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8. 宴のファーストダンス
しおりを挟む城の中で一番豪華で広いホールが宴会場として用意され、国中の高位貴族と軍人達が集った。
宰相の前で何十回も練習させられた女王の挨拶、そして王国軍への労いと感謝の言葉を告げるのを成功させたアリシアに、会場中から大きな拍手と「女王万歳」の声が上がる。
一段と高い所にある女王の椅子からぐるり会場を見渡し、多くの笑顔を見られてホッとしたのも束の間、宰相の鋭い声が響き渡った。
「静粛に! 本日はこのラヴァル王国にとって非常に重要な発表がございます! 皆、静粛に!」
祝いの宴が始まったばかりで重要な発表があると言われたので、何事かと皆が動きを止め、宰相の方へと視線を集中する。多くの人々が集うホールに静寂が降りた。
アリシアは胃がひっくり返ってしまったのかと思うほど気分が悪く、全身から血の気が引いていく気がした。これから発表されるのは女王アリシアの伴侶が決まった事、そしてそれが此度の英雄テオバルトであるという事だ。
キリキリと痛む鳩尾を押さえながら、アリシアはそっと左横へと視線を向ける。アリシアから少し離れた場所では王国軍を率いたアレクサンドルと、バジリスクを屠った英雄テオバルトが玉座のアリシアと同じ方向を向いて並んで立っていた。
――実は、アリシアが初めて彼を見たのは今宵の宴が始まる前、謁見の間での事だった。アレクサンドルと共に重厚な扉をくぐって堂々と現れたその男に、アリシアは思わず息を呑んだ。
濡れ羽色に艶めく短めの髪。切れ長の黒い瞳は鋭さと知性を宿し、ふとした瞬間に熱を帯びる。
異国の血を引く証である褐色の肌は陽に焼けて引き締まり、軍服の上からでも分かる鍛え上げられた筋肉は、野生の獣のようにしなやかで強靭だった。
そんなテオバルトだが、王配になる事を決して喜んでなどいないというのが、憮然とした態度でありありと伝わった。女王を前にしても遜る事なく、ただありのままの姿でいるテオバルトに、アリシア自身は驚きと新鮮味を覚える。
しかし自分と夫婦になる事を明らかに嫌がっているテオバルトを前に、申し訳なさと情けなさでいっぱいになったのだった。
(こんな私と夫婦にならなくちゃいけないなんて、気の毒だわ。テオバルト卿のような方であれば、きっと素敵なお相手が他にたくさんいるでしょうに)
自尊心の低いアリシアは、上官命令で妻を決められたテオバルトを心底気の毒に思う。せめてもっと華やかで誰にでも好かれる女王であったなら……と悔やむ。
そんな事を考えるアリシアのすぐ近くでは、アレクサンドルとテオバルトの二人ともが、至極真面目な顔つきで、ただじっとホールに集まった観衆の方を向いている。
やはりテオバルトの横顔からは不機嫌そうなオーラが滲み出ており、横目で確認したアリシアは再び胸が痛むのを自覚した。
「此度の戦で活躍したテオバルト卿にはこのラヴァル王国の王配殿下となっていただき、今後もこの王国を率いていただくこととなったのです!」
宰相の言葉の意味を理解した者から順に、驚嘆の声と喜びの声、そしてそこかしこから大きな拍手が上がった。
一部の貴族は「平民出身の男が王配とは」と悪態をつき、ヒソヒソと囁き合っている者もいるようだ。
しかし一方で軍人達はというと「英雄テオバルトこそ王配に相応しい」と皆誇らしげに頷いている。
ホールの雰囲気でいえば一部の貴族の悪態よりも軍人達の喜びの方が明らかに勝っていて、多くの貴族や軍人達は歓喜の声を上げた。
「コホン!」
トンッ! と杖で床を鳴らした後の宰相の咳払いで辺りはシンと静まり返る。
肩身の狭い思いをしているアリシアはもう、テオバルトの方を決して見られないでいた。
(もしかしたらテオバルト卿にも好いた方がいたのかも知れない)
アリシア自身はいつか政略結婚をするのだと、幼い頃から分かっていた。しかしテオバルトは元々平民で、まさかこんな風に無理矢理相手を決められるとは思いもよらなかったに違いない。
幼馴染のキャスリンのように美しく聡明な女性ならばまだしも、アリシアは自分自身を「役立たずで誰からも邪魔者にされる人間」だと考えている。外見だって身近な人間に褒められた試しがない。
だからこそ心からテオバルトが気の毒で堪らなかった。
「ではテオバルト卿、女王陛下を今宵のファーストダンスにお誘いするように」
宰相は厳かに言ってからニヤリと笑う。今日の今日までテオバルトは平民だった。正式なダンスなど踊った事がないだろうと考え、皆の前で恥をかかせてやろうという魂胆である。
祝福ムードの観衆は申し合わせたかのようにホールの中心を開け、アリシアとテオバルトのファーストダンスに備えた。
