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14 熱
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「それじゃあ僕は出張に行ってくるよ」
ケビンが研究資料がつめられてパンパンになった鞄を持って玄関を出る。
「いってらっしゃい。道中は気をつけて」
「ほんとに2人で大丈夫かい? うちの実家に行っても迷惑になんてならないよ」
「大丈夫よ。久しぶりに2人きりの時間を満喫するわ」
「わかった、何かあったらうちの両親を頼るんだよ」
私とセーラは2人でお留守番だ。出張講義の旅程は三日間だ。その間は私も大学での仕事はお休みとなる。
ドアが閉められてケビンの姿が見えなくなった。
「久しぶりに2人っきりね」
抱き抱えていたセーラはきょとん、としてその後にっこりと笑った。
平日の金曜。私たち2人だけの時間、というのはセーラを産んだ直後から以来だろうか。
ずっとケビンがそばにいてくれたから、寂しくなかった。生まれた後は、初めての育児でいっぱいいっぱいで、寂しさを覚える暇なんてなかった。
こしょこしょとぽっこりとしたお腹をくすぐると、きゃっきゃっとかわいい声を出して喜ぶ姿が愛しい。
「さぁ、まずは部屋の片付けでもしましょうか? ケビンの脱ぎ捨てた服とあなたのおもちゃがリビングの床を占領しているわ」
「あぶぅ……」
なんのこと?と言いそうなほどの顔で小首を傾げるセーラは、たまにこちらの言葉をもう理解しているんじゃないかと思うほどだ。
全ての表情が可愛過ぎて仕方ない。この世のどんな存在も、この子には敵わないと思うくらい。
片付けも一段落したところで1人、書類の山を探していた。昨日セーラをあやしながら1日かけて掃除をしたのに一向に見つからない。
「書類はどこにあるの?」
大学から持ち帰った書類があるはずなのに。朝仕事にとりかかろうとしたら、書類がどこにも見当たらなかった。
「どうして? 昨日掃除した時に捨てちゃったかしら? それともケビンの書棚に間違えて入れちゃった?」
昨日のことを思い出しても、あんなに大事な書類を捨てたとは考えにくい。
「大学に忘れてきたのかも……」
絶対にそうだ。きっとケビンのデスクの書類の山に置き去りになっている。乱雑な山々を思い出して、朝から不機嫌なセーラを連れてその中から書類を探すのは大変そうだと思った。だが仕方ない、とはぁと大きなため息を吐いてから大学へ行く準備を始めた。
「セーラ、少し気分転換にお散歩しましょ」
セーラの機嫌がすこぶる悪かった。朝起きてからぎゃんぎゃんとずっと泣き通していて、抱っこしてもあやしてもだめだ。
「泣かないでー、大丈夫よ。ケビンがいなくて寂しいの?」
泣くしかできない我が子に、ぐったりしながらも、抱っこ紐で前に抱き抱えた。
セーラのおでこに手を当てて熱を測る。
熱はいつもより少し高いが、これだけ泣いていれば熱なんて少しくらい高くなるだろう。
私はアパートのドアを閉めて大学への道を進んだ。
大学内の中庭を通ると、春風が少し冷たく頬にあたり、並木の葉を撫でる。
爽やかな風とは裏腹に、私の心は落ち着かない。
──あの人に会いませんように……。
私は急足で大学の校舎の廊下を歩く。
何事もなくケビンの研究室へとたどり着いた。研究室のドアを閉めてはぁっと胸を撫で下ろした。ドクドクと感じる自分の鼓動の音を聞いて、はた、と気づかされた。
今日は休日で、大学に来る人自体が少ない。あの人だって大学の休みの日までやってくるはずがなかった。
(そもそも、どうして私がこんなにおびえるように振る舞わなくてはなくてはならないの)
突如、あの人に怒りが湧いてきた。それもこれも、あの人のせいなのに。どうして私があの人から隠れるように過ごさなくてはならないのか。
今の自分は、オオカミに追いかけられる小鹿のようだ。
(早く諦めて、いなくなって)
最初から釣り合いなど取れていない関係だったのはわかりきっている。
元は庶民として生まれ育ったとは言え、公爵様の血を引いている高貴な血筋であることに間違いはない。
対する私はどこにでもいる平民の、牧場主の娘だ。しかも経営が赤字の、自分たちの足で立ってもいられないような底辺にいた。
自分の生まれを卑しいなどと思ったことはなかったし、自分を蔑むつもりもない。
けれど、あの人の周りにいればいやでも思い知らされる。自分がちっぽけな存在であることに。彼の存在の大きさに。
それでも自分なりに彼を支えていこうと思った。本当は孤独を誤魔化すために、周りに厳しい彼を、私だけは理解してあげようと思った。自分にならできると、なぜあの時私は盲目的に信じてしまったのか。
激しく深く愛し合った仲であっても私たちは赤の他人で、彼は私を信じてはくれなかったのに。皮肉にも、信じたのはアガトンの言葉だったのが現実だ。
(馬鹿みたいよね。なぜ私はこんなにも彼のことを……)
それが愛というものなのか。人を好きになるというのは、自分が馬鹿になってしまうことなのかもしれない。
だが馬鹿な自分は、いつも守られてばかりの草食動物だとは思わない。
大切なものを守るためだったら、大きなオオカミにだって牙をむく。自分を犠牲にすることなんて、躊躇わずにできる。
そう、この子を守ることが私のすべて。
私は抱いている、か弱い小さな命の背中を宝物に触れるようにそっと撫でた。
顔を上げて研究室の中を見渡した。
研究書類や彼の脱ぎ散らかした服やらで雑然としているのに、どこか落ち着く。締め切った部屋は本や書類の紙の匂いで密閉されていた。
暗くて狭苦しく、窮屈な部屋。隠れる場所なんてないのに、どこからかひょっこりとケビンが現れてきそうな雰囲気に、私は一人でくすりと笑った。
私がランドルフに怯える必要なんてこれっぽっちもない。
私は書類を探し出そうと一歩前に足を踏み出した。
コンコン、と研究室のドアが叩かれる音がした。
(ケビンの生徒かしら?)
休みとは言え、ケビンの研究室に所属している大学生はみんな研究熱心ないい子たちばかりだ。
実験室にこもって研究ばかりしていて、あのケビンも頭を悩ませるくらい。
わざと電気をつけずに暗いままにしておいたけれど、私が研究室に入ったところを見て、ケビンがやってきていると勘違いした学生がいるのかもしれない。
泣き喚いていたセーラもやっと寝入ってくれたから、起こしたくなかったというのもある。
私はすぐさま研究室のドアを開けた。
「ごめんなさい。今日はケビン教授はお休みで……」
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