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16. アリシアの大きな誤解と夫婦の始まり
しおりを挟む分厚いカーテンの隙間から薄明かりが差し込む寝台の中で、アリシアは静かに身じろぎした。
柔らかなリネンの香りと、いつもテオバルトが纏っている香水のような香りが鼻をくすぐる。
「……っ」
背後に感じる自分以外の体温。これまでずっと一人きりだった朝が、初めて誰かと迎えられた。
(昨日……私、あんなに恥ずかしい姿をテオバルトに……)
初夜の行為は夫婦であれば誰もが経験する事だ。一糸纏わぬあられもない姿を見せるのも、自分ですら触った事がない場所に触れさせるのも、閨では当然なのだろう。
恥ずかしいと思うのはおかしいのかも知れない。けれどもアリシアは当然受けるべき閨教育を受けさせて貰えなかった。
ロランでさえ、そのような教育を受けたと随分と前に興奮気味で語っていたのに。
「大丈夫か?」
低くて甘い声がアリシアの耳に届く。それが心地良く感じるのは、いつもは一人ぼっちで冷たい寝具が二人分の体温であたためられているからだろうか。
「……大丈夫……です。ごめんなさい……私、あんなにはしたない姿を……見せてしまって」
正解が分からない。昨夜テオバルトはアリシアの身体を暴きながら、「気持ちいいのが正解だ」と教えてくれた。
それが本当ならば軽蔑はされていないはずだけれど、アリシアはまだ不安で堪らない。たどたどしく言葉を紡ぐアリシアの声は掠れていた。
「……喉が渇いただろう。待ってろ、水を汲んでくる」
ごめんなさい、と謝罪した事への返事はなかった。アリシアの背中越しにテオバルトは寝台から起き出し、枕元にあるナイトテーブルの上に置かれた水差しからグラスへ水を注ぐ。
このまま一人いつまでも寝ているのはおかしいのではないかと考えたアリシアは、掛布を裸体に巻くようにして起き上がる。
「あ……」
未だ裸体のアリシアに対し、テオバルトは黒のトラウザーズを履き、上半身はボタンをいくつか外した白のシャツを着ていた。
シャツの隙間から覗く厚い胸板にアリシアの視線が囚われ、急に恥ずかしくなってしまう。
「ほら、飲め」
「ありがとう……ございます」
何気なく差し出されたグラスへ手を伸ばそうとして、身体を隠していた掛布がずれ落ちそうになる。ハッとしたアリシアは慌てて膝を立ててそれを阻止した。
テオバルトはそんなアリシアの行動を見下ろしつつ、やがてのごとく視線を斜め下へと逸らす。シュッとした頬がほんのり赤みを帯びているように見えるのは、気のせいではなさそうだ。
「ゆっくり飲めよ。起き抜けに急に飲むとむせ込む……」
「ゴホッ、ゴホッ!」
テオバルトの忠告虚しく、アリシアは緊張のあまり慌てて水を口に含んだせいで渇いた喉が刺激される。苦しげにむせ込むアリシアの背中を、テオバルトは無骨な手付きで撫でてくれた。
「ほら、言わんこっちゃない。時間なんざいくらでもあるんだからな、慌てる必要なんてないんだ」
「コホッ……ごめんなさい……」
涙目で謝るアリシアに、テオバルトは困ったような顔をしてからフッと笑う。口の端をクイッと持ち上げるような、いつものテオバルトらしい笑みだった。
「謝るな。俺は宰相じゃない。そんな事で怒ったりしない。それと……俺の前では、ただのアリシアでいろ」
「ただの……アリシア……?」
「そうだ。昨日俺達は夫婦になったんだろ? 女王とか王配とか、そんなのは表向きの呼び名だ。二人の時はそんな堅っ苦しい関係でいたくない」
アリシアは戸惑う。誰かにそんな言葉をかけられた事など、ただの一度も無かったから。何も返事が出来ないアリシアに向かって、テオバルトは豪快に言ってのける。
「いいか、俺は平民だ。高貴な女王陛下は平民の夫婦がどんなかご存知ないだろうが、下々の夫婦はお互いを名前で呼び合うし、遠慮なんかしない。言いたい事は言って、腹ん中全部見せ合うんだ」