いつもと変わらず無表情で隣に立つアレクサンドルと二、三言葉を交わしたテオバルトは、真っ直ぐにアリシアの元へと向かって来る。
均整の取れた身体と長い脚であっという間に玉座に座るアリシアへ辿り着くと、素早く跪き、正装用の真っ白な手袋を嵌めた手を差し出す。
褐色の頬に流れる艶めく黒髪が美しいなと、アリシアはつい見惚れてしまった。
「女王陛下、どうか俺……いや、私とダンスを踊って貰えますか」
「はい」
普段は自らの事を「俺」と呼ぶのだろうに、わざわざ「私」と言い換えたところが可笑しくて、アリシアは思わず笑顔を浮かべる。
それはまるで大輪の花が綻ぶかのような美しさで、誰もがホウッと息を吐くような笑顔であったのだが、当の本人は気付いていない。
そして実際テオバルトもそんなアリシアに見惚れ、息を呑んだ。
テオバルトの手を取り玉座から立ち上がったアリシアは、エスコートされながらホールの真ん中へと足を進める。
アリシア自身もこんなに多くの観衆の前でダンスを踊るのは久しぶりだった。
最後に踊った時の相手は弟のロランだったか、他国から訪問した王子だったか、どちらにせよ今ほど緊張していなかったので、正直なところあまり覚えていない。
衆目環境の中、二人はホールの中央に立つ。実のところ、テオバルトは軍人としては無敵でも、優雅な宮廷舞踏とは縁がない。戦場を駆ける脚を持っていても、舞踏会の床で軽やかにステップを踏む技術は持ち合わせていないのだ。
「お手を」
声だけ聞けば、まるで戦場に向かうかのような響きだった。アリシアは不安になりながらも、そっと手を差し出す。
しかし、テオバルトの指が自分の指と重なった瞬間、驚いた。大きな傷跡がいくつも残る手がそこにあったからだ。
「普段は剣しか持たないもんで、女王陛下の手を取るには、あまりに見苦しいでしょう」
「そんな事は……」
初めて見る痛々しい傷痕に驚きはしたものの、触れるのが嫌だという訳ではない。それでも上手い言葉を口に出来ないまま、テオバルトはアリシアの手を取った。
アリシアの知る貴族の異性達とは違い、テオバルトの言葉はぶっきらぼうで、真っ直ぐだ。
しかし意外にも、驚くほど優しく慎重にアリシアの指を包み込んだのだった。
「実のところ、ダンスは苦手でして」
「……私も久しぶりなので、粗相があるかも知れません」
二人には二十センチ程身長差があるので、ホールドを組んでもテオバルトの顔が間近に来ないのをアリシアは感謝した。
そうでなければさっきから頬が熱いのも、目が潤んでしまっているのも、あっという間にバレてしまうだろう。
「では、俺達がじっと見つめられないで済むよう、皆にも踊って貰いましょうか」
「え?」
どういう事かとアリシアが尋ねる前に、テオバルトは大きく声を張り上げた。
「聞いてくれ! 俺は根っからの軍人で、ダンスより魔物と戦ってる方が得意なもんでね! それでなくとも下手くそなダンスをじっと見られると、緊張して女王陛下のおみ足を踏んでしまうかも知れん! そんな事がないように、皆も一緒に踊ってくれ!」
テオバルトが声を張り上げる度に、ホールドを組んだ身体を伝ってビリビリとした振動がアリシアに届く。
普段から大声で叱責され続けているので、実は大きな声は苦手なアリシアだったが、テオバルトの低くて心地良い声は傍で聞いていても何故か平気なのだった。
「テオバルトー! いいぞー!」
「未来の王配殿下! 女王陛下万歳!」
思いもよらない呼び掛けにギョッとした表情を浮かべた年嵩の貴族達をよそに、軍人達は一丸となってテオバルトの声に応える。
やがてオーケストラの音楽が響き始めると、若い令嬢や子息達と共に、軍人達はダンスを踊り始めた。
「これで俺達の事をじっと見るのは暇な奴らだけになりました。女王陛下、つい先日までダンスなど縁の無かった俺で良ければ、一曲踊っていただけますか?」
周囲を見渡し、非常に愉快そうな表情を浮かべたテオバルトは、そう言ってアリシアに微笑みかける。
漆黒の瞳が穏やかな表情を浮かべたアリシアの姿を映し出していた。
「はい、喜んで」
ファーストダンスはどこかぎこちなく、本当にテオバルトという男はダンスが苦手らしいとアリシアは知る。
(でも……『つい先日まで』という事は、もしかして今日の為に少しはダンスの練習をしてくれたのかしら?)
それでも鍛え上げられた逞しい身体に身を預け、時折フワリと香るムスクのようなテオバルトの香水に包まれていると、これまでにない安心感を覚えた。
ふと思い立ちダンスの最中にアレクサンドルの方へと目を向けてみると、元いた場所から全く動いておらず、額に手を当て頭痛を堪えるかのような仕草をしている。
やがてのごとくアリシアが自分の方を見ている事に気付くと、また普段と変わらない何を考えているのか分からない表情に戻ったのだった。
(叔父様、体調が悪いのかしら?)
