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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味
第23話 魔都大市、湯気で入城
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夜明け。王都の門を出ると、南東の風は塩気を少し運んでいた。
荷車には大鍋と浅鍋、耳の鍋が二枚、保冷箱と香袋。旗は低く丸め、結衣は『鍋の約束・初級編』を胸に抱える。
「緊張してる?」
「してる。でも、お腹は空いてる」
「なら大丈夫。——腹で話す」
護衛隊長グラドが先頭で手を上げる。
「本隊前進。湯気は胸の高さ、旗は低く」
魔都へ延びる街道は、昼には屋台と荷車で混み始めた。角のある商人、黒い羽根の郵便士、燐光の瞳をした薬師。皆、同じ方角を目指している。
「香りが濃くなる。——着くよ、師匠」
結衣の声に頷き、鼻をひとつ鳴らす。
香辛料、焼き菓子、油、鉄、そして——大市の地面そのものが持つ、熱の匂い。
魔都の門前、市の検め所。
角付きの係官が巻物をくるりと回し、目だけでこちらの荷を数えた。
「火器、香袋、食器、冊子三十五束。異議なし。ただし——初日の火は“香路”の風上で焚け。合図は鐘、独鈴は禁止」
「耳の鍋は鈴ではありません」
私は木蓋を見せ、角度を一度だけ打つ。
「“トン”。湯気の高さを知らせる合図です」
「音量、良し。胸の高さ、良し。通れ」
門が持ち上がり、風が熱を押し返す。
大市の中央通りは、色と匂いの洪水だった。香路は南北に走り、その両脇に香辛料屋と茶、菓子、薬草、干し肉。濃い旗が林立する。
「——旗、低く」
私は結び目を腰の高さに落とし、耳の鍋を二指だけ傾けた。
“トン”。
周囲の目線が、するりとこちらに落ちてくる。
「始めます。“橋の雑穀粥”、一椀目は無料。喧嘩を止めたい人、優先」
からかい半分の笑いが起き、最前列の少年——小さな角の魔族——が手を上げる。
「ぼ、ぼく、さっき転んで喧嘩しそうになった!」
「はい、優先」
粥をよそい、十拍だけ静かに待つ。
少年は耳付きの器を両手で抱え、もぐもぐと食べて、ほっと息をついた。
「……あったかい。ごめん、さっきはぼくが先に押した」
「言えたら十分。次は旗の下を歩こう。ぶつからないから」
横で見ていた商人の女将が笑う。
「子どもに効くなら、大人にも効くねぇ」
「甘味は午後に少量だけ。“沈黙のぷりん”です」
「名が良い」
昼前、南の閲覧席に黒衣の使いが現れた。
銀の角飾り、冷たい瞳。名を問う前に、彼が切り出す。
「魔王閲覧まで一刻。過激な香りは禁止。“辛哭(しんこく)族”の参列あり」
「辛さで泣く一族、ですね。——香は後から、塩は手前に」
「理解したなら、結果で示せ」
使いは踵を返した。息が少し鉄臭い。緊張の匂い。
「師匠、“辛哭”に合わせた配合、やる?」
「やる。——結衣、香袋から“緑の束”を三つ。クミーネ半分、セリカ粉は一つまみだけ。すりおろしジャメで丸める」
「了解」
耳の鍋を一指、音量を落とす。“トン”。
私は鍋の縁に“香ばし一滴”を置き、湯気の芯をやわらかく撫でた。香りは立つが刺さらない。
そこへ、強面の香辛料屋が肩をいからせて突っ込んできた。
赤いマント、鼻息は唐辛子そのもの。
「香路の顔はオレだ。薄口なんてやってられっか!」
従者が周囲を押しのける。
私は木蓋を二指、十拍。
“トン……トン……”。
「十拍、約束。——それでも怒っていたら、話を続けましょう」
「……十拍くらい、待ってやる」
九拍目、私は小皿を差し出した。
骨付き柔煮の表面に、香ばし油をほんの一滴。横に“辛味別添え”。
「辛味は、尊敬です。——預けるから、選んで」
