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第4章魔王様、ご飯で和解しませんか?
第4章 第4話 湯気の握手、濡れ石の館へ
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出立の朝、城の石畳は冷たく、鍋の底だけがぽかぽかしていた。私は柄杓を握り直し、深呼吸する。
「いよいよだな」 セイル王子が笑う。
「はい。湯気、落としません」
「護衛、点呼」 副長グラドの声が短く響く。旗持ちルークは胸を張り、合図係マリナはエプロンを結び直した。
「走らない、こぼさない、あいさつは大きな声」 「はーい!」
荷馬車には深椀と蒸し団子の蓋布、和薬スープの大鍋、香袋三種。ガルベラさんは包丁を柔らかい布でくるみ、リサは匂い札を数える。エリクは保温箱の石温を三段で調整中。
城門が開く。外風は南東。私は香袋を低く焚き、行軍の呼吸を合わせた。甘さは控えめ、安心は多め。今日の目的は“話すために座り続ける”ことだ。
濡れ石の館は、境界の霧の縁に立っていた。黒い石が濡れて光り、屋根の縁からは細い水の糸が落ちる。門前に、東境管理官と薬師が並んだ。
「ようこそ。条件の確認を」 「武器は鞘のまま。鍋と柄杓はむしろ歓迎です」 「湯気で握手、いたしましょう」
私は深く礼をし、香り標“一度目”を焚く。穏やかな香が低く広がり、敵意の角が柔らかくなる。互いの兵が肩を下ろすのが目でわかった。
「先触れの椀から参りましょう」 私は和薬スープを配る。最初は管理官と薬師、それから双方の代表。温度は会議温度。香りは胸の高さ。
「……しずかだ」 管理官の睫毛がほどける。
「喉が勝手にうなずく味です」 薬師が小さく笑う。
「続いて、主菜」 蒸し団子を二個ずつ深椀に。縁に香葉を軽く擦る。最初の一息で、表情がゆるむ。
「これは“声が荒れにくい甘さ”です」 「なるほど。議場に向く」
席は大きな楕円。私は“噛む速度”を見て回る。早い人には小さめを、ゆっくりの人には温度を長持ちさせる。王子は視線で合図、グラドは最小限の言葉で場を整える。
「……本題に入ろう」 管理官が杯を置く。
「逸走の件、謝意は先に示した。再発防止の規格は、今ここで合わせたい」 「賛成です。標識の文法を統一しましょう」
私は板を掲げ、絵で示す。境界の風向き、香りの高さ、撤収の合図。言葉が合わない場所は、湯気の線で合わせる。
「——ここで、一度だけ“確認の一皿”を」 私は二層煮を小さく盛る。上はやわらかく、下は支える。匙が入るたび、話が一歩進む。
「規格、仮合意」 管理官が印板を押す。
「では次。調香庫の件」 王子が表情を引き締める。
「旧規格の印を含む粉袋を押さえた。名指しはしない。だが——出所調査に、そちらの立会いを願いたい」
場の温度が少し下がる。私は合図の香を胸の高さで一度だけ焚いた。焦らない、という意味。
「……立会い、承知した」 管理官は短く頷く。薬師が続ける。
「技術の暴走は、我らにも毒だ。止めたい」
「ありがとう」 王子の声が和らぐ。
「ここで、中休み」 私は小さな茶を配った。体ぽかぽか茶。甘さは弱く、会話は強く。ルークは旗の位置を直し、マリナは「いただきます」を練習している。
「さて、細かい取り決めに入る前に」 私は笑って、団子を一口サイズで出した。
「“笑顔の一皿”です。会議の角を丸めます」 「効果が早い」 管理官が肩を軽く回す。
そのとき、風が変わった。南東から、ぐっと湿りが増す。湯気の線が揺れ、香りが上へ逃げやすくなる。
「風、右へ」 私は低く告げ、合図の香を床に落とす。ガルベラさんが窓を半分閉め、グラドが護衛の位置を一歩ずらした。
「続けられるか」 「はい。香り標は低く、椀は深く。温度石を一段上げます」
