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第三章 秋
第七話 ヴィンセント
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「エドガーさまは優しいから」
というのは、昨日ノエルが数えきれないくらい繰り返した言葉だ。
しかし、ヴィンセントはその認識が大いに間違っていることに気づいていた。
敢えて訂正しなかったのは、「エドガーさま」ことエドガー・オルグレンが事実、ノエルの前でだけはとても優しくなるからであり、ノエルにそれ以外の彼の顔を見せる必要がないと思ったからだ。
「ノエルが幸せそうで安心したよ。二枚ある帝都行きの切符を、一枚は使わずに済みそうだ」
応接間の布張りの椅子にゆったりと座ったまま、エドガーは微笑んだ。
その笑顔はさきほどノエルに向けたものとよく似てはいたけれど、目は全く笑っていなかった。ヴィンセントがよく知るエドガーのいつもの顔だ。
ヴィンセントとエドガーは直接の知り合いというわけではなかったが、同じ士官学校に通ったひとつ上の先輩だ。彼は他学年に名前が轟くほど優秀で、同時に冷徹な性格だと有名だったのだ。それがノエルの前ではあんなに柔らかく笑う。そのことにヴィンセントは驚いていた。
「昼間は、ノエルと何を話したのですか」
エドガーはわざわざヴィンセントを遠ざけて、ノエルとふたりきりで何やら話し込んでいた。義兄とはいえ、番のいない他のアルファを伴侶のそばに近づけたいと思うアルファはいないだろう。しかし、ノエル自身がエドガーに対してまったく警戒をしていないから、その近すぎる距離を咎めるわけにもいかなかった。
「気になるのかい」
「当然です。伴侶のことですから」
「……まぁ、どうということは話していない。庭の花の話と、あとは彼の口から直接『幸せだ』という話を聞いただけだ」
「そうですか」
エドガーの答えにヴィンセントは息を吐いた。
彼がノエルに会いに来たのは、ノエルの現状を確かめるためだ。もし、ヴィンセントが「不合格」だった場合、エドガーは「安心した」なんて口が裂けても言わないだろうし、そもそも彼が言ったとおりとっくにノエルを連れて帝都へと発っていたはずだ。
「過保護だと思うかい?」
エドガーがグラスを傾けながら言った。
オメガとはいえ、成人し結婚した弟の新居に押しかけるなんて、確かに過保護かもしれない。
おそらく、彼が己の来訪を前日に連絡してきたのはわざとだろう。礼儀もへったくれもない、直前の通達。それはこちらに事前準備をさせないためだ。
エドガーはノエルとヴィンセントのありのままの生活を見たかったのだろう。
ノエルを守るために。
それが分かっているから、ヴィンセントはエドガーの無礼な行為を文句も言わずに受け入れたのだ。
「まぁ、少しは」
「中尉があまりにも急にノエルを連れていくから、私も弟も心配で堪らなかったんだ。だいたい婚約期間がたった二週間ってありえないだろう。お相手がどこぞのご令嬢なら、婚約解消されてもおかしくないよ」
「それは、申し訳ないことをしたとは思っています。しかし、准将閣下の許可は得て……」
「父はノエルの身体のことが一番心配だったんだ。一刻も早くアルファと結婚させたかったんだろう。君は君で、早くノエルと暮らしたかった。しかし、私たちとしてはノエルがないがしろにされているのではないかと勘繰ってしまうには十分な扱いだった」
通常、帝国では半年から一年の婚約期間がある。
その間に両家への挨拶や、結婚後の生活の準備を行うのだ。
ノエルとヴィンセントの結婚にはその時間がほとんどなかった。なんとかこの家を探して、新生活が送れるようにしたけれど、それも最低限のものしか用意出来なかった。
おまけにノエルは、ヴィンセントの両親に会ってすらいないのだ。
ヴィンセントは商家の三男で、家の手伝いをするのではなく軍属になることを選んだ異端児だった。両親もヴィンセントには期待は一切せず、不仲というわけではないが、そう頻繁に連絡を取り合う間柄でもない。
両親には結婚する旨を手紙で知らせただけで十分だと思っていたけれど、ノエルがないがしろにされているとエドガーら家族が心配してもしょうがない扱いだ。
