『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第4章魔王様、ご飯で和解しませんか?

第10話 大市の席張り、焦げの影と二つの鍋

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 魔都の朝は鐘よりも早く香る。露で湿った石畳に、胡椒と蜜の香りが薄く残っていた。私は《香りの地図》を広げ、白墨で矢印を足す。旗は低く、湯気は胸の高さ——ここでも同じ合図が生きる。

「カスミ、湯沸いたよ」 「ありがとう、リサ。——ルーク、矢印の先、香袋一粒」 「はーい!」

 小鍋は二つ。王都式の銅鍋と、魔都式の黒鉄鍋。並べるだけで空気が変わる。銅は軽やか、黒鉄は重く深い。湯気の色が、少し違って見えるから不思議だ。

「左の鍋は“橋粥”。右は“骨付き柔煮”。順路は矢印で回して、行列は胸の高さで止めます」 「了解だ」グラドが長椅子を置く。「耳の鍋はここだな」

 人の列の中に、角を隠した小柄な影が混じった。昨日の記録官、カーディンだ。鼻の奥で空気を探る癖は相変わらず。けれど手はよく洗われている。

「調香庫、七割は抜けた。古い柑根は干し直しに回す」 「助かります。——今日は客として、腹で話しましょう」 「……ああ」

 最初の椀が出る前に、私は《ステータス》を開いた。

《名:カスミアーナ/年齢15/職:料理研究家》 《料理25/鑑定8/嗅覚強化9/交渉9/段取り最適化8》 《特技:香り文作成/称号:鍋の約束/効果:共鍋の橋》

(今日は焦げを寄せ付けない。耳の鍋、蓋は半歩ずらし)

「開店だ」アスラが香輪を掲げた。「——腹で話そう」

 拍手が起きる。まずは“橋粥”。硬水で角が立つのを、少しの蜂蜜で丸め、香葉をひと撫でする。老人が一口すすり、角の子が真似をする。列が自然に流れた。

「次、“骨付き柔煮”、浅い出汁から」 「はい!」

 王子が配膳を手伝い、ルークが器を温め、マリナが「いただきます」を揃えてくれる。湯気は胸の高さで混ざり、声の高さも揃ってくる。

 その時——鼻の奥に、薄い鉄の膜が貼りついた。

(……来た。焦げの影)

 風下、黒鉄鍋の向こう、袋を握る指。粉の色は灰。投げ込むなら今。私は柄杓を止め、声を上げた。

「“沈黙の間”、一拍——」

 合図の香をひと焚き。ざわめきが静かに沈む。私は静かに前へ歩き、男の前に器を差し出した。

「どうぞ。まずは腹で話してください」 「……なんの真似だ」 「毒見です。あなたの粉、私の舌で確かめます」

 男は眉を跳ね上げたが、場の目が集まると動けない。私は粉をひとつまみ、白い皿に落とし、湯を一滴。湯気を吸い、香りを舌に乗せた。

「……焦げ砂。苦みは短く、喉に長く残る。——捨てるなら、水で溶かして土へ」 「ば、馬鹿な……」 「ここは鍋の約束の場です。焦げは残り、熱は分ける。——あなたの熱も、別の鍋で使える」