流れは戻った。私は手帳に小さく印を付ける。——風への対応、よし。
「最後に、共同の“香り文”を」 私は短い文を板に書く。
——湯気は同じ高さ。香りは争わない。塩梅は後で決める。
「よろしい」 管理官が頷く。
「こちらも一文、添えたい」 薬師が筆を取る。
——痛みは隠さない。熱は分け合う。冷ましすぎない。
「採用」 王子が印を押す。
「本日の議は“胃袋合意”として記す」 私は書式にまとめ、双方の印板を受け取った。
宴の締めは、二層煮のきれはしを少量。最後の一口を、全員で同時に。
「ごちそうさまでした」 声がそろう。空気がふんわり落ち着いた。
「君の一言で始めよう」 王子が顎で合図する。
「はい——『湯気を同じ高さで吸いましょう』」
笑いが生まれた。気負いのない、いい笑いだ。
その直後、私は微かな違和感を嗅いだ。甘い柑根に、ほんの一瞬の鉄。——風下の陰で、誰かが布を擦った音。
「グラドさん、右後ろを一歩」 私は小声で告げ、床に鎮静の香を落とす。兵の視線が自然にそちらを外す。
「……見えた」 グラドが目だけで頷く。追わない。今は宴だ。証拠は、湯気の線が覚えている。
私は団子の蓋布を直し、子どもたちに目で合図した。
「旗、低く」 「はーい」
濡れ石の館に、夜の灯が入る。湯気が天井で柔らかく輪になった。私は柄杓を置き、胸の前で両手を合わせる。
(今日の火は、守れた)
帰り道に書くべき報告が、頭の中で温かく並んでいく。規格の統一、立会いの約束、風の癖、そして——鉄の気配。
「本日の議、ここまで」 管理官が立ち上がる。
「続きは、鍋の火の下で」 私は微笑んだ。
「また、“湯気の握手”を」
撤収の段取りは静かに進む。器は深椀から順に重ね、湯気は最後まで低く保つ。香袋は三つとも残量良し。私は手帳に追記した。——風下の陰、布の擦れ、鉄の一瞬。
「帰りは私が旗を持つ!」 ルークが胸を張る。
「いいけど、走らない」 「うん!」
「カスミアーナさん、団子の配合、覚え書きに」 リサが筆を差し出す。
「はい。香葉は刻みと擦りの二段。ナッツミルクは温めてから。塩は外交量」
「外交量?」 エリクが首をかしげる。
「角が立たない量。足りない時は“会話”で足すの」
「なるほど」 ガルベラさんが笑う。
門を出ると、霧は薄く、星がぽつぽつ見えた。保温箱の石が心地よく鳴る。私は柄杓を見て、撫でる。
「今日も働いたね」
「王都に戻ったら、すぐ調香庫の照合だ」 グラドが歩幅を合わせる。
「はい。立会いのもとで。……“湯気”で記録を洗います」 「鼻の捜査、頼もしいな」
「王子、挨拶、よかったです」 私は振り向く。
「君の台所語があったからだ」 王子は小さく笑う。
おなかが、きゅるる、と鳴った。
「……すみません。宴で立ちっぱなしだったので」 「帰城したら夜食だな」 「賛成!」 子どもたちが同時に手を挙げる。
「何がいい?」 「ぷりん!」 「あと、あさカレー!」 「夜です」
笑いが広がる。足取りが軽くなる。私は手帳を閉じ、深呼吸した。
(明日の台所は、作戦室じゃなくて“検証室”。焦がさない。濁らせない。落とし物は——匂いが教えてくれる)
城の灯が見えた。湯気の輪が、遠くでゆっくりほどけていく。私は胸の前で、もう一度だけ両手を合わせた。
「ごちそうさま。そして、ただいま」
門をくぐる直前、マリナが小さくあくびをした。
「ねむい……でも、いい匂いの夢見られそう」
「見なさい。明日の分まで」
ルークが旗を畳み、私の手に渡す。
「これ、預かって。あしたも、ぼく、旗持ち」
「約束」
石畳を踏む音が寄り添い、夜気はやさしく冷たい。私は歩きながら、明日の献立の余白に小さく書き足した。——証拠は湯気。合意は一皿。心は、温度。
そして、鍋はまた明日も外交官になる。私は頷き、台所へ急いだ。火を絶やさないために。
