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38. 純粋な愛に救われる(アリシア、テオバルトside)
しおりを挟む月が低く垂れ、静かな夜が城を包んでいた。女王と王配の寝室からは、ほのかに柔らかな香りが漂ってくる。
その香りの正体は、『月の香』――かつてただ一度だけ『月の御子』が無事に生まれたという記録にあった香油を、テオバルトが王宮の図書室にある古い写本から読み解き、優秀な学匠と共に再現したものだ。
司教は言った。「母体の命は、持たぬかもしれません」と。
大司教は言った。「この世に双子を宿すことは、月の神が選びし者に与える試練」と。
それでも――いや……だからこそ、テオバルトは静かに誓ったのだ。
奪わせはしない。どんな理不尽な定めも、神の試練も。自分の剣と足と、この手で防ぐのだと。
寝室と自室の間にある扉の前に立ち、耳を澄ませる。アリシアの寝息は静かで、どうやら香が効いているようだ。
年嵩の薬師の指示で調合した、冷えを防ぐ温香に、こっそり『月の香』を混ぜた。アリシアが安らかに夢を見られるように――ただ、それだけを願って。
「……お前は知らなくていい。知ればまた、俺の事を思って泣くだろう」
小さく呟き、テオバルトは踵を返す。
シンとした廊下を抜けると、誰もその存在を知らない彼の私兵――かつての傭兵仲間達が、無言で立っていた。その中にはアリシアと共に訪れた村で再会した、あの男の姿もある。
軍の部下には頼めない。王宮の衛兵にも、だ。これはごくごく個人的な事なのだから。
「異変あれば、一刻で西の門へ」
「馬は三頭、隠してあります。すぐに大司教と薬師の元へ向かえます」
誰もテオバルトの下した命令の詳細を問わなかった。
彼らは知っている。テオバルトは今、奪う為の戦いではなく、『生かすための戦』に立っていることを。
そしてテオバルトはまた、夜が明けきる前に黒馬を走らせた。山の奥深く、凍るような沢のほとりで薬草を探す。
指は凍え、野営の火がなかなか灯らない。だが構うものか――アリシアの命を守れるなら幾晩でも……と決意していた。
また昼間には、大司教や薬師のもとを訪ねる。どうしたって苦手な文字を指でなぞり、とうとう指先に血が滲んでも古い書物のページをめくった。
書物には『命を分け与える香』『二つの命を支える石』『月が隠れる夜に使うべき呪符』などが記されている。神秘と医学の狭間にあるそれらを、テオバルトは必死になって己のものにしようとしていた。
「生きて、産める方法を……」
低く呟いた声に、誰も返す者はいない。ただその逞しく大きな背中を丸めて、ひたすらに紙を捲る後ろ姿を見守っていた。
ふと、背表紙も擦り切れてしまった古い書物のページの隙間から零れ落ちた小さな紙片が、テオバルトの膝の上に滑り落ちる。そこには震える文字で、こう書かれていた。
――願わくば全ての命が、月明かりの下に微笑まんことを。
テオバルトはその紙片を指で包み込む。そして、心の中で答えた。
(俺の命をくれてやる。だから――あいつを、子ども達を生かしてくれ)
アリシアには何も知らせないまま、全ての夜を戦場に変えながら、テオバルトは静かに三人の命を守り続けているのだった。
ある日の午後――日が傾きはじめた庭園に、柔らかな風が吹いた。
花々がそよぎ、青い花弁がひとひら、アリシアの膝の上に舞い落ちる。
季節は巡り、また春を迎えたはずなのに――胸の奥の不安は、雪解けのようにはいかない。
のしかかるものの重さを、アリシアは嫌というほど感じている。
(お母様のように……死ぬかも知れない……私も、この子達も)
けれどテオバルトはあの夜、目を逸らさなかった。全てを聞き、知り、なお自分を抱き締めてくれた。そして「必ず守る」とテオバルトが言ったから、アリシアはまだ立っていられる。
最近、テオバルトが時折いなくなる。
いつもなら一緒に行くのに、一人で「少し散歩してくる」と言っては、泥のついた外套のまま帰ってくることもある。
夜、目が覚めれば隣に眠るテオバルトの身体は冷え切っていて、アリシアは何も言わずに抱き締めるしかなかった。
けれども昨夜、アリシアのもとを訪れていた司教がうっかりこぼしたのだ。
「王配殿がまた『月の香』の材料を採りに出られたそうで……危険ですのに、何度も山に篭られているそうですな」
その瞬間、すべてが繋がった。――テオバルトは、自分の為に命をかけてくれていた。
(ずるい……ずるすぎるわ……)
震えそうになる手を握りしめ、庭を見つめた。いつかと同じ青い花が、ゆらゆらと風に揺れている。
愛らしくて、優しい花。けれどその花を見ても、堪えきれなかった。涙が頬を伝う。静かに、でも止まらず。
その時、背後に気配があった。ふり向かずとも分かる。重い足音、慣れ親しんだ香り。
風に乗って鼻をくすぐる香油の微かな名残に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「テオバルト……っ」
