『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味

第3話 御前本審——舌に封をほどく梯子

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 夜明け前、私は“香の間”の前で深呼吸をした。窓は閉じ、通風孔は半開き。床石の矢印は昨日より一つ多い。——本審仕様だ。

「段取り、最終確認いくよ」

「はい!」
リサが返事をする。

「俺は右列の“耳の鍋”だ」
グラドが腕をまくる。

「私は補助に回る。合図は最小限で」
セイル王子が短く告げる。

「旗は低く、湯気は胸の高さ。——焦がさない」

 扉が開き、冷たい香が一筋すべる。玉座の上、黒衣の人物が軽く顎を上げた。角は小さく、目は深い。噂の威圧より、むしろ“静けさ”が強い。

「魔王陛下、献立の用意が整っております」

 使者バライルが銀の鐘を鳴らす。澄んだ音が二度、空気を研ぐ。

「始めよ。ただし——舌は封じられている。橋を掛けてみせよ」

「承知しました」

 私は《火加減制御》を開き、主火を一指、補助火を半指。最初は“橋の雑穀粥”。合図の香は焚かない。静けさは、鍋が作る。

 柄杓でひと口。湯気が胸の高さに丸く立ち、広間の音がひと拍だけ薄くなる。陛下が小鉢を受け、迷いなく口へ運ぶ。

「……温度が先に来る」

「はい。甘味は“噛む時間”で運びます」

 咀嚼のたび、穀の甘さが一段ずつ梯子を上がる。陛下の目の焦点が、ほんの少し近づいた。

「次、“和薬茶漬け”。塩は外交量」

 刻み香葉を湯にくぐらせ、温度を胸の高さで揃える。湯気は短く、香りは長く。

「——鼻から味が入るな」

「舌の封を、香りで迂回いたします」

 席の後方で、筆記の音が増えた。《鑑定眼》に静かな波が立つ。
《精神安定:中/集中:上昇/敵意:減衰》

 私は蒸籠へ向き直る。

「“香葉の蒸し団子”。間合いは五息短く」

 蓋を三分の一だけずらす。ふっ、と軽い湯気。団子を割って塩を一粒だけ触れる。陛下が口に入れ、数息止まり、それから細く吐いた。

「……喧嘩が遠のく塩だ」

「ありがとうございます」

 最後の一本。“骨付き柔煮”。ここで強い甘味も辛味も使えない。代わりに——出汁の梯子。

「主火、半指下げ。骨際、薄切り」

 私は大鍋の底を撫でるようにすくい、香りの低音を立てる。昆と獣の重なりを“温度”で結ぶ。湯気は長く、輪郭はやわらかい。

 陛下が口に運び、目を伏せた。沈黙。玉座の背後の幕が、風もないのにわずかに揺れた。

「——懐かしい、という情報だけが届く。不思議だ」

「帰る場所の匂いです。強い味は使っていません。記憶の底にある出汁で、道を繋ぎました」

 そのとき、鼻をかすめる嫌な線。古い柑根、酸化油、早い焦げ——柱の影。

「グラド、右列、耳の布」

「取った」

「リサ、小鉢二つ、沈黙。——王子、半歩、風下」

「了解」

 私は鍋を台座ガイドに沿って四分の一回転。湯気の輪郭が立ち直り、影の線が外へ押し出される。小鉢を柱の影へ差し入れると、布越しに手が触れ、器が止まった。

「忙しいので手短に。どうぞ」

 ひと啜り。肩が落ちる音。

「……腹が、落ちる」

「名前はあとで。器はその場に」

 器が静かに戻った。私は柄杓を置く。

「以上です」

 銀の鐘が三度、間を置いて鳴った。使者が一歩進み出る。

「御前本審——」

 空気が一瞬だけ固くなり、次の瞬間、やわらかくほどけた。

「合格。献立は外交に資する。特に“和薬茶漬け”と“骨付き柔煮”の温度梯子は、封じられた舌に道を示した」

 玉座から、低い声が落ちる。

「約は一つだ。魔都の大市に、月に一度“常設鍋”を開け。境界の香りを、都に通せ」

「——拝命いたします」

 膝が自然に落ちた。女神の匙が、胸の内でふっと温かい。

「ただし、条件を二つ」

 陛下の目がわずかに笑った。

「焦がすな。甘味で喧嘩を止めろ」

「はい。焦がしません。喧嘩はぷりんで止めます」

