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27. ロランの決意
しおりを挟む夜気に包まれた庭の片隅に、男女三人の影が浮かび上がっていた。
自身の馬を急かして駆け抜けてきたロランの息はまだ荒く、慌てて馬から降り、乱れた外套の裾が風に揺れている。
そんなロランの視線の先には、ドレスに血を纏わせたアリシアの姿があった。
「アリシア」
随分と久しぶりに呼ばれた気がして、アリシアはロランに向かって微笑んだ。
傍らに立つテオバルトが、身を引くようにしてアリシアの肩から手を下ろす。今ここで姉と弟の会話を邪魔する気はないというように。
「ロラン……」
アリシアがそう呼びかけると、ロランはほんのわずかに目を伏せた。
幼い頃、誰よりも優しく、誰よりも孤独だった姉。その孤独を知っていながら、表立って手を差し伸べることができなかったのは——ロラン自身の弱さだったと、その顔に後悔の念が滲んでいる。
「母上が……すまない。僕は……僕は……」
ロランの声は掠れていた。そこには単なる怒りでも、悲しみでもない。不甲斐なさ、後悔、心の痛みなど様々な感情が入り混じっているのがまざまざと感じられた。
たった一人の母との血の繋がり、それゆえに強く出られなかった自分。けれど、どうしようもなく心を縛る姉弟の血の繋がりが、ロランの言葉に影を落としていた。
王太后カーラ。冷ややかで美しく、強かにして執拗。上昇志向の強い彼女の眼差しの先にあるのは常に『王冠』であり、その為にアリシアは邪魔だった。
だからロランもまた、愛する姉を『邪魔ものの娘』として扱わねばならなかった。幼い頃からそう言い聞かされ、そんな態度を強いられ続けてきたのだ。
——本当は、いつだって味方でいたかったのに。
ロラン自身は母の寵愛を受け、臣下の注目を浴び、あわよくば王位をという甘い囁きを常に聞かされるうち、次第に自分がどちらの側に立つべきかを見失っていった。
第二子として生まれた自分の存在が、誰かを傷つけるための『道具』になっていると気付いていながら、彼はこれまで目を背け続けたのだ。
王宮から飛び出し、叔父の元で軍人として務める事で、決して王位には興味がないと暗に知らせ続けてきたのも、ロランにしてみればアリシアを守る為に出来る最大限の努力だった。
けれど今、血濡れで傷付いたアリシアがそこにいる。その身体を覆う埃や血の痕に、姉が母のせいでどれだけの苦しみを味わったのかが、言葉よりも雄弁に語っている。
「僕は……母のやり方を知ってた。何となく気付いてたのに、結局何もできなかった」
震えるロランの声に、アリシアが目を見開いた。彼は姉の前に歩み寄ると、ぎこちなく片膝をつくようにして、顔を俯ける。まるで赦しを請うように。
「いつだって本当はお前を守りたかった。けど……どうすればよかったのか、ずっと……分からなかった」
その言葉には、長い年月をかけて心に積もった葛藤と、自責と、ほんのわずかな希望が滲んでいた。
アリシアはしばらく黙っていたが、やがてそっと膝を折り、子どもの頃よりもすっかり逞しくなったロランの肩に手を置く。
「私はあなたを責めた事なんて……本当に、たったの一度もなかったわ」
夜風が木々を揺らし、静かに葉擦れの音が満ちる。カーラという母と、王位という宿命。
その狭間で揺れるロランの心。そこへ今ようやく一筋の光が射したように、アリシアと同じ紫色の瞳に光が灯った。
「僕は……僕なりに責任を取るよ」
ロランは涙声でそう言って、困ったような顔で笑った。
女王拉致事件から一夜明けた王城。
それは、百年に一度あるかないか。王命による突然の招集に何事かと集まったラヴァル王国の高位貴族達は、戸惑いを隠せなかった。
――国教である月の女神信仰の下では貴族も平民も平等である。