くるくると回るように立ち位置を変えながら視線を走らせたが、宰相の姿は元いた場所には見えず、恐らく馴染みの貴族達の側に向かったのだろうと考える。
どんな表情をしているのか見るのが怖かったので、アリシアは少し安心した。
「女王陛下」
「えっ? はい……っ、何でしょう?」
突然頭上のテオバルトから呼ばれ、ダンスをしつつ辺りを見渡していたアリシアはハッとして返事を返す。
思わずテオバルトの顔を見上げたら、漆黒の眼差しがアリシアに対して真っ直ぐに向けられていたのでドキリとした。
「さっきから誰かを探しているんですか?」
「いえ、そんな事は……」
「もしかして、この場に意中の相手でも?」
そう言ってテオバルトは小さく舌打ちをし、すぐに「しまった」という顔をしてから黙ってしまう。
何だか気まずい雰囲気が二人の間を流れ始めたところで、一曲目のダンスがちょうど終わりを迎えた。
アリシアはこんな時にどうして良いか分からない。ギクシャクした空気の中、無言で玉座までテオバルトのエスコートを受けるしかなかったのだった。
そうしてアリシアを玉座まで送り届けると、テオバルトは足早にアレクサンドルの元へと歩いて行く。それから何事か言葉を交わした二人はすぐに軍人仲間の元へと向かった。
そんな二人をアリシアはずっと目で追い続ける。どうしてか分からないが、今もテオバルトの声や香りがずっと近くに感じて胸が苦しい。
「おい、お前がアイツと婚姻を結ぶなんて聞いてないぞ」
そんな声に振り向くと、玉座へ無造作に手を掛け、アリシアを見下ろすロランが立っていた。
一段高い所にある玉座の近くには他に人はおらず、ダンスや歓談に夢中になっている観衆は姉弟の会話など聞いていない。
「私だって今日初めて宰相から聞いたのよ」
「ふん! どうせ宰相は英雄のアイツを使って王家の支持率を上げようとしてるんだろ。本当、見え見えの手だよな。しかも伯爵位まで与えてやってさ」
「アイツって言い方は失礼よ。テオバルト卿は王国の危機を救ってくださった方なのだから」
「僕だってその場にいればバジリスクを倒したさ。あの時はたまたま別の場所にいたから英雄になれなかっただけで……」
王族だが叔父のアレクサンドルに陶酔し、軍人として戦にも出るロランは、さも悔しそうに口にした。
テオバルトより六つ年下のロランは、アレクサンドルがテオバルトを高く買っている事を面白く思わず、また自分の事をテオバルトがまるで子どものように扱うのが気に食わないらしい。
「平民の癖に叔父上の側近だなんて生意気だ」
「ロラン、あなたは少佐で、あの方はあなたの上官でしょう。そのような言い草は良くないわ」
「だけど僕は王子だ。アイツは王国に仕えているんだから、僕より下だろう」
「またそんな屁理屈を……」
「ふんっ」
姉弟はいつもと変わらない会話を交わし、アリシアも何だかんだと言ってもロランのお陰で緊張がほぐれてくるのを感じた。
もしかしたらロランはアリシアが緊張しているのを分かっていて声を掛けたのかも知れないと思ったが、それを口にしたところで本人は認めるわけがないので黙っている事にする。
「ロラン、こんな所で時間を無駄にしていないで、早く令嬢をダンスに誘ってきなさい」
「うわ……母上、いつの間に」
ハッと気付くと王太后がすぐ近くに立っていた。ロランと同じ真っ赤に燃え立つような髪を派手に結い上げ、緑色の瞳を爛々とさせてアリシアを睨みつけている。
煌めく色とりどりの宝石が縫い付けられた真っ黒なドレスを身に付けているのは、今宵の喜び事に対しての敵意からだろうか。
白地に金色の刺繍が施されたアリシアのドレスとは正反対の印象を与えるものだった。
「何ですか、その言い草は。全く、軍になんか入るからそんな風に下品な言葉を覚えてくるのです。さあ、早くお行きなさい。若い令嬢方が王子のあなたがダンスに誘ってくれるのを今か今かと待っているのよ」
王太后は羽根の扇を口元に当てながら、軍の活躍を祝うこの場に相応しくない言動を言い放つ。
周囲に人がいないのを良いことに、アリシアとロランにだけ聞こえるような声量だった。
「はいはい、行けばいいんでしょう。あーあ、とりあえずキャスリンでも誘うかな」
「ロラン! あの子はダメよ。宰相の娘だなんてとんでもない!」
「そうですか? それなら母上がどなたか紹介してくださいよ。さあ、ほら、行きますよ」
そう言ってロランは王太后を連れてアリシアの元を去って行く。
王太后も実の息子であるロランにだけは甘いので、アリシアに対する嫌味もほどほどに席を離れてくれてホッとする。
今日はずっと肩の力を張り詰めていたので、首筋と背中も凝り固まっている。アリシアは大きく息を吐き出した。
まだ宴は始まったばかり、これから貴族達が女王であるアリシアの元へと、祝いの言葉を述べに列を作るだろう。
それまでのほんの少しの間、この曲が終わるまでの間だけ、アリシアはついさっきまで傍にいたテオバルトへ思いを馳せていた。
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