 広間に小さな笑いが走る。王子まで肩を震わせた。

「それと——」

 陛下は視線だけを柱の影に滑らせた。

「旧棚の手は、鍋に触れるな。腹で話せ」

 影がびくりと揺れ、やがて静かに膝をついた。使者が合図し、衛士は剣に手をやらない。——腹で話す場だ。

「後ほど、倉で話しましょう。塩は弱めで」

 私は影にだけ、聞こえる声で告げる。

 銀の鐘が一度、明るく鳴った。御前本審は終わった。


---

 回廊に出ると、風がひと筋流れ、胸の熱がすっと均された。

「やったな」

 グラドが短く言う。

「はい。焦がさず、橋を掛けられました」

「“ぷりんで止めます”は新しい宣言だな」
王子が笑う。

「効果は実証済みです」

「議場に冷蔵庫を、と前に言っていたな」

「導入計画、後で上申します」

 三人で笑い、私は“香りの地図・本審版”に小さく丸を付けた。
——舌に封:温度と香りで迂回可。沈黙小鉢は三十+二。

 《ステータス》を開く。
《料理24→25/鑑定8→9/嗅覚強化8/段取り最適化8→9/火加減制御8》

「上がってる。……でも、まだ足りない」

「十分以上だ」
グラドがうなずく。

「君がいる限り、都の湯気は途切れない」
王子の目がやわらぐ。

「私がいる限り、鍋は焦げません」

 私は柄杓の柄を握り直した。次は——地球の台所との“再会”。魔都の紙の香りが、遠い記憶をそっと撫でる。

「月一の常設鍋、初回は来月。準備、山盛りですね」

「段取りは、鍋が知っている」

 私は微笑み、風に向かって小さくつぶやいた。

「女神さま。約束、守ってますよ。——料理で救う」

 女神の匙が答えるように、胸の内で温かくなった。


---

 その日の午後、短い“倉の面談”が開かれた。柱の影にいた男は膝をつき、名を名乗る。

「カーディン。記録官です」

「数字を守るために、“混ぜ粉”を受けたのね」

「はい。香りを早く強く見せる粉。倉に残る匂いは……重く、長く、食材を鈍らせた」

「もう入れない。粉は薬師に回す。代わりに——在庫表を香りで書き換える」

「香りで、書く?」

「《香り文作成》。瓶の口に小さな札を結ぶ。塩は塩の高さ、油は油の重さ。数字で嘘はつけるけど、匂いは嘘を嫌うから」

 カーディンは深く頭を下げた。

「……俺の鼻でも、まだやり直せるか」

「鈍い鼻は焦げの初手に強い。門番さんの教えです」

 面談は短く終わり、粉は封印箱に収まった。倉の空気が、一息だけ軽くなる。


---

 台所に戻ると、ルークとマリナが鍋の前で背伸びしていた。

「“耳の鍋”って、ほんとに耳なの?」

「耳ではないけど、耳に似た役。音と匂いで鍋の機嫌を聞くの」

「機嫌?」

「ほら、今は“ごきげん”。湯気が丸いでしょ」

「丸い!」

「でも怒ると、湯気が尖る。そんな時は——蓋を半分、旗は低く」

「低く!」

 ふたりの復唱に、場がまた少し柔らかくなった。

「で、ぷりんは?」
マリナが上目づかい。

「明日。“沈黙の間”でね」

「……がんばる」

 小さな握り拳がかわいくて、私は思わず笑った。


---

 夜、使者バライルが私室を訪ねてきた。机の上には、魔都行きの書付と地図。

「月一の常設鍋、初回は“紙市”に合わせたい。人も香りも集まる」

「紙市……紙と、インクと、糊の匂い」

「君の匙なら、人波でも湯気を崩さない。条件は同じだ——焦がすな、甘味で止めろ」

「承知しました」

「それから……陛下の“封”は病ではない。戦の副作用だ。君の梯子は、都にも必要だ」

 バライルは深く一礼し、去っていった。扉が閉まる音がやわらかい。私は地図に小さな丸を付けた。
——紙市。風は南から。ぷりんの冷やし場、三。

 窓を開けると、夜の風が乾いた香りを運んだ。遠く、印刷機の規則正しい脈拍。私は胸の前で匙を握る。

「よし。次は、都の鍋。——焦がさない、甘味は喧嘩を止める」

 小さく宣言して、灯を落とした。

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