「尊敬?」
「“任せる”は“見下ろす”の逆。あなたの唐辛子は強い。だから、皿の上で主役をやってもらう」
男は赤粉をつまみ、ほんのひとかけらだけ落とした。
一口すすり、目を細める。
「……悪くねぇ。足し算の場所が、間違ってねぇ」
「辛味は橋。——渡るか、見送るかは、食べる人の自由です」
「上等」
男はマントを翻し、通りに向かって怒鳴った。
「おい、ここの“別添え”! 覚えとけ!」
笑いが走り、列が伸びる。
結衣が小声で囁いた。
「火種二、消火完了」
「耳の鍋、よく響いた」
午後。
南の閲覧席に、薄幕が降りる。鼓の音が三つ。
黒衣の使いが再び現れ、低く告げる。
「——御前」
私は木杓子を握り直し、結衣と目を合わせた。
鍋の火は、胸の高さで静かに燃えている。
「“橋の雑穀粥”、王都配合を基準に、魔都用に一段落とした粘度。
“骨付き柔煮”、香ばしは一滴、辛味は別添え。
“香葉の蒸し団子”、塩は先、香りは後」
「冊子は?」
「ここに」
『鍋の約束・初級編』を抱え、閲覧席前へ進む。
幕の向こう、気配が一つ。風の運びが変わり、匂いが澄む。
深く、豊かな呼気。香りの読み方を知っている鼻だ。
「——腹で、話そう」
幕の向こうから、低く柔らかな声。
私は耳の鍋を一指傾け、“トン”と返事をした。
「今日の火は、胸の高さにあります」
「見える。よろしい」
ひと匙、粥。
ひと切れ、柔煮。
ひと口、団子。
静寂は十拍より長く、しかし重くはなかった。
「色は罪にあらず。印を換える、か」
幕の向こうで、紙の音。冊子がめくられている。
「言葉がよい。——湯気も、よい」
結衣が息を呑む。
私は木杓子を胸に当て、短く答えた。
「鍋は約束です。焦がさず、熱だけを分けます」
「うむ。明朝、城内の小鍋場に来い。——“家庭の味”を、ひとつ見せろ」
「承りました」
幕がするりと上がり、鼓が二つ。
使いが一歩近づいて囁く。
「今のは“御前の笑い”だ。滅多に出ない」
「光栄です」
「——焦がすなよ」
私は深く頷き、鍋の火に目を戻した。
大市の風は、少しだけ甘くなっていた。
旗は低く、湯気は胸の高さ。
明日の火加減は、もうここから始まっている。
荷車には大鍋と浅鍋、耳の鍋が二枚、保冷箱と香袋。旗は低く丸め、結衣は『鍋の約束・初級編』を胸に抱える。
「緊張してる?」
「してる。でも、お腹は空いてる」
「なら大丈夫。——腹で話す」
護衛隊長グラドが先頭で手を上げる。
「本隊前進。湯気は胸の高さ、旗は低く」
魔都へ延びる街道は、昼には屋台と荷車で混み始めた。角のある商人、黒い羽根の郵便士、燐光の瞳をした薬師。皆、同じ方角を目指している。
「香りが濃くなる。——着くよ、師匠」
結衣の声に頷き、鼻をひとつ鳴らす。
香辛料、焼き菓子、油、鉄、そして——大市の地面そのものが持つ、熱の匂い。
魔都の門前、市の検め所。
角付きの係官が巻物をくるりと回し、目だけでこちらの荷を数えた。
「火器、香袋、食器、冊子三十五束。異議なし。ただし——初日の火は“香路”の風上で焚け。合図は鐘、独鈴は禁止」
「耳の鍋は鈴ではありません」
私は木蓋を見せ、角度を一度だけ打つ。
「“トン”。湯気の高さを知らせる合図です」
「音量、良し。胸の高さ、良し。通れ」
門が持ち上がり、風が熱を押し返す。
大市の中央通りは、色と匂いの洪水だった。香路は南北に走り、その両脇に香辛料屋と茶、菓子、薬草、干し肉。濃い旗が林立する。
「——旗、低く」
私は結び目を腰の高さに落とし、耳の鍋を二指だけ傾けた。
“トン”。
周囲の目線が、するりとこちらに落ちてくる。
「始めます。“橋の雑穀粥”、一椀目は無料。喧嘩を止めたい人、優先」
からかい半分の笑いが起き、最前列の少年——小さな角の魔族——が手を上げる。
「ぼ、ぼく、さっき転んで喧嘩しそうになった!」
