『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第4章魔王様、ご飯で和解しませんか?

第28話 仮調印の鍋、帰り道の塩

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 夜明け前、塔の下は霧の白。私たちは二基の鍋と帆を運び込み、旗を胸の高さより下に結び直した。
「今日も“湯気は胸の高さ”、忘れないで」
「了解」セイル王子が頷く。「焦がさない、香りは登らせない」
「耳の鍋も準備済み」グラドが帆の角を指で弾く。
 ルークとマリナは器を拭きながら、合図の四拍を口ずさむ。
「いって」「おいで」「おかえり」「いただきます」
 私は微笑んで頷き、《火加減制御》を開いた。

 仮調印は、塔の庭ではなく麓の広場で行われる。黒、赤、青の三屋台が半月に並び、中央に“沈黙の間”用の冷却箱。昨日と同じく、香りは塔に向けない規則だ。大匙長サヴァは黒衣を軽く揺らし、合図だけで進行を回す。言葉は少ないが、火と湯気には誰より口数が多い人だ。

「口上、三息で」

「本日の並び、黒→赤→青。湯気は胸の高さ。塩は帰り道ぶん。沈黙の間は一日三度」

 まず“黒炊き”。親方ゴルドが無駄のない手付きで蓋を半握り開け、湯気をほんの指幅だけ抜く。影の甘みが低く回り、場の緊張を吸い取った。
「続いて“赤”。」
 私たちの鍋だ。辛味は控えめ、香りは広く。ナッツミルクで熱を丸め、香草は葉先のみ。《香帆》を三角に張って風を横へ逃がす。
「最後、“青”。」
 炊き立てに薄い酸味の乳をまとわせ、刻んだ香草を折り混ぜる。塩は混ぜ切らずに粒のまま。着地のための“帰り道”。

 列の先頭、老文官が三皿を順に味わい、顎の角がほどける。
「言葉が、落ち着く」
「沈黙の間を挟みます」
 私は冷却箱から甘露ぷりんを小皿で配り、合図の香を一息焚いた。ざわめきが、吸い込まれるように静まる。匙が器に当たる微かな音。笑顔が軽く湧く。よし、角は丸い。

 その時、外輪二の列から小さな軋み。帆の影を伝って、ぴりりとした柑根の匂いが混じった。反対派の合図に使われる香りだ。
「王子、右後ろ、帆を半歩落として」
「任せろ」
 私は旗をさらに低くし、香袋から鎮静の調合を一つ落とす。風の筋が横へ曲がり、強い香りは観覧席の裏で霧散した。グラドが目だけで“耳の蓋”の合図をする。鍋の耳に触れるよう、帆の結び目をわずかにずらす——熱は出す、角だけ落とす。

「黒、赤、青、再度」
 進行は乱れない。サヴァが短く頷き、半月の内側で仮条文の読み上げが始まる。魔都側の書記は条件を三つ提示した。
「一、常設鍋は双方の市に二基ずつ。二、香りを塔に向けない。三、“焦げの責”は鍋主が負う」
 私は挙手した。
「追記を一つお願いします。“帰り道の塩”は鍋主が持つ。——帰路は責任で示します」
 老文官が目を細める。
「議場の帰路にも、塩は要る。異議なし」

 調印前の最後の試食。サヴァが低く言う。
「盲で行く。三皿を混ぜ、順番を失くせ」
「承知」
 私は三色を細かく刻み、粥で抱かせ、匙で一口の半月にまとめた。味の線が消え、香りの層だけが残る。サヴァは三口で確かめ、顎を引く。
「——良い。順番を失っても、帰り道がある」

 いよいよ、印だ。黒い封蝋、角印二つ。セイル王子が私を見る。
「カスミアーナ」
「はい」
「君の匙で、最後の“塩”を置いてくれ」
 私は頷き、青の混ぜ飯の中央、ほんの数粒だけ塩を落とした。湯気がふわりと丸くなり、人垣が自然に息を揃える。
「いただきます」
 合図の声が、庭の格子に触れた。——その瞬間、格子の奥から、昨日と同じ低い声。
「家庭の味、了解」
 誰も振り返らない。けれど、全員が聞いた。空気がやわらかくほどけ、サヴァが乾いた指で一度だけ音を鳴らす。

「仮調印——完了」

 拍手は短く、湯気は長く。黒の親方が腕を回し、赤の鍋に親指を立てる。
「辛味、悪くねぇ。腹で話せる辛さだ」
「青の香り、議場の風を丸くする」老文官が笑う。
 私の肩から力が抜けた。王子が小声で囁く。
「見事だった」
「焦がさず、帰り道も残しました」

