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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味
第6話 大市、香りの梯子と仮面の味見役
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夜明け前、紙市の天幕に白い息が浮かんだ。
私は石板で冷やした“半ぷりん”を十皿だけ並べる。
「鼻と心を揃えます。——“沈黙の間”、はじめ」
匙が静かに落ち、数拍の無音が場に広がる。
呼吸が揃ったところで、私は旗の結び目を一段低く結び直した。湯気は胸の高さ。香りの梯子、準備完了。
「開市!」
呼び子の声と同時に、紙の匂いの波が押し寄せる。
---
最初の鍋は“橋の雑穀粥”。
次に“骨付き柔煮”を小椀で、最後に“香葉の蒸し団子”を一口。
三段階で、鼻と舌をゆっくり立ち上げる。
「はーい、最初は腰をあたためる椀からどうぞ」
「立ち話でもこぼれません。歩きながらでも平気です」
ルークとマリナの声が、列の端まで届く。
グラドは天幕の外で人の流れを肩で整え、セイル王子は会計台のまわりで笑顔を散らした。
「塩は外交量、合ってる?」
王子が鍋を覗く。
「午後の喉渇き用に、塩は一段だけ控えめで。代わりに酸味を薄く足しました」
「了解」
---
昼近く、風が変わった。
甘い紙埃の層に、突発的な柑根の刺が混じる。舌先が少し痺れる匂い。
「強香粉……吹かれてる」
私は《嗅覚強化》をもう一段上げ、風下の角を指さす。
「右の路地。天幕の隙間から入ってくる。——香りの蓋、します」
鍋の火を半段落とし、湯気の高さを手早く揃える。
同時に“出汁茶”を温め、来客に小盃で配る。
「口を一回リセットしてください。焦らず、ゆっくり」
客の肩がふっと落ちる。
グラドが路地に回り、粉を撒いていた男の袖を軽くつまんだ。
「市の規定、読めるよな」
「読めません!」
「じゃあ口で覚えろ。——焦がすな」
男は全力でうなずいて去った。紙市のざわめきが元のリズムに戻る。
---
そのとき、黒い仮面が湯気の向こうに立った。
白い線で“舌”の印が描かれ、肩に革の帳面。魔都の“味見役”だ。
「ようこそ。順番に三つ——粥、柔煮、団子。最後に“舌休め”があります」
仮面は無言で頷く。
一口、二口、三口。動きに無駄がない。
私は合図し、最後の小皿を差し出した。
「“香り茶漬け”。鼻を落ち着かせつつ、余韻だけ拾います」
仮面の動きが一瞬止まり、ゆっくり口へ。
数息の沈黙。革の帳面に短く線が走る。
「——三日、許可」
低い声。仮面の奥の目がわずかに細くなる。
「規定。列を切らすな。残菜を出すな。焦がすな」
「はい。三つ、守ります」
仮面は踵を返し、帳面を肩で叩いた。
周囲に「おお」と小さな波が広がる。
「三日、常設鍋っ!」
マリナが飛び上がる。
「落ち着け、飛ぶとこぼれる」
グラドが器を死守しながら笑った。
---
午後は“香りの梯子”を一段上げた。
柔煮に柑皮の香りを遠く薄く、団子の蒸気に塩の霧を一滴。
列は乱れず、鍋は焦げず、笑顔は増える。
「カスミアーナ殿」
カーディンが走ってきた。
「紙市の回覧、回りました。“焦げさせるな”に加え、“湯気で喧嘩を止めよ”の条文、暫定採用です」
「早い。——“ぷりん条約”も、いつか」
「議場に冷やし箱が必要だな」
王子が真顔でうなずき、皆がまた笑う。
---
日が傾く頃、天幕の影が長くなった。
私は火を落とし、《段取り最適化》の余白に今日の線を描く。
客の流れ、風の癖、湯気の高さ。——よし、明日もいける。
「片付け、はじめます」
「はーい!」
そのときだった。
鼻の奥に、細い針のような香りが触れた。
昆布と鰹——出汁の骨。だが、ここは魔都、海は遠い。
「……今の、出汁?」
「小路からだ」
グラドが顎で示す。
紙束の陰、古道具屋の台に、金属の小箱がひとつ。
蓋に刻まれた文字が、黄昏にかすか光った。
——みりん。
——かつお。
胸がじんと熱くなる。
私は思わず一歩踏み出し、すぐに止まった。深呼吸。順番を間違えない。
「王子。明日の朝一番、“出汁の橋”をかけます」
「地球へ、か?」
「ええ。鼻が、帰り道を覚えました」
王子はゆっくり微笑む。
「三日の許可を、最大限に使おう」
「焦がさず、甘味で止めて」
「合言葉、了解だ」
夜の紙市に灯がともる。
鍋は静まり、風は南。
胸の奥で、女神の匙があたたかく鳴った。
私は石板で冷やした“半ぷりん”を十皿だけ並べる。
「鼻と心を揃えます。——“沈黙の間”、はじめ」
