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26. 本音を伝えたくて
しおりを挟むマンションのエントランスにハイヤーが停まったらしく、なだらかなブレーキを踏んで完全に停まるのを、身体が感じてうっすら目を開ける。
「静香、着いたぞ」
礼司さんが優しく呼びかけてくれた。ぼんやりと顔を上げたけれど、身体が思うようについてこない。
世界が、ふわりと揺れた気がした。
(……おかしいな)
頭がぼうっとして、手足にも力が入らない。頬が熱い。耳の奥で、自分の心臓の音がやたらと大きく響いている。
「……うん……」
小さく頷いて、席を立とうとした瞬間だった。視界が傾き、体がよろける。
(あ……)
地面に吸い込まれそうになったその時、柔らかく、でもしっかりとした腕に抱き留められた。
「無理だな……」
そんな礼司さんの声が聞こえた次の瞬間、ふわりと体が宙に浮かぶ。彼の腕の中に抱き上げられていた。
「れいじ、さん……」
気がつけば、甘えるように名前を呼んでいた。休日はジムに通うこともある礼司さんの腕は、普段スーツに隠れているけれどしっかりとしている。
寄り添った胸はあたたかくて、心地良くて、自然と両腕を伸ばしては彼の首にしがみついた。
(あったかい……)
微かにサンダルウッドの香りがする。それだけで、礼司さんの寝室を思い出し、胸がぎゅっと熱くなった。
礼司さんは何も言わず、私を抱きかかえたまま歩き出した。
エントランスを抜け、エレベーターに乗り、二人きりの空間へ。
慣れ親しんだ扉の閉まる音が遠く響く。
それと同時に、私は安心したみたいにそっと礼司さんの肩に額を預けた。
静かな呼吸。一定の歩調。彼の腕の中は、世界で一番安全な場所だった。
(礼司さんのかおり……あったかい……すき……)
うわ言のように、心の中で何度も呟く。もしかしたら、声にも出ていたかもしれない。
ふわふわして、現実と夢の境界が曖昧になっていた。
(ずっと、こうしていられたらいいのに)
そんな、酔った頭だから許されるような甘えた願いが、胸いっぱいに膨らんでいった。
──やがて、私たちは静かに自宅の扉をくぐった。
礼司さんがそっと廊下に下ろしてくれる。履いていたヒールを脱がせる為に。優しく、丁寧に足から離れていく靴。
(礼司さん……まるで……イケメンの執事みたい……)
私は、その手を離したくなかった。咄嗟に、ヒールを置いた彼の手首を掴んでしまう。
「……行かないで」
掠れた声で、そう懇願していた。
(……やだ、私、どうしちゃったんだろう)
頭のどこかでそう思いながらも、今は礼司さんのぬくもりにしがみついていたかった。
彼がすぐ傍にいてくれるだけで、涙が出そうなくらい嬉しかった。
そんな私に礼司さんは何も言わず、ただ静かに優しく抱き寄せてくれた。
「静香、大丈夫だ。俺はここにいる」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がじわりとあたたかく滲んだ。身体の奥に染み込むような、愛情を感じて。
潤んだ瞳で、そっと顔を上げる。目が合った。眼鏡のない礼司さんの瞳の奥に、真っ直ぐな光が宿っていた。
その光に突き動かされるように、私は小さな声で、たった一言を呟いた。
「離れたくない……」
恥ずかしいとか、躊躇いとか、そんなものは全てこのふわふわした世界に溶けて消える。
今だから許されるだろうと、そんな打算が頭をよぎる。
ただ本当に、どうしても伝えたかった。彼が、誰よりも愛おしいのだということを。
「眼鏡……掛けてるのも、掛けてないのも……好き」
──言ってしまった。
ずっと胸の奥にしまい込んでいた言葉。言えたらいいな、伝えられたらいいなって、何度も思っていた言葉。
それが、今、口から零れ落ちてしまった。ふわふわした頭で、ぼんやりと思う。
(……でも、後悔してない)
だって、礼司さんが、何も言わずに私を抱き寄せてくれたから。
優しく、温かく、まるで壊れものを扱うみたいに。
ぎゅっと腕の中に包まれて、私は嬉しくて、胸がきゅうっと痛くなった。
「……礼司さん……」
彼の名前を呼びながら、私はそっとスーツの胸元に顔を擦り寄せた。服越しでも分かる、彼の体温。そして鼓動。
(……もっと近くに、寄りたい)
欲張りな気持ちが、止まらなかった。気が付けば私は彼のネクタイに指をかけて、クイッと引き寄せていた。いつもなら絶対にしない、そんな衝動的な行動。
自然に顔を近付ける。ただ、本能のままに。礼司さんのシャツに、そっとキスを落とした。
(……いいにおい)
小さな、小さなキス。だけどそれは、私なりの『好き』の精一杯の表現だった。
胸に広がる幸福感。もっと触れたくなった。だから私はまた、そっとキスを重ねた。
シャツの上から、胸元に。肩に。首筋に。
「静香……」
低く、掠れた声で名前を呼ばれる。その声に、どきん、と胸が跳ねた。
(……だめ、なのかな)
急に不安になる。
でも、礼司さんは私を突き放さなかった。ただ強く強く、抱き締めてくれた。
彼の腕が、にわかに震えている気がした。
(……どうして?)
