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17. 変化の兆し
しおりを挟むアリシアが女王になって随分と経つ。数えてみれば、約七年。しかし宰相に言われるがまま政治を行ってきたアリシアは、ラヴァル王国の実態を知らない。
玉座の上では確かに権威を持つように見えても、それはただの飾りに過ぎなかった。アリシアには何の権限も、力もないのだから。
王配となったテオバルトは、アリシア付きの女官達に今後は舐めた真似をするなと釘を刺した。
国を救った英雄に凄まれた女官達は、その迫力と威厳に頷くしか出来ず、初夜の翌日からアリシアは王族として相応しい世話をされるようになったのである。
やがて二人はごく質素な衣服に身を包み、極秘裏に城下町へ降りる。
城下町では身元を明かさず、アリシアは商家の娘という設定で「リジー」と名乗り、テオバルトも「テオ」として彼女の『護衛役』を演じる事にした。
賑わう市場、騒がしい酒場、子どもたちの笑い声。テオバルトの愛馬から見た民の生活は、アリシアにとって初めて間近に見るものだ。
王城のバルコニーから見下ろす景色とは、全く違っていた。
王都は人が多過ぎる。正体を隠し、お忍びで訪れていたアリシア達は自然と賑やかな場所を離れ、城から数キロ離れた小さな村へと向かっていた。
テオバルトが昔足を運んだ事のある、穏やかで静かな村だった。
そこでは春先の畑仕事に追われる村人が泥にまみれて働いていた。村のあちこちに点在する家々は老朽化し、いくつかある井戸は枯れかけ、痩せ細った子どもが懸命に野良仕事を手伝っている。
王都の様子とは違う、目を覆いたくなるような暮らしがそこにあった。
「……あんなに小さな子どもも働いているのですね」
「ああ、王都を除けば、国中のどこだって同じようなものだ」
アリシアは知らなかった。常に宮中で聞かされていた『安定した治世』や『民の感謝』の言葉とは、一体何だったのか。
確かに城下町である王都は賑わっている。しかし少しその場を離れれば、飢えと渇きと、それでも黙して堪える人々の姿があったのだ。
(恥ずかしい……どうしてこんな事も知らないで女王だなんて言えたのかしら。国中が豊かで、恵まれた王国だと思っていたのに)
宰相はアリシアに厳しいが、それでも政治に関しては優れた手腕を発揮する人物なのだと思い込んでいた。実際に周囲の評価は敏腕宰相だと言われていたのだから。
しかしそれは一部の貴族達の声だけだったという事に、アリシアは気付かされた。
直接民の声を聞く機会などほとんどないのだから、それも当然の事。アリシアは世間知らずな恥ずかしさと悔しさで思わず拳を握り込む。
テオバルトはそんなアリシアを黙って見守っていた。
アリシア達が足を止め、遥か彼方まで続く畑を見ていた時、村の一角で声が上がった。
「おい、そこの男……その顔、見た事あるぞ!」
アリシアが振り向く前に、テオバルトはすでに腰に手を当てていた。その顔は皮肉げな笑みを浮かべつつも楽しそうだ。
「ちっ、誰かと思えば……傭兵あがりの王配様じゃねぇか!」
畑の中から叫んだのは、かつて同じ戦場で共に戦った男だったらしい。瞬く間に人が集まり始め、ざわめきが村を包む。
「じゃあその隣の女は……女王陛下⁉︎ 嘘だろ、本物か⁉︎」
アリシアはとっさに口を開こうとしたが、言葉が出なかった。村人達が世間知らずの女王を歓迎してくれるかどうか分からない上に、非難の声を直接向けられるのが恐ろしかったのだ。
すると、テオバルトがアリシアを守るようにして腕を伸ばし、一歩前に出て村人達の前に立つ。
「騒ぐな。今日の俺達は見物客だ。偉そうな口きくつもりもねぇ」
けれど、アリシアはゆっくりとその腕を押しのけた。紫色の瞳には、これまでに無かった強い光が灯っている。
「いいえ。私は……女王として、ここに来ました。あなたたちの暮らしを、自分の目で見る為に」
村人達は互いに顔を見合わせた。驚きもあれば、疑念もある。その中で、一人の老婆が進み出た。そして皺だらけの口をモゴモゴとさせてこう言った。
「……女王様、見ただけで済ませるのかい?」
その言葉は、アリシアの胸に深く突き刺さった。見ただけで、満足して帰るのか? この現実を目にして、それでも王座にふんぞり返っていられるのか? と、問われている。
すぐには何も言い返せなかった。けれどもその沈黙の中に、確かな決意が芽吹いている。テオバルトはその横顔を横目で見て、小さく鼻を鳴らす。
「……閣下もそうだが、ちゃんと王族の顔してんな」
「え?」
「見下ろす顔じゃねぇ。その道を踏みしめてる顔だ。俺はそういうの、嫌いじゃねぇよ」
アリシアは彼を見上げて、自然な笑みを浮かべた。もう何年も自分の意思を持ち、発言した事などなかった。笑う事さえ、決められた時に決められたように笑えと言われてきたのだから。
村を後にした帰り道、アリシアは一言も話さなかった。けれどその手は、ずっと拳を握ったままだった。何かを失くさないようにするかのように。
(このままじゃいけない。このままじゃ……)
王宮へ戻ったアリシアは、すぐに政務室を訪れ、宰相に言った。
