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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味
第20話 手順書と再会、冷やしぷりんは握手の味
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常設枠の許可が下りた翌朝、私は王都の台所で紙と筆を広げた。
表紙には、はっきりと大きく——『鍋の約束・初級編』。
「見出しは“旗は低く、湯気は胸の高さ”。次は“沈黙の十拍”、それから“耳の鍋”の三段階……」
「図は俺が描こう」
グラドが木蓋の絵をさっと描く。角度ごとに“一指/二指/三指”と明記。横に私は短い説明を添えた。
「一、ざわめきを和らげる
二、怒りを寝かせる
三、沈黙を呼ぶ。——いずれも十拍厳守」
「硬い言葉より、鍋の語り口がいいな」
「はい。読み上げやすく、覚えやすく」
セイル王子は隣で頷き、最後のページを指した。
「付録“沈黙の間に最適な甘味”。……ぷりんか」
「これが一番、口と心を同時に落ち着かせますから」
笑いがこぼれ、台所の空気が柔らかくなる。そこへ、門番の少年が駆け込んだ。
「カスミアーナさん! “橋便(はしびん)”が届きました! 魔都経由の地球行き来の許可使です!」
「地球から?」
「はい。小型往還、今日の正午に試行だそうです!」
私は思わず木杓子を握り直した。胸の奥が、ひゅっと熱くなる。
正午。
王都の広場、常設鍋の横に小さな円環が立った。薄い光が水面みたいに揺れ、向こう側に白い壁と銀色の台——地球の研究室の一角が見える。
「——聞こえる? カスミ」
「美緒(みお)! 聞こえるよ!」
次の瞬間、光の縁をくぐって、ひとりの女性が現れた。短いポニーテール、両腕には保冷箱。私より少し背が高くて、目がきっぱりしている。
「先に言わせて。おかえり、師匠」
「……結衣(ゆい)?」
「うん。元・アシスタントの結衣です。一次試験、合格して会いに来た」
保冷箱を差し出し、結衣はにやっと笑う。
「“再会の三点セット”。出汁、牛乳代替、そして卵——の代わりのゲル。ぷりん、作れるはず」
「持ってきてくれたんだ……!」
「師匠の“沈黙の間”、論文にして世界に投げよう。——いや、ちゃんと合意を取って、“鍋の約束”に沿う形で」
そこまで言うと、彼女はぐるりと広場を見回し、低い旗と胸の高さの湯気に目を細めた。
「ほんとに、台所で外交やってるんだね」
「うん。焦がさず、熱だけ分けてる」
「最高だよ、師匠」
「まずは腹で話そう。——結衣、こっち手伝って」
「了解」
私たちは並んで鍋に向かった。
結衣は手を洗い、保冷箱のゲルを小鍋に落とす。私はナッツミルクを温め、ラウモンド印の砂糖を計る。火は弱く、混ぜる手は一定。湯気は、胸の高さ。
「王子、十拍の合図をお願いします」
「任せろ」
“トン”。グラドが木蓋を軽く弾く。
私はぷりん液を小椀に流し、急冷用の“風の箱”に入れた。
沈黙の十拍が終わる頃、表面がゆるく固まりはじめる。
「試食は、混交列の先頭から」
人と魔族の子が、同時に一口。
舌に触れた瞬間、ふたりの肩から力が抜けた。
「……静かになる」
「甘いけど、喉が騒がない」
広場に柔らかな笑いが広がる。
結衣が私の横で、小さく息を吐いた。
「こっちでも、効く。——“沈黙の間”は、世界共通言語だ」
「言葉が通じなくても、十拍は共有できるからね」
そこへ、議会の書記官カーディンがやって来た。
以前、旧在庫の件で腹を割った相手だ。今日は肩の力が抜けている。
「文書、拝見した。“鍋の約束・初級編”。記録官席に登録してよいか?」
「もちろん。ただし追記を一つ」
「追記?」
「“旗は低く、湯気は胸の高さ”を、図の最初に。文字より先に目に入るよう、大きく」
「了解した。……地球の方だね?」
「元アシスタントの結衣です。初日は皿洗いからやります」
「頼もしい」
カーディンは小さく頭を下げ、去っていく。
結衣がすぐ横で囁いた。
