『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第4章魔王様、ご飯で和解しませんか?

第27話 塔の庭、香りで挨拶を

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 夜明け。魔都の塔は、墨を溶かしたような影を庭に落としていた。露の匂いに石の冷たさ。私は帆布を半分立て、旗の結び目を胸より下で固く結び直す。

「合図、短くいきます」 「任せる」セイル王子が頷く。 「いって、おいで、おかえり」 「いただきます」

 四拍で、胸の火が静かに落ち着いた。グラド副長は庭の出入り口を見張り、ルークとマリナは器の数を声に出して数える。使いのバライルが近づき、小声で規定を復唱した。

「香りを塔に向けるな。火は地面から四指。旗は目線より下」 「守ります。風は帆で曲げます」

 大匙長サヴァが黒衣を翻して現れた。刃のような眼差しは昨日のまま。でも、足取りは庭の石に合わせて音を立てない。料理人の足だ。

「口上は三息で」 「承知しました」

 私は深く息を吸う。

「本日の献立、三。——“橋の粥・薄”。“骨付き柔煮”。“和香混ぜ飯・青”。いずれも湯気は胸の高さ、塩は帰り道ぶん」

 “青”の仕込みは夜明け前に済ませていた。辛味は交渉だ。刺激を抑えるため、ナッツミルクと酸味の軽い発酵乳を合わせ、香草は葉先だけを切って最後に折り混ぜる。油は控えめ、香りを浮かべる程度に。

「火加減、最弱。——《火加減制御》、よし」

 まずは“橋の粥”。雑穀は三種、砕きは粗め。塩はひとつまみを半歩ずらして溶かす。湯気を低く保つよう、帆の角度を少し寝かせた。

「始まりの椀、どうぞ」

 最前列の老文官が一口すすり、目尻を落とす。

「胸の上で止まる湯気……これは議場に欲しい」

「“沈黙の間”の前振りです。——次、柔煮」

 骨付きの肉は前夜から低温で柔らかくしてある。今日は庭用に塩を薄め、香葉の量も半分。噛めば旨味、飲めば和薬。

 そして——“和香混ぜ飯・青”。

「青は、辛くないの?」マリナが囁く。 「刺激は低く、香りは高く。青は“話し合う味”だよ」

 炊きたての白に、青い香草を細かく刻んで折り混ぜ、乳でほんのりと結ぶ。仕上げに“帰り道の塩”を、ごく少しだけ。

「三つ、並べます」

 大匙長が無言で頷く。私は皿を三角に置いた。左に粥、右に柔煮、手前に青の飯。湯気は胸の高さ、旗はその下。

「……」

 サヴァは順に三口ずつ。噛む音も、喉の動きも、均一だ。庭の空気が、その沈黙に合わせて揺れる。やがて彼は短く言った。

「二つ、問い」

「どうぞ」

「一。青の香りは高い。だが“逃げ道”はどこに置いた?」 「塩です。混ぜきらず、粒のまま。——舌が疲れたら、そこに着地します」

「二。塔は風を渦にする。香りはすぐ登る。どう避ける?」

「帆で“耳”をつくります」

 私は帆の片端を一段下げ、弓なりに張り替えた。風の筋が横に抜け、湯気の層が低く撫でて広がる。

「——《香帆》、展開」

 サヴァが目だけで感心の合図をしたとき、庭の奥の格子が、かすかに鳴った。誰かがいる。格子の向こうから、低く柔らかな声がひとことだけ落ちてきた。

「“家庭の味”とは、何だ」

 背筋が伸びた。私は柄杓を置き、まっすぐ格子を見た。返事は三息で。

「その日、帰ってくる理由です」 「……帰り道の塩、か」 「はい。人は塩のある方角へ帰ります」

 格子の奥で、誰かが小さく息を笑わせた。大匙長が目を伏せ、再び皿へ向き直る。

「盲で比べる。——黒炊きと青を、半月に盛れ」

 私は半月皿をとり、左に黒の一片(隣の屋台からの供出品だ)、右に青、中央に塩を置いた。噛めば黒の甘み、追って青の香り、そして塩で着地。サヴァの目の刃が、僅かに丸くなる。