しかし月の女神の教え自体は平等を唱えつつも、実際の統治においては王族と貴族達との結びつきが国の安定に必要不可欠だった。
いつからかは不明だが、ラヴァルの王族は高位貴族への特権として、変わったものを与えるようになった。
女神の教えに反しない程度の、しかし王族として最大限の譲歩を見せるそれは、王家にとって何か大きな変化や不測の事態を伴う際、彼らにだけは前もって知らせるという決まりごと。
かつての王族のうち、誰がはじめたのかは分からない。けれどもそれは今の世も引き継がれている習わしだった。
だからこそ、彼らに此度の事を全てを報告する義務が王家にはあったのだ。
既に事情を知る官僚達は険しい顔つきで、広間の空気は重い。彼らの沈黙の中には、極度の緊張が張り詰めていた。
ここに王太后カーラはいない。彼女はロランの手によって、王太后宮に囚われている。
そして彼女の断罪は後日執り行われると決まっていた。
まだ貴族達には知られていない、昨夜の凶行。女王拉致という前代未聞の事件の真相を語る為、皆の前に立ったのは、他でもない王弟ロランである。
「昨晩、女王陛下は亡き先代国王へ捧げる祈りの最中、突如現れた賊により拉致された」
王国軍の軍服を見に纏ったロランの姿は、かつての少年の面影を微かに残しながらも、すでに一人の覚悟ある軍人としての凛とした風格を帯びている。
その背筋は真っ直ぐに伸び、言葉一つ一つに揺るぎのない意志が滲む。
「そして、女王陛下を拉致するよう指示したのは……王太后カーラ。すなわち、私の実母による凶行だ」
その一言に、集められた貴族達の間に先程よりも大きなどよめきが走る。
ロランの目は伏せられなかった。あまりに近しい者が犯した罪――その全てを口にすることは、己の肉を裂くに等しい苦痛だ。それでも彼は語った。
カーラがアリシアを連れ去るよう命じた事、その為にかつてカーラが生まれ育った屋敷が使用された事を。
見えないふりをして見過ごしてきた多くの細かな兆候を、今ようやく『証拠』として言葉に変えたのだ。
「このような事件が起こったのも、全ては僕に王位継承権があるからに他ならない」
それは幼い頃から母によって注がれてきた愛情の形であり、同時に、王位という名の毒でもあった。
「僕は、軍人だ。叔父であり軍帥であるアレクサンドル・ ル ・デュラス閣下に憧れて、この道を選んだ。そんな僕が母の罪に目を背けたまま、万が一にも王位に就く可能性を残すなんて、恥以外の何物でもない」
ロランはゆっくりと深く息を吐いた。緊張ではなく、覚悟を伝える為に。
「よって、僕は王位継承権を放棄する。代わりにラヴァル王国に仕える身として、剣を取り、民を守る。それが僕の選んだ道だ」
その宣言は、静かに、しかし確かに広間の空気を変えた。騒ぎ立てる者も、反論する者もいない。ただその背中に、王家の一員としての誇りと痛みが宿っていたからだ。
拍手も、野次もない。ただ静かな同調。壇上から降りるロランをアリシアはそっと迎えた。
「……立派だわ。ロラン」
それだけを言った。何も咎めず、ただ静かに、弟の決断を粛々と受け止めるように。
アリシアにとって、ロランはいつだって『可愛い弟』だった。
冷遇されてきた自分と対等に話してくれる、自分と何気ない言葉を交わしてくれる、可愛い弟。
幼い頃からカーラに命じられ、冷たく装い続けたロランの本心を、きっとアリシアはどこかで理解していた。
だからこそ今、彼がカーラの呪縛から解かれ、自らの道を選んだ事を心から誇りに思っていた。
ロランは一瞬だけアリシアの目を見つめ、ほんのわずかに微笑む。そしてすぐにその表情を引き締め、軍人の顔に戻った。
その背には、もうカーラの影はない。あるのはただ、己の信じる正義と、女王である姉への静かな敬意だけだった。
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