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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味
第28話 大市の火口、十拍の校正
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大市の前日。魔都の中央広場は、まだ半分しか屋台が立っていないのに、香りだけは本番だった。甘い焼き菓子、酸っぱい果実酒、獣脂の煙……鼻が忙しい。
「許可札、確認しまーす! 火床は三つまで、炎は腰の高さまで!」
役人が声を張り、私の前で止まった。
「女神の匙の持ち主……あ、あなたが“家族印”の人? 例外は出ません。例外に例外は出ません」
「大丈夫です。旗は低く、湯気は胸の高さ。——いつも通りです」
役人は書板に“十拍良し”と丸を書き、去っていった。
私は地図を開く。今日は“出汁鍋”“家族鍋”“香り見本”の三口。火口の向き、風の抜け、逃げ道、全部に十拍置いてから決める。背中で結衣が手順を読み上げ、凛が箱を開ける。
「師匠、地球箱の在庫、残り三回分。豆腐は今日でおしまい」
「了解。豆腐は“見本”に回して、鍋は異世界素材で。——代わりにナミロ玉の水出し、試すよ」
「やってみます!」
グラドが樽をどんと置く。
「水は二樽確保。護衛線は薄く弧に。耳の鍋は俺が叩く」
「心強いです」
そこへ、角の商人が顔を出す。背中の袋が妙に香ばしい。
「お嬢さん、“家族印”の新参だって? 上客を連れてきた。煮込みに合う“金の粉”。今なら三割引——」
「開けないで」
私は手で静かに制す。凛が鼻で五拍。結衣も五拍。
「焦げた砂糖に硫黄……混ぜ物です」
「なんだと?」
「香りに“角”がない。——家族鍋は角のある塩で整えます。角のない粉は、争いを黙らせるけど、約束も鈍らせる」
商人は肩をすくめた。
「へいへい、“家族印”は手強い」
「舌は守ります」
商人が去ると、御前の黒衣の使いが近づいた。
「本日、御前は遠見台から観覧。評定衆が十名、匂い役が三名。……それと、魔王陛下が途中で降りるかもしれない」
「湯気、胸の高さで迎えます」
使いは目だけで笑い、消えた。
仕込み開始。
最初に“出汁鍋”。ナミロ玉の薄切りを水に泳がせ、十拍。昆布は地球箱の最後の一本、端だけ。鰹は使わず、香葉の茎で軽く音を足す。
「鼻五拍、舌一拍で確認」
「——甘い。けど、泣かない」
「合格」
次に“家族鍋”。
モゴイ芋は角を落としてからさっと湯通し。肉団子は塩弱め、仕上げに角塩一粒で輪郭を立てる。握りは二口サイズ、今日の米は粘りが強いから、手水を薄甘に。
「香り見本は?」
「こっちです!」
凛が並べたのは、小皿に一滴ずつ落とした**“匂いの言葉”**だ。
“家の門”“朝の湯気”“怒った角”“泣かない玉ねぎ”。
通りがかる人たちが鼻で読み、笑う。言葉が香りで伝わると、通りの歩幅が揃うのが不思議だ。
「カスミアーナさん!」
走ってきたのは王都の記録官——カーディン。息を切らし、手に紙束。
「“旧在庫手順”、市の掲示に回りました。十拍の説明文、これで合ってますか?」
「見せてください。——余白が足りない。追加の二行、“家庭の例外”を書けます?」
「いま書きます」
私は彼の手元に板を滑らせ、要点だけを短く置く。
一、乳幼児と療養者は甘味が優先。二、家族印の台所は十拍を伸ばす権限を持つ。
「よし——」
耳の鍋を“トン”。
空気が変わる。
大市の鐘が鳴った。
開場の合図。人波が押し寄せ、色とりどりの布と声と匂いが混ざり、火口みたいに熱を上げる。
「はじめます!」
結衣が声を張り、凛が見本を配る。
