糸が置かれていた。それを見て、すごいすごいと子どものようにはしゃいでしまった。
「欲しい糸を買うといい。今は何を縫っているんだ?」
「イニシャルです。その周りに季節の花をいくつか」
昨日、ノエルが刺繍していたヴィンセントのハンカチはもう完成間近だった。イニシャルは早々に縫い終わってしまったから、追加で花を刺繍することにしたのだが、それもそう手間がかかるものでもない。
あと少し、と答えるとヴィンセントは感心したように「すごいな」と言った。
「私はそういう細かい作業が苦手だから、ノエルがあっという間に様々な図柄を刺繍していくのは本当にすごいと思う」
「そうでしょうか。オルグレンの奥さまやそのお友だちはもっとお上手ですよ」
手放しに褒められて、ノエルはとても恥ずかしくなった。
ノエルの周りにはたくさん刺繍を嗜む人たちがいたが、その中でノエルは特別に上手だったわけではない。むしろ指導を受ける立場で、あれが出来ていないここが雑だと厳しく教えてもらっていた。
「俺はヴィンスさんみたいに、しっかり働いているのすごいと思います」
ノエルに出来ないことをヴィンセントはたくさん出来るはずだ。
そんな人に褒められると、なんだか申し訳ない気がしてくる。
肩を落として言うと、ヴィンセントは僅かに眉を上げて不思議そうな顔をする。
「ノエルも家のことをやっているだろう。屋敷の管理だけじゃなく、マーサやロバートの手伝いまでしている。それもすごいことだ」
「それは、身体を動かしていないと落ち着かないからで……」
「ノエルが重たいものを運んだり、高いところの作業を率先してやってくれるので助かっている、とマーサとロバートが言っていた」
「あのふたりがそんなことを? よかった……、仕事の邪魔になってないかと思っていたんです」
ヴィンセントから告げられたふたりの本音にノエルはほっと息を吐いた。
下働きの仕事をもらうため、ノエルはマーサやロバートの周りをよくうろうろしている。人によっては鬱陶しいと思うだろう距離で纏わりついては、何か手伝うことはないかと毎日のように訊ねるのだ。
優しいふたりは何も言わないけれど、内心はノエルのことを面倒くさいと思っているのではないかと心配に思っていた。
「マーサもロバートももう若くはないから、ノエルの気遣いはありがたいと思うが」
少し丸まったノエルの背中をヴィンセントの大きな手が撫でた。ヴィンセントの手はとても温かくて、いつもノエルの不安を癒してくれる。
「どの糸がいい?」
ヴィンセントがノエルの前に優しく訊ねた。
ノエルは少し考えて、並んでいる色とりどりの糸の中から緑色の糸を選んだ。深緑のような深い色で、ヴィンセントの瞳によく似た色だ。今度はこの糸で自分に何か作ろう、とノエルは思った。
他にもいくつかの色糸を買って店を出た。手芸店は布や糸だけではなく、レースや釦といった服飾に使うものがたくさん売っていて見ているだけで楽しかった。
予定していたカフェはヴィンセントが言うとおり、手芸店のすぐ近くにあった。
付近には百貨店もあり、買い物を終えた多くのご婦人がお茶を楽しんでいた。
ノエルは紅茶と糖みつパイを頼んだ。たっぷりのはちみつと砂糖を使ったパイは舌が痺れるほど甘く、苦みのあるお茶によく合っていた。ヴィンセントはあまり甘いものを好まない。それなのにカフェに連れて来てくれたのは、ノエルがあまり外食をしたことがないと以前言ったからだろう。
「お店で飲むお茶って美味しいですね」
紅茶を飲みながらノエルが言うと、ヴィンセントは「ノエルが入れてくれるお茶も旨いぞ」と真面目な顔をして言う。
そういえば、ヴィンセントが入れてくれるお茶も普段自分で入れるものよりも美味しい気がする。そのことに気づいてノエルは微笑んだ。
「俺、ヴィンスさんの入れてくれたお茶が一番好きです」
「そうか」
ヴィンセントが照れ隠しのように手元の紅茶を一口飲んだ。
逸らされた視線が可愛らしく、ヴィンセントのように立派な人でもこんな表情をするのかと愛おしくなる。
「家に帰ったらお茶を入れるので、ふたりで飲みましょう」
「そうだな」
テーブルの上に置かれたノエルの手にヴィンセントの大きな手が重なった。
自分に向けられる柔らかい視線と、穏やかな声。ここがカフェでなければ、もっとくっつけるのに。ノエルはふとそんなことを思った。
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