「よし」
合図旗を壁に掛け、薪を一つくべる。静かな炎が灯り、湯気が細い輪になって天井でほどけた。——今夜はここまで。明日は“検証室”の番だ。
「いよいよだな」 セイル王子が笑う。
「はい。湯気、落としません」
「護衛、点呼」 副長グラドの声が短く響く。旗持ちルークは胸を張り、合図係マリナはエプロンを結び直した。
「走らない、こぼさない、あいさつは大きな声」 「はーい!」
荷馬車には深椀と蒸し団子の蓋布、和薬スープの大鍋、香袋三種。ガルベラさんは包丁を柔らかい布でくるみ、リサは匂い札を数える。エリクは保温箱の石温を三段で調整中。
城門が開く。外風は南東。私は香袋を低く焚き、行軍の呼吸を合わせた。甘さは控えめ、安心は多め。今日の目的は“話すために座り続ける”ことだ。
濡れ石の館は、境界の霧の縁に立っていた。黒い石が濡れて光り、屋根の縁からは細い水の糸が落ちる。門前に、東境管理官と薬師が並んだ。
「ようこそ。条件の確認を」 「武器は鞘のまま。鍋と柄杓はむしろ歓迎です」 「湯気で握手、いたしましょう」
私は深く礼をし、香り標“一度目”を焚く。穏やかな香が低く広がり、敵意の角が柔らかくなる。互いの兵が肩を下ろすのが目でわかった。
「先触れの椀から参りましょう」 私は和薬スープを配る。最初は管理官と薬師、それから双方の代表。温度は会議温度。香りは胸の高さ。
「……しずかだ」 管理官の睫毛がほどける。
「喉が勝手にうなずく味です」 薬師が小さく笑う。
「続いて、主菜」 蒸し団子を二個ずつ深椀に。縁に香葉を軽く擦る。最初の一息で、表情がゆるむ。
「これは“声が荒れにくい甘さ”です」 「なるほど。議場に向く」
席は大きな楕円。私は“噛む速度”を見て回る。早い人には小さめを、ゆっくりの人には温度を長持ちさせる。王子は視線で合図、グラドは最小限の言葉で場を整える。
「……本題に入ろう」 管理官が杯を置く。
「逸走の件、謝意は先に示した。再発防止の規格は、今ここで合わせたい」 「賛成です。標識の文法を統一しましょう」
私は板を掲げ、絵で示す。境界の風向き、香りの高さ、撤収の合図。言葉が合わない場所は、湯気の線で合わせる。
「——ここで、一度だけ“確認の一皿”を」 私は二層煮を小さく盛る。上はやわらかく、下は支える。匙が入るたび、話が一歩進む。
「規格、仮合意」 管理官が印板を押す。
「では次。調香庫の件」 王子が表情を引き締める。
「旧規格の印を含む粉袋を押さえた。名指しはしない。だが——出所調査に、そちらの立会いを願いたい」
場の温度が少し下がる。私は合図の香を胸の高さで一度だけ焚いた。焦らない、という意味。
「……立会い、承知した」 管理官は短く頷く。薬師が続ける。
「技術の暴走は、我らにも毒だ。止めたい」
「ありがとう」 王子の声が和らぐ。
「ここで、中休み」 私は小さな茶を配った。体ぽかぽか茶。甘さは弱く、会話は強く。ルークは旗の位置を直し、マリナは「いただきます」を練習している。
「さて、細かい取り決めに入る前に」 私は笑って、団子を一口サイズで出した。
「“笑顔の一皿”です。会議の角を丸めます」 「効果が早い」 管理官が肩を軽く回す。
そのとき、風が変わった。南東から、ぐっと湿りが増す。湯気の線が揺れ、香りが上へ逃げやすくなる。
「風、右へ」 私は低く告げ、合図の香を床に落とす。ガルベラさんが窓を半分閉め、グラドが護衛の位置を一歩ずらした。
「続けられるか」 「はい。香り標は低く、椀は深く。温度石を一段上げます」
流れは戻った。私は手帳に小さく印を付ける。——風への対応、よし。
「最後に、共同の“香り文”を」 私は短い文を板に書く。
——湯気は同じ高さ。香りは争わない。塩梅は後で決める。
「よろしい」 管理官が頷く。
「こちらも一文、添えたい」 薬師が筆を取る。