私は“子ども椀”から出し、十拍を手で数えられる札を渡す。
祖母が来た。角塩を一粒、笑って入れた。
職人が来た。油の匂いを背負って、器を両手で受けた。
旅の魔族が来た。角をちょっと傾けて、鼻で五拍。
「帰る匂いがする」
「ようこそ。席は、増えます」
ひときわ静かな気配が、背に立った。
振り返らなくてもわかる。
——遠見台から降りた“彼”。
「家族の順番で迎えます。最後の椀を、お手元へ」
「うむ」
私は主鍋の蓋を半分だけ開け、香葉油をひと筋。
湯気が胸の高さで丸くなり、彼の肩にかかる。
「——よい。家だ」
「ありがとうございます」
その時、広場の端で小さな揉め声が立った。
役人と若い屋台主。見れば、火が腰を越えている。
「グラド、耳の鍋、二回」
「了解」
私は“香り見本”の**“怒った角”**を小袋に一つ、走りながら役人の手に渡す。
「鼻で十拍。角を丸めてから話して」
役人は半信半疑で吸い込み、若者もつられて吸い——声が一段落ちた。
火は下がり、腰まで戻る。
「鍋は約束。——ありがとう」
役人が頭を下げ、若者も頭を下げる。
戻ると、結衣が小声で笑った。
「師匠、香りの臨時仲裁、新スキルかも」
「名前、長い」
「じゃ、“湯気調停”で」
「採用」
日が傾く。
鍋は焦げず、人の列は切れず、十拍が街に根づくのが見えた。
配膳の隙に、私は《ステータス》を開くのを——やっぱり夜まで我慢した。
「凛、最後の一巡、味噌の温度お願い」
「七十度以下、了解です!」
御前が器を重ね、短く言う。
「明朝、遠見台にて“地図”を見せよ。市の流れを、香りで描いたものを」
「もう描いてあります。——湯気の地図」
「楽しみにしている」
最後の鐘。
旗を畳み、火を落とす。
私は空になった鍋の底を指でなぞり、焦げがないことを確かめて、そっと笑った。
「十拍、よく働いたね」
風が頬を撫で、遠くで子どもが「**ぷりん!」」と叫ぶ。
凛と結衣が顔を見合わせ、同時に頷く。
「沈黙の間、十拍」
「——からの、二口」
湯気は胸の高さで、夜に溶けていった。
「許可札、確認しまーす! 火床は三つまで、炎は腰の高さまで!」
役人が声を張り、私の前で止まった。
「女神の匙の持ち主……あ、あなたが“家族印”の人? 例外は出ません。例外に例外は出ません」
「大丈夫です。旗は低く、湯気は胸の高さ。——いつも通りです」
役人は書板に“十拍良し”と丸を書き、去っていった。
私は地図を開く。今日は“出汁鍋”“家族鍋”“香り見本”の三口。火口の向き、風の抜け、逃げ道、全部に十拍置いてから決める。背中で結衣が手順を読み上げ、凛が箱を開ける。
「師匠、地球箱の在庫、残り三回分。豆腐は今日でおしまい」
「了解。豆腐は“見本”に回して、鍋は異世界素材で。——代わりにナミロ玉の水出し、試すよ」
「やってみます!」
グラドが樽をどんと置く。
「水は二樽確保。護衛線は薄く弧に。耳の鍋は俺が叩く」
「心強いです」
そこへ、角の商人が顔を出す。背中の袋が妙に香ばしい。
「お嬢さん、“家族印”の新参だって? 上客を連れてきた。煮込みに合う“金の粉”。今なら三割引——」
「開けないで」
私は手で静かに制す。凛が鼻で五拍。結衣も五拍。
「焦げた砂糖に硫黄……混ぜ物です」
「なんだと?」
「香りに“角”がない。——家族鍋は角のある塩で整えます。角のない粉は、争いを黙らせるけど、約束も鈍らせる」
商人は肩をすくめた。
「へいへい、“家族印”は手強い」
「舌は守ります」
商人が去ると、御前の黒衣の使いが近づいた。
「本日、御前は遠見台から観覧。評定衆が十名、匂い役が三名。……それと、魔王陛下が途中で降りるかもしれない」
