『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味

第10話 黒都の正式席、焦がさずに名乗れ

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 翌朝、黒の回廊の外れに借りた客舎で、私は鍋の前に正座していた。
 窓は細く、光は糸。空気は冷たく、香りがくっきり立つ。

「本番の献立、最終確認いきます」

「了解」

 セイル王子が帳面を開き、アヤが湯の番に立つ。ルークとマリナは器磨き、グラドは扉にもたれて鼻で空気を読む。

「一の椀は“挨拶”。黄金の吸い物。具は極小の白身と香草一本」

「ふむ。挨拶は短く、覚えやすく、だな」

「二の皿は“橋”。——黒穀蒸しに淡いカレー餡を一線だけ。地球と異世界の握手です」

「握手は強すぎず、離れすぎず」

「三は“沈黙”。ぷりんは親指の先ほど。騒がしい舌を一度座らせます」

「……議会にも常備したい」

 王子のぼやきを聞き流しながら、私は《段取り最適化》を開く。
 火加減、湯の音、運ぶ順。焦げの芽を片っ端から摘んでいく。

「よし、いける。——音、鳴らして」

「はい」

 アヤが薬缶の口をわずかに傾け、鍋肌に湯を当てる。

“ふつ”“ざ……ざっ”

「今日の音は、帰り道の音」

「帰り道の音、覚えた」

 ルークが胸に手を当て、マリナは磨いた匙を光に翳す。

 

 やがて迎えの衛士が来た。
 黒衣、短い言葉、揺れない目。

「時間だ。——流れを止めるな」

「止めません」

 

 黒の回廊は昨日よりも静かだった。
 足音が石に吸われ、息が細くなる。
 小広間。黒い卓。フードの影。金の瞳。

「ようこそ。今日は腹で名乗れ」

「光栄です」

 私は鍋を据え、火力石を半段。
 アヤが湯を鳴らし、王子が一歩下がる。
 私の視界は、湯気と器だけになる。

 

「——一の椀、挨拶でございます」

“ざざっ”

 黄金が静かに揺れ、香草の緑が一筋。
 魔王は椀を取り、ほんの指の幅だけ顎を引いた。

「短い。覚えやすい。……よい」

「ありがとうございます」

 

「次。——橋を見せよ」

「承知しました」

 蒸し上がった黒穀を小さな円にまとめ、表面を蒸気で艶やかに。
 上から、極薄のカレー餡を筆で“一線”。
 香りは深く、辛さは影、甘みは芯。

「——二の皿、“橋”でございます」

 魔王は一口。
 金の瞳が細く、次にわずかに大きくなる。

「強くは結ばぬ。だが、離れぬ。……橋だ」

「橋は、渡る人の数で強くなります」

「言葉もよい」

 

「三。——沈黙を」

「はい」

 小さなぷりんを置く。
 匙で一線。
 黒の回廊の空気が、ひと拍で静まる。

「……」

 沈黙は、怖くない。
 鍋の中の湯気が、言葉の代わりになる。

「——よい。腹は、君を覚えた」

「恐縮です」

 

 魔王が卓に指を二度、軽く打つ。
 扉の陰から、香箱を抱えた人物が現れた。
 白い手袋。癖のない足音。深く被ったフード。

「我が調香師長だ。香りの言葉で話せ」

「畏まりました」

 

 調香師長が一歩進み、香箱を開く。
 乾いた柑皮、焙じた根、黒い花、そして——

「……この匂い」

 私の指が止まった。
 箱の隅で、細い紙束がほのかに香る。
 レシピ紙だ。紙質は……地球の、私が使っていた作業用の薄紙。

「その紙、どこで?」

 思わず出た声に、調香師長の肩がわずかに揺れた。
 フードの影がわずかに上がり——

「先生。……覚えていらっしゃいますか」

「——え?」

 落ちたフードから現れた横顔。
 すっと通った鼻梁、茶の瞳、口元の小さなほくろ。

「蒼生(あおい)?」

 胸の底から名前が浮かんだ。
 地球で、私の講座に最初に来た子。
 包丁が怖かったけれど、香りのメモは誰より早かった——あの、蒼生。

「お久しぶりです、先生。今は“蒼生(ソウセイ)調香師長”と呼ばれています」

「どうして、ここに——」

「後で。今は席を崩すわけには」

 蒼生は目だけで合図し、香箱から黒い花をひと欠片。
 私に、香りで問う。

(——橋の“影”は、どこに置く?)

(影は縁。真ん中に置かない。甘みで結び、塩で締める)

(了解)

 

 会話は、一瞬で終わった。
 けれど胸の奥で、長い時間がほどけていく。

「蒼生。……生きてた」

「先生も」

 

 魔王が静かに頷いた。

「君らの再会は、橋の上でせよ。——正式に伝える。月に一度、黒都の大市に“常設鍋”を開け」

「……許可を、いただけるのですか」

「条件は同じ。焦がすな。流れを止めるな。音を乱すな。——それと一つ」

「一つ?」

「魔界の孤児院に“朝の椀”を教えよ。君の“ざざっ”を、あの子らの帰り道にする」

 胸が、熱くなった。

「はい。全力で」

「王都との橋は、王子が担うがよい」

「謹んで」

 セイル王子が膝をつく。
 流れは、決まった。

 

 退出の合図。
 回廊を離れたところで、蒼生が小さく囁いた。

「先生。今日の夜、香庫の裏で。——五分だけ」

「行く。必ず」

「うん」

 

 客舎に戻る途中、ルークが小声で跳ねた。

「先生の弟子さん、かっこよかった!」

「うちの“湯の音”、負けないけどね」

「負けない」

 アヤが笑い、王子が肩の力を抜く。グラドは前を見たまま、短く言った。

「再会の匂いは、火を強くしすぎる。——気をつけろ」

「はい。焦げさせません」

 

 夜。
 香庫の裏は、石と木の匂い。
 蒼生がふっと現れ、私は思わず手を伸ばした。

「どうやって、こっちに」

「“紙”が連れてきた。先生のレシピをまねて写していたら、香りが道になった。……気づいたら黒都で、匂いを読み書きする仕事になってた」

「辛くなかった?」

「包丁よりはまし。香りは、切らないから」

 蒼生は肩をすくめ、でもすぐ真顔になる。

「先生、地球の方へも——細いけれど、道がある。名は“文香(ふみこう)”。一月に一枚だけ、香りの手紙が通る」

「香りの手紙……!」

「私が橋になる。だから——」

「焦がさない。乱さない。止めない」

「うん」

 短い沈黙。
 遠くで夜警の鈴。
 私は深く息を吸い、蒼生の手を握った。

「ありがとう。——戻れる味を、もっと強くする」

「先生なら、できる」

 

 部屋に戻ると、皆が起きていた。
 小さな火。丸い鍋。白い器。

「夜食、どうする?」

「“帰り道の茶漬け”で」

 私は笑い、薬缶を持った。

“ざざっ”

 湯の音が、天井の石に柔らかく返る。
 それは確かに、帰り道の音だった。

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