——痛みは隠さない。熱は分け合う。冷ましすぎない。
「採用」 王子が印を押す。
「本日の議は“胃袋合意”として記す」 私は書式にまとめ、双方の印板を受け取った。
宴の締めは、二層煮のきれはしを少量。最後の一口を、全員で同時に。
「ごちそうさまでした」 声がそろう。空気がふんわり落ち着いた。
「君の一言で始めよう」 王子が顎で合図する。
「はい——『湯気を同じ高さで吸いましょう』」
笑いが生まれた。気負いのない、いい笑いだ。
その直後、私は微かな違和感を嗅いだ。甘い柑根に、ほんの一瞬の鉄。——風下の陰で、誰かが布を擦った音。
「グラドさん、右後ろを一歩」 私は小声で告げ、床に鎮静の香を落とす。兵の視線が自然にそちらを外す。
「……見えた」 グラドが目だけで頷く。追わない。今は宴だ。証拠は、湯気の線が覚えている。
私は団子の蓋布を直し、子どもたちに目で合図した。
「旗、低く」 「はーい」
濡れ石の館に、夜の灯が入る。湯気が天井で柔らかく輪になった。私は柄杓を置き、胸の前で両手を合わせる。
(今日の火は、守れた)
帰り道に書くべき報告が、頭の中で温かく並んでいく。規格の統一、立会いの約束、風の癖、そして——鉄の気配。
「本日の議、ここまで」 管理官が立ち上がる。
「続きは、鍋の火の下で」 私は微笑んだ。
「また、“湯気の握手”を」
撤収の段取りは静かに進む。器は深椀から順に重ね、湯気は最後まで低く保つ。香袋は三つとも残量良し。私は手帳に追記した。——風下の陰、布の擦れ、鉄の一瞬。
「帰りは私が旗を持つ!」 ルークが胸を張る。
「いいけど、走らない」 「うん!」
「カスミアーナさん、団子の配合、覚え書きに」 リサが筆を差し出す。
「はい。香葉は刻みと擦りの二段。ナッツミルクは温めてから。塩は外交量」
「外交量?」 エリクが首をかしげる。
「角が立たない量。足りない時は“会話”で足すの」
「なるほど」 ガルベラさんが笑う。
門を出ると、霧は薄く、星がぽつぽつ見えた。保温箱の石が心地よく鳴る。私は柄杓を見て、撫でる。
「今日も働いたね」
「王都に戻ったら、すぐ調香庫の照合だ」 グラドが歩幅を合わせる。
「はい。立会いのもとで。……“湯気”で記録を洗います」 「鼻の捜査、頼もしいな」
「王子、挨拶、よかったです」 私は振り向く。
「君の台所語があったからだ」 王子は小さく笑う。
おなかが、きゅるる、と鳴った。
「……すみません。宴で立ちっぱなしだったので」 「帰城したら夜食だな」 「賛成!」 子どもたちが同時に手を挙げる。
「何がいい?」 「ぷりん!」 「あと、あさカレー!」 「夜です」
笑いが広がる。足取りが軽くなる。私は手帳を閉じ、深呼吸した。
(明日の台所は、作戦室じゃなくて“検証室”。焦がさない。濁らせない。落とし物は——匂いが教えてくれる)
城の灯が見えた。湯気の輪が、遠くでゆっくりほどけていく。私は胸の前で、もう一度だけ両手を合わせた。
「ごちそうさま。そして、ただいま」
門をくぐる直前、マリナが小さくあくびをした。
「ねむい……でも、いい匂いの夢見られそう」
「見なさい。明日の分まで」
ルークが旗を畳み、私の手に渡す。
「これ、預かって。あしたも、ぼく、旗持ち」
「約束」
石畳を踏む音が寄り添い、夜気はやさしく冷たい。私は歩きながら、明日の献立の余白に小さく書き足した。——証拠は湯気。合意は一皿。心は、温度。
そして、鍋はまた明日も外交官になる。私は頷き、台所へ急いだ。火を絶やさないために。
「よし」
合図旗を壁に掛け、薪を一つくべる。静かな炎が灯り、湯気が細い輪になって天井でほどけた。——今夜はここまで。明日は“検証室”の番だ。
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