「この距離で、文書の話ができる街。いいね」
「この街にしてもらったんだよ、みんなに」
休憩。
私は結衣と並んで腰を下ろし、鍋から立つ湯気を眺めた。
「ねぇ、師匠」
「ん?」
「“耳の鍋”の理屈、地球側に伝えるときの名前……“ラーメン屋の湯切り理論”とかにしたら伝わるかな」
「それ、誤解を生むやつ。ちゃんと“蓋角三段法”って書こう」
「はいはい、真面目」
「あと、“沈黙の間”は十拍。絶対に変えない」
「わかってる。——約束、ね」
結衣は空を見上げ、ぽつりと付け足した。
「師匠、私、あの時、辞め方が下手だった。忙しいに負けて、ちゃんと話さずに飛び出した。ずっとそれを料理で埋めてきたけど……やっと、言える」
「今、言ってくれたから、もう大丈夫」
「……うん。ありがとう」
横顔が少し幼く見えて、胸がきゅうとなった。
私は《ステータス》をそっと開く。小さな欄に、細い文字が増える。
《交渉 16→17/段取り最適化 16→17/耳鍋運用 2→3》
《新特記:弟子再会補正(沈黙の間+一拍の余裕)》
たぶん、私のほうこそ救われている。
夕刻。
魔都側の鍋も無事に閉店したと連絡が入った。アヤと蒼生は、光の縁の向こうで親指を立てている。
王子が私と結衣の間に歩み寄り、静かに言った。
「“初級編”の配布、明朝から始めよう。王都三十部、魔都三十部。——地球にも、同数送る」
「印刷は研究所で引き取るよ。図版はこのまま使っていい?」
「もちろん。ただし、最後に一行つけて」
「何を?」
「“鍋は約束、焦げは記憶、甘味は休戦”。——責任の行を」
結衣がゆっくり頷き、私と目を合わせた。
「守る。絶対に」
片付けが終わる頃、子どもたちが寄ってきた。
「ねぇ、明日もぷりんある?」
「“沈黙の間”の分だけね。——喧嘩の時にも使うから」
「じゃあ、喧嘩しない!」
「そうして!」
笑い声が湯気に混ざる。
私は木蓋を撫で、鍋の底を覗いた。焦げは、ない。
夜。
結衣と肩を並べて寝床へ向かう途中、彼女が小声で言った。
「師匠。——いつか、“上級編”も書こう」
「書こう。耳だけじゃない、目と鼻と手の“蓋”。」
「うん。私、今度は逃げない」
「私も、焦がさない」
ふたりで、約束の言葉をゆっくり噛んだ。
湯気は胸の高さ、旗は低いまま。
握手の代わりに、そっと木杓子を合わせた。
表紙には、はっきりと大きく——『鍋の約束・初級編』。
「見出しは“旗は低く、湯気は胸の高さ”。次は“沈黙の十拍”、それから“耳の鍋”の三段階……」
「図は俺が描こう」
グラドが木蓋の絵をさっと描く。角度ごとに“一指/二指/三指”と明記。横に私は短い説明を添えた。
「一、ざわめきを和らげる
二、怒りを寝かせる
三、沈黙を呼ぶ。——いずれも十拍厳守」
「硬い言葉より、鍋の語り口がいいな」
「はい。読み上げやすく、覚えやすく」
セイル王子は隣で頷き、最後のページを指した。
「付録“沈黙の間に最適な甘味”。……ぷりんか」
「これが一番、口と心を同時に落ち着かせますから」
笑いがこぼれ、台所の空気が柔らかくなる。そこへ、門番の少年が駆け込んだ。
「カスミアーナさん! “橋便(はしびん)”が届きました! 魔都経由の地球行き来の許可使です!」
「地球から?」
「はい。小型往還、今日の正午に試行だそうです!」
私は思わず木杓子を握り直した。胸の奥が、ひゅっと熱くなる。
正午。
王都の広場、常設鍋の横に小さな円環が立った。薄い光が水面みたいに揺れ、向こう側に白い壁と銀色の台——地球の研究室の一角が見える。
「——聞こえる? カスミ」
「美緒(みお)! 聞こえるよ!」
次の瞬間、光の縁をくぐって、ひとりの女性が現れた。短いポニーテール、両腕には保冷箱。私より少し背が高くて、目がきっぱりしている。
「先に言わせて。おかえり、師匠」
「……結衣(ゆい)?」
「うん。元・アシスタントの結衣です。一次試験、合格して会いに来た」
保冷箱を差し出し、結衣はにやっと笑う。
「“再会の三点セット”。出汁、牛乳代替、そして卵——の代わりのゲル。ぷりん、作れるはず」
「持ってきてくれたんだ……!」