「結論。——“黒と赤”は影と火。“青”は風。三つ、並べる」

 バライルが息を吐いた。セイル王子が目だけでガッツポーズを作る。人垣の後ろで、角飴屋のヤンカが親指を立てた。黒炊きの親方ゴルドは腕を組み、うむとうなる。

「並べるなら順番が要る」 「“影→火→風”。——黒、赤、青の順で回します」

「いいだろう」

 私は手を挙げる。

「ここで一度、“沈黙の間”を取ります」

 蓄氷から甘露ぷりんを少量だけ出し、合図の香を一息焚く。ざわめきがすっと落ち、庭が一拍だけ静かになる。匙が当たる音だけが立ち、笑顔がじわりと広がった。

「言葉の角が丸くなる……」と老文官。 「喧嘩の蓋、です」私は微笑む。

 その時、不意に塔の影が伸び、上空で風が跳ねた。香りの筋が一度だけ持ち上がる。サヴァが目で合図を送るより早く、私は帆をさらに下げ、旗を一段落とす。

「帆、三角。——《香帆》補正。旗、低く」

 風は横へ逃げ、湯気は胸の高さで再び巡った。格子の向こうで、乾いた指の音が一度だけ鳴る。——拍手、だろうか。私の手から緊張が少しだけ抜けた。

「最後に、もう一つだけ」

 私は小ぶりの椀に“橋の粥・薄”をよそい、格子の方角へ向けて静かに置いた。湯気は低く、香りは短く、塩は帰り道ぶん。

「初めまして。——いただきます」

 格子の奥で風が吸われ、湯気がふっと消えた。

 大匙長が一歩、前へ出る。

「結論。——明日、仮の調印を行う。常設鍋は外輪二の列と王都広場に置く。黒の隣に赤、赤の隣に青。沈黙の間は一日三度。香りを塔に向けるな。焦がすな」

「承りました」

「そして……」サヴァがわずかに声を落とす。「“帰り道の塩”は、お前が持て」

 胸の奥が熱くなる。私は深く礼をした。

「責任の匂いは、鼻が覚えています」

 庭の空気がやわらかくほどけ、人の列が自然に動き出す。王子が肩の力を抜き、グラドが小さく咳払いをした。

「見事だ、カスミアーナ」 「焦がさなかっただけです」

 片付けに入る前、バライルがそっと耳打ちする。

「今の一声は——」 「聞こえませんでした。けれど、塩の方向はわかりました」

 私は《ステータス》を開いた。

《名:カスミアーナ/年齢十五/職:料理研究家》
《料理:26→27/鑑定:10→10(維持)/嗅覚強化:10→10(維持)/交渉:9→10/段取り最適化:9→10》
《技:香り索引(試)/街道用香帆》
《称号:鍋の約束》

「交渉が、上がってる」 「君の言葉は、香りがついてるからな」王子が笑う。

「昼の部は“黒→赤→青”で回します。——そして一度、“沈黙の間”」

「了解」

 私たちは鍋の位置を半歩ずらし、帆の角度をもう一度だけ確かめた。旗は低く、湯気は胸の高さ。庭を渡る風が、優しく丸くなっていく。

 夕刻、外輪の灯が点る前に、バライルが正式な書簡を持って戻った。

「明朝、塔の下にて仮調印。——鍋は二基、持参のこと」 「二基。黒の隣に赤、赤の隣に青」 「忘れるな。焦がすな」

「はい」

 私は柄杓を胸に抱え、静かに息を吐いた。女神の匙は、手の中で温かい。

「帰ってこよう。——帰り道の塩を、ちゃんと持って」

 王子が頷く。ルークとマリナが手をつなぎ、グラドが門の影を一度だけ振り返る。塔の格子は、もう音を立てない。

 夜の帳が下りる。帆を半分下ろし、鍋の火を一つだけ残す。湯気は今日も、胸の高さで。
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