『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味

第16話 魔都への道、風は中立

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 出立の朝。
 “常設鍋”はカーディンと書記隊が引き継ぎ、ルークとマリナは鍋番の留守居。私は小ぶりの荷馬車に“往還弁当”と香袋、携帯竈を積み込んだ。

「王都は任せたよ。旗は低く、湯気は胸の高さ」

「「はい!」」

 子どもたちが手を振る。
 セイル王子とグラド、副官シュラ、調香の蒼生(ソウセイ)、それからアヤ。最小の隊で、私たちは魔都へ向かった。

 

 街道は南東へ緩やかに下り、風に鉄と土の匂いが混じる。
 境界に近づくほど、鼻が忙しくなる。

「先生、“中立(ニュートラル)の香線”、今のうちに」

「描くね」

 私は柑皮と白胡麻、微量の山椒で香りの輪郭を細く引いた。
 馬車の幌の内側に、薄い輪がいくつも重なる。

「主張は足跡、匂いは挨拶。——これで“所属”が薄まる」

「良い。列で揉めにくい」

 グラドが頷き、王子は地図を閉じた。

「正午前に関門だ。弁当、ひと束は“交渉用”に」

「準備済み」

 

 やがて、黒い石を積んだ関門が見えた。
 “黒都(こくと)関”。角を持つ衛士が二名、鼻の膜をぴくりと動かす。

「人間の隊か?」

「王都第二王子、通行許可あり。目的は大市での炊き出しと試食会」

 セイル王子が掲げた書状に、衛士の視線が落ちる。
 次の瞬間、風がいたずらした。列の後方から、香油の強い匂いが関門へ流れ込む。

「……生(なま)の匂いが混じる。列を止めろ」

 ざわつき。
 私は一歩前に出た。

「失礼。——“中立の香線”、一筋だけ通していいですか」

「何だ、それは」

「匂いを薄く輪郭にする線です。関門は風が巻くから、喧嘩になる前に“耳の蓋”をずらします」

「耳の蓋?」

「熱が上がりすぎたら蓋を少しずらす。……台所の教えです」

 衛士は目だけで合図し、私は香袋を指先で裂いた。
 柑皮と白胡麻と、山椒の影。薄い線が関門に浮かび、匂いの角が丸くなる。

「……確かに、刺さりが収まった」

「加えて、“沈黙の間(ま)キャンディ”を。二十拍の沈黙が得られます。行列が詰まったら配ってください」

「試す価値はある」

 グラドがすかさず箱を差し出す。
 私はもう一つ、木の箱を開いた。

「それと、交渉用の“往還弁当・ただいま”。列の腹は短気ですから」

「ほう」

 衛士が一片の出汁巻きを口に運ぶ。
 目尻の皺が、ほんの少しだけ緩んだ。

「通れ。——騒ぐな、列を保て」

「ありがとうございます」

 

 関門を過ぎると、空気が変わった。
 墨と鉄粉、干し薬草、遠くで煮詰める糖蜜の匂い。魔都の外市は、もう鼻の先だ。

「先生、地図。風は南東、香りは回る」

「うん。“中立の輪”は二重に。——大市では“列に優しい鍋”でいく」

「鍋の名は?」

「“合間(あいま)の汁”。立ち食いでもこぼれにくく、話を挟める隙間のある味」

「相手は魔王の目付も来る。……焦がすなよ」

「焦げは残り、熱は分ける。合言葉でしょ」

 グラドが口の端だけで笑った。

 

 外市の手前で休憩を取り、私は小竈に火を入れる。
 弁当の“同時刻(シンクロ)一口”を、今度は隊で試すことにした。

「三、二、一——“橋ご飯”」

「……落ち着く」

 蒼生が肩の力を抜き、アヤが笑う。

「“沈黙の間”、十拍」

 短い静けさ。
 風の筋がよく見える。

「行こう」

 

 外市の門は広く、人も種族も匂いも多彩だった。
 “中立の輪”が役に立つ場面が、すぐに来る。

「人間の屋台は、あちら。香線の登録を」

 係の書記が鼻札を差し出す。
 私は「柑一・胡麻一・山椒点五」の符を書き添え、屋台台帳に“旗は低く、湯気は胸の高さ”と刻む。

「合図の鐘は正午。試食枠は第二区画、見聞役が巡回します」

「了解。“合間の汁”から始めます」

 

 最初のひと鍋。
 雑穀のとろみ、骨の下支え、干し茸の影。
 湯気が胸の高さで揺れ、列が自然に波打つ。

「——いただきます」

 私が宣言し、合図の香をひと焚き。
 最前列は角のある若い商人だった。

「生の匂いは?」

「輪郭にしました。主張は足跡、匂いは挨拶」

「なら、挨拶で受けよう」

 一口。
 商人の肩が、すっと落ちた。

「喉が滑る。……話ができる味だ」

「“合間の汁”ですから」

 笑いがほどけ、列が早すぎず遅すぎず進み始める。
 セイル王子が風下で頷き、蒼生は輪の薄さを微調整。アヤは沈黙キャンディの小瓶を所定位置へ。

 

 鍋の底が見え始めた頃、黒紋の外套を着た使者が音もなく現れた。
 肩章の刻印は——魔王直轄の見聞役。

「女神の匙の持ち主、カスミアーナ殿だな」

「はい。鍋は焦がさず、熱は分けます」

「言葉は不要、湯気で答えよ」

 見聞役は小さな椀を掲げ、匂いの骨をなぞるように目を細めた。
 ひと口、ふた口。
 短い沈黙ののち、外套の裾がわずかに揺れる。

「——明朝、魔王城“香の広間”にて。献立は三。温、冷、そして“往還”。」

「承りました」

「焦げさせるな。……期待している」

 黒紋が人波に溶け、風だけが残る。

 

 片付けに入る前、私はそっと《ステータス》を開いた。

《名:カスミアーナ/年齢15/職:料理研究家》
《料理 31/鑑定 12/嗅覚強化 13/湯音制御 7/段取り最適化 13》
《香窓開閉 1/換算感覚 1/新:中立香線 0→1》
《称号:往還の鍋》

「上がってる。……でも、まだ足りない」

「十分以上だ」

 セイル王子が笑う。

「君の湯気は、境を越える。——明日、“橋”を三つ、架けよう」

「温、冷、往還。……任せて」

 私は木杓子を握り直し、鍋の底をゆっくりさらった。
 焦げはない。熱は、まだ優しい。

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