顔を上げると、礼司さんと目が合った。夜の照明に照らされた彼の瞳は、深く、熱く、私だけを見つめていた。
普段は冷静なその眼差しに、今だけは隠しきれない衝動が滲んでいる。
(……嬉しい。きっと……だめじゃないんだ)
私の心臓は、また一つ、跳ねた。
小さく笑った。彼にだけ見せる、甘えた我儘な笑顔。
「もっと……好きって、言ってもいいですか……?」
自分でもびっくりするくらい、甘えた声になった。礼司さんはほんの一瞬だけ、目を閉じて息を整えた。
けれどすぐに、静かに、そして深く頷いた。
「……好きなだけ、言え」
その低い声に、私はたまらなく愛おしさを感じた。嬉しくなって、また彼の胸に顔を埋める。
「すき……だいすき……」
繰り返しながら、シャツにキスを重ねる。
私の無防備な愛情表現に、彼がどれだけ必死で自制しているか、ぼんやりとした頭でも何となくわかった。
(……ごめんなさい、でも……今はもっと、触れていたいの)
そんなわがままな気持ちが、止められなかった。
そして、私自身も知らないうちに、礼司さんの胸元を小さく引っ掻いてしまった。
その瞬間、礼司さんの身体がびくりと震える。
そして、低く掠れた声が、耳元で落ちた。
「……あんまり、煽るなよ、静香」
背筋がびりびりと震えた。その声には、抑えきれないほどの欲望と、それでもなお、必死で自制しようとする苦しさが滲んでいた。
(……好き、この声……)
私はまた、ふわふわとした心で、彼に縋る。
「礼司さん……ずっと、いっしょにいて……」
甘えた声でそう願った。そして、彼の胸にさらに顔を擦り寄せる。それが彼をもっと昂らせるのだと分かっていて。
礼司さんは深く息を吐いて、それでも私を優しく抱き締め直してくれた。
「……ああ。離さない。絶対に」
低く、震えるような声でそう囁かれ、私は胸いっぱいの幸せを感じながら、彼の腕の中でそっと目を閉じた。
──目を覚ました時、最初に感じたのは、ぼんやりとした身体の重さだった。
(……ここ、私の部屋……?)
見慣れた天井。薄暗い室内。隣には小さなナイトテーブルとランプの光。自宅の、私の寝室だった。
そっと身体を起こすと、頭がずきりと鈍く痛んだ。
(……あれ……?)
首筋に微かに残る温もり。胸の奥にぽっかりと空いたような、寂しさ。
(私、どうして……いつの間に……?)
思い出すのに少し時間がかかった。
礼司さんに、抱き締めてもらったこと。甘えて、散々我儘を言ったこと。
そして――自分からキスをたくさん落としたこと。
(……っ)
頬が一気に熱くなる。
(私ったら、何を……!)
慌てて掛布を握りしめた。けれど今は羞恥よりも、もっと大きな心配が胸を占める。
(礼司さん、怒ってないかな……)
きっと困らせてしまったに違いない。迷惑をかけたに違いない。
そんな思いに駆られて、私はベッドから飛び起きた。
(謝らなきゃ……もし、怒られても……ちゃんと)
ドアに駆け寄り、急いでノブに手を掛ける。扉を開け、リビングへと小走りで出た。
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