「私が知っているヴィンセント・ブラッドフォードは、生真面目でお堅い性格をしていたはずなんだけども、恋とはかくも愚かになるものなんだね」
呆れるように言われて、ヴィンセントは自らの顔がかっと熱くなるのを感じた。
愚かである自覚はあったが、改めて指摘されると恥ずかしいものがある。
「中尉がノエルに本気で惚れているのは見ていてわかるよ。ヒートがこれほど早く来たことを考えると、ふたりの相性もいいんだろう。でも、ノエルの気持ちはどうだろうか。私はずっとそれが気がかりだった。あの子はそうせよと言われれば、全てそれに従ってしまうからね」
そういうふうに躾けられている、とエドガーは言う。
ノエルが売られた先で虐待を受けていたのは、七歳から九歳までの二年間だ。
幼く、成長途中の少年の二年間は、大人のそれよりも比重がずっと重たい。ノエルは自らの自我を育む大切な過程で、歪んだ思想を植え付けられてしまった。
「嫌なことを嫌とは言えないんだ。東部に文句ひとつ言わずに嫁いだのも、彼の意思ではない。父が勧めたからだ」
「分かっています。だからこそ、私はノエルの嫌がることをしたくないし、彼が健やかに過ごせるように気をつけています」
「それはノエルを見れば分かるよ。ノエル自身もちゃんと君からの愛情を感じていると思う」
ふっと、エドガーが笑う。めずらしく人間みがある表情で、手元のグラスを見つめている。
「……ノエルがね、君と番になりたいんだそうだ」
「番?」
「そう。ヒートが来ただろう。あの子とそういう話をしたことがあるかい?」
結婚したアルファとオメガが番うことは珍しいことではない。生来、アルファは独占欲と庇護欲が強く、オメガを自分だけのものにしたいと望むことが多いからだ。
しかし、近年ではオメガの参政権が認められたり、オメガからの申し立てによる離婚が可能になったりと、彼らの権利が拡大し自立を貴ぶ風潮があった。その一環として、番にならない夫婦も増えてきているという。
「しっかりと話し合ったことはありません。私としては、まだヒートも来たばかりだし、焦ることはないと思っていますが」
なにより、結婚してまだ半年だ。
アルファのヴィンセントはともかく、オメガのノエルには一生消えない痕が残ることになる。そう易々と決断していいことでもあるまい。
というのは、昨日ノエルが数えきれないくらい繰り返した言葉だ。
しかし、ヴィンセントはその認識が大いに間違っていることに気づいていた。
敢えて訂正しなかったのは、「エドガーさま」ことエドガー・オルグレンが事実、ノエルの前でだけはとても優しくなるからであり、ノエルにそれ以外の彼の顔を見せる必要がないと思ったからだ。
「ノエルが幸せそうで安心したよ。二枚ある帝都行きの切符を、一枚は使わずに済みそうだ」
応接間の布張りの椅子にゆったりと座ったまま、エドガーは微笑んだ。
その笑顔はさきほどノエルに向けたものとよく似てはいたけれど、目は全く笑っていなかった。ヴィンセントがよく知るエドガーのいつもの顔だ。
ヴィンセントとエドガーは直接の知り合いというわけではなかったが、同じ士官学校に通ったひとつ上の先輩だ。彼は他学年に名前が轟くほど優秀で、同時に冷徹な性格だと有名だったのだ。それがノエルの前ではあんなに柔らかく笑う。そのことにヴィンセントは驚いていた。
「昼間は、ノエルと何を話したのですか」
エドガーはわざわざヴィンセントを遠ざけて、ノエルとふたりきりで何やら話し込んでいた。義兄とはいえ、番のいない他のアルファを伴侶のそばに近づけたいと思うアルファはいないだろう。しかし、ノエル自身がエドガーに対してまったく警戒をしていないから、その近すぎる距離を咎めるわけにもいかなかった。
「気になるのかい」
「当然です。伴侶のことですから」
「……まぁ、どうということは話していない。庭の花の話と、あとは彼の口から直接『幸せだ』という話を聞いただけだ」
「そうですか」
エドガーの答えにヴィンセントは息を吐いた。
彼がノエルに会いに来たのは、ノエルの現状を確かめるためだ。もし、ヴィンセントが「不合格」だった場合、エドガーは「安心した」なんて口が裂けても言わないだろうし、そもそも彼が言ったとおりとっくにノエルを連れて帝都へと発っていたはずだ。
「過保護だと思うかい?」
エドガーがグラスを傾けながら言った。