「湯気、胸の高さで迎えます」
使いは目だけで笑い、消えた。
仕込み開始。
最初に“出汁鍋”。ナミロ玉の薄切りを水に泳がせ、十拍。昆布は地球箱の最後の一本、端だけ。鰹は使わず、香葉の茎で軽く音を足す。
「鼻五拍、舌一拍で確認」
「——甘い。けど、泣かない」
「合格」
次に“家族鍋”。
モゴイ芋は角を落としてからさっと湯通し。肉団子は塩弱め、仕上げに角塩一粒で輪郭を立てる。握りは二口サイズ、今日の米は粘りが強いから、手水を薄甘に。
「香り見本は?」
「こっちです!」
凛が並べたのは、小皿に一滴ずつ落とした**“匂いの言葉”**だ。
“家の門”“朝の湯気”“怒った角”“泣かない玉ねぎ”。
通りがかる人たちが鼻で読み、笑う。言葉が香りで伝わると、通りの歩幅が揃うのが不思議だ。
「カスミアーナさん!」
走ってきたのは王都の記録官——カーディン。息を切らし、手に紙束。
「“旧在庫手順”、市の掲示に回りました。十拍の説明文、これで合ってますか?」
「見せてください。——余白が足りない。追加の二行、“家庭の例外”を書けます?」
「いま書きます」
私は彼の手元に板を滑らせ、要点だけを短く置く。
一、乳幼児と療養者は甘味が優先。二、家族印の台所は十拍を伸ばす権限を持つ。
「よし——」
耳の鍋を“トン”。
空気が変わる。
大市の鐘が鳴った。
開場の合図。人波が押し寄せ、色とりどりの布と声と匂いが混ざり、火口みたいに熱を上げる。
「はじめます!」
結衣が声を張り、凛が見本を配る。
私は“子ども椀”から出し、十拍を手で数えられる札を渡す。
祖母が来た。角塩を一粒、笑って入れた。
職人が来た。油の匂いを背負って、器を両手で受けた。
旅の魔族が来た。角をちょっと傾けて、鼻で五拍。
「帰る匂いがする」
「ようこそ。席は、増えます」
ひときわ静かな気配が、背に立った。
振り返らなくてもわかる。
——遠見台から降りた“彼”。
「家族の順番で迎えます。最後の椀を、お手元へ」
「うむ」
私は主鍋の蓋を半分だけ開け、香葉油をひと筋。
湯気が胸の高さで丸くなり、彼の肩にかかる。
「——よい。家だ」
「ありがとうございます」
その時、広場の端で小さな揉め声が立った。
役人と若い屋台主。見れば、火が腰を越えている。
「グラド、耳の鍋、二回」
「了解」
私は“香り見本”の**“怒った角”**を小袋に一つ、走りながら役人の手に渡す。
「鼻で十拍。角を丸めてから話して」
役人は半信半疑で吸い込み、若者もつられて吸い——声が一段落ちた。
火は下がり、腰まで戻る。
「鍋は約束。——ありがとう」
役人が頭を下げ、若者も頭を下げる。
戻ると、結衣が小声で笑った。
「師匠、香りの臨時仲裁、新スキルかも」
「名前、長い」
「じゃ、“湯気調停”で」
「採用」
日が傾く。
鍋は焦げず、人の列は切れず、十拍が街に根づくのが見えた。
配膳の隙に、私は《ステータス》を開くのを——やっぱり夜まで我慢した。
「凛、最後の一巡、味噌の温度お願い」
「七十度以下、了解です!」
御前が器を重ね、短く言う。
「明朝、遠見台にて“地図”を見せよ。市の流れを、香りで描いたものを」
「もう描いてあります。——湯気の地図」
「楽しみにしている」
最後の鐘。
旗を畳み、火を落とす。
私は空になった鍋の底を指でなぞり、焦げがないことを確かめて、そっと笑った。
「十拍、よく働いたね」
風が頬を撫で、遠くで子どもが「**ぷりん!」」と叫ぶ。
凛と結衣が顔を見合わせ、同時に頷く。
「沈黙の間、十拍」
「——からの、二口」
湯気は胸の高さで、夜に溶けていった。
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