 後片付けに入りながら、私は《ステータス》を開く。
《名:カスミアーナ/年齢十五/職:料理研究家》
《料理:27→28/鑑定:10→11/嗅覚強化:10→11》
《交渉:10→10(維持)/段取り最適化:10→11》
《技:香り索引/街道用香帆/耳の蓋》
《称号:鍋の約束》
「鑑定が上がった。……匂いの“裏側”が、少し読める」
「鼻は嘘をつかないからな」グラドが笑う。

 そこへ、バライルが駆け寄ってきた。
「魔王陛下より、口頭の追加伝達。“大市での鍋、異客を迎え入れよ。甘味は短く、熱は長く”」
「異客?」セイル王子が眉を上げる。
「誰でしょう」
 私はふと、胸元の女神の匙を撫でた。金属の温度が、皮膚の熱にゆっくり馴染む。その時——匙の柄に、微細な震え。耳の奥に、懐かしい電子音が一粒だけ跳ねた。
《接続候補検知——》
 視界の隅に、地の文が一瞬だけ滲む。地球の台所。ステンレスの流し。夜更けの蛍光灯。私の古いレシピ帳のページ。

「……女神?」
「どうした、カスミアーナ」王子の声が近づく。
「いえ。少し、故郷の匂いが」
 私は深呼吸し、香袋をひとつ開いた。落ち着くための、家の香り。出汁の乾いた甘み。湯気が胸の高さで丸くなり、震えは静かに引いていく。

「大市の前に、倉の洗い出しだろ」
「はい。カーディンさん、明朝、調香庫で」
 幕の陰から現れた記録官は、深く頭を下げた。
「旧在庫、全部出す。——焦げは、俺が数える」
「お願いします。焦げは覚書、香りは地図に。どっちも、次の人が読めるように」

 夕刻、魔都の空は鈍い紫。私は帆を畳みながら、王子に段取りを伝える。
「明日は倉。明後日が大市。黒→赤→青の順で入場、沈黙の間は正午。甘味は“短いぷりん”。耳の蓋は二基」
「了解。護衛は俺が采配する」グラドが請け負う。
「ルーク、マリナ、家の手紙を一通書こう。——『帰り道の塩を持って帰ります』って」
「うん!」
「ぷりん、明日もある?」
「短くね」
「えー」

 片付けが終わる頃、サヴァが静かに近づいた。
「お前の“青”は、風に礼儀を教える」
「風の機嫌取り、得意なんです」
「機嫌取りだけでは続かない。帰り道を、日々示せ」
「塩、忘れません」
 大匙長は目だけで満足を告げ、塔の影に消えた。

 宿へ戻る道、私は柄杓を胸に抱く。女神の匙は、まだ微かに温かい。大市には“異客”。接続候補。地球の匂い。胸が少しだけ早く打つ。

「王子」
「ん?」
「もし、本当に“向こう”と繋がったら……一番に食べさせたいのは、何ですか」
「決まっている」王子は笑った。「昨日の“青”。君の“家庭の味”だ」
「——了解」
 私は笑い返した。湯気は胸の高さで、旗は低く。帰り道の塩は、ちゃんと握っている。

 明日は倉、明後日は大市。そして、その先に——二つの台所が、同じ高さで湯気を重ねる日がある。
「焦がさない。甘味は短く、熱は長く」
 私は四拍を胸で刻み、歩みを速めた。

「いって」「おいで」「おかえり」「いただきます」

 夜、宿の机で便箋を広げた。墨の香りに、今日の湯気が少しだけ混ざる。
「お母さんへ——」と書いて、私は手を止めた。もういないはずの相手に、でも書きたい言葉がある。
『こっちは元気です。ごはんで喧嘩を止めました。今度、大きな市場で鍋を開きます。帰り道の塩は、ちゃんと持って帰ります』
 読み返していると、マリナが顔をのぞかせた。
「ねぇ、あしたの髪、どう結ぶ?」
「鍋に落ちない結び方。——高すぎず、低すぎず」
「湯気の高さだね」
「そう」
 笑い声が、薄い夜に溶けた。

 灯りを落とす前、私は香袋を一つだけ残す。中身は“家の匂い”。もし明日、異客が本当にやってきたら——最初に嗅いでほしいのは、きっとこの香りだ。

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