「はい、優先」
粥をよそい、十拍だけ静かに待つ。
少年は耳付きの器を両手で抱え、もぐもぐと食べて、ほっと息をついた。
「……あったかい。ごめん、さっきはぼくが先に押した」
「言えたら十分。次は旗の下を歩こう。ぶつからないから」
横で見ていた商人の女将が笑う。
「子どもに効くなら、大人にも効くねぇ」
「甘味は午後に少量だけ。“沈黙のぷりん”です」
「名が良い」
昼前、南の閲覧席に黒衣の使いが現れた。
銀の角飾り、冷たい瞳。名を問う前に、彼が切り出す。
「魔王閲覧まで一刻。過激な香りは禁止。“辛哭(しんこく)族”の参列あり」
「辛さで泣く一族、ですね。——香は後から、塩は手前に」
「理解したなら、結果で示せ」
使いは踵を返した。息が少し鉄臭い。緊張の匂い。
「師匠、“辛哭”に合わせた配合、やる?」
「やる。——結衣、香袋から“緑の束”を三つ。クミーネ半分、セリカ粉は一つまみだけ。すりおろしジャメで丸める」
「了解」
耳の鍋を一指、音量を落とす。“トン”。
私は鍋の縁に“香ばし一滴”を置き、湯気の芯をやわらかく撫でた。香りは立つが刺さらない。
そこへ、強面の香辛料屋が肩をいからせて突っ込んできた。
赤いマント、鼻息は唐辛子そのもの。
「香路の顔はオレだ。薄口なんてやってられっか!」
従者が周囲を押しのける。
私は木蓋を二指、十拍。
“トン……トン……”。
「十拍、約束。——それでも怒っていたら、話を続けましょう」
「……十拍くらい、待ってやる」
九拍目、私は小皿を差し出した。
骨付き柔煮の表面に、香ばし油をほんの一滴。横に“辛味別添え”。
「辛味は、尊敬です。——預けるから、選んで」
「尊敬?」
「“任せる”は“見下ろす”の逆。あなたの唐辛子は強い。だから、皿の上で主役をやってもらう」
男は赤粉をつまみ、ほんのひとかけらだけ落とした。
一口すすり、目を細める。
「……悪くねぇ。足し算の場所が、間違ってねぇ」
「辛味は橋。——渡るか、見送るかは、食べる人の自由です」
「上等」
男はマントを翻し、通りに向かって怒鳴った。
「おい、ここの“別添え”! 覚えとけ!」
笑いが走り、列が伸びる。
結衣が小声で囁いた。
「火種二、消火完了」
「耳の鍋、よく響いた」
午後。
南の閲覧席に、薄幕が降りる。鼓の音が三つ。
黒衣の使いが再び現れ、低く告げる。
「——御前」
私は木杓子を握り直し、結衣と目を合わせた。
鍋の火は、胸の高さで静かに燃えている。
「“橋の雑穀粥”、王都配合を基準に、魔都用に一段落とした粘度。
“骨付き柔煮”、香ばしは一滴、辛味は別添え。
“香葉の蒸し団子”、塩は先、香りは後」
「冊子は?」
「ここに」
『鍋の約束・初級編』を抱え、閲覧席前へ進む。
幕の向こう、気配が一つ。風の運びが変わり、匂いが澄む。
深く、豊かな呼気。香りの読み方を知っている鼻だ。
「——腹で、話そう」
幕の向こうから、低く柔らかな声。
私は耳の鍋を一指傾け、“トン”と返事をした。
「今日の火は、胸の高さにあります」
「見える。よろしい」
ひと匙、粥。
ひと切れ、柔煮。
ひと口、団子。
静寂は十拍より長く、しかし重くはなかった。
「色は罪にあらず。印を換える、か」
幕の向こうで、紙の音。冊子がめくられている。
「言葉がよい。——湯気も、よい」
結衣が息を呑む。
私は木杓子を胸に当て、短く答えた。
「鍋は約束です。焦がさず、熱だけを分けます」
「うむ。明朝、城内の小鍋場に来い。——“家庭の味”を、ひとつ見せろ」
「承りました」
幕がするりと上がり、鼓が二つ。
使いが一歩近づいて囁く。
「今のは“御前の笑い”だ。滅多に出ない」
「光栄です」
「——焦がすなよ」
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