「この国の予算配分を見直します。飾りのような行事より、井戸一本を各地域へ」
そう言った女王の声は、これまでで一番強く澄んでいた。
だがその声は、宰相には届かなかった。
アリシアの決意に対し、宰相は眉一つ動かさず静かに言う。
「……女王陛下。民へのお心遣いは感謝いたしますが、国家予算は感情で動かすものではございません。既に計上された支出を今さら見直すなど、混乱を招くだけです」
その口調はやけに穏やかでありながら、明確に拒絶の意志を含んでいた。てっきり杖で打たれるか、または酷い言葉でなじられるとばかり思っていたのに、あまりに拍子抜けだった。
宰相の前に並べられた帳簿には、数字がぎっしりと書き込まれている。アリシアには見慣れない専門用語も多く、それが宰相の言う『正しさ』に重みを与えていた。
アリシアは思わず言葉を失った。胸の奥で燃えていたものが、急速に冷えていくのが分かった。いや、萎んでいくというべきか。
あの村で見た現実も、拳に込めていた決意も、まるで子どもの戯言のように一蹴された気がした。
(やはり……私は何も変わってない。テオバルトが優しくしてくれたからって変わったつもりになって、舞い上がって、こんな風に行動してみれば何かを変えられるのかもと……馬鹿な思い上がりだったのかしら)
テオバルトが見れば、きっと舌打ちしていただろう。だが彼はここにはいない。
もしかしたら心配して扉の向こうで控えているかも知れないが、今は女王として、アリシア一人がこの場に立っているのだ。
(私は……間違っていたの? ただの感情で動いただけ?)
思考がぐらつく。けれど宰相は止まらない。むしろ淡々と、冷静な正論で女王の言葉を押し潰す。
まるでアリシアがこのような行動をとる事を予想していたかのように。
「王配殿下とのお忍びでの視察は無駄だったようですな。陛下はご存じないでしょうが、予算の振り替えには審議会の承認が必要です。しかも、地方に対する支援はすでに今年度、十分に……」
「十分ではありません!」
突然、アリシアの声が上ずった。驚いた宰相が少しだけ目を見開く。アリシアが自らの意思で言葉を発するとは思っても見なかったというように。
今回の事だって、てっきり王配であるテオバルトが差し向けたのだと考えていた。だからこそ二人がお忍びで出掛けたと聞いた時、このような流れになるのはある程度予測が出来ていたのだが。
「一体どうしたのです? 女王陛下。あなたらしくない」
宰相はテオバルトのいないこの場でもアリシアを敬うふりをする事で、余計にアリシアへ圧力をかけている。「何を馬鹿な事を言っているのだ」と無言で責め立て、「傀儡は黙って言う事を聞いていればよい」と鋭い眼差しで訴えていた。
物心ついた時からずっと虐げられてきた宰相に対する恐怖は、そう簡単に拭えるものではない。
アリシアの瞳には涙が浮かんでいたが、それは悲しみではなく、必死に堪えた怒りとこれまでの自分への不甲斐なさ、悔しさから滲んだものだった。
「私は……直接村を見てきました。井戸も、畑も、家も。子どもが飢えているんです。なのに『十分』だと言うのですか? 数字だけを見て、民の何が分かるのですか?」
沈黙が落ちた。
勇気を振り絞ったアリシアの声は震えていた。足はガクガクと震え、今にも倒れてしまいそうだ。それでも前を向き、決して逃げ出さなかった。
「宰相の言う『正しさ』が、私には分かりません。でもあの子どもたちが、来年も生きているかどうかを考えるのが私の務めだと……私は、そう感じたのです」
それは、届いたとは言えない声だった。むしろ、宰相の冷笑を誘っただけかもしれない。
だがその場にいた一人の秘書官が、アリシアの言葉に目を潤ませ、俯いたまま拳を握っていた。たった一人、けれど確かにアリシアの言葉に揺れた者がいたのである。
その夜、アリシアは王配の居室でじっと火の灯る暖炉を見つめていた。着替えもせず、髪もほどかぬまま、ただじっと。
そこへ戻ってきたテオバルトが、彼女の隣に腰を下ろす。
「……玉砕か?」
アリシアは小さく頷いた。
「声を上げても、届きませんでした。きっと宰相は私が宰相の元へ行くのを知っていたのでしょう。全てあの人の手のひらの上……私は傀儡だから。でも……言いたかったんです。言わなければ、あの村に背を向けることになると思ったから」
テオバルトは黙って、アリシアの髪に手を伸ばした。固く縛っていた結い目を解き、ふわりと広がる金の髪を優しく撫でる。
「いいじゃねぇか。届かなくても、奴の前に勇気を出して立ってたってことが大事なんだろ」
「……立って、ただ笑われただけでした。打たれなかったのは、あまりに間抜けだと思われたからかも知れません」
「でも今までのお前なら、座り込んで、黙って殴られてた」
瞳を潤ませたアリシアは少しだけ唇を噛んだ。悔しさと、それでも胸に灯る誇りの間で揺れる自分の心が、どうしようもなくて。
テオバルトはそんな彼女を腕の中にそっと抱き寄せた。
「お前が『諦めない』って決めたのなら、俺が全部ぶっ壊してやるよ。国の英雄ってのは、そういう役だろ?」
それはテオバルトなりの誓いだった。
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