『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~

チャチャ

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第5章地球と異世界、二つの台所と再会の味

第34話 鍋比べ、黒印の屋台と十拍の策

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 魔都の外縁は、朝から香りで鳴っていた。
 花蜜、焼き串、鉄鍋、薬草、そして——ほんの少しの焦げ。

「旗、低く」

 私は屋台の帆の結び目を胸の高さに落とし、目盛り線を卓に三本引く。
 胸・腰・足首。湯気は胸に丸く。

「看板、家族印。『みんなで、いただきます』」

 ルークが板を掲げる。

「十拍スープの鍋、温度安定」

 麺屋が火力石を半拍ずつ下げる。

「数の札、三行だけ」

 カーディンが板を確認する。
 ——『鍋は焦げず/列は揃い/帰り道は増える』

 準備完了。
 私は《耳の鍋》を一打。周囲のざわめきが、半歩だけ柔らかくなる。

 

「始めます。——一椀、十拍で」

 最初の客は、角飾りの母子。
 ぷりんをせがむ子に、私は首を振って笑う。

「甘味は二口まで。今日は“舌慣らし”。まずはスープでね」

「はーい……」

 不満顔も、湯気を一口で変わる。
 母が目を細め、角を少し傾けた。

「落ち着く。喧嘩の前に飲ませたいくらい」

「喧嘩の前に十拍、喧嘩の後に二口。——家族印の約束です」

 

 列が伸び、湯気は丸を保つ。
 そこへ、向かいの路地から黒い幕の屋台が滑り込んだ。
 幕に白い黒印。帳場持ちの男が、香袋を派手に振る。

「おいでおいで! “王の舌”が選んだ本場の辛香だよ!」

 湯気は高い。旗も高い。
 瞬く間に、刺激の香りが風に乗る。
 私の鍋の前に並ぶ子の目が、少し涙目になった。

「カスミ」

 麺屋が小声で呼ぶ。

「蓋をずらすよ」

 私は《耳の鍋》を一打し、甘味の瓶を指で二度だけ叩く。
 ルークが頷き、卓の端にぷりん二口の札を伏せた。

「十拍、近づかない。焦げの噂は、鍋の外で終わらせる」

 カーディンが目配せをくれる。私はうなずく。

 

 黒印屋台は挑発的だった。
 鍋の口をわざと高く掲げ、香りをこちらへ投げる。
 並んだ若い兵士が鼻をすすり、列を移ろうとする。

「待って。——十拍」

 私は兵士の前で指を見せ、十拍を一緒に数えた。
 いち、に、さん……。
 十で、私は小匙を一滴、兵士の胸の高さに掲げる。

「帰り道、ひとしずく。——今、どっちに行きたい?」

「……こっち、かな」

 兵士は苦笑して列に戻る。
 私は耳の鍋を一打。
 湯気が再び丸くなる。

 

「おやおや、お上品だねぇ」

 黒印屋台の男が声を張る。

「腹が減ってる奴らに十拍だぁ? 王の舌は待たねぇぜ!」

 ざわめき。
 私は答えない。順番は鍋が知ってる。
 ただ、卓の端に角塩の蓋つき皿を置き、ゆっくり半分だけ蓋をずらし——十拍で戻す。

「見ろよ。跳ねない。——喉を傷めない塩」

 麺屋の、低く届く声。
 黒印の列の一部が、こちらを振り向いた。

 

 そこへ、朝に出会った紫の瞳の少女が、布を上げて近づく。

「告げ口、ひとつ。黒印は“辛香”に柑根の残り混ぜてる。舌が痺れる」

 私は小さく頷いた。

「ありがとう。——十拍」

 彼女が離れると同時に、私は《鑑定眼》を開く。
 黒印の湯気に、細い灰色の糸。痺れ。
 私は麺屋に合図し、試薬代わりの豆乳を指で弾く。
 空気の層がちいさく波打ち、灰色が一瞬、輪になった。

「証、撮った」
 カーディンが札に素早く三行を書き付ける。
 ——『痺れ混入/旗高すぎ/湯気跳ね』

「耳の鍋、二打」

 私は金属を二度だけ叩いた。
 広場の“耳”が、一斉にこちらを向く。

「鍋比べの規約、読み上げます」

 私は家族印の札を掲げ、声を胸に落とす。

「一、旗は低く。
 二、湯気は胸の高さに丸。
 三、混ぜものは三行で示す」

 黒印の男が笑った。

「規約? 誰が決めた」

「十拍で決めた街が、決めました」

 私は札を反転する。
 さっきの三行が、広場の目に入る。

「反論は十拍でどうぞ」

 男は口を開き、閉じ、そして顔を歪めた。

「……証拠は?」

「耳と舌と三行」

 麺屋が小さく豆乳をもう一滴、空気に弾く。
 輪がふたつ、灰色に広がった。
 ざわめきが、うなりに変わる。

「焦げは鍋の外で終わらせる。——二口」

 私はぷりんの皿を二つ、黒印の列の先頭に出す。

「一口で静まり、もう一口で戻る。
 それでも続けたいなら、旗を下ろして。同じ高さで勝負しよう」

 十拍。
 男は幕を見た。仲間の視線が刺さる。
 彼は舌打ちし、旗を下げた。

「やりゃあいいんだろ。……同じ高さでな」

「ありがとう。では——鍋比べ、再開」

 

 午後の陽が傾くまで、十拍スープと相手の辛香は交互に椀へ注がれた。
 私たちは耳の鍋を要所で一打、帰り道を一滴。
 相手は辛味を半拍だけ弱め、香りを低くした。

 夕刻。
 広場の中央に、自然と二本の列が残った。
 片方は私たちの家族印、もう片方は下げられた黒印。

「結果は——帰り道の数で」

 カーディンが掲げる三行札。

『再来希望:家族印 7/黒印 3』
『揉め声:家族印 0/黒印 2』
『焦げ噂:家族印 0/黒印 1』

 黒印の男が、静かに腕を組んだ。

「負けた、ってことか」

「十拍で言えば、そう。——でも、帰り道は二本になった」

 私は鍋の蓋を、ほんの少しだけずらす。
 甘い香りが、二口ぶんだけ広場に落ちる。

「混ぜものはやめて。旗は低く。
 明日の大市、同じ高さで並ぼう」

 男はしばらく私を見て、やがて笑った。

「……あんた、喧嘩がうまいな。鍋で」

「褒め言葉として、受け取ります」

「いいだろ。明日は“本気の辛香”で行く。——焦がさず、な」

 彼は黒印の幕を畳み、小さく頭を下げて去った。

 

 夜。
 市の外れの共用竈で、私たちは簡単な夜食をとった。
 出汁巻きの端、薄い粥、そしてぷりん二口。

「うまい……」
 ルークの目がとろける。

「明日、魔王が来る」

 カーディンが火を見ながら言う。

「数字、三行で足りるかな」

「足りるよ。耳の鍋がある」

「オレは包丁の柄、もう一回磨くっす」

「私は風の地図を最後にもう一度。——旗は低く、湯気は胸」

 星が近い。
 私は女神の匙を胸に当てる。
 《ステータス》をそっと開く。

《場制御 9→10(黒印調停)/交渉 9(維持)/補助:混ぜもの検知(簡略)》
《称号:街道と市の調停匙》

 深呼吸、十拍。
 明日は、今日より低く、今日より丸く。

「行こう。——焦がさず、熱だけ。
 魔都の大市へ」

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