匙が静かに落ち、数拍の無音が場に広がる。
呼吸が揃ったところで、私は旗の結び目を一段低く結び直した。湯気は胸の高さ。香りの梯子、準備完了。
「開市!」
呼び子の声と同時に、紙の匂いの波が押し寄せる。
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最初の鍋は“橋の雑穀粥”。
次に“骨付き柔煮”を小椀で、最後に“香葉の蒸し団子”を一口。
三段階で、鼻と舌をゆっくり立ち上げる。
「はーい、最初は腰をあたためる椀からどうぞ」
「立ち話でもこぼれません。歩きながらでも平気です」
ルークとマリナの声が、列の端まで届く。
グラドは天幕の外で人の流れを肩で整え、セイル王子は会計台のまわりで笑顔を散らした。
「塩は外交量、合ってる?」
王子が鍋を覗く。
「午後の喉渇き用に、塩は一段だけ控えめで。代わりに酸味を薄く足しました」
「了解」
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昼近く、風が変わった。
甘い紙埃の層に、突発的な柑根の刺が混じる。舌先が少し痺れる匂い。
「強香粉……吹かれてる」
私は《嗅覚強化》をもう一段上げ、風下の角を指さす。
「右の路地。天幕の隙間から入ってくる。——香りの蓋、します」
鍋の火を半段落とし、湯気の高さを手早く揃える。
同時に“出汁茶”を温め、来客に小盃で配る。
「口を一回リセットしてください。焦らず、ゆっくり」
客の肩がふっと落ちる。
グラドが路地に回り、粉を撒いていた男の袖を軽くつまんだ。
「市の規定、読めるよな」
「読めません!」
「じゃあ口で覚えろ。——焦がすな」
男は全力でうなずいて去った。紙市のざわめきが元のリズムに戻る。
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そのとき、黒い仮面が湯気の向こうに立った。
白い線で“舌”の印が描かれ、肩に革の帳面。魔都の“味見役”だ。
「ようこそ。順番に三つ——粥、柔煮、団子。最後に“舌休め”があります」
仮面は無言で頷く。
一口、二口、三口。動きに無駄がない。
私は合図し、最後の小皿を差し出した。
「“香り茶漬け”。鼻を落ち着かせつつ、余韻だけ拾います」
仮面の動きが一瞬止まり、ゆっくり口へ。
数息の沈黙。革の帳面に短く線が走る。
「——三日、許可」
低い声。仮面の奥の目がわずかに細くなる。
「規定。列を切らすな。残菜を出すな。焦がすな」
「はい。三つ、守ります」
仮面は踵を返し、帳面を肩で叩いた。
周囲に「おお」と小さな波が広がる。
「三日、常設鍋っ!」
マリナが飛び上がる。
「落ち着け、飛ぶとこぼれる」
グラドが器を死守しながら笑った。
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午後は“香りの梯子”を一段上げた。
柔煮に柑皮の香りを遠く薄く、団子の蒸気に塩の霧を一滴。
列は乱れず、鍋は焦げず、笑顔は増える。
「カスミアーナ殿」
カーディンが走ってきた。
「紙市の回覧、回りました。“焦げさせるな”に加え、“湯気で喧嘩を止めよ”の条文、暫定採用です」
「早い。——“ぷりん条約”も、いつか」
「議場に冷やし箱が必要だな」
王子が真顔でうなずき、皆がまた笑う。
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日が傾く頃、天幕の影が長くなった。
私は火を落とし、《段取り最適化》の余白に今日の線を描く。
客の流れ、風の癖、湯気の高さ。——よし、明日もいける。
「片付け、はじめます」
「はーい!」
そのときだった。
鼻の奥に、細い針のような香りが触れた。
昆布と鰹——出汁の骨。だが、ここは魔都、海は遠い。
「……今の、出汁?」
「小路からだ」
グラドが顎で示す。
紙束の陰、古道具屋の台に、金属の小箱がひとつ。
蓋に刻まれた文字が、黄昏にかすか光った。
——みりん。
——かつお。
胸がじんと熱くなる。
私は思わず一歩踏み出し、すぐに止まった。深呼吸。順番を間違えない。
「王子。明日の朝一番、“出汁の橋”をかけます」
「地球へ、か?」
「ええ。鼻が、帰り道を覚えました」
王子はゆっくり微笑む。
「三日の許可を、最大限に使おう」
「焦がさず、甘味で止めて」
「合言葉、了解だ」
夜の紙市に灯がともる。
鍋は静まり、風は南。
胸の奥で、女神の匙があたたかく鳴った。
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