「そう……なのですね」
「ああ、だから二人の時はそういう風にするんだ。表向きは王配として女王陛下に傅いてやるから」
そう言ってテオバルトはアリシアの頭をポンポンと軽く叩いた。まるで幼子に言い聞かせるかのような、そんな仕草にアリシアは胸があたたかくなる。
こんな風に父親にも、叔父にも……母親が生きていたならば是非されてみたかった。
「分かりました。あなたがそう言うのなら、そのようにいたします」
ほんのりと頬を染めたアリシアは素直に答える。テオバルトはそんなアリシアの姿を眩しそうに見つめていた。
とはいえ、テオバルトの言う平民の夫婦像はごく一部のもの。しかしアリシアはそれが正しいのだと受け取った。テオバルトにしてみれば、自分の理想の夫婦像を語ったに過ぎないのだが。
「今日からしばらく休みを貰っているからな。何かしたい事はあるか?」
そう問われても、王城からほとんど外に出た事がないアリシアはこういう時に何をすれば良いのか見当もつかない。
夫婦になった夜の事しか、誰も教えてくれなかったからだ。それさえも曖昧で、大切な事は何一つ知らされていなかったのだけれども。
「テオバルトの……したい事を、一緒にしてみたいです」
まだその名を気安く呼ぶのが慣れない。アリシアがたどたどしくも自分の名前を紡ぐのを、テオバルトは満足げに見つめていた。
「それじゃあ明日にでも、二人で城下町でも見に行くか。滅多に見れないお前の姿を近くで見れば、民も喜ぶだろう。ただし、気取った店なんか知らねぇから、女王陛下にはつまんないかもな」
「そんな事ありません! 私、もっと民の近くに寄り添いたい。私自身は何も出来なくても、声を掛けたい。手を差し伸べたい」
普段は物静かなアリシアが、この時ばかりは多弁に語る。熱のこもった言葉は、お飾りの女王として生きてきたアリシアがずっと願っていた事だった。
しかしこれまで宰相はそれを許さなかった。アリシアが自ら意見を発するのも、勝手な事をして民の近くへ寄るのも。
それらはアリシアを操る宰相にとって命取りとさえ思っている。女王が宰相の傀儡であると周囲に知られては困る上に、傀儡が自我を持つなどもってのほかだった。
「行くなら護衛を……いや、俺で十分か。じゃあ明日に備えて今日はゆっくり休むんだな」
「いえ、今日にでも是非行きたいです!」
「今日? 大丈夫かよ、身体は」
昨日は初夜だったとはいえ、二人の間には何も無かった。だとしてもアリシアの身体に全く負担がなかったかと問われれば、テオバルトには分からない。
一応大切に、随分と手加減はしたつもりだが。
「ええ、平気です。テオバルトが……とても優しくしてくれたから……」
頬を真っ赤に染め、うっすら濡れた唇で告白するアリシアに、テオバルトは目を見開く。
「……は?」
「初夜は辛いもの、とだけ聞いていました。でも、幸いにも私の身体は辛くありません。テオバルトが優しくしてくれたからですよね?」
そう言って笑いかけられたテオバルトは、しばらくの間何も言えず硬直してしまう。まさかアリシアはあれで初夜を終えたと思っているのか、と大きな衝撃を受けた。
自分は抑えきれない熱を浴室で発散する羽目になったのに、当のアリシアは何も知らず、今も無邪気に微笑みかけてくる。
「嘘だろ……」
「え? 何か言いましたか?」
テオバルトは「はぁ」と息を吐いてから額に手をやった。その間もアリシアは期待に満ちた瞳を目の前の夫へと向けている。
城下町へ出かけるのがよほど楽しみらしい。
「……なら、行くか。俺達がこれから守っていくべき民の生活を見に」
「はい……っ」
元気な声を上げたアリシアは、慌てて寝台から降りようとして、衣服を纏っていない事に気付く。
どうしようかと思案しているうちに、テオバルトは「ゆっくり支度しろ」と告げて先に寝室を後にしたのだった。
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