 私は耳の鍋の長椅子を叩いた。グラドが頷き、男の腕を無理に捻らない高さで導く。

「過ぎた粉は、話の席で冷まそう」 「……」

 緊張の糸が落ちた。私は鍋に戻り、蓋を半寸ずらす。蒼火が唸り、湯気が胸まで戻る。列が再び流れた。

「カスミ、平気?」 「平気。焦げは早めに香りで見ると、味になる」 「名言」王子が笑う。

 昼下がり、二つの鍋は息を合わせ始めた。銅鍋で粥、黒鉄で骨。時折、鍋を交差させて香りを混ぜる。客は人も魔族も一つの列。ぷりんは“沈黙の間”の後だけ、一匙。

「——よくやったな」カーディンが肩を寄せる。「旧棚の埃は、人の癖だ。鍋で落とせるかもしれん」 「埃は甘味で落ちます。怒りは塩で起きますから」 「覚えておこう」

 午後の終わり、アスラが静かに近づいた。

「陛下より言伝。『今夕、小鍋の席を試す。橋粥と柔煮、順を変えて供せよ』」 「順を、変える……」

 私は《段取り最適化》を開く。頭の中で、二本の湯気が入れ替わって一本に絡む。

「最初に骨、次に粥。——舌の記憶を強くしてから、橋で落とす」 「なるほどな」グラドが腕を組む。

「それと、席の端に“耳の鍋”を。強硬派も来る」 「蓋、二枚用意します」

 夕刻、試し張りの席。蒼火の庭に低い卓が並び、香輪が二つ、宙で絡む。魔王はまだ来ない。副将が先に座り、無言でこちらを見る。

「一皿目、“骨付き柔煮”——塩は嘘をつかない」 「ふん」

 副将は黙って食べる。皿が空になるまで、視線は鋭い。でも、噛むたびに肩が半寸ずつ下がっていく。

「二皿目、“橋の雑穀粥”。甘みは遅く、喉で広がる」 「……」

 沈黙の間を一拍。副将の睫毛が一度だけ震えた。

「幼い頃の、夜番の粥に似ている」 「焦げる前に笑えましたか」 「笑った。叱られる前にな」

 副将はわずかに頬を緩め、器を置いた。

「席は——悪くない」

 そこへ、黒衣が音もなく座した。蒼火が一度だけ鳴る。魔王だ。

「順を変えたか」 「はい。舌の記憶を先に、橋は後に」 「腹で話せ」

 私は深く一礼し、匙を取った。

「鍋は二つ。橋は一つ。——“共鍋の条”を起こします」 「条文は短く、香りは長く」 「第一条。旗は低く、湯気は胸の高さ」 「第二条。沈黙の間の後に、言葉」 「第三条。焦げは残し、熱は分ける」 「第四条。列は一つ。段差を作らぬ」 「——よい」

 魔王が頷いた時、通りから小さな歌が聞こえた。

「ちいさくうたうこな~♪ 三拍子~♪」

 少年が板を掲げて走り、門の影で転んだ。瓶が宙で光る。私はすかさず布で受け、香りを一拍だけ泳がせる。

「……無事」 「名人」王子が拍手する。人の輪が笑い、蒼火さえも低く笑ったように見えた。

「結ぶぞ」魔王が立ち上がる。「香輪を——」

 アスラが輪を二つ重ねた。蜜と胡椒が絡み、甘さが短く、苦みが長く残る。私は匙で輪の間を一度だけ撫でた。

「焦がさず、熱だけを運ぶことを、ここに」 「承る」

 輪がほどけ、庭の風が柔らかく回る。私は胸の高さで湯気を止め、深く息を吐いた。

《一時効果:香輪の導き(中)/新規:“席張り巧者”獲得》

「おめでとう」リサが笑う。「ぷりん、二匙にする?」 「一匙で。——ほどほどが、一番長持ちします」

 夜の大市に灯がともる。二つの鍋が、同じ高さで湯気を上げた。私は手帖に三行、書き足す。——条は短く。香りは長く。焦げる前に笑う。

 席が散じたあと、私は黒鉄鍋の底を木匙でそっと撫でた。薄い焦げは、物語の端のように残っている。

「それ、どうするの?」マリナが覗き込む。 「明日のまかない。——焦げ湯で“回想スープ”にするの」 「おしゃれ!」

 カーディンが紙束を差し出した。「旧在庫、改名して再分類する。名は匂いの地図に合わせて」 「いいですね。“名は鼻なり”です」 「……きれいに言うな」

 私は最後に、魔王へ小さな包みを渡した。薄い砂糖で衣をまとった、香葉の欠片。

「“沈黙の間”の合図になります。——焦げそうな会議の前に、どうぞ」 「面白い匙だ」魔王は唇だけを笑わせた。「次は甘味で話す席を用意しておけ」 「承知しました。冷やす器と、温める言葉を両方」

 帰り道、王子が肩を並べる。 「今日の条は、長く残ると思う」 「なら、明日は短く働かせます。倉の洗い出し、午前で終わらせて午後は“耳の鍋”の練習を」 「練習?」 「怒鳴り声に勝つ小声の出し方。——甘露ぷりんの匙で」 「それは強い」

 夜風が蜜の匂いを運んだ。私は《香り文作成》を開き、紙に一文だけ書く。

〈腹で話せば、手は空く。空いた手で、鍋は回る〉

 明日も、胸の高さで湯気を止める。

 ——そして三日後、王都と魔都の境に、同じ高さの煙が二本立った。合図は短く、行列は一つ。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが「おかわり」と言った。鍋は焦げず、熱だけが橋を渡った。

 私は手帖の端に小さく描く。丸は湯気、線は道、点は塩。地図は簡単、効果は長く。——次は甘味の章だ。

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