思わず声が震え、涙混じりになった。それでもテオバルトの顔が見たくて、振り返った。
「……どうした?」
尋ねながらも、テオバルトはすぐに察する。けれどあえて笑った。何も気付かぬふりをしてくれようとする。アリシアが、辛くないように。
それがまたたまらなく苦しかった。
「もう、知ってるの。『月の香』も、『妊婦に良い薬草』も、その為に……危険な山奥へ行った事も」
瞬間、テオバルトはふっと息を止めた。でも言い訳をしなかった。ただそっとアリシアの足元に跪く。
「私、本当は怖かった。とても、怖かった……でもね、あなたの手が……あたたかくて、強くて……」
涙がぽろぽろと零れるままに、上向きにアリシアを見るテオバルトの頬にそっと触れた。
「あなたの愛に……私は、もう何度も救われてしまっているの」
その言葉に、テオバルトの瞳は揺れた。いつも強く、鋼のようだった彼の瞳が、静かに濡れる。
アリシアはテオバルトの首に腕を回し、膝をつき、そっと額を寄せた。
「ありがとう、テオバルト。何度も、何度も生きようと、思わせてくれて……ありがとう」
テオバルトは強く、強く、アリシアを抱き締めた。二度と放さないと誓うかのように。
「必ずお前を生かす。子も、お前も……全部、守り抜く」
その低い声に、嘘はなかった。幸せで声を詰まらせるアリシアの胸に、深く刻まれる――生きて、愛して、生まれる命を抱き締める為に。
季節が巡った――そして双子の産声が夜明けの静寂を破った時、王宮中が歓喜に沸いた。
けれど、その場にいた誰もがすぐに気付く。 喜びの直後に訪れた、異様な沈黙。
産婦のアリシアの血が止まらなかったのだ。
「王配殿下! 女王陛下の容体が……!」
司教の震える声に、テオバルトの全身から血の気が引いた。
恐る恐る足を踏み入れた室内では、大司教が一心不乱に祈りを捧げ、薬師が慌ただしく動いていた。
真っ赤に染まった寝台。その上に、既にぐったりとしたアリシアの白い指。細い片手に包まれた、まだ名もなき双子の命の温もり。
「ふざけるな……っ」
布に包まれながら、真っ赤な顔で泣いている双子。その新たな命を目の当たりにしても、震える唇から漏れたのは、呪詛のような言葉だった。
「俺に、お前の命を奪う資格なんかねぇだろが……!」
力強いはずの手が、目を閉じたままのアリシアの細い肩に触れた瞬間、壊れ物を扱うように震えた。
その命、どれほど願っても、どれほど守ろうとしても、今のテオバルトに出来る事など何一つない。それが、かつて何百という命を奪ってきた男には分かる。酷すぎる罰だった。
「アリシア……戻って来い。俺を、子を置いて逝くな……」
その願いは、真っ白な顔をして目覚めないアリシアに届いているのかすら分からなかった。
――アリシアは夢を見ていた。
柔らかな陽の光と、優しい風の匂い。鼻をくすぐる、庭園の花々。
「アリシア……よく、ここまで生きてくれましたね」
姿は見えない。けれども泣いていた。初めて聞く母の声が、泣いていた。それでもその人が母マリアなのだと分かった。
「あなたを残して逝ったこと、ずっと悔やんできました。でももうあなたは、決して一人じゃない。あなたには愛してくれる人がいる。あなたを呼び戻してくれる人がいるの」
アリシアは、夢の中で涙を流した。生まれた瞬間に亡くなった母。母の温もりに触れたことすらないはずなのに、懐かしくて、心が震える。
「……お母様、まだ……もう少し、生きていたいの。あの人と。私の……家族と」
アリシアが訴えると、すぐ目の前に姿を現したマリアは微笑み、静かに頷いた。
その姿は、父王の部屋にあった肖像画よりも美しく、眩しい姿だった。
「行ってらっしゃい、アリシア。生きて、愛しなさい。あなたはもう、決して孤独ではないから」
――ふ、とアリシアの睫毛が震えた。
「……脈が……戻りました! 女王陛下が……生きて……無事であらせられます!」
その瞬間、アリシアの手を握り込んでいたテオバルトは座り込んだ。緊張と絶望が一気に引いていく。
握っていたアリシアの指が、微かに握り返してきた――その小さな反応に、テオバルトの胸は張り裂けそうになる。
「馬鹿が……!」
その声は、怒りとも歓喜ともつかぬ、掠れた呟きだった。
「死ぬなって言っただろうが……!」
唇を噛み、アリシアの額に額を寄せた。涙なんて誰よりも似合わないはずの男が、静かに、何度も瞬きを繰り返す。頬に光が伝う。
「……よく、帰ってきたな」
人目も憚らずに抱き締めたアリシアの体温は、確かに戻ってきていた。未だに親の心も知らずに泣く子達も一緒に抱き締める。
「テオ……バルト、ありがとう……」
「礼なんかいらない。お前と子の無事以外、何も……要らないんだ」
二人のその尊い愛が、また一つの奇跡を生んだのだった。
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