「師匠の“沈黙の間”、論文にして世界に投げよう。——いや、ちゃんと合意を取って、“鍋の約束”に沿う形で」
そこまで言うと、彼女はぐるりと広場を見回し、低い旗と胸の高さの湯気に目を細めた。
「ほんとに、台所で外交やってるんだね」
「うん。焦がさず、熱だけ分けてる」
「最高だよ、師匠」
「まずは腹で話そう。——結衣、こっち手伝って」
「了解」
私たちは並んで鍋に向かった。
結衣は手を洗い、保冷箱のゲルを小鍋に落とす。私はナッツミルクを温め、ラウモンド印の砂糖を計る。火は弱く、混ぜる手は一定。湯気は、胸の高さ。
「王子、十拍の合図をお願いします」
「任せろ」
“トン”。グラドが木蓋を軽く弾く。
私はぷりん液を小椀に流し、急冷用の“風の箱”に入れた。
沈黙の十拍が終わる頃、表面がゆるく固まりはじめる。
「試食は、混交列の先頭から」
人と魔族の子が、同時に一口。
舌に触れた瞬間、ふたりの肩から力が抜けた。
「……静かになる」
「甘いけど、喉が騒がない」
広場に柔らかな笑いが広がる。
結衣が私の横で、小さく息を吐いた。
「こっちでも、効く。——“沈黙の間”は、世界共通言語だ」
「言葉が通じなくても、十拍は共有できるからね」
そこへ、議会の書記官カーディンがやって来た。
以前、旧在庫の件で腹を割った相手だ。今日は肩の力が抜けている。
「文書、拝見した。“鍋の約束・初級編”。記録官席に登録してよいか?」
「もちろん。ただし追記を一つ」
「追記?」
「“旗は低く、湯気は胸の高さ”を、図の最初に。文字より先に目に入るよう、大きく」
「了解した。……地球の方だね?」
「元アシスタントの結衣です。初日は皿洗いからやります」
「頼もしい」
カーディンは小さく頭を下げ、去っていく。
結衣がすぐ横で囁いた。
「この距離で、文書の話ができる街。いいね」
「この街にしてもらったんだよ、みんなに」
休憩。
私は結衣と並んで腰を下ろし、鍋から立つ湯気を眺めた。
「ねぇ、師匠」
「ん?」
「“耳の鍋”の理屈、地球側に伝えるときの名前……“ラーメン屋の湯切り理論”とかにしたら伝わるかな」
「それ、誤解を生むやつ。ちゃんと“蓋角三段法”って書こう」
「はいはい、真面目」
「あと、“沈黙の間”は十拍。絶対に変えない」
「わかってる。——約束、ね」
結衣は空を見上げ、ぽつりと付け足した。
「師匠、私、あの時、辞め方が下手だった。忙しいに負けて、ちゃんと話さずに飛び出した。ずっとそれを料理で埋めてきたけど……やっと、言える」
「今、言ってくれたから、もう大丈夫」
「……うん。ありがとう」
横顔が少し幼く見えて、胸がきゅうとなった。
私は《ステータス》をそっと開く。小さな欄に、細い文字が増える。
《交渉 16→17/段取り最適化 16→17/耳鍋運用 2→3》
《新特記:弟子再会補正(沈黙の間+一拍の余裕)》
たぶん、私のほうこそ救われている。
夕刻。
魔都側の鍋も無事に閉店したと連絡が入った。アヤと蒼生は、光の縁の向こうで親指を立てている。
王子が私と結衣の間に歩み寄り、静かに言った。
「“初級編”の配布、明朝から始めよう。王都三十部、魔都三十部。——地球にも、同数送る」
「印刷は研究所で引き取るよ。図版はこのまま使っていい?」
「もちろん。ただし、最後に一行つけて」
「何を?」
「“鍋は約束、焦げは記憶、甘味は休戦”。——責任の行を」
結衣がゆっくり頷き、私と目を合わせた。
「守る。絶対に」
片付けが終わる頃、子どもたちが寄ってきた。
「ねぇ、明日もぷりんある?」
「“沈黙の間”の分だけね。——喧嘩の時にも使うから」
「じゃあ、喧嘩しない!」
「そうして!」
笑い声が湯気に混ざる。
私は木蓋を撫で、鍋の底を覗いた。焦げは、ない。
夜。
結衣と肩を並べて寝床へ向かう途中、彼女が小声で言った。
「師匠。——いつか、“上級編”も書こう」
「書こう。耳だけじゃない、目と鼻と手の“蓋”。」
「うん。私、今度は逃げない」
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