オメガとはいえ、成人し結婚した弟の新居に押しかけるなんて、確かに過保護かもしれない。
おそらく、彼が己の来訪を前日に連絡してきたのはわざとだろう。礼儀もへったくれもない、直前の通達。それはこちらに事前準備をさせないためだ。
エドガーはノエルとヴィンセントのありのままの生活を見たかったのだろう。
ノエルを守るために。
それが分かっているから、ヴィンセントはエドガーの無礼な行為を文句も言わずに受け入れたのだ。
「まぁ、少しは」
「中尉があまりにも急にノエルを連れていくから、私も弟も心配で堪らなかったんだ。だいたい婚約期間がたった二週間ってありえないだろう。お相手がどこぞのご令嬢なら、婚約解消されてもおかしくないよ」
「それは、申し訳ないことをしたとは思っています。しかし、准将閣下の許可は得て……」
「父はノエルの身体のことが一番心配だったんだ。一刻も早くアルファと結婚させたかったんだろう。君は君で、早くノエルと暮らしたかった。しかし、私たちとしてはノエルがないがしろにされているのではないかと勘繰ってしまうには十分な扱いだった」
通常、帝国では半年から一年の婚約期間がある。
その間に両家への挨拶や、結婚後の生活の準備を行うのだ。
ノエルとヴィンセントの結婚にはその時間がほとんどなかった。なんとかこの家を探して、新生活が送れるようにしたけれど、それも最低限のものしか用意出来なかった。
おまけにノエルは、ヴィンセントの両親に会ってすらいないのだ。
ヴィンセントは商家の三男で、家の手伝いをするのではなく軍属になることを選んだ異端児だった。両親もヴィンセントには期待は一切せず、不仲というわけではないが、そう頻繁に連絡を取り合う間柄でもない。
両親には結婚する旨を手紙で知らせただけで十分だと思っていたけれど、ノエルがないがしろにされているとエドガーら家族が心配してもしょうがない扱いだ。
「私が知っているヴィンセント・ブラッドフォードは、生真面目でお堅い性格をしていたはずなんだけども、恋とはかくも愚かになるものなんだね」
呆れるように言われて、ヴィンセントは自らの顔がかっと熱くなるのを感じた。
愚かである自覚はあったが、改めて指摘されると恥ずかしいものがある。
「中尉がノエルに本気で惚れているのは見ていてわかるよ。ヒートがこれほど早く来たことを考えると、ふたりの相性もいいんだろう。でも、ノエルの気持ちはどうだろうか。私はずっとそれが気がかりだった。あの子はそうせよと言われれば、全てそれに従ってしまうからね」
そういうふうに躾けられている、とエドガーは言う。
ノエルが売られた先で虐待を受けていたのは、七歳から九歳までの二年間だ。
幼く、成長途中の少年の二年間は、大人のそれよりも比重がずっと重たい。ノエルは自らの自我を育む大切な過程で、歪んだ思想を植え付けられてしまった。
「嫌なことを嫌とは言えないんだ。東部に文句ひとつ言わずに嫁いだのも、彼の意思ではない。父が勧めたからだ」
「分かっています。だからこそ、私はノエルの嫌がることをしたくないし、彼が健やかに過ごせるように気をつけています」
「それはノエルを見れば分かるよ。ノエル自身もちゃんと君からの愛情を感じていると思う」
ふっと、エドガーが笑う。めずらしく人間みがある表情で、手元のグラスを見つめている。
「……ノエルがね、君と番になりたいんだそうだ」
「番?」
「そう。ヒートが来ただろう。あの子とそういう話をしたことがあるかい?」
結婚したアルファとオメガが番うことは珍しいことではない。生来、アルファは独占欲と庇護欲が強く、オメガを自分だけのものにしたいと望むことが多いからだ。
しかし、近年ではオメガの参政権が認められたり、オメガからの申し立てによる離婚が可能になったりと、彼らの権利が拡大し自立を貴ぶ風潮があった。その一環として、番にならない夫婦も増えてきているという。
「しっかりと話し合ったことはありません。私としては、まだヒートも来たばかりだし、焦ることはないと思っていますが」
なにより、結婚してまだ半年だ。
アルファのヴィンセントはともかく、オメガのノエルには一生消えない痕が残ることになる。そう易々と決断していいことでもあるまい。
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